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こんなことがありました。  作者: 金子よしふみ
第五章 始まってしまいました

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天井を眺めながら

 外の雨音が耳障りではなく、夜らしく何もせずただボーっとしている分には心地良い感じがした。俺はベッドに仰向けになって、天井を眺めていた。天井のシミが何か動物やオブジェに見えているとか、あるいはそのように見ようかと言ったことではなく、ただ視線の先に天井があるというだけのことであった。

ただ俺が見ていたのは天井ではなく、今日放課後のこと。地理準備室のことだった。

 例のあれが雨のせいで、いやおかげで男子軍の滑走がなくなり、飛行の理論的分析のための勉強会があるわけでもないのに、俺は本日の時間割が終わると、地理準備室へ足が向かっていた。

 購買部で紙パックのジュースを買った。乳酸菌入りのものと、それとアップルジュース果汁百パーセントのもの。差し入れ。ミカさんへの。たまにはきまぐれに、そんなことをしてもいいだろう。それに、これで日本史ファイルの礼と言っても、彼女は否とは言うまい。ただ、今回の件をからかうというか面白がっているようだから。それは万が一にもなさそうなことではあるが。

 そもそも面白がっているというのはカナ姉からの弁であり、笑ったことも、会話が軽妙になるとかいったことは一切ない。否、笑った。俺を含め、今回の件に巻き込まんだ時の冷笑。Sっ気をほのかに見せた時のことだ。

 まあ、そんなことはさておき、電気がついていなかった地理準備室のドアを開ける。誰もいなかった。

「休み…か…」

 まあ、部活でも委員会でもないのだから、いつ居ようが居まいが勝手なのだが。なんとなく残念という言葉があてはまるような心持であるのはなぜだろうな。

 テーブルの上にジュースの入った袋を乗せ、そこから一つを取り出す。

「うわっ、すっぺえ」

 一口飲んで思わず感想が口をついて出た。乳酸菌入りで何でレモン味なんだ、これ。文句が出つつも、ストローにくみをつけ、室内をふらつく。

 誰もいないと、かえって落ち着かないものだな。何度か来ているのに、書籍の本や、カラーボックスに置かれてあるもの、梅春教諭の机上周り、そしてミカさんが座っている場所がいたたまれなさのようなものを俺に感じさせた。だから、じっとしていられなかったのだ。

 すると、壁に貼ってある大きな世界地図に目が止まった。その前で立ち止まり、何とはなしに目を散瞳させた。日本の位置、各地の都市名、国名、知っていたものもあれば知らなかったものもある。名前は知っていたけれど、位置や形を知らなかったところも。地図の下段には産業の輸出品のトップ五みたいな表もあり、意外な一覧もあった。

 これまでも見てきた世界地図。それでも

「広えな、世界」

 思わずつぶやいた。

「オ、いいもん見てんなあ」

 ジュースを噴出さず、学校の備品を液体まみれにしなかった俺に、誰か賞賛を。不意を突かれて驚くパターンを作り出す張本人は一人しかおらず

「先生、だからビビらせないで下さい」

 今日も例にもれず、それは梅春教諭であった。ドアを開けっぱなしにしておいたとはいえ、相変わらず音もなく近づいてくる人だなあ。

「いいもんて、ただの地図ですよ」

「そうか、でも、お前、『広えな』って言ってだじゃねえか」

「そりゃ、そうですよ、こんなに大きな地図なんてめったに見たことないし。地図を凝視するなんてことないですから」

「そうかい、んで、万事順調かい?」

「何がです。例のアレなあれのことですか」

「ずいぶんな言いようだなあ。お前も一枚噛んでんだぞ、もっとポジティブになったらどうだ?」

「なれませんね、できないとわかっていることに、どうしたら情熱の火が灯るって言うんですか」

「お、詩人だねえ、情熱の火って」

「茶化さないでください」

「でもよ、お前、分かってんじゃねえのか」

「何をです?」

「もしかしたら…ってことを」

「からかわないで下さい、俺は…」

「まあ、俺の勘繰りだ、気にするな」

 俺はしばし口を利くことができなかった。

「んでよ」

 再び梅春教諭が口を開いた。

「何です?」

 俺は心ここに非ずというか、面倒そうに聞き直してみた。

「お前はさ、地図を見ている人間になりたいのか? それとも地図を作る人間になりたいのか? どっちだ?」

 え?

 それから梅春教諭とどんな話をしたのか、どうやってあの部屋を出たのか、記憶がない。

「地図を見る人、地図を作る人……か」

 梅春教諭の一言が妙に心に残っていた。この言葉の真意は分からない。分からないが、何かとても重要なことを示唆された気がしていた。俺の前には天井がある。しかし目に映っていたのは、あの世界地図だった。

 室内に響く雨音は、俺に何も考えさせないようにさせているようだった。

 水と油と言うが、振り続けていた雨は、まるで高音の油に水が入ったような音を弾かせていた。


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