沢渡ミカ
彼女の名前は、沢渡ミカ。三年生。ミカだからカミ様になった。そんな洒落みたいなことが本当なのだそうだ。
なぜ、そんなニックネームになったのか、それは彼女が高校生諸氏にとっては生命線とも言える定期テストの点数をことごとく上げてくれるからだった。それはカンニングでも、教師への賄賂でも、彼女が教えるわけでも、はたまた魔法でもなかった。正攻法でであった。
彼女曰く、それは情報分析の一言に尽きる。出題範囲の内容や教師陣の性格、板書の内容、配布したプリント、さらには塾や教員用に販売されている教材会社のCD-ROM、またさらに転任してきた教師のことは、全担当学校の生徒からの調書、新任の教師については出身大学、担当教授、専攻テーマなども仕入れるそうだ。これらを解析した結果をプリントとして、必要とする生徒に配る。それを元に勉強すれば八〇点以上は間違いなく、後は個々のニーズに合わせて各生徒が勉強を進めればいい。
それで、そう、そのような生命にかかわる情報が無料であるはずもなく、むしろ無料の方が後から何が清遊されるか分からないので、生徒たちは「お供え物」をする。そんな「お供え物」は、赤点の累積による補習や追試験や留年よりはましであり、さらに教師陣からすれば、補習や追試にかかる手間が少なくなるから彼女の行為を見逃している。
それでその「お供え物」というものも、報酬ではないので現金は一切受け取らない。人に寄るのだ。
ランチをおごる。まあ、これだけでも彼女は一年ランチ代を払う必要がなくなるくらいだ。果物、お菓子、旅行のお土産―ブランドバッグなんかもあったそうだ―。この辺になってくると、文字通りお供え物である。あるいは、肉親の経営するエステ店の年間無料券なんてものを献上してき生徒もいたそうだ。
そんな中、彼女が重宝したのは情報である。噂話ではない、根拠のある情報。その情報で何をするわけでもないのだが、そうした情報の集積箱となった彼女と対面すると、どんな者でもしり込みする。
つい先日も、新入生を口説いていた三年のチャラ男は、ミカさんが通りかかって、彼女がおもむろに口元に微笑を浮かべただけで、新入生に土下座をし、謝罪の弁を繰り返した挙句、身動きをしなくなったので、近づいてみると失神していたそうである。
また、ある教師は彼女に微笑を向けられた翌日に依願退職をして、さらには自首したそうだ。罪状は窃盗。と言っても落ちていた財布から千円取ったらしい。……絶対これだけではないだろうな。
「何?」
鷹鷲の冗長的な説明の間、パソコンと対峙していた彼女は、それが終わるとその少しだけハスキーな声を俺たちに送った。いや、「何?」と言われてもな、鷹鷲の付き添いで来たので、俺には口をつく言葉の準備などあるわけがなく、沈黙が答えになって行った時
「ミカリンいる?」
その緊張状態の俺の背中を突き飛ばして、女子が一人入って来た。言わずもがな、カナ姉である。おかげで金縛りが解除されたが。いや、ミカリン?
「カンナ、何?」
「伸大がさ、ミカリンに会いに行くとか言ってたから、覗きに来ました」
手を望遠鏡の形をして、丸くなった手の空間から覗く仕草をする。部活の後輩指導はいいのかよ。
カナ姉は勢いそのままに室内の電気をつけた。室内の蛍光灯は三分の一しか使っていなかったからだ。人工的な白熱光が木漏れ日を打ち消した。沢渡ミカさんはまぶしそうに、右手で目頭に翳す。彼女の輪郭が明瞭になる。キリとした目じり。左側のその下に泣きぼくろが見えた。
「それで、何?」
彼女は立ち上がり、まだ入り口付近にいる俺たちに近づいて来た。あれ、身長はさくら教諭と同じくらいか。
「用があるなら、ドアを閉めて入って」
再び彼女は自席に戻った。当然のように座っているその座席は、普通なら生徒が座ることのない教員用のそれだった。
「あの~期末テストの件で」
足軽役がここまで似合うやつは他にいるまいといった具合の鷹鷲だった。
「秋山鷹鷲。二年生ね」
もしかして、全生徒の名前と顔を覚えているんじゃないだろうな。彼女は手慣れた様子で机上に立ててあったクリアファイルを取り出す。ご丁寧に「二年生一学期期末テスト」と書いた付箋まで付けてあった。その厚さは三、四センチといったところか。いや、こんなだったら二穴ファイルに綴じておいたほうがいいのではなかろうか。
それにしても鷹鷲はうれしそうだった。赤点回避のバラ色の未来という桃源郷に辿り着いたような表情だった。鷹鷲、まだ終わってないからな、いや、というよりも、まだ始まってもいないんだぞ、テスト。今からそんな恍惚な顔をしていてどうするんだ。
「あの~献上品は後払いでもいいですか」
桃源郷からリニアモーターカーで我に帰って来たアホは、代替物の条件を提示した。
「それは各人に任せてある」
回答終了。しかも、彼女は鷹鷲が中間テストでは先払いをしたことまで覚えていた。鷹鷲が用意した「お供え物」、それは陸上競技の世界選手権のDVD。
「お前、何送ってんだよ」
「いえ、夏休みにでも見るわ。暇つぶしにはなるし。なんだったら、中古店に買い取りをしてもらうから」
沢渡ミカさんの後者の選択は正しい。いや、それより三年生なのだから、受験勉強が夏休みには控えているのではなかろうか。
「そいでね、ミカリン、こいつ」
「こいつって言うなよ、カナ姉」
「転校生でね、この高校のテスト、初めてなのよ。だ・か・ら、ナビゲーション、お願いね」
そんな陽気に言われても沢渡ミカさんは迷惑だろうよ。で、その彼女は俺の顔を凝視していた。顔に米粒着いたままのはずはないのだけれどもな。
「秋山鷹鷲と来たということは、二年生ね」
「はい」
彼女は鷹鷲に出したのと同じところから、例の分厚いファイルを取り出した。
「あの、一教科だけってありですか?」
恐る恐る聞いた俺の声に、一瞬手が止まった。
「いえ、別に構わないわ」
「じゃあ、日本史だけ」
彼女はクリアファイルからごっそりプリント類を取出し、大分薄くなったそれを俺に渡してくれた。
「ねえ、伸大。大丈夫なの。いくらあんたでも、ここのテストはね……」
耳元で小声で尋ねてくるカナ姉に
「大丈夫、鷹鷲に中間テスト見せてもらったから」
俺は普通のボリュームで答えた。
「あなた、他の科目はいいのね」
「はい、授業聞いていれば、なんとかなるんで」
「日本史をご希望ということだったけど、それなら政治経済はどうするの?」
「それも授業を聞いて、後はテレビとかニュースとか見てれば対応できますから。でも、日本史はどうも……高校受験の時も歴史系だけはどうも苦手で」
初対面の人にこうも滔々と語っているのは、なぜだろうと我に返った。
「そう」
一言で終わった沢渡ミカさんの返事は、冷淡にあしらっているようではなく、相槌を打っているようでもなく、俺の言葉を受け入れてくれている、そんな感じだった。
ガラガラガラガラ
俺たちの後方で入り口のドアが盛大に開いた。
「よ~、千客万来だな」
これも盛大な声で、男の人が入って来た。俺よりも身長が高く、無精ひげを蓄え、白いワイシャツに紺色のベストを重ね、カーゴパンツを穿いていた。
「先生」
カナ姉のその言葉を待たずとも、教諭であることは分かったのだが、この格好は教諭らしからぬ。
「お、新人だな」
教諭が俺のことを知っていたのは、こんな時期に転校してくる生徒は珍しいとの簡明な理由だった。顔写真付きの生徒個人データなる書式―住所や電話番号や緊急連絡先やら、プライベートの項目を列挙したもの―を提出した記憶がある。それを見たのだろう。
「二年の国仲伸大だよ」
で、なんで、カナ姉が紹介してんだよ。
「国仲です」
「ほいほい、よろしく。お見知りおきを」
この先生、テンション……軽いなあ。
「こちらは……」
カナ姉は先生の紹介をしようとしたが、それを教諭に止められた。花を持たせろということらしかった。
「俺は松竹梅春。地理の先生で~す。ちなみに夏凪と沢渡のクラス担任で~す」
軽いテンションが続くと、教諭としてはどうなのかと思えてくる。この軽さで進路指導とかしているんだろうな。大丈夫かな、カナ姉。しかし、その軽さをさくら教諭にも教えていただきたい。この教諭の軽さは名前が非常にめでたいからなのか。
「何しに来たんですか」
沢渡ミカさんの声は、まるで冷淡になっていた。
「おいおい、随分な言いぐさだな、自分の職場に来ちゃだめか~。それにだな、ここを無償提供している俺の器のでかさに感謝してもいいんじゃねえかな~」
「それなら教師らしい態度になってください」
沢渡さんの言葉は氷柱のようで、それで梅春教諭を永久凍土に埋めることも可能なのでは?
「それは言えてるね、タケリン」
カナ姉、その同意の仕方はおかしいだろ。でも、なんで苗字の途中の字を利用したあだ名になってんだ。
「一番呼びやすかったから」
だろうな。マツリンもウメリンも変だもんな……いや、タケリンも変だろ。
「なんだ~、新人も沢渡のご利益を賜りたいってか?」
「まあ、そんなところです」
梅春教諭は俺の顔を覗き込んだ。
「ふ~ん」
「なんですか?」
「いや、せいぜい健闘しな」
「そのつもりですよ」
俺から離れた梅春教諭にカナ姉が
「ちょっと、からかっちゃだめですよ」
などと注意を促していたが、梅春教諭はソファに身を預けて
「はいはい」
とあしらっていた。
俺は手にしたファイルに目を落としてから一礼をしてから、鷹鷲とともに教室を出た。




