パーティー会場の陰
「失礼します。拓巳さん、尾崎です。おられますか?」
声をかける尾崎さんに従ってカーペットの床を奥へと進むと、壁際に立つ広田がホッとした表情で頭を下げ、ソファに寝転んでいた拓巳くんが驚いた顔をこちらに向けた。
おっ、反応が早い。
僕や真嶋さんが同じように踏み込んでも、こんなときは絶対に顔を上げない。かといって、警戒しているなら跳ね起きるだろう。つまり彼にとって尾崎さんは信頼のおける、けれども声をかけられるのは馴れていない相手なのだ。
いったい、どんな間柄なのか。
湧き上がる疑問を抑え、部屋を下がる広田に挨拶を返しつつ成り行きを見守っていると、歩を進めた尾崎さんはソファの前で軽く膝をついた。
「拓巳さん。先ほどはお疲れ様でした」
予想はしていたが、至近距離の拓巳くんの素顔をものともしない。
すると拓巳くんは目を見張り、起き上がり様に彼の腕をつかんで自分の横に座らせた。
な、何事⁉
思わず一歩踏み出しかけたが、尾崎さんはちょっと驚いた顔をしたもののすぐに笑みを浮かべて言った。
「ありがとう。大丈夫。近年は、もうそんなに不自由はしていないんですよ」
彼の手が右の太腿に当てられる。
昔は足を痛めていたってこと?
それを裏づけるように、拓巳くんが明らかにホッとした様子になった。
「……なんであんたがここにいるんだ」
言いながら落ち着かなげにこちらへ目線をよこしたが、僕の表情に答えが見いだせなかったか、すぐに尾崎さんへと戻した。
「もちろん、拓巳さんに仕事を遂行していただくためです」
尾崎さんが穏やかな声音で答えると、拓巳くんの眉根が瞬時に寄った。
「……綾瀬だな。クソッ。無神経なことしやがる」
無神経……。
やはり、僕の気になる話は迂闊に聞き出してはいけないものらしい。
「悪いな。あんたに迷惑かけるつもりじゃなかったんだ」
尾崎さんはそれを聞くと口元を綻ばせた。
「いいえ。私がここに来たのは社長に命令されたからではありません。あなたと、そして和巳君のためです」
「和巳があんたに頼んだのか」
そこに憤慨する響きを聞き取って思わず肩を縮めると、尾崎さんはいいえと首を横に振った。
「それも少し違います。社長からあなたの心情を説明されましたし、和巳君に力を貸してほしいと言われたのも確かですが、それでここに来たわけじゃありません。あなたの状況を聞いての、私の判断です」
「…………」
拓巳くんの表情に恥じ入るような色が混じる。
どうやら拓巳くんは尾崎さんに負い目らしきものがあるようだ。
尾崎さんも拓巳くんの心情を読み取ったか、少し間を置いてから姿勢を正した。
「パーティーが始まります。出席していただけますか?」
拓巳くんの表情が強張る。しかし尾崎さんはこう続けた。
「セイ・シュナイダーが気になるなら、私があなたのそばにいましょう。そうすれば彼は近づいてこないと思います」
「……あんたは、あいつと面識があるのか?」
拓巳くんが探るように聞くと、尾崎さんの口元に謎めいた笑みが浮かんだ。
「シュナイダー……荻原恍星とは、過去に私も一緒にバイトしていたことがあります」
えっ!
それは先ほどの話に出たホストカフェのことか。
それって僕が聞きたかった『拓巳くんたちの知らないバイト時代の話』に被るんじゃ……!
「あんたも? 若砂と同じ頃にか」
拓巳くんが驚くと、彼は僕に対したときとは打って変わってあっさりと明かした。
「はい。当時の勤め先からの出向で。私のほうが先にいて、少し遅れて恍星が入り、そのすぐあとに若砂が来たはずです」
若砂――。
なんとも親しげな呼び方だ。それなのに拓巳くんが反応しないのは、もちろん理由を知っているからだろう。
もしかして、彼はお母さんの幼馴染みか何かなのだろうか。
尾崎さんの口調が懐かしげな響きを帯びた。
「私の出向元であるクラブのオーナーと若砂の母親が友人だった縁もあり、私たちはすぐに親しくなりました。若砂は次の勤め先を探していましたので、私は出向元を詳しく紹介しました。しかし荻原恍星も若砂と打ち解けていて、自身が目星をつけていたホストクラブに若砂を誘いました。そのときに彼と私は……少々対立しまして。結果はご存じのとおりです」
結果とやらを知っているのか、拓巳くんの顔に理解の色が浮かんだ。
「ですから、私がそばにいれば風よけくらいにはなるでしょう」
明らかになる当時の話を聞きながら、僕は彼の意図をなんとなく悟った。
この人は、拓巳くんに話す形を取りながら、その実、僕に彼の知るバイト時代の状況を伝えてくれてるんじゃないだろうか。
「あいつと若砂にはそんな繋がりがあったのか……」
知らなかったと拓巳くんがつぶやくと、尾崎さんは薄く微笑んだ。
「あの時代のことは、若砂にとって苦い過去になってしまいましたから……若砂もあなたが荻原恍星をご存じとは知らなかったと思いますし」
苦い過去……。
そのあたりを把握しているのだろう。拓巳くんも「ああ」と頷いた。
「俺もあの頃のことは封印してたしな。そもそも若砂と会ったとき、恍星……セイはもう日本にいなかったし」
何を思い出したのか拓巳くんは痛そうな表情を浮かべたが、やがて息を整えると尾崎さんに言った。
「よけいな手間を取らせて悪かったな。あんたの担当部所はこれからが勝負だろう? 俺に構わず戻ってくれ」
「大丈夫ですよ。大事な部分は社長に委ねてありますし、部下もだいぶ育ってきました。今日はその成果を確かめることにします。あなたのそばとはいえフロアに出るのですから、部下が困ることはありません」
「……いいのか?」
「もちろん」
では少し身なりを直しましょうか、と目線を投げられ、僕は慌てて真嶋さんにスマホで連絡した。かくしてまもなく到着した真嶋さんのチェックを受け、拓巳くんは無事、尾崎さんに付き添われる形でビルの道向かいにあるホテルのパーティー会場に赴いたのだった。
「そんなわけだから、僕はシュナイダーさんとの会食は遠慮しておくよ」
立食用のテーブルから取り分けたエビチリの小皿を差し出して伝えると、ワインを飲む手を止めた俊くんは拓巳くんばりの仏頂面になった。
「なんだよ。せっかくの機会なのに」
言いながらもグラスをサイドテーブルに置き、小皿をちゃんと受け止める。お箸も添えて渡すと、頭上から低く落ち着いた声がかけられた。
「まあ雅俊。今回はやめておけ。でないとわざわざ尾崎高志まで動かした綾瀬に祟られるぞ」
「でも祐司。セイも和巳と話すのを楽しみにしてたようなのに」
赤い唇を尖らせて訴える、ロングウェーブをひとつに結わえた美貌のヌシは、近年のパーティーでよく見られる女装ではなく、完璧な男装――アヤセ・トベの衣装を纏うことで有名な〈T-ショック〉のキーボード〈マース〉の出で立ちである。
対する祐さんもギタリスト〈ユージ〉定番の黒、地模様が鈍い輝きを放つジャケットとスリムパンツ姿で、黒いソフトリーゼントと相まって彼のハードボイルドな容貌が際立っている。
これに隣のテーブルで尾崎さんや真嶋さんと並び立つ、拓巳くんの美麗な黒紫のジャケット姿が揃うと、三人の迫力が倍増するアヤセ・トベの真骨頂、三位一体のデザイン効果が見て取れる。ゆえにメンズフォーマルブランド〈クレスト〉の販促パーティーに〈T-ショック〉メンバーは常に招待されるのだ。
僕にとってはやっぱり蒼雅先生のドレス姿が一番だけど、男装もまた美形としての魅力が際立って、ファンの人たちが黄色い声を上げるのもわかる気がするよね。
ユージがハリウッドのアクションスターなら、マースは男性アイドル的な王子様だ。
「こういった席や仕事場で雑談する分には口出ししないと言っていたろうが。拓巳には精一杯の譲歩だ。認めてやれ」
「それはまぁ……」
額を飾る後れ毛も色っぽい俊くんが不承不承の顔でフロアの奥を見る。そこには先ほど見事なピアノ演奏を終え、綾瀬伯母や大物社長とみられる年配の招待客に囲まれて笑顔を見せるセイの姿があった。
さすがはプロの演奏家。クラシカルな燕尾服姿が板についていて、涼やかな容貌には独特の華がある。
祐さんは手にしたウィスキーグラスをひと口あおり、少し真顔になって声を潜めた。
「ただ、俺も引っかかってはいる。今まではたまにおまえとメールを交わすだけだった恍星――セイが、なぜ今、Gプロでの仕事を受けてわざわざ顔を見せたのか。俺たちが所属していることは知っていただろうから、機会なら今までにもいくらでもあったはずだ」
違う角度からの意見につい顔を窺い見る。
そういう見方もあるのか。
すると俊くんも表情を改め、やや低い声で言った。
「それは高橋オーナーの影響らしい」
「高橋要の?」
祐さんともども驚いて凝視すると、俊くんは「ああ」と目を伏せて息を吐いた。
「おれも不思議だったんで聞いてみたんだ。セイが言うには、オーナーの許しが出たからだと」
「許しって……」
彼はつぶやいた僕を見ると少し困った顔をした。
「こんなことを明かすとますます拓巳に嫌がられそうだが……セイは拓巳を助けたが、それは拓巳のためだけじゃなくて、拓巳のことで道を外していく高橋オーナーを正常に戻したい一心でもあったんだ。だから怒りを買って渡欧したあとも時候の挨拶は欠かさなかったそうだ」
「…………」
確かに、拓巳くんの不興を買いそうな内容だ。
僕が黙ると俊くんは訴えるような目になった。
「あいつにとって、高橋要は最初に自分の可能性をつかませてくれた恩人なんだ。だから裏切った代償として、怒りが溶けないうちはおれたちと交流しない覚悟だと伝えたらしい。だが彼からの反応はなく、時期を待つうちに月日だけが過ぎた。ところが今年の年賀状に対して連絡が来たんだと」
「あの人から? なんて」
つい前のめりになって聞いてしまい、祐さんに肩を押さえられる。
「『いいから好きにしろ』と」
「…………」
つまり自由にしていいということか。
「それでGプロの仕事を受けたのか」
祐さんが唸るように言うと俊くんは頷いた。
「それを言ってきた時期がな。ちょうどセラと一緒に父親の病院を行き来していた頃と重なるんだ」
「……なるほど。あの男の心に昔の夢が返り咲いた頃だというわけだ」
「じゃあ、セラさんが」
セイと彼女には交流があったが、お互いが何者であるかは知らなかったという。となれば期せずしてセラは拓巳くんを助けて日本に戻れなくなった人を解放したということだ。
「それを知ったらセラさん、喜びますよね。よかった」
これは、自分の存在が僕たちに迷惑をかけていると感じてしまっている彼女には励みになるはずだ。
今日のセラは週明けから始まる仕事に向け、住吉京子副理事と大学に足を運んでいる。僕たちも挨拶した旭峯大学の学長、樋口隼夫氏の説明を受けに行っているのだ。とはいえもともと請け負っていた講義を再開するだけなので、難しい話をするわけではないらしい。
帰宅後のセラとの会話を思い巡らせていると、祐さんが難しい表情で僕を制した。
「それはわからんぞ。今の要はその頃より心が狭くなっているだろうからな。セイがロンドンの大学でセラと講師仲間だったことをあの男は知らなかったんだろう。二人の関わりを知ったら態度を翻すかもしれん」
「じゃあ、シュナイダーさんの行動を妨害するかもしれないと」
「可能性はあるな」
「…………」
「それは伝えておいた」
俊くんがため息をついた。
「高橋オーナーが失踪した元妻にかなりのわだかまりを抱いていたことは、当時の従業員たちの間では知られていた話だ。だから去年のセラのことを話しただけで、セイには今の心境が読み取れたようで『じゃあこの仕事が一段落するまではうまくやり過ごさないとな』と言っていたよ」
僕は一昨日のやり取りの中で俊くんが彼にセラとの接触は控えた方がいいと伝えていたことを思い出した。
こういうことだったのか。
わかってしまうとそれはそれで申し訳なくなる。
そんな話を聞いてしまったので、パーティーも中盤を過ぎ、主要な招待者への挨拶も一通り終わって会場の雰囲気がほどほどに砕けてきた頃、壁際に設置された飲み物コーナーで声をかけられたときは、奥のテーブルでワインを待つ拓巳くんを気にしながらも丁重に挨拶を返した。
「よかった。さっき雅俊から君は所用で食事会に同席できなくなったと聞いたから、思ったことをズバズバと言いすぎて嫌われたかと思ったよ」
笑顔の奥にどこか寂しげな気配が感じられて落ち着かなくなる。
だからって「実は拓巳くんが嫌がってるので行けないんです」なんて言ったらもっとよくないし。
「いえそんなことは。こちらこそせっかくお誘いいただいたのにすみません」
慌てて頭を下げると、そこで下げなくてもいいよとすぐに肩を戻された。
「そんな顔をするのは……雅俊あたりから俺の事情を聞いたとか?」
「…………」
僕ってホント腹芸とかダメだな……。
彼の端整な面立ちに今度は笑みをこらえるような表情が浮かんだ。
「いや……なんとも懐かしい。本当によく似てるね」
主語が抜けていたが意味は十分に伝わり、僕は声を潜めながらもつい聞いてしまった。
「あの。そんなに似てますか?」
「ああ。そういう表情なんてとても。若砂を知っている人にはよく言われるだろう?」
断言したように返され、僕は首をかしげた。
「父が話したがらなかったので、周りの人はあまり口にしませんでしたが、中学の頃はかなり似ていたようです。でも最近は前ほどではなくなったと聞いていたのですが」
「ああ……」
セイは何かに気づいたように目を細めた。
「そうか、ごめん。早くに亡くなったんだもんな……俺の覚えている戸部若砂は十六くらいだったんだが、雅俊たちが交流しだしたのはそれから二年以上もあとの話なんだってな。その頃には顔の感じが変わってたのかもしれない。俺の記憶のあいつは今の君にそっくりなんだよ」
「そうなんですか?」
なるほど。確かに、今の僕とデータに残るお母さんの顔は少し違って見えるけど、本人が二、三年のうちに変化しているというのはありかもしれない。
そんなことを思い巡らせていたので、「しかしまさか、こんなところであの男の姿を目にするとはね……」とのつぶやきに、僕はうっかり相槌を打ちそうになった。
「はい。……っ、えっ?」
咄嗟に言葉を止めて彼を見ると、銀灰色のように見える薄い色の瞳が、拓巳くんと向かい合う形でこちらに背を向ける男性――尾崎さんを捉えていた。
なるほど尾崎さんの言ったとおり、どうやらセイは彼に屈託があるようだ。
なんてことを聞いちゃってるとか内緒にしないとまずいよね。
「あの拓巳のそばにいる男、知ってる?」
囁くように聞かれ、僕は今度こそ読まれまいと心して答えた。
「えっ……と、尾崎さんのことでしょうか」
「そう、尾崎高志。彼も拓巳の関係者?」
「いえ。あ、もちろん綾瀬伯母の会社のブレーンとして関わりのある人ですが、直接ではありません。時々こうしてご一緒しますが」
これは事実である。イヤ、だったと言うべきか。
「そうか、たまたまか……。っていうか、そもそも戸部若砂と綾瀬社長が姉弟ってところから衝撃ではあったんだけどな。あいつは最初、アヤセのスタッフとして拓巳の前に現れたんだって?」
「そう聞いています」
ファッション業界という荒海に乗り出す姉を支える、けれども特殊な性別に葛藤する弟――それが拓巳くんが出会った戸部若砂という人だったはずだ。
「あんな、人をもてなすのが天職のようだったやつらが、一世を風靡した評判もろとも封印して綾瀬の会社の社員にとはね……しかも片方はよりによって拓巳の伴侶になってるし。想像もつかなかったな」
その言い方にはどこか毒が含まれているような気がして、僕は思わず顎を引いてしまった。彼はハッとして僕に笑いかけた。
「や、ごめんよ。雅俊にも注意されてたのにな。過去は過去。君も拓巳も知らない事柄で若砂や尾崎をどうこう言うのはよくないことだ。それに俺だってご同類だったんだから、拓巳が口をきいてくれるってことでよしとしないとな」
陰りを帯びた眼差しが、飲み物のテーブルのほうへと逸らされる。僕は慎重に、けれども確認せずにはいられなくなった。
一昨日のセイが最後につぶやいた、『別の店に移った彼と、彼の先輩の評判が高かったことは何度も耳にした』という言葉。
そして尾崎さんの言っていた『出向元』。
つまりそれがアツシさんの言っていた伝説の店で、彼はそこで名を成したというお母さんの先輩だったのではないか。
「あの……それは、尾崎さんも昔、」
ホストとして活躍していたってことですよね?
小声で聞こうと身を乗り出すと、彼がテーブルから二つのワイングラスを手にしてこちらを向いた。
「これだろ? 拓巳に」
「っ……、」
瞬間、片方のグラスの手が僕の胸元にぶつかりそうになり、咄嗟に手を引いた弾みで中身が彼のほうに飛び出した。
「す、すみません!」
透明な液体が彼の袖に落ちて上質な黒い生地にシミを作り、僕は慌ててスーツのポケットからハンカチを取り出した。
「ああ、いいよ。このくらい」
「いえっ、ちゃんと処置しないと」
グラスの中身は白ワインだったが、生地の防水加工が効いているうちにハンカチを当ててなんとかふき取る。どうやら染み込まずには済んだとホッとしたところで、彼が僕にこぼれてないほうのグラスを差し出した。
「ほら。交換」
「えっ?」
咄嗟に受け取ると、彼は空いた手でハンカチをつかみ、濡れた手に持っていたグラスをテーブルに戻して僕に言った。
「洗面所に行ってくる。すすいでおくから」
待たせてるんだろ? と僕の肩を拓巳くんの方向に軽く押した彼は、すぐ先にあるドアに向かって歩き出した。僕はフロアと彼の背中を交互に見て少しだけ悩んだが、結局は脇を通りかかったウェイターを捕まえてグラスを渡した。
「あの、これをタクミさんに持っていってください」
そして返事も待たずにセイのあとを追いかけた。
ドアを抜け、廊下を見回すと、三メートルほど先の向かい側に洗面所があった。
きっとあそこだ。
足早に廊下を渡ってドアを開けると、彼はすでにハンカチを絞り終えていた。
「すみませんシュナイダーさん。失礼します」
すぐに受け取ってから袖をもう一度ぬぐおうとすると、彼はそれを手のひらで制し、ポケットから何かを取り出して僕の前に差し出した。
「あの?」
反射的に受け取ると、そこには名前と簡単なプロフィール、下には手書きで携帯番号が書かれていた。
「名刺。取っといてくれよ」
「あ、ありがとうございます」
シンプルで洗練されたデザインの名刺を胸のポケットに納めると、五センチほど上にある端整な顔がホッとしたような笑みを浮かべた。
「あと、俺のことはセイでいい」
「えっ? でも」
「年とか立場とか関係ない。向こうじゃ親しい人はみんなファーストネームで呼び合うよ。俺が君と親しくするの、拓巳は嫌なんだろうけど」
そうなんだろう? と目線で問いかけられて言葉に詰まる。
バレてるじゃん……。
バツ悪く目線を下げると、彼はやっぱりね、と言わんばかりのため息をついた。
「でも雅俊は俺を認めてくれている。そして君はパートナーなんだよな? だったら他人行儀にされるのは悲しい。それとも君も俺に対してわだかまりがあるとか」
「いえっ。そんなことは」
そう言われると断るのも難しい。
そのときふと、僕の脳裏にある名前が浮かび上がった。
そうだ。あれだったら。
「僕の立場で呼び捨ては気が引けるので……あの、恍星さんではいけませんか?」
「―――」
彼は一瞬、虚を衝かれた顔になり、次いで額からこめかみのあたりに手をやった。明るい茶色の前髪がサラサラとまとわりついて目元に影を作る。
「それは……光栄だな。その名前、聞いてたのか。嬉しいよ。でも今の俺はセイ・シュナイダーだ。君にはセイと呼んでほしい」
そこまで言われては反論できない。
「わかりました。それでは仕事が絡む場所以外ではセイで」
彼はそれを聞くと額の端から手を外し、口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう。お礼にさっきの質問、答えてもいいよ」
「――?」
一瞬、戸惑ったがすぐに気がつく。
僕が聞こうとしていたこと、わかってたんだ。
彼は僕の肩に手を置くと、五センチほど上にある顔を近づけた。
「尾崎高志と戸部若砂。二人がどんなホストだったか知りたいんだろう?」
「……っ」
ズバリと切り込まれ、脳裏に警鐘が鳴り響く。
まて。この話を一人で、しかもこんな形で聞いていいのか。
尾崎さんのいないところで、彼とお母さんの過去を。
でも……。
「……その店の……」
名前は、と言いかけたとき。
「和巳さん、おられますか?」
ふいによく通った低い声に呼ばれ、僕は目が醒めたような感覚で入り口を見た。そこには一昨日、これもまた予期せぬ形で再会した井ノ上家の懐刀、早川さんが立っていた。
どうして早川さんがここに。
「こちらにおられましたか。失礼します」
彼は言葉とは裏腹な強引さで僕のすぐそばに来ると、慇懃ともいえる態度でセイに頭を下げた。
「ご歓談中、申し訳ありません。シュナイダー様には先日、当家のパーティーにてご演奏いただきありがとうございました」
えっ、そうなんだ。
驚いて見上げると、彼もまた驚いた顔で早川さんを見ていた。
「あなたは、確かパーティー会場で井ノ上会長のそばにいた……」
「ご記憶いただきまして光栄に存じます。井ノ上家執事の早川と申します。つきましては、そちらの高橋和巳さんに少々お時間をいただきたく」
形はお願いだが、言葉の端々に大富豪の家系を預かる執事の強みが滲み出ている。
珍しい。普段の早川さんは礼儀をわきまえた物言いの人なのに。
セイも感じ取ったか、少し気分を害した様子で僕に聞いてきた。
「君、井ノ上家の執事さんと知りあい?」
「あ、それは……祐司さんの関係で」
養子の名目で本家の事務方にスカウトされている関係とまでは言わないでおく。
「ああそうか。確かユージは親戚だったっけ」
彼は早川さんに目線を戻すと、不服そうな表情ながらも僕の肩から手を離した。
「話が終わってからにしてくれと言いたいところだけど、会長には手厚くもてなしていただいたからな。急用みたいだからここは譲っておくことにしよう」
次いで僕の耳にこう囁いた。
「続きはまた。聞きたければいつでも連絡しておいで」
そして「じゃ、お先に」と軽く手を上げながら廊下へと戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕は話が中断したことにホッとした。
これで良かったんだ。あのまま聞いてしまっていたら、きっと後悔していた。
僕は偶然にも会話を止めてくれた形の早川さんに感謝しつつ向き直った。
「ここでお会いするとは思いませんでした。もしかして祐さんに伝言ですか?」
彼は祐さんから音楽関係の仕事中は極力姿を見せないようにと指示されているのだ。
本家でまた何かあったのかと身構えると、早川さんは「いえ」と手のひらを軽く上げた。
「和巳さんは、シュナイダー氏と懇意になられたのですか?」
「えっ?」
質問の意味がわからずに首をかしげると、彼は軽くため息をついた。
「そのあたり、慎重に判断していただければと。彼は……あまりにも色々なものを背負っている」
「………」
それはどういう意味だ。
ふとある疑念が頭に浮かぶ。
まさかさっきの会話。聞いていて、関係が深まる気配を察して故意に止めたとか。
無言でこちらを見る早川さんの眼差しが、その推測があながち間違ってないことを伝えている。
「なぜ……」
すると彼は目線を外してこう言った。
「先ほど内田世羅様が連絡をくださいまして、お住まいの件をお断りになられました」
「……っ、そうでしたか」
いきなり話が逸らされたが、それはそれで大事な一件だ。セラには井ノ上との面識がないのだから、早いうちに断りの連絡が行くだろうとは予想していた。
「せっかくのお話を無にしてすみませんでした」
「いえ。ですがこの件は私の一存でもうしばらく保留にするつもりです」
「えっ……? 」
「もし状況が変わり、こちらの助力を受けておけばと思うことがあったら、そのときは迷わずに私へご連絡いただきたい……そのことを和巳さん。あなたにお伝えしたかったのです」
では失礼しますと頭を下げられ、僕はそのまま背中を向けた早川さんに追いすがった。
「待ってください。それはどういう意味ですか!」
彼は足を止めると、肩越しに少しだけこちらを見やった。
「今はまだ、私にもこれ以上のことは。……申し訳ありません」
そして僅かに頭を下げると足早に出ていった。
僕はしばらく彼の去った通路を呆然と見続けた。
まさかそれを伝えるためだけに、わざわざここまで来たのか。
どのくらいそうしていたのか、気がつくと、祐さんが長身をやや屈めて僕の顔を覗いていた。
「和巳。今、そこで早川を見た気が……和巳?」
「……祐さん」
無意識に名を呼ぶと、彫りの深い目元に陰が走った。
「どうした」
「いえ、祐さんこそ……あ、すみません。どうぞ」
自分が通路を塞いで立っているのだと気づいてよけると、祐さんは「そうじゃない」と僕の肩をつかんで隅に移動した。
「おまえを呼びに来たんだ。さっき、グラスのところで何かやらかして、セイ・シュナイダーを追っていっただろう。拓巳が気にしている」
「あっ、じゃあ……」
早く戻らないと、と出ようとすると、肩をつかむ祐さんの手がグイと押し留めた。
「宥めてきたから急がなくていい。それよりどうした。セイと早川がここで会っていたのか」
「いえ……」
僕は混乱する気持ちを閉じ込めるようにこめかみのあたりを押さえた。
わからない。どうしてあんなことを言われたのか。
「僕がシュナイダーさんの袖を汚してしまって……早川さんは偶然、鉢合わせたようで、挨拶をなさっていました。そして僕に……そう、セラがマンションを断ってきたと伝えに来たみたいです」
「それだけのためにか」
祐さんのまっすぐなラインを描く眉が寄る。彼も早川さんの意図を知らないようだ。
そもそも祐さんはセラのマンションの件も知らなかったのだそうで、後日わざわざ「余計な口出しをしたようですまなかったな」などと謝罪させてしまっている。財閥の力が周囲に圧迫を加えるような事態を、祐さんはなによりも嫌うのだ。
僕はひとまず心に納めることにした。
迂闊に言わないほうがいい。ここは職場で、僕は仕事中だ。まずは拓巳くんのことに集中しないと。
「どうもその件に関して、綾瀬伯母への対抗心が芽生えちゃったんじゃないかと。祐さんからもそのあたりの心境を聞いてみてください」
疑問を封じるように笑顔で答え、戻りましょうと廊下のほうに踏み出す。彼も今度は引き留めず、「そうか」と肩から手を外して横に並んだ。
ため息のようなその返事を聞きながら、僕は祐さんが何かを察しながらも、あえて聞かないでいてくれることに感謝した。