水をください
じいちゃんが死んでから三ヶ月が過ぎたこの日。わたしたちはようやく本腰を上げて、雑多に積まれた遺品を整理しようということになった。
もちろんじいちゃんが死んでしまってからすぐには気持ちを整理することができなかったというのも理由の一つだけれど、じいちゃんの遺品はものすごい量があって、家族総出で気合いを入れてことに当たらなければとても整理しきれないというのが最大の理由だ。だから遠くに引っ越していた年の離れた兄ちゃんも、兄ちゃんの奥さんも、父さんの姉のミチコ伯母さんもゴミ袋を片手に家に集まって、じいちゃんが大事に保管していたガラクタの山を見上げた。
じいちゃんはよく物を拾ってくる人だった。わたしが小さい頃、じいちゃんがくれたキャラクターの指人形。それらはどこかの道端に落ちていた物を拾い集めたものだった。長い間使われていたのか、それとも雨に打たれて劣化したのか、ところどころ印刷が剥げていたり色あせていたりしたそれを、わたしは「いらない」と一蹴した。だって300円もあれば、お祭りの『キャラクターすくい』なんかの屋台で真新しいゆび人形が楽しい体験とともに手に入るし、100円ショップのおもちゃコーナーだって、自分でコレと思った物を選ぶ楽しさがある。なんでわざわざ誰が使ったのかもわからない薄汚いおもちゃを使わなくてはいけないのだろう。じいちゃんは子ども心を全然わかってない。
わたしが「いらない」と言うので、じいちゃんはしかたなく、昔金魚を飼っていた水槽の中に指人形たちを綺麗に並べて、自分の部屋の隅に飾っていた。
「いやだ! これまだこんなところに置いとったん?」
ホコリをかぶった指人形を「これ燃えるゴミ? それとも燃えないゴミ?」と呟きながらゴミ袋に流し込んでいると、横から母さんが頓狂な声を上げた。
てっきり指人形のことを言っているのだと思ったのに、母さんの目線は違うところにある。母さんがブリキの箱の蓋を開けると、中にはピエロの人形が入っていたらしい。このピエロも、私が小さい頃にじいちゃんが知り合いからもらったものだった。ピエロの手や足、そして頭は、マットな質感のプラスチックでできていて、突き出た鼻と三日月型に上がった口角のおうとつがやけにリアルに作られていた。体は色とりどりのサテンの布に少しの綿がつめられているだけで、そのせいで座る姿勢を取らせても頭はくったりと下を向く。なのに顔だけはおかしそうに笑っているのだから、それが余計に不気味だった。
「これ、子どもの頃めちゃくちゃ怖かった気がする」
「怖かったどころじゃないよ。あんたこれ見てからしばらく夜尿症になって、こっちは大変だったんじゃけえ」
「それは覚えてないわ……」
人間は都合の悪い記憶から薄れていくらしい。そういえば、これのせいなのかはわからないけど、我が家はしばらく霊障に悩まされた時期があったことを思い出した。いつの間にかヘンなことは起こらなくなったからすっかり忘れていたけど、あれはなんだったんだろう。「気持ち悪いから捨ててきてってあれだけ言ったのに……」と母さんはまだグチグチ呟いている。
ただの人形なのに、これだけ忌み嫌われているピエロが哀れに思えた。わたしだって夜尿症になるほど怖かったはずなのに、今は心なしかピエロの笑顔が悲しそうに見える。まあ、かといって保管したりはしないけど。
そうしてわたしはゴミ袋の口を広げた。
「とりあえずさくさく捨てよう。まだ物はいっぱいあるし。これは燃えるゴミ?」
「わからん……顔はプラスチックだし……」
そう言って二人同時に首を傾げた。もちろん本来の基準に則れば、布とプラスチックの部分を切り離して仕分けするのがいいんだろうけど。さすがにそれは忍びない。更に言うと、半透明の燃えないゴミ袋に、バラバラになったピエロの手足と笑顔を浮かべた頭が入っている光景は最早ホラーでしかない。ゴミ収集業者の人が腰を抜かしてしまうかも。
「とりあえず燃やせば燃えるんだから燃えるゴミでいいか」
「何でもいいわ。はよ捨てて」
「……捨てたら帰ってきたりして」
ふと思ったことを呟けば母さんが顔を青ざめさせた。
「お寺かどこかでちゃんとお焚き上げしてもらったほうがいいんじゃないですか?」
わたしたちのやり取りを聞いていた義姉さんの提案を聞いて、母さんはそっとブリキの蓋を閉じた。
じいちゃんのコレクションは拾ったものだけではない。じいちゃんは顔が広くて、知り合いからよく物をもらってきた。じいちゃんは大工をしていたので、この辺りの家は大抵じいちゃんが携わっていた。だから雨漏りをしただとか、壁の塗装の剥げた箇所の修復だとか、ちょっとしたことは無償で請け負っていた。そのお礼にみんな色々なものをくれるのだ。
田舎で、狭い地域だったこともあって、ほとんどの人がじいちゃんのことを知っていた。じいちゃんと外を歩けば色んな人が声をかけてきて、孫のわたしにも優しくしてくれた。お菓子やジュースをくれることもあった。家ではいらないものを集めてくる困ったじいちゃんだけど、この時ばかりはじいちゃんのことが酷く誇らしく思えたものだ。
じいちゃんがもらってきたもので一番の大物は、トタンに覆われた簡易倉庫だった。じいちゃんはそこに仕事道具を入れていて、わたしの友達が遊びに来た時はそこを秘密の遊び場にした。中は土と埃の匂いが充満していて、木の板で作られたシンプルな作りの棚にはノコギリや金づちが無造作に置いてあった。そこで何をするでもなく、見つかって大人に叱られるまで、友達と他愛のない話をしながらじっと息を潜めているのが好きだった。
そうこうしているうちに少々値打ちのありそうなものが出てきたらしい。箱の中に入れられた金の酒杯で、裏に24金と彫られている。「今金の値段が上がっとるけぇ、これも結構するんじゃないん?」と呟いたのは兄ちゃんだ。じいちゃんの戦利品はそのほとんどがどうしようもないガラクタだけど、たまにこういう事があるから油断はできない。兄ちゃんはスマホで値打ちのありそうな物の価値をせっせと調べていた。
初めの頃は、いる物かいらない物かの判断はばあちゃんに委ねていたけれど、そんな時のばあちゃんの答えは決まって「全部捨てりゃあええんよ」だった。じいちゃんとばあちゃんは別に仲が悪かったわけじゃないけど、じいちゃんの収集癖にはばあちゃんも辟易していたようだ。なので今はもっぱら、その判断は兄ちゃんかミチコ伯母さんが下すようになった。父さんは主に粗大ごみのような大きい物を片付けて、ばあちゃんとミチコ伯母さんは思い出の品を整理していく。
夕方になり、あらかた整理し終わった後に出てきたのが、部屋の奥の奥にしまわれていた段ボール箱だった。その段ボール箱は、上に雑然と物が積まれていたためにほとんど潰れかけていて、何を零したのか黒っぽい染みが浮いていた。明らかに値打ちのあるものは入っていなさそうなそれを開けると、中から出てきたのはホコリを被ったポータブルラジオだった。
「これ、昔じいちゃんが使ってたやつだっけ?」
「さあ、どうじゃったか……」
わたしが聞くと、段ボールの中を覗き込んだ父さんが首をひねった。
そう言えば、じいちゃんはよくラジオを聞いていた。わたしが知っているじいちゃんのラジオは、珍しくじいちゃんが電気屋さんに行って自分で買ってきたものだ。小型のラジオをポケットに入れたまま音量を最大にして、じいちゃんはそれを外で仕事をしている間ずっと流していた。しまいには段々と近づいてくるラジオの音だけで、わたしたちはじいちゃんの帰宅がわかるようになった。
「わたし、これもらっていい?」
「ええけど……使えるかわからんで?」
「それでもいいよ。インテリアにもなるし」
全部捨てる気マンマンだったじいちゃんのコレクションを、なぜ手元に置く気になったのかわからない。その古びたラジオが一周回ってレトロでお洒落なデザインに見えたからかもしれないし、じいちゃんの所在=ラジオの音だったのに、じいちゃんが死んじゃってからはめっきりその音が聞こえなくなって、それが自分で思っていたよりも寂しく感じていたからなのかもしれない。
わたしの部屋にある勉強机の上。そこに所在なげに鎮座する古いポータブルラジオ。部屋の雰囲気とはまるで合っていないのに、何となくじいちゃんがそこに居るかのような安心感を覚えた。電池を入れ替え、アンテナを立てて、スイッチを入れてみる。いつもじいちゃんが使ってたラジオと違って、切り替えスイッチ一つでチャンネルを変えるのではなく、二つのダイヤルを自分で調節して音を拾うタイプのラジオだ。だけどつまみを回してみても、ピーだとかヒョローだとかわけのわからない音が鳴るばかり。おまけにザーザーノイズが酷くて全くラジオとしての機能を発揮しない。しばらく格闘してみたけどやっぱりダメで。一階から「ご飯よ」と声がかかったのでスイッチを消して階段を下りた。
「そういや思い出したで」
食事中、話題に上ったのはさっきのラジオのことだった。「じいさん確かにあのラジオ使いよった」と父さんが続ける。私は覚えていなかったけれど、最近まで使っていた小型のラジオを買う前は、あのポータブルラジオを使っていたらしい。
「どこでもらったんか知らんけど。そんなに長う使うてなかったんじゃないか。しばらくしたら今のラジオに買い替えとったで。古いもんじゃけえすぐに壊れたんじゃろう」
「やっぱり壊れとるんじゃね」
ダイヤルをAMやFMの周波数に合わせても聞こえてくるのは妙な音かノイズばかり。全体的にホコリを被ってはいたけど比較的綺麗だったからまだ使えるかなと思っていたのに、壊れているとなると少しだけ残念だった。
その日の夜、じいちゃんの夢を見た。
小学生低学年くらいの私と、じいちゃん。じいちゃんのすぐそばに例のラジオがある。私がしたみたいに、アンテナを立ててスイッチを入れる。じいちゃんがダイヤルを回すと、ラジオからは声が聞こえてきた。
「なんて言っとるん?」
幼い私はじいちゃんに尋ねる。じいちゃんは私を見て、それから、何と言ったのだろうか。じいちゃんの声だけが無声映画のようで、何を言っているのかわからないまま目が覚めた。何とも要領を得ない夢だ。昨日の夕食時に父さんがラジオについて話したからこんな夢を見たのか、もしくは私が忘れていた過去の記憶なのか。どちらとも判断がつかない。
そんなモヤモヤする夢を見たおかげで朝早く目が覚めた。朝ごはんを食べてだいぶ頭がしゃっきりしてきたところで時計を見た。8時14分。それからすぐに町内放送のサイレンが鳴る。毎年の習慣がすっかりしみついたように、自然に目をつぶって黙とうをした。黙とうが終わってつけっぱなしのテレビ画面を観ると、この暑い中でも平和公園には黒いスーツを着た人たちがひしめいていた。今日は広島にとって、いや、日本にとっても、とても特別で大切な日だ。
部屋に戻るとすぐにクーラーをつけた。年々熱くなっているから、朝のこの時間でもクーラーをつけないと耐えられない。涼しい風が来るのを待って、それからもう一度ラジオのスイッチを入れてみた。相変わらずノイズが酷い。何度かダイヤルを回してみても改善されず、やっぱり壊れてるのかと諦めかけた時だった。突然、ピタリとノイズが止んだ。
声が聞こえる。夢で聞いたのと同じ声だ。何と言っているのだろう。わたしはそっとスピーカーに耳を寄せた。
「……み……ず……」
「水?」
声は繰り返し同じ言葉を発しているようだった。電波の問題なのか言葉は途切れ途切れだったけど、聞き漏らさないよう注意深く耳をすませた。
「……みず……を……く……だ……さい……」
「水をください?」
壊れて不快なノイズ音ばかり発していたラジオから、なぜ突然クリアな音声が聞こえるようになったのか。なぜラジオから聞こえる声は同じ言葉を繰り返しているのか。明らかに異常な状況なのに、この時のわたしは妙に冷静で。そして合点がいった。今日が広島に原爆が投下された日だったからだ。
広島市内に原子爆弾が落とされたこの日。爆心地付近にいた人は黒焦げに、あるいは爆風で跡形もなく消し飛んだ。爆心地から離れていた人も、熱風で焼け死んだ。全身に火傷を負いながらも辛うじて生きていた人々は、溶けた皮膚を引き摺りながら水を求めて川まで歩いた。市内に流れる太田川には、川に辿り着いた人々がひしめいて力尽き、川べりや川の中で折り重なるように死んでいったらしい。
途中で運よく水をもらえた人もいた。でも水を飲んだ人は満足して死んでいった。これは原爆を題材にした漫画で読んだ。「水をあげたら死んでしまうけえ、飲ませたらいけん」と誰かが声を上げた。水が欲しい人たちは泣いて縋って群がった。みんなどうにか生きようと、どうにか生かそうと必死だった。けれど水を飲めなかった人も、水をあげなかった人も、結局放射能で死んでしまった。そんな地獄のような光景が、ほんの数十年前にここで実際に繰り広げられていたんだ。
ばあちゃんが言っていた。じいちゃんの弟も、原爆で死んでしまったらしい。だけど結局骨が見つからなくて、今でも原爆死没者の名簿には名前を載せられないのだそうだ。
「……みずを……ください……」
「水がほしいんじゃね」
ラジオからは相変わらず水を求める声が繰り返される。わたしはどこか穏やかな気持ちだった。
原爆が落ちたあの日からずっと、この人は水を求めてさまよい続けているのかもしれない。どういうわけかこのラジオを通して、誰かにずっと訴えかけているのだ。たとえ飲めばそのまま力尽きて死んでしまうのだとしても、こうして未練が残るくらいなら、わたしはやっぱり満足するまで水を飲ませてあげたいと思う。
「いいよ。家においで。水あげるから」
気づけばそう口にしていた。その途端、ラジオから繰り返し聞こえてくる声は嘘のように静かになった。
その足で玄関へ行き、バケツ一杯の水とコップに冷たい水を入れて玄関扉の向こうに置いた。もし中の水が減っていれば、明日もまた足しておくつもりだ。
じいちゃんも、ポータブルラジオから流れてくる、切実に水を求めるあの声を聞いていたんだろう。昨日夢で見た光景が途端に現実味を帯びてくる。
じいちゃんは水をあげただろうか。けれどどこかで、じいちゃんならきっとそうするだろうと確信していた。
近所で困りごとがあれば、いつも自前の自転車に仕事道具を乗せて、じいちゃんは現場へ向かった。報酬なんて関係なく、いつも誰かに親切にしていた。みんなじいちゃんに感謝していたから、お金を払う代わりに色んなものをくれた。そういうじいちゃんが、わたしは誇らしかったから。
きっと道端に落ちているものを拾い集めるように、水を求めてさまよっていた人の魂も拾っちゃったんだろう。
もしかしたら、我が家にしばらく霊障が続いたのはこういうことだったのかもしれない。そしてある日を境に霊障が止んだのは、水をもらって満足したからだろうか。
じいちゃんの仏壇に手を合わせる。わたしの前ではよく笑うじいちゃんだったけど、写真嫌いだったから写真の中の顔はいつもしかめっ面だ。
「じいちゃん。じいちゃんはラジオの声を聞いたんかなあ。わたしもさっき、ラジオの声を聞いたんよ。こっちは暑いけえ、きっと喉が渇いとるんよね。さっき玄関に水を置いてきたよ」
風もないのに、突然じいちゃんの遺影が前に倒れてきた。お線香の煙も揺れている。
ちょうどお辞儀をするみたいに写真が傾いて、お輪に引っかかった。
「じいちゃん、お礼言っとるん?」
わたしの質問に答えるように、どこかでカタンと音がした。
「大丈夫よ。じいちゃんの仕事はわたしがちゃんと引き継いだから。安心しとってね」
部屋に戻る。つけっぱなしだったラジオから、またノイズが漏れてくる。
ノイズに紛れてまたあの声が何か言っている。わたしは、はいはい水くらいいくらでもあげるよという気持ちで、スピーカーに耳を寄せた。
ノイズが消え、ラジオ越しの声がまたはっきりと耳に届いた。
「死に水を取ってください」
ホラーは不条理な展開が好きです。
読んでいただきありがとうございました。