昼下がりの遭遇
東京の観光スポットのひとつであるテレビ局が入った巨大タワービルの裾野。
その隅にあるお洒落なカフェの一角で、僕は先ほどから厄介な相手と対峙していた。
「忙しいんだろう? 和巳。夫人は私が責任を持ってお送りするから、遠慮なく仕事に行きたまえよ」
「ですからそれには及びません。沢村さんこそ寄り道でしたでしょう? ご出勤が遅れたら困る人が大勢いるでしょうから、気をつけてお帰りください」
「つれないね。君と私の仲なのに。零史さんと呼んでくれないかな」
「遠慮します。僕はあなたの顧客ではありませんので」
言いながらジャケットのポケットにあるスマートフォンの画面が光らないか確認する。
沖田さん! まだですかっ。
電話で催促したいのは山々だが、隣に座るセラや正面にいる先輩の手前、あまりイライラしたところも見せたくはない。
とはいえ今、僕が置かれた状況はかなり精神力を使うシチュエーションで、心理カウンセラーの先生が見たら「そこから離れなさい!」と突っ込まれそうだ。
僕は艶やかな焦げ茶色のテーブルに置かれた白磁のコーヒーカップを睨みながら、ナゼこうなったのかを脳内でリプレイしてため息をついた。
始まりは大学の講義終了後、校舎を出る途中でセラとバッタリしたところからだった。
「セラさん」
「まあ和巳」
五月下旬の日差しが学生たちに降り注ぐ正門前の広場で、講師に復帰して一ヶ月を迎えたセラは、地味なまとめ髪に金縁メガネの出で立ちながら水を得た魚のように生き生きしていた。
「これからお仕事ね?」
「はい。テレビ局のスタジオで収録です。セラさんは、今日は終わりですか?」
「ええ。このあと世田谷校舎へ招かれているの」
「世田谷ですか」
それは芸術学部にある声楽科のことだろう。
彼女は本来なら、より専門的な芸術学部の音楽科に所属するべき人なのだという。事実こちらに戻ったばかりの三年前、最初は世田谷に赴任したそうで、横浜で生き別れた息子(拓巳くん)を探すという作業がなかなか進まなかったため、一年後、住吉京子副理事に願い、横浜校の教育学部の音楽専科に移ったのだ。そのとき、偶然にも僕が通っていた系列校、旭ヶ丘学園の理事の席が空き、住吉副理事の求めで理事を引き受けたことが、拓巳くんとの再会に繋がったのは記憶に新しい。
そんな経緯があるので、世田谷校舎はセラにとって通い慣れた道なのだとわかっている。しかし……。
世田谷までの往復。大丈夫かな。
そんな気持ちが表情に出てしまったか、セラは宥めるような声で言った。
「大丈夫よ。一人じゃないの。ほら」
セラが斜め前方を指す。見ると、見覚えのある女子学生が文庫本を片手に開き、パーカーを羽織った背を太い門柱に預けて立っていた。
僕は納得し、足を早めて近づきながら声をかけた。
「稜先輩」
彼女は一瞬、鋭い視線で顔を上げ、すぐに目元を和らげた。
「和巳君。内田先生。ご一緒でしたか」
シャツとデニムの軽装で、まっすぐの長い髪を後ろでひとつに束ねた稜先輩は、目の前に立った僕に笑いかけ、隣のセラには丁寧に会釈した。
セラが復帰するに当たり、僕たちは今の状況を同じ教育学部の校舎に通う稜先輩にも話しておくことにした。理由はもちろん高橋要の存在だ。
僕が初めてあの男と遭遇し、拐われかけたとき、稜先輩は僕を庇ってスタンガンの被害を受けた。セラが旭峯大学に復帰することがあの男に伝わるのは時間の問題で、この先は彼の出没が予想され、万が一の遭遇に備えておく必要があったからだ。
そこでセラが復帰する前日の放課後、教育学部の校舎の下見をしがてら先輩を尋ねて打ち明けたところ、意外なことがわかった。
「一昨年までいらした声楽の内田先生ね。知っているわ。私の友人が音楽専科にいて、世田谷校舎での待ち合わせのときに何度かお見かけしたの。そう……あの方があなたのお父様の。雰囲気がだいぶ違うから気づかなかったわ」
セラがいた二年前、稜先輩は一年生だったわけで、あり得なくはないことだが盲点だった。
事情を知った先輩は翌日の午後、三人で挨拶を交わしたときにボディガードを申し出た。
「あのような神出鬼没の男が相手では、先生などあっさり連れ去られそうですね。しかも講師の仕事に不満となればなおさら。大学の敷地は広いですから学内であっても油断は大禁物です」
稜先輩は棒術の師範、セラの安全を担保するのにこれ以上の人はいない。僕は恐縮しながらも、セラに好意を受けるよう勧めた。
むろん俊くんにも話を通し、承知してもらった。そのとき「じゃあ、凱斗の尻を叩いておかないとな……」などとつぶやいていたことは内緒だ。
その後、もより駅を目指す二人とともに門を出、二百メートルほど先にあるコンビニの駐車場で送迎役の橘と合流した。
「お疲れ様です、橘さん。お待たせしました」
「や、和巳君。お疲れッス」
Gプロ入社三年目の橘奏太は、今年の二月から広田稔とともに〈T-ショック〉の担当となった若手社員で、真面目で実直な広田に比べるとだいぶやんちゃな雰囲気だ。細かい事務仕事やスケジュール管理は苦手だが、いつも元気で人が良く、フットワークも軽快で手間を惜しまない。そして、こんな場合にはナチュラルに親切な言葉が出る人だった。
「どうせ駅前を通りますから、どうぞ乗っていってください」
駅までは直線なので、車を使えば五、六分で行ける。しかし女性(この場合はセラだ)の歩調だと十五分はかかる。セラのセキュリティの観点からみても橘の申し出に不備はなかった。
「でも、お仕事中の車に便乗するのは……」
「仕事の一環でもありますから」
ためらうセラを橘は説き伏せ、僕も感謝してから促した。
後部座席に二人を乗せてから助手席に納まる。来年には僕も免許を取りたいな、などと考えながら、動き出した風景の先にある車道に目線を移したそのとき。
「げっ!」
橘が声を上げた瞬間、タイヤが耳障りな音を立て、直後、ドンッと衝撃が走って車が止まった。
「すいません! 大丈夫ですか」
橘の上ずった声が車内に響き、大丈夫ですと答えると同時に後から「こちらも大丈夫」との返答が返る。後ろを向いて二人を確認し、怪我はなさそうだとホッとしていると、外から男の太い声が漏れ聞こえてきた。
「……だよこれ。ヘコんでんぞっ」
首を戻して窓から覗き見ると、こちらのフロントが相手のセダンの横面に当たるようにして止まっていて、ドライバーと見られる男性がそこにしゃがんでいる。
パッと見は、こちらが突っ込んだように見える。
「……、ちょっと待っていてくださいっ」
橘は一瞬、戸惑った顔をしたが、すぐにドアを開けて出ていった。
しばらく様子を窺っていたが、相手側の男性が二人に増え、ぶつかった場所を指差しながら橘にまくし立てている。すぐには収まらなさそうだと判断した僕は後ろの二人に謝った。
「すみません。時間は大丈夫ですか?」
セラは稜先輩と顔を見合わせてから答えた。
「あちらに着いたら買い物をする予定だったから余裕はあるわ。でも橘さんは焦ってしまうでしょうから、私たちは降りましょうか」
「そうですね。もともと歩くつもりでしたし」
稜先輩にも申し出られ、僕も思案する。
これはどう考えても会社とのやり取りが必要な場面だ。手間取るようなら僕も電車で行くことになるだろう。
だったら途中まで一緒にいけばいいか。
「わかりました。橘さんに伝えてきます。お二人は待っていてください」
そんな算段をして車を出たのだが、事は楽観視を許さない状況になっていた。
「困るんだよ。借り物なんだぜ。傷物じゃ返せねぇんだからな」
「いやだから、そちら様も動いてたんだから、ここはちゃんと保険を通して」
「んなことしてたら約束の時間に間に合わねぇんだよ! さっさとおまえの車屋に電話して、同じやつ持って来させろや!」
「だからそれも含めて保険屋さんに連絡しますから……っ」
こ、これは厄介な。
僕はスマートフォンを片手に近づき、橘に呼びかけた。
「すみません橘さん。時間かかりますか」
「あっ、和巳君。そうッスね、あの」
「おい! 内輪で話してんじゃねぇ! 早く手配しろ!」
ドライバーの男が割って入り、僕を睨みつけた。
「同乗者も連帯責任だ。落とし前つけてもらおうか」
なんだって?
僕が目線を向けると、男は嫌な笑いを口元に浮かべた。
「若造のくせに上等なスーツ着てんよな。そのわりに車がショボいのは、さしずめいいとこのお坊っちゃまの社会見学ってとこか。運転手のミスはリカバリーしてやらなくちゃな」
「………」
僕の頭に危険信号が灯り、橘の顔に緊張が走った。
今日のような移動をするとき、時間短縮のために僕はスラックスとワイシャツで受講する。出るときに上着とネクタイをつければいいので楽だからだ。大学の構内にはリクルートスーツの就活組も行き来しているので別に珍しい格好ではない。
しかし僕のスーツを見て、ひと目で『上等な』と見破る人は限られている。なぜならこれは綾瀬伯母からの入学祝い、オーダーメイドの非売品だからだ。仕事用ということでごく普通の紺色だし、ブランド名が見えているわけでもないので、よほど仕立てに詳しい人でないと見抜くのは難しい。
上物のスーツを見慣れているか、身近に扱ったことがあるか。
今、目の前にいる二人連れはどちらも二十代に見える。ドライバーの男がジャケットにパンツ、もう一人はラフな感じのシャツと黒デニムだ。大学にもいそうな服装だが、雰囲気がどことなく荒っぽく、スーツの仕立てを見抜くようなセレブには見えない。そして問題のセダンは型落ちとはいえ黒のハイクラスである。この結果から導き出される答えとなると。
ヤクザ系の、当たり屋的な?
もしどこかの暴力団の手下だとしたら、警察を呼ぶしか手はなくなる。そうなれば現場検証のために待つことになる。それもこの場の全員が。
ヤバい。色々な意味で。
橘もそのあたりのことを察したようで、顔がどんどん青ざめていく。どちらに転んでも彼には受難が待っているからだ。
僕が遅れたら、さぞかしみんなから――特に拓巳くんからの風当たりがキツくなるだろう。かといって示談で済ませるのは危険だし、会社には報告しないといけない。
どっちみち痛い目を見てもらうしかないなら。
僕は心を決め、スマホに指をかざして言った。
「わかりました。そこまでおっしゃるのでしたら僕が責任を取りましょう。警察を呼びます」
「お、おいっ! 待てよ!」
すぐに警察を呼ぶとは思わなかったのだろう。男はあからさまに慌てた顔をした。
「なんでしょう」
「なにって、おまえ。警察なんぞがこれっぱかしの事故に」
「ですが今、責任を取れとおっしゃいましたよね?」
「おうよ。わかってんならサツなんぞいらねぇだろ。こっちは待ち合わせがあるんだ。さっさと車屋に連絡して修理の手配しろや。話がまとまればこの場は謝礼だけで済ませてやる」
言いながら男は三本指を立てた。三万ということだ。
やっぱりそれが目的か。
話がまとまれば三万で解放される――そんな考えがよぎったか、横に立つ橘の顔が一瞬、明るさを取り戻した。が、そんなセリフを信じるような甘い育ちを僕はしていない。
嘘に決まってるでしょ。しっかりしてください!
くるりと首を回して橘をガン見し、彼の目が(すんません)と恥じ入ったのを見極めてから男に顔を戻す。
「ですから責任のありかを警察にはっきり判別していただき、その上でこちらの責任の分をきちんと果たしますので」
「この……っ」
男が顔を紅潮させ、僕の襟をめがけて腕を突きだした。すると。
「おやおや。乱暴はまずいだろう。こんな場所で」
ふいに横合いから声をかけられ、僕たちは一様に驚いて男の斜め後ろを見た。――そしてもっとも会いたくない人物の姿を見いだしてしまった。
なんでこんなところに零史が……っ!
「やっぱり和巳か。奇遇だな」
買い物でもしていたのか、小さなコンビニ袋を手にした零史はすぐに距離を詰めてきた。
午後の明るい日差しの下で見る零史は、見た目は鮮やかな美貌で、ラフなジャケットとスラックスの組み合わせの姿はそこだけ空気が違って見える。
ところがそこで思わぬことが起こった。
「あれ、おまえは……」
「さ、沢村さん!」
なんと目の前の男が零史を見るなり怯んだのだ。
沢村さんって、零史のことか。
「倉持、だったか。こんなところで……」
零史は倉持と呼ばれた男と橘や僕、そして接触したままの車を見回すと、どこか腑に落ちたような、けれども苦々しい顔をした。
「あ、あの。こちらは沢村さんの……?」
どうやら力関係がはっきりした間柄のようで、零史の不機嫌な気配を嗅ぎ取った男の態度が露骨に変わる。
「彼はうちのオーナーの……特別な相手だ。見たところぶつかったようだが、この状況だとお互い動いていたようだな」
「あ、はい。その……」
「お互い出ようとした、そうだな?」
「は、はい」
「ではお互い様ということだ。いいな」
「いや、沢村さん」
「おまえのところの上司には連絡しておいてやる」
それを聞くと男はホッとした顔になり、「わかりました」と頭を下げた。そして橘に向かって横柄に言った。
「しょうがねぇ。保険屋に連絡だ。おまえ、すぐサツに行って物損で届けとけや」
「あの、まずはここで警察に連絡を……っ」
事故の場合、保険を使うなら警察署に届けなければいけない。相手側に不安がある場合は特に重要で、その場で警察を呼ぶのが安全対策の基本である。
しかし零史が遮るように手を振った。
「このくらいの事故で警察は来ない。動けるなら来いと言われるだろうな。倉持、連絡先だけ教えてやれ。後は保険屋がやるだろう」
「……はい」
倉持と呼ばれた男は渋々といった顔で橘に電話番号を告げ、ちょっと不満の残る視線を僕たちに投げてから、もう一人の男と連れ立って車に戻った。そして橘が警察署に電話をしている間に、マフラー音を響かせて駐車場から出ていった。
電話を切った橘が大きく深呼吸し、僕に報告した。
「通報できました。これから警察署に来てくれとのことです。それであの」
僕は橘が言う前に申し出た。
「僕たちのことなら気にしないでください。駅で下ろしていただければ電車でもそうは遅れません」
橘は「すみません」と頭を下げたあと、僕の向かいに立つ零史に深く頭を下げた。
「あの、沢村さん。ありがとうございました!」
零史は端正な顔に笑みを浮かべて答えた。
「たまたま彼らの上司と顔見知りだったからね。たいしたことじゃない。でも和巳の役に立ててよかったよ」
……その上司とやらの職種って。
親しげに微笑まれて背筋に悪寒が走る。しかし事情を知らない橘は感動したようにこぼした。
「ほんとに助かりました。それにしても、和巳君の関係の人は美形さん揃いですが、こんなにスゴい人がまだいたんですね!」
「ほう。それは和巳の父親のことかな?」
「はい。そうです」
橘はやっぱり知り合いなんだと安心した顔で続けた。
「いつも目に痛いほどで。あ、もちろん沢村さんも負けていないです」
「それは大袈裟だ。私はあいつほど飛び抜けてはいないよ。せいぜい雅俊の次くらいだろう」
嘘をつけ。拓巳くんのことはともかく、俊くんにはこれっぽっちも思ってないだろう。
しかしそれを聞いた橘はさらに親しげになった。
「皆さんのご友人でいらしたんですね。お会いできてラッキーでした。上司に報告して、改めてお礼に伺います」
橘が再び頭を下げる。僕はそのときの拓巳くんたちの剣幕を想像して身震いした。
橘さん。そのことについては後ほど沖田さんと三人で打ち合わせましょう。でないとあなたが地獄を見ますよ……。
そんな心境を見透かされたか、零が僕に口元で笑ってから橘に言った。
「それには及ばないよ。お礼ならそれこそ和巳と拓巳にしてもらうから」
げっ、冗談! ……じゃなさそうだ。
張りつけた笑顔が一瞬、崩れかける。しかし橘は恐縮しながらも頷いた。
「そんな。でもきっと沢村さんにはそのほうが嬉しいですよね」
そんな恐ろしいセリフはやめて……。
だんだん笑顔が持たなくなってきたとき、後ろから控え目な、しかしはっきりとした声がかけられた。
「すみません。お話途中ですがよろしいでしょうか」
「稜先輩」
相手の車が去ったので出てきたのだ。
見ると彼女の後ろに隠れるようにして、セラが青ざめた顔でこちらを見ている。その怯えた表情に僕は思い至った。
セラさんは覚えてるんだ。零史を。
あの拉致事件のとき、セラが零史を見た時間は僅かだったはずだ。しかし抜きん出た容姿を持つ男だけあって、記憶に焼きついていたのだろう。
それに対し、稜先輩は戸惑った顔をしている。おそらくはセラが理由を伏せているので状況がわからないからだ。
しかし彼女は僕と目が合うと、眼差しを鋭いものに変えて零史を見、少し顎を引いてから橘に言った。
「申し訳ありません。車のことが決着したようでしたので。そろそろここを出ませんと先生のお時間がなくなります」
さすが稜先輩。すべては把握していなくても、この場の空気ですぐに何かを読み取ったらしい。
「あ、そうですね。それじゃあ沢村さん。ありがとうございました」
名残惜しげに橘が頭を下げ、僕も一応それに倣う。すると零史が橘に言った。
「橘君と言ったか。君は和巳たちを迎えに来たようだがGプロのスタッフか?」
「はい。そうです」
「だったらスケジュールの調整で忙しいだろう。私が彼らを送っていくから、君はすぐに警察署に向かいなさい」
「「えっ⁉」」
あちこちから(むろん僕の口からも)声が上がったが、次に続いた言葉にかき消される。
「いいんスかっ! 」
ガバッと顔を上げた橘に、零史はここぞとばかりの爽やかな笑みで頷いた。
「他ならぬ和巳のことだからね。これで手を貸さなかったら拓巳に文句を言われる」
どんな文句だ!
と叫んで阻止したかったが、この場でそれを言ったら橘にはさぞかしおかしく感じられるだろう。僕としても、零史との間に起ったことをここで暴露するような肝の太さは残念ながらまだ持ち合わせていない。
言葉を探すうちに橘が答えてしまった。
「あ、ありがとうございます。でも、行き先が港区方面なんです。沢村さんのご予定は大丈夫ですか?」
窺いながらも言葉に期待が込められている。零史は鯛を釣り上げた釣師のような笑みで答えた。
「私も東京に行く途中だったんだ。じゃ、話は成立だな」
「本当にありがとうございます。和巳君、これで予定時刻に間に合いますよね」
よかった~と胸に手を当てて安堵され、何も言えなくなる。
「俺も会社に電話してからすぐに警察署に向かいます。終わり次第、沖田さんに連絡入れますんで」
「では、君たちは私の車のほうに来てもらおうか」
指差した先には、店舗の側面に位置する駐車場に、ひと目で高級車とわかる白いセダンがある。
さあ、と促されて僕たちが足を向けると、明るい表情になった橘はすぐに電話を取り出した。
会社への報告。社長に話がいけば、或いは。
後藤社長には高橋要にまつわる事件を詳しく説明してある。橘の報告でトラブルがあったと気づいてくれるかもしれない。しかし。
「そこで足を止めると、気になって電話がかけづらくなってしまうぞ」
耳元でささやかれ、僕はギョッとして一歩離れた。
たとえ社長が気がついてくれたとしても時間がかかる。まずは自力でなんとかしないと。
「いいのか? 急がないとそちらのお二人の時間がなくなるんだろう?」
「今から駅に向かえば充分、間に合います」
「歩いてか? 橘君はさぞかし驚くだろうな」
鼻であしらわれて敗北を悟る。
隠すなら、すべてを封じ込めて演じ続けなければならない。
零史が口の端で笑った。
「見たところ、彼は付き人向きではないな。君の緊張した様子にとうとう気づかなかったし」
そして白いセダンの前で足を止め、スイッチで鍵を開けると、僕の後ろにいる稜先輩を見た。
「こちらの先輩のほうがよほど君のことをわかっているようだ」
先輩が傍らのセラを庇うようにして背筋を伸ばす。零史は薄く笑った。
「彼女のほうは、君をただの後輩とは思ってないようだが」
稜先輩は一瞬、目を眇めたが、詮索を跳ね返すように答えた。
「お父様からも託された大切な後輩ですので」
「ほう、拓巳のね。なるほど、それでそちらのセラさんとご一緒だったのか。父親と祖母のお墨付きというわけだ」
「……っ」
やっぱり零史もわかっていたか。
セラが気づいたとなれば、当然、零史にも同じことが言えるわけで、しかも続柄まで知っているとなるとこれはもう確信せざるを得ない。要から説明があったのだ。
まさかコンビニいたのは偶然じゃなくて、この申し出も僕じゃなくてセラさんが目的……!
思わず零史を凝視すると、彼はくっきりとした二重切れ長の瞳に妖しい光を宿しながらはぐらかすように言った。
「たいそう信頼の厚いお嬢さんだ。雅俊の顔が見たいものだな。なぁ、和巳?」
僕は無視することで平静を装った。
「橘さんが気にしていますので失礼します」
助手席のドアノブに手をかけ、先に乗り込む。後ろにセラと稜先輩が乗り、運転席に零史が納まる。彼はエンジンをかけながら聞いてきた。
「さて、港区だったか。行き先は?」
「…………」
僕が押し黙ると、零史は返事も待たずに車を発進させた。
「さしずめテレビ局か。近くになったら指示してもらおう」
思いっきりバレている。
ここまでくると隠しても意味がない。僕は渋々目的のテレビ局のあるビルの名を口にしながら、この先をどうするか頭をフル回転させた。
とにかく二人をここから遠ざけねば。
「先輩とセラさんには別の用事があるので、途中で降ろしてください」
「場所は。一緒に行こうとしていたくらいだ。近いんだろう? 君を送ったら回ってあげよう」
「いやに親切ですね。疑いたくなりますよ」
「おやおや。人の好意を無にするのはよくないな。自分に跳ね返ってきてしまうぞ」
「………」
さすがに僕ごときが言葉で押し通すのは難しい。でもここは踏ん張らないと。
「戯れ言はいいです。とにかくセラさんたちを」
「い、いいのよ和巳」
後ろから細い声が割って入った。
「時間が、なくなってしまったわ。早く行きましょう。皆さんも待っているでしょう?」
「セラさん、でも」
助手席から後ろへと振り向くと、運転席の後ろから身を乗り出したセラと目が合った。
彼女の青みがかった薄茶の目が『一人になってはだめ』と訴えている。
「か、買い物は、和巳の仕事先のところでもできるもの。そうよね?」
セラが隣を見上げると、稜先輩は僅かに目を見開き、次いで「はい」と頷いた。
どうやら『用事』の内容を、世田谷校舎から買い物にすり替える作戦らしい。
「港区でもご案内できます。ご心配でしたら一旦、お父様方と合流するのもいいかもしれません」
「合流……」
先輩に目を向けると、拓巳くんに似た切れ長の目にも強い光が浮かんでいた。
「事故のことで報告が行くでしょうから、そのほうが安心でしょう。先生のご用件はなんとかなりますから」
(危険な相手なのでしょう。先生とあなたは皆様のところに避難するのよ!)
はい。ごめんなさい。
僕は気圧された体で頷いてから顔を戻した。
そうだ。タワービルの駐車場はいつも混んでいる。駐車場に入る前に降りればいい。
「では、寄り道はなしで」
そんな僕の返事に、零史は小馬鹿にしたような笑みを浮かべて「了解した」とハンドルを切った。
微妙な空気が漂っている間に車は環状線を走り抜け、僕の知らない裏道を通ってテレビ局のある港区の観光名所に近づいた。その淀みないハンドルさばきから、彼が都心や周辺地域の道に慣れているのだと知れた。
そうして目的のテレビ局のあるビルが間近に迫り、そろそろどこかに幅寄せしてもらおうと考え始めたそのとき、ふいに零史がハンドルを切り、小さなビルの駐車場ゲートに入った。
えっ。なんだ!
驚いて横を向くと、車を止めた零史が窓を開け、ビルの守衛とおぼしき制服姿の男と言葉を交わしている。
まさか。こんな一等地にまで要の関係するビルがあるとか。
よほど青い顔をしていたのか、そのまま地下駐車場に進んで奥まった位置に車を停め、「さあ、降りてくれ」と外に出た零史は、のろのろと車から降り立った僕に近づくなり吹き出した。
「なんて顔をしてるんだ。本当に君はかわいいね。心配しなくても取って食べやしないよ。今日のところはね」
「っ、じ、冗談は」
「冗談と思うか?」
「……、……」
言い返したいのだが、顔を近づけられて舌が思うように動かない。すると目の前に細い腕が突き出され、稜先輩の凛とした声が割って入った。
「失礼。少々離れていただけますか」
零史はややのけ反りながらも楽しげな声を出した。
「おや、焼きもちか。やはり君は雅俊のライバルだったわけだ。和巳も罪な子だね。私もおちおち構えてはいられないな」
過去を暴くようなセリフに動揺が静まらない。しかし先輩は震える僕の肩をつかんで零史から下がらせると、間に立ちはだかるようにして傲然と答えた。
「それは私も同感です。蒼雅先生ならまだしも、あなたに遠慮する気はありません。今日は送っていただいてありがとうございました。では失礼します」
そして僕とセラの背中を押すようにして入ってきた方向に足を踏み出した。しかし。
「私の顔なくしてこのビルから出られると思っているのなら、所詮は学生だな」
「―――」
先輩と、そして僕もセラも足を止め、零史が再び僕の前に歩み寄った。
「せっかく観光スポットの近くに来たんだ。車の礼にお茶をご馳走になろうかな」
「和巳君は仕事のため急いでいます。それでは意味がないでしょう」
「君は黙っていなさい。私は和巳に聞いているんだよ」
零史は鋭い口調で答えてから僕を見据えた。
「前回は、わざわざ君から訪ねてくれたのに、あのあとは結局、話もできなかっただろう? その後もなかなか訪ねてこないし」
やっぱり出してきたな。
それは去年の夏の終わりに乗り込んだパーティーのことだ。
有坂という、要のお得意様の持ちビルで開かれた、誠竜会なる暴力団の違法取引を隠すためのパーティーで、僕たちはお互いの目的――僕は亜美を会場から逃がすため、零史は僕を捕らえて要に捧げるため――を腹の中に隠して対峙したのだ。
結果として、僕は零史に追い詰められながらも、変装技を駆使した俊くんたちのお陰で目的を達することができた。あのとき零史は釈然としないものを感じていただろうが、祐さんの叔父である井ノ上財閥会長が同行していたために手出しを控えざるを得ず、さぞ歯がゆい思いをしたことだろう。それを晴らそうとしているのは充分に考えられる。
僕は慎重に答えた。
「ええ。あなたがいかに油断ならない方かを学ばせていただきましたので、迂闊に訪ねることができなくなりました。お陰さまで雅俊さんを狙っていた犯人も見つかりましたし」
「目的が叶ったらご用なしか。つれないね。事後処理でけっこう大変だったんだけどねぇ」
含みを持たせた言い方が思わせ振りで気になる。
まさかあのときの俊くんたちの変装、バレてるんじゃないだろうな。
「君がそういう態度なら、なおさら今日の恩は今日返してもらわないとね」
「…………」
「橘君の運転よりは、ずいぶん時間を稼げたと思うが?」
畳みかけるように言われ、僕は緊張を隠すようにポケットのスマートフォンを持ち上げた。時間を確認すると、確かに予定の時間より二十分ほど余裕がある。
仕方がない。何か目論見があるのだとしても、まずはここから出ることを優先しよう。
「わかりました。職場には少し遅れてしまいますが、お礼にお付き合いします」
「和巳」
横目に映るセラと稜先輩が表情を強張らせる。どこか勝ち誇ったような零史に僕は「ただし」と付け加えた。
「外に出たら一旦、上司に連絡させてください」
「ほう」
「でないとお茶が出る頃には捜索騒ぎが起きかねません。僕は何かとトラブルに巻き込まれることが多いので、心配性な上司から色々な保険がかけられているんです」
ちゃんと返さないとあちこち連絡が飛ぶぞ。
言外に伝えると、零史は肩を竦めた。
「いいだろう。では行こうか」
彼は僕たちをビルの中に通じるエレベーターへと導いた。
そのまま上階のどこかへと連れ込まれる可能性を疑わなくもなかったが、零史は言葉を違えることなく一階のロビーで降り、入り口の受付カウンターの手前で「ちょっと待っていなさい」と僕たちを止めた。そして先に進んで黒スーツや色ジャケットの男たちとしばらくやり取りしてからこちらに合図をよこし、彼らに見送られる形でガラスドアを抜けた。横目に見るまでもなく、並んで頭を下げた面々の風貌には共通の危うさが滲んでいた。
まさか。このビルも有坂の持ち物――誠竜会絡みとか。
思ったよりも危険な状況かもしれない自分たちの立場に背筋を震わせながら、僕たちは黙って零史のあとに続いた。
ビルの裏通りを進んでいくと、突き当たりに目的のタワービルの賑やかな通りが見えてきて、健全な世界との距離の近さに僕はホッと息をついた。
あそこまで行けば、ビルの裏にある専用ゲートはすぐだ。
しかしそこまで考えてハタと僕は気がついた。
しまった。テレビ局に入るにはあらかじめ許可証がいる。セラさんと先輩の分をどうにかしないと合流できないじゃん!
Gプロビルなら僕の顔でも二人くらいは通してもらえるが、セキュリティの厳しいテレビ局ではさすがに無理だ。出演者の関係といえどもいきなりとなると、顔が利くのはプロデューサーかディレクターくらいだろう。だとすると。
沖田さんに連絡して、今日の番組プロデューサーに許可をもらうしかない。それもなるべく早く。
「すみません。連絡を取らせてください」
僕はすぐに足を止め、セラや先輩に頭を下げてから零史の返事を待たずに沖田さんへと電話をかけた。しかし。
――出ないか。
今は収録中だ。当然、マナーモードになっているはずだし、僕からの連絡ということで緊急性を読み取ってくれても、すぐに出られるとは限らない。
「上司も仕事中だろう。出ないなら先に喫茶店に入ろうじゃないか。幸い近くに手頃な店を知っている。こっちだ」
知っているとかいって、またヤクザ絡みの建物のテナントとかじゃないだろうな。
『偶然だが、私も東京に行く途中だったんだ』
もしかしてあっさり運転手を買って出たのは、そういったビルに行く予定があったからチャンスと思ったのもしれない。
「ちょっと待ってください。もう一度かけてみます。駄目なら別のスタッフに」
零史は口元で笑った。
「スタジオ収録中では、そもそも電波が通るかわからないんじゃないのか?」
その可能性も高いよ。ちくしょう。
「メールでも入れておけばそのうち受信するだろう。裏通りとはいえ、こんな場所で立往生は感心しないな。ほら、私の護衛役が心配そうにしている。時間がかかるならビルに戻る手もあるぞ」
「なっ………!」
慌てて振り向くと、先ほどカウンターで見かけた色ジャケットの男が二人、ビルの角からこちらを見ている。一人は白、もう一人はキャメル色だ。
ビルのカウンターにいた男か!
「すぐですからっ!」
広田なら出てくれるかもと焦ってスマホを握りしめると、後方から突如、ブォォォンと爆音が迫り、次いでギュギューッ! とタイヤを鳴らして大型バイクが突っ込んできた!
「………っ!」
咄嗟に後ろの二人を庇うように両手を広げて下がると、黒銀の大型バイクは狭い歩道の脇に引かれた白線ギリギリのところで煙を立てて止まり、大柄なライダースーツの男がヘルメットを取った。
引き締まった長身の姿に思わず声が上がる。
「祐さん!」
彼は額にかかる黒髪をかき上げながら、鋭い目線で僕たちを見た。
「和巳。無事か」
なんで僕の状況を、という疑問は次のセリフで払拭された。
「Gプロから緊急連絡が来た」
「Gプロから」
きっと社長だ。
橘から事故報告を受けた後藤社長が、滅多に聞くことのない『拓巳さんの友人』に違和感を覚え、僕と同じ時間帯に到着する予定だった祐さんに確認してくれたに違いない。祐さんは真嶋さんとともに常から高橋要のことを調べている。当然、零史の名字も知っていただろう。
「会議中は外部からの連絡には応じないんだが、早川が代行してくれたお陰で間に合ったようだ」
「早川さんが」
わざわざ便宜を図ってくれたということか。
どうしよう。また借りが増えてしまった。
僕の顔を見た裕さんが言った。
「おまえが早川のことで何か思い煩っているのはわかっている。だが今は腹をくくれ」
「祐さん」
彼は宥めるような目で僕を見てから後ろの稜先輩に目を留め、そして零史を見据えた
「身内が世話になったようだ。礼を言う。この先は引き取ってもらおう」
零史は目を見開いてしばらく無言でいたが、やがて笑いながら声を張った。
「これはこれはユージ! まるでアクション映画のワンシーンを見るような登場だ」
舞台俳優のセリフにも似た大仰な言いまわしに道行く人々がこちらを見る。祐さん相手では不利とわかっていて、気圧されまいと虚勢を張っているのかもしれない。
「せっかくだけど礼には及ばないよ。和巳がお茶をご馳走したいと言ってくれたのでね。君は撮影か? 忙しいなら行ってくれ」
そんなことひと言も言ってない!
抗議しようと口を開きかけたが、遮るように零史は続けた。
「なに。そう時間は取らせないさ。君たちがすぐ側にいることだし。せいぜい三十分ばかり付き合ってもらうだけだ」
「ふざけるな。あんな連中を引き連れておいて誰が信じるか」
祐さんは男たちが潜む方角に鋭い目線を走らせた。
「事を荒立てたくなければこのまま帰れ」
黒いライダースーツの背中から静かな怒りが吹き上がる。しかし零史は妙に余裕のある顔であしらった。
「おやおや。そんな風に声を荒らげていいのか? こんな場所では誰が何を発信してしまうかわからないよ?」
その言葉にハッと周囲を見ると、人々が足を止めてこちらを見ている。中には隣の人に囁いている姿も見える。
………こいつ、ワザとか!
どうもさっきから声が大きいと思ったら、これが目的だったのだ。
徐々に集まる人の間から「あれ、ユージだ」「T-ショック?」「ほら、タクミのハンドの……」など声が上がり始め、僕は状況の危うさを悟った。
だめだ。悔しいけどこれ以上、注目を集めるのはまずい。
裏通りなのでこれで済んでいるが、すぐ先の表通りには比べ物にならないほどの人が集まっているのだ。
僕は素早く祐さんに走り寄った。
「祐さん。ここにいてはまずいです。行ってください」
「和巳」
「僕は大丈夫。それより危ないのはセラさんです。零史はセラさんを待ち伏せしていた可能性があります」
祐さんはピンときたように目を光らせた。
「大学か」
「はい。零史が直接となると稜先輩だけでは危険です。彼が猫を被っているうちにスタジオへ合流したいんですが、沖田さんと連絡が取れません。すみませんが一刻も早く行って、二人の許可証を手配してもらうよう伝えてくれませんか」
「……今からだと三十分はかかるぞ。それよりここで決着をつけたほうがよくないか」
「あとのことを考えると。喫茶店なら人目もありますからなんとかなります。けど祐さんがここで騒がれたら画像が出回ります。セラさんの姿も写り込んでしまう」
そうなったら後々どんなことに発展するのか予想もつかない。
「その可能性を消さないと合流できません」
「……そうだな」
祐さんは一瞬、考えを巡らせるように俯くと、すぐに素早い動作でヘルメットを被り、ハンドルを握り直した。
「店に入ったら場所を知らせろ。迎えをやるから絶対に動くなよ」
「わかりました。拓巳くんには、ちょっと遅れるけどすぐに行くから収録頑張ってと伝えてください」
祐さんは頷くと、大型バイクを軽々と操ってテレビ局があるビルのほうへと去っていった。
そうして僕たちは零史に従って表通りを通過し、目的地である巨大タワービルの敷地に到着したにもかかわらず、その一角にある洒落た喫茶店の隅っこで、零史と向き合いながら沖田さんが持ってくるはずの許可証を待っているというわけだった。