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楽聖たちの思惑

                 


 ()洒落(じゃれ)たリビングセットが置かれたスタジオに入ると、忙しなく行き交うジャンパー姿のスタッフをバックにして、愛嬌あるタヌキ目の男がシナリオらしき紙の束からパッと顔を上げた。

「拓巳くん! いらっしゃい。今日はよろしくね!」

 満面の笑みを向けてきたのはこれから収録する音楽番組〈コースケ音楽堂〉の司会者、お笑い芸人コースケこと藤沢(ふじさわ)(こう)(すけ)だ。

 拓巳は早くも(きびす)を返したくなったが、後ろから続く雅俊やマネージャーの沖田智紀、付き人の広田に押される形でスタジオの中へと足を踏み入れた。

「いや~、ウチのスペシャル企画で拓巳くん久々のソロを披露できるなんて。おまけになんとなんと」

 ササッと寄ってきたコースケが、すかさず脇に置かれた待機用のパイプ椅子に雅俊ともども座らせる。立ったままだと逃げられやすいので用心してのことだろう。

「亜美ちゃんとセイくんのコラボとバッティングできるなんてね!」

 光栄だナ~、と鼻唄混じりに言われ、内心でムカつく。

 だからヤなんだろうが……。

 しかしいつものように不機嫌オーラを垂れ流すわけにはいかないのが、今の拓巳の悩みだ。

 なぜなら……。

「拓巳さん。今日は、よ、よろしくお願いします」

 先に入っていた後輩シンガー、柳沢亜美がすぐさまパタパタと駆け寄り、ぎこちない仕草で小さな頭をペコリと頭を下げる。

 こいつの前であんまオトナげない態度は見せられない……。

 ――からだ。

 亜美も拓巳と同じくコミュニケーション能力に難があり、表情筋が発達不足で体も喘息発作のリスクを背負っている。が、やはり事情があってアイドル歌手になり、たぐいまれな歌唱力で人気を得た。Gプロに移籍してきてからは欠点を克服しようと努力しているが、ストイックな性格が災いして周囲から浮いている。そして似たような苦労を背負う拓巳をいつのまにやら歌の師匠と仰ぎ、弟子のごとく模範にしているのを知っているので、ついつい体裁を保ちたくなるのだ。亜美を気にかけているというよりは、同族意識のようなものだろう。

 拓巳が鷹揚に挨拶を返すと、彼女はファンたちに美少女と形容される幼顔にホッとした笑みを浮かべ、雅俊に向けてやはりぎこちなく、しかしこちらへは幾分、(かしこ)まった挨拶をした。

 いまだ緊張を隠せない様子に雅俊が苦笑して挨拶を返すと、亜美は後ろから近づいてくる男に場所を譲るようにして拓巳の背後に立った。いつもは和巳が場を占めるその位置に立たれるのはあまり嬉しくないが、雅俊のほうには広田や亜美のマネージャーの横澤が拓巳に遠慮するようにして場を埋めているので仕方がない。

 今日の大学の講義は二時までだったか……。

 迎えに出した橘が渋滞に巻き込まれずに帰ってこれたとしても、ここに和巳が到着するのは三時近くになるだろう。それまでの約一時間半。果たして耐えられるのか。

 拓巳がそう思う原因の男――恍星改めセイ・シュナイダーが、こちらはイケメン俳優と肩を並べる端整な面立ちに、爽やかな笑顔を浮かべて声をかけてきた。

「よう。直接会うのは三週間ぶりだな。調子はどうだ」

 相変わらず完璧な外ヅラのよさだ。

 彼は無言でいる拓巳に苦笑すると、広田が雅俊の隣に持ってきたパイプ椅子に礼を言って座り、切り替えるように雅俊を見た。挨拶を無視した拓巳の態度に広田はピクリと顔を強張らせたが、雅俊がすぐさま目線でそれらを宥めたのがわかる。

 当然だ。セイも拓巳の無反応には慣れている。どれほど年月が経とうとも、今さら拓巳に愛想など期待しないだろう。それでも笑顔を保てる(はがね)の精神を持っているのが()()という男なのだ。

「ぼちぼちだ。まだ完璧とまではいかないがな」

 雅俊が愛想よく応じると、たちまち二人の間で音楽談義の花が咲きだした。

「そりゃそうだろう。あそこまで音数(おとかず)を増やしたらどうしたってボーカルに余裕はなくなる。ピアノと違って声は人間が出すんだからな」

「バカいえ。あのぐらい、拓巳の実力なら範囲内だ。本気になればあんなもんじゃない。ようは練習不足なんだよ」

「おまえの作曲力ならクオリティを変えずに歌いやすくアレンジできるだろうに。歌い手に気を使うのもプロの仕事だぞ」

「それはボーカルの才能に失礼だろう。前よりも高いクオリティが出せると信じているから最高のものを求めるんじゃないか」

 ……キリがねぇ。  

 それでなくでも現場は分刻みで動いているというのに、こいつらときたら顔を会わせた瞬間からいつもこれだ。前回もこのせいでスタジオ練習が延びに延びたのだ。

 まあ、雅俊には自分に遠慮なく音楽を語ってくれる相手がなかなかいないから、無理もないんだがな。

 同じ畑の住人同士で持論をかますのは楽しいんだろうが、こっちにも限度があるのだ。

「まあまてよ。中間に差しかるフレーズのシャープ。あれをだな」

「だめだ。あの音をなくしたら余韻が」

「いい加減にしろ。時間が惜しいんだろうが。周りが困ってんぞ」

 拓巳がサングラス越しに睨みながら言うと、二人はハッと周囲を見た。 

「いや、ごめん。つい」

「悪い。リハーサルの準備、できたのか」

 セイがやや赤面し、雅俊が沖田や横澤の困り顔に気づいてパッと立ち上がる。

 いつになくおどけた仕草にスタッフたちも笑いを誘われ、「困るよも~。でも雅俊くんがノリノリだからいっか。ね、みんな!」 などとコースケが盛り上げてスタジオにヤル気に満ちた空気が生まれる。バックバンドのメンバーもGプロで揃えたので、スタジオ内の一体感がいつもより強い。

 立ち上がったセイが亜美に話しかけるのを横目に見た拓巳は、思いとは裏腹に進む現実にため息をついた。

 曲がソロに変更されてからはや二ヶ月半。

 雅俊の脳ミソは完全にソロへとシフトし、〈T-ショック〉のアルバム製作を一旦、休みにして打ち込んだ結果、この夏に三曲を収めたマキシシングルが出されることになった。〈タクミ〉としては八年ぶりのシングルである。

 といっても製作メンバーは同じで担当スタッフも変わらず、しかも伴奏にアコースティックギターバージョンを追加して祐司も参加しているので、ソロにする必要がどこにあるのかがいまいちわからない。

 一度だけバンドで出せよと雅俊に抗議してみたのだが、ヤツに言わせると「どう聴いたってこれは〈T-ショック〉の音楽じゃないだろ」なのだそうだ。納得できなかったので和巳にグチったら「そこはファンのためにも理解してあげて」と諭されてしまった。祐司すら「まあ、そうだな」と肯定するのでそうなのだろう。

 拓巳がソロを苦手にする理由はなんといってもすべてが自分の名前で進むからだ。

 宣伝、ゲスト出演、インタビューなど、あらゆるニガテ要素が大挙して押し寄せてくる。むろん可能な限りは雅俊に応対させるのだが、それでも最低限の企画はこなさなければならない。

 その最低限のひとつが音楽番組の出演――すなわちコレである。

「じゃ、今日はよろしくお願いします!」 

 こちらに歩み寄るディレクターのかけ声が響き、コースケが「よろしくお願いしますっ」と会釈する。拓巳も雅俊に促され、渋々立ち上がって頭を下げた。

 今日の〈コースケ音楽堂〉の収録はいつもと違い、年に二回行うスペシャル版だ。

 普段はトークと演奏二曲程度の三十分番組で、放送時間も金曜の夜十一時半からという小さな番組だが、スペシャル版は十時からの二時間放送で、内容は半分が過去の放送からの抜粋、残り半分は複数のゲストを招いてのトークや演奏になる。

 前からオファーを受けながらも長いのがイヤで回避していたのだが、今回は間が悪いことにあの難曲が出来上がったところだったため、雅俊が「曲の紹介にもってこいだ」と話を進めた。他の番組に出るよりはましだろうと言われ、そのとおりなので仕方なく拓巳も承諾した。

 するとそのあとで二組目のゲストが亜美に決まり、こちらはすでにテレビCMで流れはじめたコラボの曲を歌うということで、セイまで一緒にくっついてきた。いつもならこの時点でボイコットに走るのだが、それだと亜美まで責任を感じることになりかねないので、他にもゲストはいるはずだと自分を抑えた。

 そこに余計な采配をしたのがコースケである。

 彼はセイが自分と同郷で、しかも雅俊の同窓生であることを知ると、

「だったらいっそこの顔ぶれでまとめちゃおうよ!」

 とほかのゲストを入れるのをやめ、亜美と拓巳のソロを二曲ずつと、セイの本業であるピアノソロ、そしてコースケが話を聞きつけて『僕も聞きたい!』とリクエストしたセイと雅俊のピアノ連弾にしてしまった。

 拓巳にとっては予想外の展開である。

 そんな話は聞いてねぇ! とゴネてみたものの「おまえの伴奏に祐司を呼んでやるからハラをくくれ!」と一蹴され、セイが国内外を行き来するのに合わせて打ち合わせが進んだ。それでも毎回顔を会わせるのは気詰まりで、合同練習をたびたびサボった結果、リハーサルと収録を午後から夜まで使って一気にこなすという、長いスケジュールになったのだ。

 ピアノの位置確認のために雅俊とセイが呼ばれると、隣に残された亜美が拓巳におずおずと話しかけてきた。

「あの、し、質問してもいいですか?」

「なんだ」

「拓巳さんも、シュナイダー先生の、昔からのお知り合いだと伺って……」

「……まあ、そうだな」

 一瞬、眉根が寄り、慌てて縦ジワを戻す。自分でもよくないとは思うのだが、どうにも感情が逆立たずにはいられない。

 だいたいシュナイダーってなんだよ。日系ドイツ人とか絶対ウソだろ。胡散臭(うさんくさ)さマックスじゃねーか。

 とはいえそこは雅俊から『小さい頃に亡くなった母親がドイツ人の血を引いていて、苦労したようだ』との説明を受けているので、疑っているなどと大きな声では言えない。

 まあ、日本人が外国で暮らすにはいまだに偏見があるらしいから、遠縁だろうが偽名だろうが使える物は使うだろうし。昔だって別にあいつが悪いことをしてたわけじゃないのにな。

 わかっているからこそ、後輩の前だからと自分に言い聞かせ、この場から逃げ出さずにいるのだ。

「……先生は、あまりご自分の考えを言わない方なんでしょうか」

 ポソリとこぼれたセリフが聴覚を刺激し、拓巳は思考回路を現場へと戻した。

「どうした」

 サングラスの横から亜美を覗き見ると、彼女は不安げに目を伏せた。

「今度の曲……私、ちゃんと歌えてるのかわからなくて……」

 亜美は歌の才能に恵まれているが、それに奢ることのない努力家である。自信のなさから来ると思われるストイックな練習はGプロでも有名で、レコーディングが毎回一発で決まることで実力の高さを証明している。まだ発売日の前ではあるが、すでに売り出しに入った段階での物思いは珍しい。

「なんでそう思う」

 亜美は言葉を選ぶように目線をさ迷わせた。

「曲がとても素敵なので……、あの、ピアノの音に、」

 そのひと言で拓巳はピンときた。

 セイも亜美のボーカル力を高く評価したらしく、間奏のピアノソロのレベルが半端ない。至近距離での演奏についつい耳を奪われ、拓巳でも正直、心を保つのが厳しい。

「引きずられそうか」

 亜美はハッと顔を上げた。

「わかる。俺もだ」

「拓巳さんも?」

「雅俊のピアノに毎回持ってかれそうになる」

 亜美は首を傾げた。

「そんな風には見えません」

「だが雅俊にはバレてる。おまえだってスタジオで俺たちのやり取りを聞いてるだろうが」

 勉強熱心な亜美は雅俊の許可のもと、スタジオ練習で時間が空いたときは可能な限り見学しているのだ。

「あれは、マースさんが厳しいから……私にはどこが悪いのかわかりませんでした」

「だったらおまえも同じだ。ヤツがどう考えてるかは知らないが、俺にはおまえの歌は悪くないように感じた」

 すると亜美はこぼすように言った。

「マースさんは厳しいけど……思ったことを伝えて、よりよい曲になるよう目指しています。でも……」

「セイはそうじゃない、と」

「………はい」

 亜美が力なく頷く。拓巳にはセイの意図が透けて見えた。

 あの男はそつがない。仕事仲間には紳士的に振るまい、上機嫌にさせて成果を上げるタイプだ。普通のアイドルには効果的なやり方だろう。しかし亜美はストイックで、しかも拓巳に対する雅俊の指導を見ている。引きずられて歌詞に集中できないときがあるにもかかわらず、注意されないことが逆効果になったわけだ。

「注意したいところが色々あるはずなのに……言ってもらえないのって辛いです」

 ポソリとつけ足され、拓巳は椅子に戻りたい気持ちを横に置いて話に向き合った。

「それ、あいつに言ってみたか?」

「はい。でもいつも『大丈夫。問題ないよ』って言われるだけで」

 亜美はしょんぼりとうなだれた。

「本当のことを言ってくださってるように思えなくて……」

 まあ、こいつならそう感じるだろうな。

 そしてセイのような男は亜美ほどのレベルなら、多少の引っかかりを感じても妥協して、楽しい雰囲気で仕事することを優先するだろう。同じくスペシャリストではあっても、すべての音楽に真摯な雅俊とは違い、所詮はアイドル歌手の曲だと割り切ることができるのだ。

 でなかったらその昔、(かなめ)の店なんぞで稼げるわけがないからな。

 それが拓巳の根底にある、セイ――荻原恍星へのぬぐい去れないわだかまりだ。

 よほど険しい顔でもしていたのか「あの……?」と不安げな声をかけられ、拓巳はハッと我に返った。

 だからよせって。過去のことでセイを図るのはフェアじゃない。亜美を混乱させるだけだろうが。今はこいつにどうしてやれるかだ。

 拓巳はしばらく考え、そして亜美に言った。

「このあとおまえたちが先にリハだろう。もし今日もおまえが気を取られていて、セイが注意しないようだったら言ってやる」

 亜美がパッと背筋を伸ばした。

「いいんですか?」

「ああ。まあ、俺が気づかなくても雅俊がわかるはずだから、意見することはできるだろう」

 拓巳がそこまで言ったとき、トーク用セットの隣に設置された演奏スペースのほうから「亜美さーん! やりますよー」とを呼ぶ声がした。

「……あのっ、ありがとうございます」

 亜美は頬を紅潮させ、泣き笑いのような笑みで頭を下げてから、こちらに戻ってくる雅俊と入れ違うようにしてピアノのほうへと向かっていった。

 隣に立った雅俊に亜美の話を伝えると、彼は顎に手を当てた。

「ああ確かに。前にちょっと覗いたときにおれも引っかかった。そうか。亜美は気づいていたか」

「じゃ、言ってやってくれよ」

「それはできない」

「ぁあ?」

 拓巳は思わず眉を跳ね上げて雅俊の顔を見た。

 俺には言いたい放題のクセに!

「な……、」

 んでだよっ! と続けようとしたが、察した雅俊に『しっ!』と指を唇の前に立てられた。

「恍……セイにはセイのやり方があるんだろう。あいつもプロだ。なまじ知ってる仲だから、おれが口出しするのは難しい」

 ヒソヒソ声で答える雅俊に拓巳は抗議の眼差しを向けた。

「おまえなら別に」

「これは亜美の問題だ。問題を感じてるなら、まずは彼女が食い下がって伝えないと」

「あのコミュ症がか。それができたら苦労はしないだろうが」

「だからこそだろう。一緒に仕事する相手に気持ちをうまく伝えるのも、この世界を生きていく上で大事なことだ」

 真っ当ではあるが、突き放しているようにも聞こえる言葉に拓巳は鼻白(はなじろ)んだ。

「俺にはそんなこと言わなかったじゃねーか」

「おまえはおれが守ってやれるからな」

 拓巳は思わず雅俊の顔を見てしまった。

 今、サラッとこっぱずかしいことを言わなかったか?

 雅俊は特に意識している様子もなく続けた。

「けど亜美にはいない。だから今は自分で頑張るしかない」

「なんか、……」

 甘やかされているのだと気づかされて言葉に詰まると、雅俊がチラッと拓巳を見上げた。

「そんなに気になるならおまえが突っ込んでやれよ」

「俺?」

「セイもおまえからなら違う反応をするかもしれん。ただしどこがダメなのかに気づいてやれればだけどな」

 このヤロウ……。

 甘いと思った途端に辛いことを言われ、拓巳は意地になってすでに始まっているリハーサルに注目した。

 音響機器が整った演奏用スペースの奥まった位置では、凱斗らGプロ所属のバンドメンバーがそれぞれ楽器を奏でている。中央には立派なグランドピアノが二台、向き合う形で置かれていて、手前のピアノでセイが伴奏し、亜美がピアノのカーブに添うように立って歌っている。朗々と響く声は中盤に差しかかり、ちょうどセイのピアノが間奏に入るところだった。

 さすが……うまいな。

 セイの間奏も雅俊に劣らず流れるような指運びだが、雅俊の曲が少し哀切を帯びているのに比べ、こちらは亜美の伸びやかな声質を活かした明るく軽快なテンポの曲だ。ところどころに難しい音階が散りばめられた、なかなか侮れない作りである。しかし。

 くそっ。歌もうまいからどこがダメだかさっぱりわからねぇ……。 

 こっそり雅俊の表情を窺うと、僅かに眉根が寄っている。現場に目を戻せば亜美が不安げな顔で拓巳をチラチラと見ていて、明らかにうまくいかなかったらしいとわかる。しかし顔を上げたセイは爽やかな笑みを浮かべ、亜美を労うように言った。

「良かったよ、亜美ちゃん。大丈夫そうだね」

 瞬間、拓巳はそれが本心でないことを看破した。

 やっぱ嘘かよ。気にくわねぇ。

 しかしどこに目を(つむ)ったかがわからない。

「あ、あの……」

 亜美はセイに向き直り、言葉を探しはじめたようだ。

 くそ、どうすりゃ……。

 苦し紛れに再び雅俊の顔を盗み見たそのとき、拓巳の脳ミソに天啓が下った。

 そっか! ヤツの探知機能を使えばいいんだ!

 見ると、都合のいいことに現場が中断し、亜美のマネージャーの横澤が声をかけている。さすがは沖田智紀の後輩、様子がおかしいのを見逃さなかったようだ。

 再びこちらをチラ見した亜美にちょっと来いと指で合図すると、彼女は横澤に断ってから小走りに飛んできた。

 拓巳はコソッと早口で言った。

「もう一回やるように言え。今度はその場で止めてやる」

 雅俊が「お?」という顔をし、亜美はパッと表情を明るくした。

「ただし止めてやったらおまえもちゃんと言うんだぞ。おかしいところがなければ止めないからな」

「は、はいっ」

 彼女は頭を下げるとパタパタと戻っていった。

「さっきの。わかったのか?」 

 懐疑的な目つきで見上げてくる雅俊に、拓巳は「まあな」と口の端を上げて答えた。

 亜美と横澤がセイに頭を下げ、バックバンドに合図して再び演奏が始まる。やがて間奏を経て主題に差しかかったとき、拓巳はとある兆候を捉えて手を軽く上げた。

「ストップ」

 拓巳が止めるとは思わなかったのだろう。セイが「えっ?」という顔でピアノの椅子から首を伸ばした。

「なんだ、拓巳」

「亜美がおかしい」

「……そうかな?」

 セイが一瞬、躊躇(ちゅうちょ)し、雅俊がピクッと眉尻を上げる。

 やっぱりここでいいんだ!

 伝えるように亜美を見ると、ツインテールの頭がセイに向けてペコリと下げられた。

「あのっ、どこがいけなかったでしょうか!」

「いやいや、大丈夫だよ。気にしないで」

 拓巳はすかさず援護した。

「セイ。あんたわかってんだろうが。クラシックじゃないからって手を抜くのはやめろよ」

「もちろん俺だって真剣だ。けど亜美ちゃんにはあえて注意するほどのことはなにもないし」

 すると雅俊が仕方ないといった風情でため息をついた。

「出だしのブレスだ」

「おい、雅俊……」

 セイが慌てた顔をしたが、雅俊は続けて指摘した。

「特に間奏のあとの主題に入るとき。多分、ピアノに聞き入ってるんだろうな。呼吸が浅くなって最初の音が少しぶれてる」

 亜美はあっと目を見開いた。

 ただでさえデカい目がこぼれ落ちそうだ。

「わかりました。気をつけます」

 亜美はホッと胸を撫で下ろしたが、すぐにまた雅俊に顔を戻した。

「あの、もしかして私、他の出だしも……」

「若干だが」

 雅俊が頷くと、亜美はセイを見た。彼は一瞬だけ苦い顔になったが、すぐに笑みを加えて亜美に言った。

「ほんのちょっとだよ。じゃ、時間を無駄にしちゃいけないからもう一回だけね」

 亜美は恐縮気味に、けれども明らかに晴れた顔になって会釈してから立ち位置に戻った。

 拓巳がパイプ椅子に戻って腰を据えると、隣に座った雅俊が感心した声で言った。

「よくわかったな」

「まあな。と言いたいが俺じゃない。おまえだよ」

「なに?」

 からくりは簡単で、拓巳は曲ではなく、雅俊の表情に注意していたのだ。

「この近距離じゃ、おまえには無視できないはずだからな。あの部分に入った途端、表情が変わったのさ」

 何が変なのかはわからなかったが、とつけ足すと、雅俊は深いため息をついた。

「一杯食わされた。セイはきっと、ひとつ注意すると全部を直さなきゃいけなくなるから、亜美を気づかって言わないでいたんだろうに」

「じゃ、なんでさっきバラしたんだ」

「おまえにわかるようじゃ、どっちみちこの先つまずくだろうと思ったからだ」 

「そりゃ悪かったな」 

 悪びれずに言うと、雅俊はブツブツとつぶやいた。

「和巳がいまだにセイから一歩引いてるのは、絶対こいつのせいだ……」

 拓巳はムッとした。

「なに言ってんだ。和巳はあいつに礼を尽くしてるだろ。しょうがないから俺も努力する方向で頑張ってんだろが」

 尾崎高志に面倒をかけた四月末のパーティーのあと、和巳は約束どおり拓巳が絡むプライベートではセイと接することを控えた。しかしそれ以外の場面では親しく言葉を交わし、特に雅俊と三人でいるときはリラックスした様子で会話を楽しんでいた。その態度には人生の荒波を越えてきた先達への尊敬が窺え、拓巳としてはセイへの苦手意識がいつまでもぬぐえない己が子供じみているようでいたたまれない。

 そこで拓巳はふと思い出した。

 そうだ。雅俊に聞くつもりだったんだ。

「和巳の様子、ちょっとおかしくないか?」

 声を落として聞くと、雅俊はキッとこちらを見上げた。

「だからおまえの影響だろうがっ。Gプロのスタッフにだってセイの仕事ぶりは尊敬されてるのに、おまえがいつまでも馴染まないから」

「違うって言ってんだろ。そっちじゃなくて祐司にだ」

「祐司に?」

 雅俊は虚を()かれた顔になった。

「なんか、二人だけになるのを避けてる気がしないか?」

「いや、別に……」

 言いながらも雅俊は顎に手を当てた。

「そもそも和巳が祐司と二人でいること自体が少ないからな……。なんでそう思った」

「俺もはっきり確信したわけじゃないんだが……鎌倉の一件のあと、和巳は前よりも祐司への親近感が増した感じだったろ?」

 祐司の伯父である井ノ上財閥会長が脳溢血で倒れたとき、一族に起こった跡目(あとめ)(あらそ)いで、和巳は祐司が自分を守るために手を尽くしてきたことを知った。以来、祐司を伯母である綾瀬と同等の位置づけに置いたように見えた。

「ああ。前は親しみながらも甘えたりはしなかったが、あれ以来、祐司を頼りにすることが増えた気がするな」

 特におまえ関連のモンダイはな、とつけ足され、拓巳は聞こえないふりをした。

「だから最近の祐司は父親みたいな表情するときがあってさ。ちょっとだけハラハラしてたんだ」

「おまえなぁ……」

 そのあたりを誤解し、祐司を傷つけたことのある身なので、口が裂けても言わないつもりだが、ここのところの二人にほんの少しザワザワしていたのは本心だ。

「祐司にはナイショだぞ……。そしたらその祐司がここのところ変で」

「祐司が? どんな風に」

「和巳といるときの顔が困ってるというか、曇ってるというか」

「……祐司には聞いてみたのか?」

「一応。そしたら『なんとなく避けられている気もするが、まだわからないから様子を見てる』って」

「…………」

「それで注目してみたら、確かにそれっぽく見えるときがあって。それでおまえに聞いてみたんだが」 

 雅俊が感じていないなら違うかもしれない。

「今日は、祐司は?」

「二時半まで本社で会議がある。ここへはそのあとの合流だ」

 祐司が理事の席を持つ井ノ上財閥本社は、このテレビ局のビルが建つ場所から車で十分の近距離にある。和巳が来る頃には合流できるだろう。

「祐司と和巳が現場に揃うのは久しぶりだろ? おまえもそれとなく様子見てくれよ」

「わかった」

 雅俊は神妙な顔で頷いた。和巳のことに関しては素直なヤツだ。

 しかしリハーサルが順調に進み、そろそろどちらかが姿を現してもいいんじゃないかと思われる三時を過ぎた頃、事態は思わぬ方向に転がった。

 拓巳がソロを終え、連弾の雅俊とセイを残してパイプ椅子に戻ってくると、マネージャーの指示で外に出ていた広田が、ドアをチラチラ気にしながら休憩中の亜美と言葉を交わしていた。

「広田」

「あ、拓巳さん。お疲れ様です」

「和巳は? まだ到着してないのか」

 ジャケットの胸ポケットから室内用サングラスを取り出してかけると、広田はホッとしたものを滲ませてドアをそっと指差した。

「いえ、着いています。祐司さんの指示で俺がここに戻されて、沖田さんと交代しました」

 確かに、いつのまにかメガネの姿がない。

「祐司の指示? 一緒だったのか」

「いえ。あの、敷地に入ったところで合流というか、居合わせて、その……」

 なんとも歯切れが悪い説明に眉根を寄せていると、当の祐司がドアの隙間から滑り込むようにして入ってきた。 

「祐司。和巳は? なんかあったのか」

 彼は大柄な体躯に似合わぬ静かな動作でパイプ椅子に座ると、つられて隣に腰かけた拓巳に潜めた声で言った。

「大丈夫だ。和巳は下の階にいる。(たちばな)が衝突事故を起こしたようでな」

「――!」

 事故、と口の中で繰り返すと、祐司は「人的被害はなかったようだから安心しろ」と続けた。

「ただ、そのときに人手を借りたせいのもろもろで、ここに入るのが遅れている。で、和巳から伝言だ。『ちょっと予定より遅くなるけど、大丈夫だから収録頑張っててください』だそうだ」

「………… 」

 これは、和巳のところへ飛んでいくことを読まれての言葉に違いない。

 無視して行くべきか否か。

 とりあえず和巳はここに着いているんだし、わざわざ祐司に伝言を残して、しかも智紀を呼んでいるわけだから……。

「俺が出向かないほうが、話が早く済むんだな?」

「そういうことだな」

 重々しく頷かれ、おそらく祐司も和巳に頼まれて先に来たのだと推察した。

 ――そののち拓巳の予想はある意味で当たり、ある意味では外れていたと知ることになる。


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