狂人が走る
「俺さ、走るの楽しいって言ってる奴、狂ってるとしか思えないんだよね」
俺がそう呟くと、隣に座っていた俊介は不思議そうに俺の顔をのぞいた。
「なんで」
「だって、どう考えても、楽しいより苦しいが勝つに決まってんじゃん。しかも、競技場とかで走るとさ、わざわざ苦しい思いして走ったくせに、同じところに戻ってくんだよ? 何がしたいのって感じする」
バスが、俺らが降りるところの一個手前の停留所で止まった。
「狂人だろ」
これがいわゆる、「気まずい」というやつなのだろうか。他に乗客も居なかったため、重い沈黙が、バス全体に満ちていた。
俊介はどう答えていいか、とまどっているようだった。それもそのはず、彼は県で五本指に入るほどの、陸上の、しかも、長距離の実力者なのだから。
バスが動き出した。窓の外から、これでもかというほど西日が差し込んでいた。
走ることを生業としている彼にとって、俺の意見は正反対なものだろう。それを知ったうえで彼に意見をぶつけたのは、嫉妬だったり、はたまた知的好奇心だったり、どちらにせよ身勝手なものだったのだろう。
ただ、俺は、彼のような狂人が体感しているナニカを、知りたかっただけなのだ。
バスが、停留所に止まった。
俊介は俺とまったく目を合わせずに、考え込んだ様子で立ち上がり、そして、そのままバスから降りていった。ぼんやりと眺めていた俺も、慌てて彼を追いかける。
バスを降りると、バスの扉が閉まる音が、背中から聞こえた。彼は時刻表の隣に腰を下ろして、やっぱり、考え込んだ顔で虚空を見つめていた。
白いミニバンが、風を切って、俺の後ろを駆け抜けた。そのまま目で追っていると、その真っ白な車体はどんどん遠ざかって、そして、ありえないほどちっちゃくなっていった。夕日のせいだろうか。なんでもないようなその光景が、俺の脳裏にこびりついて離れなかった。
ふとしたタイミングで、彼と目が合った。彼が目を、合わせてきたのかもしれない。
「考えても、わかんねーわ」
その顔は、想像していたより清々しかった。
「でも、多分だけど、たまたま俺が走るの好きで、たまたま竜也が走るの嫌いだった、ってだけじゃない?」
彼の言葉は、静まり返った集落の中で反響して、不自然なほど耳に残った。
俺は、何も言えなかった。意見を聞いてもらって、的を得た回答を得たのにも関わらず、それを不満に思っている自分がいた。俺は一体、何を望んでいたのだろう。
彼は、ぼーっと突っ立ったままの俺を残して、おもむろに彼の帰路を進んだ。と思ったら、突然止まって振り返って、
「あんま考えすぎんのも、良くねーぞ! じゃ、また明日なー」
と大声で叫んで、そして、両手をこれでもかというほど左右に振っていた。
あんだけ考えてたお前がそれ言うのかよ、と心の中で思いながら、俺も負けじと手を振り返す。
彼は、ニカッと満足そうに笑って、それから、踵を返して歩いていった。その背中は、いつもよりやけに大きく見えた。
「ハッ、ハッ、ハッ…………ハッ」
普段より、息が苦しい。
やっぱり、サボっていた分、体力落ちてるなと思う。
こうやって走っていると、俊介に狂人だと言ったことを、決まって思い出す。あの時は、世界の中心が自分だと、思い込んでいたから。だから、きっと、あんな身勝手なこと言えたんだと、思う。
なんで走ってんの。
そんな声が、頭の隅の方から聞こえてきた。
「苦しくなってくると、頭ん中で辞める理由を勝手に探し始めんだ。人間って、そういうもんだから」
監督のそんな言葉を思い出す。
「けど、そこで自分に負けたら、もう、終わりなんだなー。結局は最後、相手じゃなくて、自分との勝負になんだから」
そして思い出すたびに、いい言葉だなと噛み締める。
なんで走ってんの。
なんで。なんでかは、俺にも、わからない。別に、今でも、走るのが速いわけじゃないし、ましてや、走るのが好きなわけでも、ない。
じゃあなんで。
んー、そうだな。強いて言うなら………
「ハァ、ハァ、ハァ」
家が見えてきたので、ラストスパートをかけた。もはや、ほとんど全力疾走と変わらないぐらいまで、上げられるだけ、上げる。
ここまでくると、酸欠で、眠く、なってくる。止まりたい。辞めたい。今すぐにでも、辞めたい。足が、疲れて、止まりたいと言っている。
それでも。
進む。進む。足を前に。あと少し。あと少し。あとちょっと。あと、数歩。あと、少し。
「ハァ、ハァ、ハァ」
家の前の電柱の横で、俺は仮想のゴールテープを切る。走り終わっても、すぐには止まらず、家の周りを歩く。
「ハァ……ハァ……ふぅ」
俺は、この瞬間だけは、ほんの少しだけ、好きだった。自分のギリギリを攻めて、そして、出し切った時の達成感が、俺にとっては何にも代えがたいものだった。
口の中に溜まった唾液を、路上に吐いた。自分は今、笑っているだろうか、それとも、疲れ果てて虚無になっているのだろうか。通行人が見たら、どう思うだろうか?
いや、どうでもいい。それよりも……
「ふっ」
俺は、かつて忌避した俊介のことも、今ならわかるような気がした。なぜなら今の俺は、己の限界を求め、そしてひたすらに自分を追い込む、狂人そのものなのだから。