表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

第1章 違和感の色

※本作は感染症・死別に関する題材を含みます(過度な残酷描写はありません)。


11月の冷たい雨。

雨の日は、空気の中の「この子たち」が少しだけ薄くなる。……気がする。


電車は辛い。息を浅くして、なるべく吸い込まないようにする。

駅に着く前にサージカルマスクへ替える。いつも一日二枚。朝の分と、帰りの予備。

気休めだと分かっている。分かっているのに、無いと無理だ。


車内に入ると、色が濃くなる。

口と鼻のまわりが薄青の人、薄緑の人。視界に入った瞬間、体が勝手に距離を取ろうとする。

見ない。数えない。……そう決めているのに、目が勝手に拾ってしまう。


目の前の中年男性が、マスクなしで二度咳をした。

手で口を覆ってはいる。けれど指の隙間から、薄青い子たちが弾けた。


シャボン玉みたいに膨らんで、弾ける。

無数の泡が、ゆっくりと広がって漂う。

泡の後ろには、細い糸みたいな尻尾が揺れていた。


――綺麗だな。


そう思った直後に、自分に寒気が走る。

綺麗だなんて、言ってる場合じゃない。


後ずさった足が、誰かの靴先に当たった。踏んだ感触。

ハッとして振り返ると、職場の後輩――相田セリナだった。


「いたっ……って、え? 神楽さん? もしかして、この電車だったんですか!」


いつもの明るい声。顔を覗き込むように距離を詰めてくる。

嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、近い。私は反射的に上体を引いた。


鞄から最後のサージカルマスクを取り出して、彼女の口元へ押し当てる。


「これ、付けて。会社に着くまで」

「え、え? ……あ、はい」


キョトンとしつつも、セリナは素直に装着した。

渡した瞬間、帰りの分が消えたことに気づいて胃が縮んだ。けど、引っ込められなかった。


「完全じゃないけど……ノーヘルでバイク乗るよりはマシ」

「たとえが雑ですね……。でも、どうも」


彼女が私の顔を見て、口角を上げる。いたずらが成功した子どもみたいに。


「やっぱり神楽さんって、ちょっと変わってますよね?」

「……否定はしない」


その笑い方が、地獄の通勤時間をほんの少しだけ軽くした。


朝のサージカルマスクは、これで終わり。

帰りの分が無い。歩いて通える距離に引っ越すか、最悪転職か。

そんなことをぼんやり考えていると、電車が一瞬止まった。


職場で私は、変わり者――要するに「変人」扱いだ。

当然だ。私には、この子たちが見えてしまう。


傍から見れば、意味のない席替え要求。空間を睨んでいるだけの視線。

会話の最中も相手の目を見ず、口元ばかり追っている。

こんな同僚がいたら、私だって距離を取る。


私なんて、いてもいなくても何も変わらない。

誰も困らない。……本当は、そうであってほしい。


でも、見えてしまう以上、「何もしない」を選ぶのは案外むずかしい。

自分だけ助かって、周りが巻き込まれるのを眺めている――それが一番、後で眠れなくなる。

だから私は、目立たない範囲で、最低限の対処だけをしようとしてしまう。


私が『この子たち』と呼んでいるのは、たぶん「ウイルス」だ。

医学的に同じものかは分からない。けれど私の目には、形や色で違って見える。

青や紫は、風邪の匂い。緑は季節の何か。

そして――茶色と黒系は、よくない。


この子たちに悪意はない。ただ空気の流れに乗って漂うだけだ。


皮肉なことに、職場は大手衛生用品メーカー。

私は品質管理部に所属している。

人の体調より、まず数値と規格。守らせるのが仕事。笑えない。


会社に着いて、まず向かうのはトイレだ。

鏡越しにマスクを確認し、色が付いていなければ外す。

ゆっくり目を閉じて、深呼吸。ここで息を整えないと、今日が始まらない。


セリナもついてきた。


「神楽さんって、本当に毎朝トイレ寄るんですね」

「……習慣」

「新人の頃、よく見かけてたんですよ。化粧直しかと思ったら、瞑想タイムだったとは」


セリナは手を洗いながら、大きな目をさらに見開いた。

面倒だったが、私は彼女の両袖口を少し捲ってやる。


「手首の上まで洗って。これ」


自前のハンドソープを渡すと、セリナはまた目を丸くした。


「え、マイハンドソープですか?」

「うん。使って」


説明しても理解されない。だから言わない。

私は手を拭きながら、彼女の手首のあたりを横目で見る。

薄青い子が、ほんの少しだけついてきていた。


「ちゃんと。手首の上まで」

「はいはい。……了解です」


意外にも真剣な顔で、セリナは洗い直した。


手を拭き終えた彼女が、ふいに顔を寄せてくる。

今度は「褒めたい」圧の笑顔だ。


「神楽さん、絶対いいお母さんになりますね!」

「……そういう方向に話を繋げないで」


「えー、照れてる!」

「照れてない」


軽口に引きずられて、心拍が少しだけ落ち着く。


(……和む。ありがたい。)


子どもがそのまま大人になったみたいな子。

そんなことを考えながら、二人で部署へ向かった。


品質管理部の一角が、私のチームのブースだ。

自席に座り、空間を見回す。出入り口、エアコンの吹き出し口、窓まわり。

いつものルーティン。


今日は窓まわりの薄青が少し濃い。許容範囲。

茶色と黒は……見えない。見えないのが正しい。


私はいつも一番乗りだ。遅いと電車が満員になるから。


ふと思って、セリナを見る。


「……セリナ、今日早くない?」

「あ、昨日友達の家に泊まってて、そこから直行なんですよ」

「この時間の出勤、久しぶりです。ていうか神楽さん早すぎ!」

「あと今日って、なんかありませんでしたっけ?」

「あー。たしか……」


言いかけたところで、坂口理恵が出勤してきた。


「おはようございまーす」

「あら? 相田さん、珍しく早いのね」


笑って言うが、目が笑っていなかった。

私はこの人が苦手だ。


(セリナ曰く、私のことを“完全な変人”だと思ってるらしい)

人事評価に「変人枠」と書かれないだけマシか。


「そうなんですよ! やればできる子なんです!」

セリナはいつも通り、むやみに明るい。


ほどなく全員が揃い、業務が始まった。


私の斜め前の席の山崎誠二が、少し遅れて入ってくる。


「す、すみません。遅れました」

「珍しいな。君が遅刻なんて。何かあったのか?」


係長の橋爪誠が、心配そうに声をかける。


私は山崎に違和感を覚えた。

いつもと違う。口元の――いや、色の違和感。

咳はしていない。けれど鼻と口のあたりに、茶色が、薄く滲んで見えた。


茶色。


気づいた瞬間、背中が冷え、口の中が一気に乾く。

まずい。これは、かなりまずい。放っておいたら、ヤバいやつだ。


茶色の子たちなんて、数えるほどしか見たことがない。

どこで見た? いつ?


記憶を辿ろうとした瞬間、オフィスの音がすっと遠のいた。

代わりに――あの日の人工呼吸器の機械音が、頭の中で規則正しく鳴り始める。


――やめて。ここは違う。


思考が進まない。

今日の手順も、報告事項も、全部すっぽ抜ける。

ただ「茶色=危険」の警報だけが鳴り続けた。


「神楽さん。……神楽 澪さん!」


肩を叩かれて、警報の音が少しだけ弱まった。

振り向くと、セリナがこちらを覗き込んでいた。


「さっきからフリーズしてますよ」

「むしろ山崎さんより顔色悪いですけど、どうしました?」


いつも通りの声が、現実へ引き戻す。


「……山崎さん、帰らせないと……でも、説明が……」

自分の声が震えているのが分かった。


「神楽さん。山崎さんを帰した方がいいってことですか?」


セリナの声の温度が一段落ちた。

彼女の顔が、初めて見る真顔になる。


「そう……なんだけど。無理で……」


私が要領を得ないまま口を動かしている間に、橋爪係長が動いた。


「山崎君、顔色が悪いぞ。今日はもう帰った方がいい。うちがどういう部署か分かってるだろう」

「いえ、大丈夫です。ちょっと寝坊しただけで……」


山崎が咳を我慢するように俯く。

係長が「しかし……」と迷った、その時だった。

セリナの視線が、私の震える指に落ちた。

それだけで、彼女の顔から笑いが消えた。


「係長」


セリナが、はっきりとした声で呼んだ。

冷えた口調。空気が一瞬で張り詰める。


チーム全員が静まり返った。


「山崎さんが大丈夫かどうかは、問題ではありません」

「問題は、万が一、彼がインフルエンザや肺炎だった場合のリスクです」

「業務が止まれば、ラインが壊滅しますよね?」

「今すぐ病院で検査を受けさせる。それが品質管理部として、最も安い保険――最もコストの安いリスクヘッジです」

「いかがですか?」


突然の、しかし完璧な正論だった。

橋爪係長は口を開けたまま、セリナを見つめている。

坂口も反論の形を探しているが、見つからない顔だ。


山崎は俯いたまま、セリナを見ていた。


しばらくして、橋爪係長が深く息を吐く。


「……分かった。山崎君、すぐに行ってくれ。結果が出るまで、今日は戻らなくていい」


山崎は小さく頷いた。

係長に連れられて退室していく背中から、茶色が薄く尾を引いた。


気づけば、私の手の震えは治まっていた。

私は息を吐き、呼吸を数える。


ふと視線を上げると、セリナがこちらを見ていた。

そして――いつもの顔で、目尻だけで笑っている。


「上手く行きましたね!」


椅子に座ったまま、両足を小さくバタつかせる。

さっきの冷たさは幻みたいだ。


私は、警報の余韻でまだ頭が上手く回らないまま、業務を続けた。


しばらくして、橋爪係長が戻ってくる。

山崎がいないだけで、オフィスはいつも通りに回り始めた。



終業前、係長の携帯が鳴った。


「はい。橋爪です。……はい。……はい」


俯き気味の受け答え。

明らかに良くない報告のトーン。


「……そうですか。いえ、とんでもございません」

「分かりました。お大事に、とお伝えください」


スマホを置き、橋爪係長が周囲を見渡した。


「えー、みなさん。山崎君だが、今ご家族から連絡があり……そのまま入院になったらしい」

「詳しい病名までは教えてもらえなかったが……もう少し来るのが遅かったら危なかったらしい」

「しばらく入院になるそうだ」


ざわつく空気。

その中で私の頭に残ったのは、ひとつだけ。


――茶色。


橋爪係長が明日からの業務分担を話している。

けれど言葉が耳に入らない。

やっぱりだ。……でも、いつから? 昨日まで何ともないように見えたのに。


「では、明日から各自追加業務をよく確認して下さい。私は手続きして帰りますので、終えた方から帰ってもらって結構です。お疲れ様でした」


係長は頭を掻きながら退室していった。


「神楽さん」


セリナが、私のデスクの前に立っていた。

そして耳打ちするみたいに顔を近づけて囁く。


「さっきの神楽さん、普通じゃなかったです。山崎さんの何が“見えた”んですか?」


疑われて当然だ。

理由もなく、他人の体調不良を正確に言い当てられるはずがない。

でも、「この子たちの色が見えるから」なんて理由は、もっと怪しい。言えない。


「……いや、それは」

「どうして神楽さんだけが山崎さんの状況を理解できたのか、すごく気になります」


セリナの表情は真剣そのもの。今日だけ別人みたいだ。


一から説明するのは骨が折れる。

今日は心身ともに疲れていて、一刻も早く帰りたい。


私はセリナを見つめ、言葉を選ぶ。


「セリナ、今日はありがとう」

「セリナと係長のおかげで、山崎さんはひとまず助かった」

「……私も、セリナに救われた」

「だから、一旦自分の中で整理して、必ず説明する。それで駄目?」


一瞬の沈黙。

それからセリナの目が細くなり、ふっと口角が上がる。


「約束ですよ。神楽さん!」


いつものセリナだ。

私は少しのけぞって距離を取りながら頷く。


「……約束する。お疲れ様」


デスクを片付け、私物を鞄に詰める。

その時になって、帰りのサージカルマスクが無いことに気づいた。


仕方ない。今日は電車を避けて歩く。


職場近くのコンビニで市販のマスクを買って装着する。

私の基準では、素顔で歩いているのと大差ない。


日が落ち、街は暗い。

それでも薄青と薄緑の子たちは、視界の隅で揺れている。


――茶色だけは、見ない。

見えませんように。


祈りながら歩き続け、自宅に着いた。


アパート五階、502号室。

1LDKの、私の聖域。


帰宅後のルーティンを終え、浴室へ向かう。

湯船に沈み、ようやく息がつけた。


目を閉じる。

湯気で肺が熱くなる。

それだけで、山崎さんの口元にまとわりついていた泥水みたいな茶色が、まぶたの裏に浮かんだ。


怖くなって、逃げるように浴室を出た。


夕飯を手早く済ませ、早めに寝る。

ベッドに横になり、照明を落とす。

天井が闇に溶けていく。


さっき聞いた言葉が、暗闇の中で反芻される。


『もう少し来るのが遅かったら危なかったらしい』


茶色。

泥水みたいな茶色。


それが頭に浮かんだ瞬間――視界が、病室の白い天井に切り替わる。



カコン、カコン。


人工呼吸器の音。

喉が焼け、口の中は砂を噛んでいるみたいに乾いている。

体は布団に縫い止められ、指一本動かせない。


視界の端。

自分の口元から胸のあたりにかけて、泥水みたいな茶色がまとわりついていた。


横目だけで、隣のベッドを盗み見る。

カーテンの隙間から、茶色が見えた。

私の茶色よりずっと濃く、どろりとしている。


何日か後。

そのベッドは、空になっていた。


あの濃さは、もう戻ってこない色だったのだ。


それから、目を開けるたびに自分の色を確認した。


ある時、息が吸いにくくなった。

心電図の音がうるさい。

目を開けると、さっき見た時より色が濃くなっている。

隣のベッドの人の色に、近い。


息ができない。

くるしい。


心電図のアラームが遠くなっていく。

誰かが叫んでいる。


――真っ暗だ。

だけど苦しくない。体が軽い。

このままがいい。このまま、眠ろう。


意識が沈む瞬間――


焼けるようなのどの痛み。

肺いっぱいに息が流れ込む。

咳が止まらない。


看護師たちが何か叫んでいる。

呼吸が、少し楽になった。

顔のまわりを見て、安堵する。


茶色は胸の少し下に遠のき、色が薄くなっていた。


――そこで、ふっと世界が裏返った。


心臓の音と、自分の荒い息だけが聞こえる。

見慣れた自宅の天井。


全身が汗でびっしょりだった。


ベッドの上の私に、茶色はいない。

だが、あの病室の色と、今日の山崎さんの色は、頭の中でぴたりと重なっていた。


あの茶色は、きっと――死に近づいたときにだけ濃くなる色だ。



ここまで読んでくれてありがとうございます。

次回:1/20前後の更新予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ