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第2章 夢の国

          1


 僕は西葛西にあるキリスト教の教会が運営をしている児童養護施設で暮らしていた。


 施設に入ったのは八歳の時だ。


 人生の最初の記憶は、台所で父と母が争い、母が包丁を手にして「死ぬわ」と叫んでいる姿だった。


 自殺をほのめかしているのに包丁の先は父の方を向いていた。


 僕は泣きながら父と母の間に割って入った。

 すると母の包丁の切っ先が今度は僕に向いた。


 そこから先の記憶は無い。


 時折、父の顔を思い出そうとするが焦点の合わない写真のようにぼやけてしまう。覚えているのは背中だけだ。一緒に動物園や遊園地に行ったことは一度もない。テレビの児童番組で父親と一緒に遊んでもらう子供たちの姿は別世界の出来事だった。


 小学校に入る前に、両親は離婚し母と二人で狭いアパートで暮らすようになった。


 幼稚園には行かなかった。母が行かせなかったのだ。


 友達はおらず、狭い部屋と家の回りの路地だけが僕の世界だった。


 その頃の記憶はいつも同じだった。


 夕方になり陽が傾き、西向きの部屋にオレンジの陽光が差して来て、窓辺に置いてある物の影が長くなる。そして茜色の輝きが通り過ぎると闇が訪れた。暗い部屋に一人ぼっちでいる。そんな光景しか思い浮かばない。


 だが、その一人きりの世界に侵入者が来た。

 

 母の男だった。


 その男が居着くようになると、それまでの木造アパートからマンションに引っ越し、その男と同居するようになった。


 そしてその男は事あるごとに僕を虐待した。


 最悪だったのは母もそれに同調し、二人がかりでやられたことだ。


 二人から激しい折檻を受けた翌日、僕は学校で意識を失って倒れた。


 体中のタバコを押し付けられた火傷の跡や切り傷、殴られた痣を養護教諭が発見すると先生が通報してそのまま病院に搬送された。

 

 それ以後、母とは会っていない。


 病院を退院すると葛西臨海公園の近くにある児童養護施設に移された。その施設に送られたのは、たまたま空きがあったからという理由だ。


 そのホームで出会ったのがアマンダだった。


     2


「夢の国にようこそ」

 ゲートをくぐると着ぐるみが、固まった笑い顔で覗き込むようにして言った。


 アマンダは顔を背けた。


 施設の皆は歓声を上げてはしゃいでいたがアマンダはホームを出た時から黙ったままだった。


 家族連れがさっきの着ぐるみと一緒に写真を撮っていた。


「アマンダちゃん、どうしたの」

 ホームの先生が寄ってきて心配そうに訊いた。

「別に」

「今日は特別よ。せっかく夢の国に来たんだから楽しみなさい」

「はい」


「じゃあ、五時までは自由時間だから好きなアトラクションに乗っていいのよ。五時になったらここに集合して帰るからね。皆もいい?」

「はい」

「五時までにいくつアトラクションに乗れるかな?」

「早く並ばないと」

 ホームの皆はそう言うと、お目当てのアトラクションに向かって駆けて行った。


 僕とアマンダだけが残った。


「どうする」

「どうするって?」

「どのアトラクションに乗る?」

 アマンダは首を振った。

「ここ、嫌い」

「そうか」

「流司は乗りたいアトラクションとかあるの」

「いや、特に無い」

「じゃあ、二人で抜け出さない」

 アマンダがいたずらっぽい目で見上げて言った。


 僕は頷いた。


 二人でゲートの外に出た。

「五時まで何をする」

 僕は夢の国の前のバス停の前まで歩いて来たところで言った。

「海を見に行きたい」

 間髪入れずアマンダが答えた。

「なら葛西臨海公園に行くか」


 葛西臨海公園は隣駅で、三日月型の人工渚が公園内にある。


 アマンダは首を振った。

「人が少ないところがいい」

 僕はスマホを取り出すと近くの海岸を調べた。

「少し歩くけどいい」

「どれくらい」

「一時間くらい」

「いいよ」


 アマンダと並んで歩き始めた。

 いつもと違いアマンダは元気がなかった。

「悪かったかな……」

 俯きながらアマンダが言った。

「悪いって?」

「せっかく杉田さんが私たちのために高いパスポートを買ってくれたのに」

「心配ないよ。杉田さんは資産家だから運営会社の株をたくさん持っていて、パスポートをただでもらえるらしい。それが余っちゃったんで、使用期限が切れる前にうちに回しただけだよ」

「どうしてそんなこと知っているの」

「ホームの先生たちが話しているのを聞いた」

「そうだったんだ。私達のために買ってくれたんじゃないんだ」

「そりゃ、そうだよ」

「それを聞いて気が楽になった」

 曇っていたアマンダの顔が晴れて笑顔を見せた。


「ねぇ、二人きりでお出かけするのは初めてだね」

「ああ」

 いつもホームで一緒なので、そう言われてもピンとこなかった。

「夢の国が嫌いなのかい」

 アマンダは小さく首を振った。

「アトラクションに興味が無いのか」

「アトラクションは面白そう。キャラクターも嫌いじゃない」

「じゃあ、どうして出てきた」

「みんな親と来ているから」

「そうか……」

「流司は子供の頃、親子で遊園地に行ったことある?」

「ない」

「動物園は?」

「ない」

「じゃあ、私と同じだね」

 アマンダは白い歯を見せて笑った。


 周囲は工場や倉庫が並ぶ殺風景な景色になった。


「少し離れただけなのに別世界だね」

 アマンダが僕を見上げて言った。

「ああ」


 夢の国のカラフルな原色の輝きと対象的に色の抜け落ちた色彩の無い街だった。

 

 僕たちは歩道を出て四車線の道路の真ん中を歩いた。


「車も通らなくて静かだね」

「ああ本当にそうだ」


 休日の倉庫街の静けさはまるで巨人が眠る墓地のようだった。


 しばらく歩くと潮の香りが強くなり南国のリゾートを思わせるシュロの木の街路樹が見えてきて高層マンションや大学や病院が立ち並ぶエリアに入った。


「もうすぐだよ」

 グリーンゾーンになっている遊歩道を歩いてゆくと目の前に海の眺望が開けた。

「わあ」

 アマンダが歓声を上げた。

 人はまばらだった。

「こういう所に来たかったの」

 アマンダは遊歩道のデッキを駆けて海辺に向かった。


「ねえ、岩場があるよ」

「これはミッキーロックって言うらしい」

 スマホを見て僕は言った。

「ここまで来て、またミッキーなの」

 アマンダがおかしそうに笑った。


 海まで舗装されたデッキになっていていた。

 アマンダはコンクリートデッキの端にある柵によりかかった。

 その先には雲と海が遮るものなく広がっていた。


「あの空の向こうにアメリカがあるのかな」


 空の青を飲み込んで眼下に広がる碧い海を見ながらアマンダが言った。


 そんなことは考えたこともなかった。


 海を見ているアマンダの横顔を見た。


 真剣な表情をしていた。


「海はつながっているから、あの向こうはアメリカだよね」

 アマンダが念を押すように訊いた。

「ああ、多分な」


「プエルトリコってどんなところかなぁ」

「急にどうした」

 アマンダは僕の方を向くと言った。

「ねぇ、私、日本人なの?」

「何を言っている」


 アマンダは寂しげな目をして下を見た。

「先週、学校で佑樹君のタブレットが無いって、騒ぎになったの。探しても見つからなくて、それでクラスの誰かが盗んだに違いないっていう話になったの」


 そこからは聞かなくても想像がついた。そういう場合、親のいない養護施設の子は真っ先に疑われる。僕にも覚えがあった。


「施設の子だから犯人だと疑われたのか」

「うんうん。違う」

「じゃあ、犯人扱いはされなかったんだな」

「それも違う。私がやったと言われた」

「どういうことだ」

「日本人じゃないから、お前がやったに違いないって言われた」

「日本人じゃない?」

「クラスの子は、家で親にあの子は自分たちと同じ日本人じゃないから用心しなさいって言われていたらしいの」


 僕は怒りと困惑の両方を感じた。


 アマンダはきれいな黒髪に黒い瞳をしている。だが鼻は高く、顔の輪郭は日本人のそれとは明らかに異なっていた。


「それでどうなったんだ」

「結局、同じクラスの他の子が間違えて家に持って帰っていたの。その子のお母さんが自分の子のものだと思って充電するために別の部屋に持って行ったのでその子は間違えたことに気が付かなかったの。そのお母さんが、子供がタブレットを忘れたと学校に届けに来て分かったの」

「疑いが晴れて、みんなアマンダに謝ったのか」

 アマンダは首を振った。

「おかしいだろう」

「だって私はゴーストみたいなものだから……」

「馬鹿な、日本で生まれたんだから、アマンダはれっきとした日本人なはずだ」

 アマンダは首を振った。

「お母さんはプエルトリコ人で、父は誰だか分からないでしょ。だから私は日本人になれないって言われた……」

「もしそうだとしても、アマンダはお母さんと同じプエルトリコ国籍になるんじゃないか」

「調べてみたの。プエルトリコ人ってアメリカ国籍になるらしいの。でも私は日本で生まれたからアメリカ国籍は取れないらしいの」


 難しいことは僕にはよく分からなかった。だが、父親が誰かも知らず、自分がどこの国の人間かも不確かで異分子として扱われたアマンダの気持ちは分かった。


「親がいないだけじゃなくて、どこの国の人間かもわからないのよ。だから誰からもさけられているの」

「そんなことない」

「実はタブレットの事件だけじゃないの」

「……」

「以前ね、クラスメイトの家に遊びに行ったら、次からは呼ばれなくなったの。親があの子は二度と家に連れてくるなって言ったらしいの」

 アマンダが鼻声になりながら続けた。

「同じクラスの遠山君から付き合って欲しいと言われたこともあったの。でも、しばらくして遠山君から『君とはもう付き合えない』と言われた。私と付き合っていると知った母親があの子とだけは付き合うなと反対したらしいの」

 アマンダの目には涙が溜まっていた。

「私はよそ者なの」


 涙がアマンダの頬を伝わり、そしてその涙は顎から海に落ちた。


 足元のコンクリートの擁壁に打ちつける波の音が、アマンダのすすり泣く声を打ち消した。


「そんなこと無い。少なくとも俺は違う。国なんかどうでもいい。アマンダは家族だ。俺はいつでもそばにいる」

「ほんと?」

「ああ」


 アマンダは僕の胸に飛び込んできた。


「約束だからね」


 アマンダが僕の唇に自分の唇を重ねた。


 それは僕にとって生まれてはじめてのキスだった。





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