第2章 違和感の輪郭
見えないはずのものが見える。――それを、今度は“見られる側”になった。
山崎さんが入院して、一週間。
彼の席は空席のまま、誰もそこに座らない。
ヘルプ人員が補充される様子もないのに、業務だけはいつも通り回っている。
――それが、妙に怖かった。
空いた椅子というのは、ただの物体なのに。
「ここに“いた”」という事実だけが、ずっと残る。
私は朝、いつものように一番乗りで出社した。
出入り口、エアコンの吹き出し口、窓まわり。
視線を走らせる。
……薄い青。許容範囲。
茶色と黒は――見えない。
見えないのが正しい。
見えないのが、怖い。
「神楽さん」
声がして振り向くと、セリナが立っていた。
いつもの笑顔。
いつもの大きな目。
けれど、声の温度だけが低い。
「約束。覚えてますよね?」
心臓が跳ねる。
「必ず説明する」って言って逃げた自分が、今さら恨めしい。
「……今、忙し――」
「もうお昼です。会議室行きましょう」
拒否権はなかった。
手首を掴まれる前に歩き出す。
その方が、まだ自分の尊厳が保てる気がした。
会議室は静かで、空気が澄んでいた。
私は無意識の癖で、窓と空調を見てしまう。
ハッとしてセリナを見ると、彼女は私の視線の動きを、じっと観察していた。
観察――という言葉がぴったりの目だった。
「とりあえず、お昼食べましょう」
セリナは自前の弁当を開き、何事もないみたいに食べ始める。
私はコンビニのおにぎりを取り出した。
味は、しなかった。
食べ終わった瞬間。
セリナが、切り込んできた。
「神楽さん。あの時、山崎さんの“何”が分かったんですか?」
「……分かったって、何のこと」
声が裏返る。
鼓動が早くなる。
セリナは顎を両手に載せたまま、私を見つめている。
その目は、研究対象を見る科学者みたいに冷徹で、やけに綺麗だった。
「普通じゃなかったです」
「ただ“顔色が悪い”ってだけで取り乱すレベルじゃない」
「“帰らせないと”って、まだ本人が元気に言い張ってる段階で、ですよね?」
……逃げ道が、少ない。
私は肩が内側に丸まっていくのを感じた。
「じ、実はね」
喉の奥が乾いて、舌が張り付く。
「五年前に、一度……死にかけたことがあって」
トラウマのせいにする。
それが一番無難だ。
でもセリナは、笑った。
声を出さない、小さな笑い。
目の奥は、笑っていない。
「逃げてもいいですよ」
「……え?」
「逃げてもいいです。でも、その場合――私の中で仮説が立つだけです」
セリナは指を一本立てた。
「仮説その一。神楽さんはストレスで一時的に認知が乱れてる」
「ちょ、ちょっと待って。乱れては――」
「できればそうであってほしいです。でも可能性としては排除できません」
さらっと言いながら、二本目の指を立てる。
「仮説その二。神楽さんは山崎さんの“ヤバい事情”を知っていた」
「薬とか、借金とか。あるいは隠してる病気とか」
「だから、崩れる前に察した」
息が詰まる。
セリナは、そこでふっと息を吐いた。
「……どっちも信じたくないです。神楽さんはそんな人じゃない」
「……じゃあ」
自分で聞きながら、喉がさらに渇く。
「仮説その三は?」
セリナは、残っていたお茶を一口飲んでから、三本目の指を立てた。
「仮説その三」
「神楽さんは、“何かを見ている”」
「私たちには見えない、兆候を」
セリナは鞄から、メモ帳みたいな紙束を出した。
そこには、時間と出来事が細かく書かれている。
「当日の流れを、タイムラインにしました」
「私が見てた範囲と、係長の記憶と、近くにいた人の証言。あと議事メモ」
……この子、怖い。
怖いのに、頼もしい。
「神楽さんが黙り込んだタイミング」
「山崎さんを見始めたタイミング」
「“帰らせないと”って言ったタイミング」
紙の上に、細い線で並んでいる。
「数十秒の差です」
「でも、その差が、致命的だった可能性がある」
セリナの目が、私を射抜く。
「普通はもっと分かりやすく崩れてから気づきます」
「倒れたり、咳が止まらなくなったり」
「周りがざわついて初めて、“何かあった”って認識する」
「でも神楽さんは、そうじゃなかった」
私は、かろうじて言い返す。
「……たまたま、見てただけでしょ」
情けない。
自分でも分かる。
セリナはすぐに首を横に振った。
「違います」
「座り方も、呼吸も、目の焦点も」
「“見る”っていうより――測ってるみたいでした」
肺の奥が、きゅっと縮む。
五年前の病室の匂いが、一瞬だけ蘇った気がした。
(言う? 言わない?)
頭の中で天秤が揺れる。
でも、「ウイルスが見える」なんて言えば、終わる。
今度こそ、完全に終わる。
……だったら、事実だけ。
正体なんて、私だって分かっていないのだから。
「……重なったの」
絞り出すみたいに言うと、喉の奥が熱くなった。
「病院、だった」
セリナの瞬きが止まる。
私は続ける。
「消毒液の匂い」
「機械の電子音」
「酸素マスクのゴムの匂い」
「あと……喉の音。呼吸の浅さ」
「そういう“全部”が、あの時の山崎さんの周りに、まとわりついて見えた」
――見えた。
言ってしまった。
でも、これ以上は言えない。
「私が死にかけたときの、病室と似てた」
「だから……“勘”っていうか」
「体が勝手に思い出しただけ」
「ごめん。これ以上は、うまく説明できない」
セリナは、しばらく黙っていた。
弁当箱のフタの縁を指でなぞりながら、何かを組み立てている顔だ。
やがて彼女は、小さく笑った。
「……なるほど」
「ロジックが繋がりました」
「ロジック?」
「はい」
セリナは平然と言う。
「神楽さんの脳に、過去の強烈な体験が“データベース”として残っている」
「だから常人が見落とすレベルの微細な変化を拾って、“同じだ”って警報を鳴らした」
「生存本能です。超感覚と言ってもいい」
……都合がいい解釈だ。
でも、その“都合の良さ”に、私は救われてしまった。
「私はそれを、バグとか思い込みだけだとは思いません」
そう言って、セリナはまっすぐ私を見る。
「だからお願いがあります」
「また“あの感じ”になったら、今度は逃げずに教えてください」
「『なんか変な感じがする』でいい」
「理由は、あとで一緒に考えればいいので」
そんな簡単に言う。
こっちは、その“なんか”のせいで人生がぐちゃぐちゃなんだ。
……でも。
「……信じるの?」
気づいたら聞いていた。
「完全には、まだ信じません」
即答だった。
「でも山崎さんの一件という事実がある」
「検証する価値はあります」
「正直だね」
「はい。品質管理ですから」
真顔で言うのが、またズルい。
セリナはスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。
メッセージアプリの新規トーク画面。
タイトルに文字が打ち込まれていく。
【神楽さんのなんか変な感じ報告】
「ちょっと待って、それはやめて」
「じゃあ、【勘メモ】」
「……ギリ許す」
こうして、謎のトークルームがひとつ出来た。
これから私は、変な意味で“見られる”回数が増える。
そう確信して、胃が重くなった。
……嫌な予感は、翌週にはあっさり現実になった。
「かぐらさーん、今日なんか機嫌悪いです?」
「普通」
「じゃあ、あっちの島見て顔しかめた理由、教えてください」
視線が痛い。
私がルーティンで空調や窓際を確認しているとき、必ず視界の端にセリナがいる。
理科の実験のカエルになった気分だ。
数日が過ぎたころ、部署で風邪が流行り始めた。
最初に気づいたのは――もちろん“色”だ。
薄い青いノイズ。
私はいつも通り、それが付いている人を避けて動く。
そしてその全部を、セリナが見ていた。
昼休み、給湯室で捕まった。
「神楽さん。この一週間で“露骨に避けた人リスト”、作ってみたんですけど」
「なにそれホラー」
「避けられた人の七割が、今日までに風邪で休んでます」
「…………は?」
素で変な声が出た。
「逆に、神楽さんが普通に接してた人側の欠勤率は、今のところゼロです」
「たまたまでしょ」
「まだサンプル数は少ないです。断言はしません」
セリナは淡々と続ける。
「でも、“たまたま”が続くと、統計学的には名前が変わる」
「“傾向”になります」
ぐうの音も出ない。
「……それ、勘メモに書くつもり?」
「当然です」
目が、きらりと光った気がした。
「というわけで、協力してほしいことがあります」
「“ゆるめの検証”です」
「明日から一週間、“意識的に”人を避けてください」
「“嫌な感じがする人ベスト3”を選んで、その人たちとは距離を取る」
「私がその後の経過を追跡します」
「そんな露骨なことしたら、感じ悪い人になる」
「『今日寒くないですか?』って言いながら距離取れば自然です」
(絶対、半分は面白がってる)
「……その結果どうなっても知らないからね」
「ええ」
セリナは少し笑う。
「あくまで“神楽さんのトラウマ由来の超感覚”を、ちょっとだけ“可視化”したいだけですから」
“可視化”。
その言葉に、苦笑いが漏れた。
「どいつもこいつも……すぐ見たがる」
ふたりでエレベーターに乗り込む。
セリナが、ぽつりと言った。
「……でも、私はちょっと楽しみです」
「誰かが助かるかもしれない、っていう意味で」
鏡に映る横顔は、少しだけ大人の顔だった。
「神楽さんの勘で、誰かが大きな病気を避けられるなら」
「その仕組みを理解しておくのは、悪いことじゃない」
「……責任、重くない?」
「だから私も一緒に背負いますよ。“変人の後見人”として」
「役職名がひどい」
そう返すと、セリナは声を立てて笑った。
ドアが開き、冷たい外気が流れ込んでくる。
ビルの前の通りには相変わらず、いろんな色が漂っていた。
薄い青、緑、ところどころの汚れたグレー。
その全部が、前より少しだけ“数字”や“グラフ”のイメージを伴って、頭の中に重なっていく。
(観察される側って、思ったより落ち着かない)
そう思いながらも。
自分の足が、人混みの中で小さくルートを変えているのを、私は自覚していた。
――見ない。
数えない。
そう決めているのに。
いつかまた、“茶色”に出会ってしまったとき。
そのとき私は、どう動くのか。
それを一番知りたいのは、セリナじゃない。
たぶん――私自身だ。
更新が少し空きましたが、続きはこのペースで進めます。




