わだかまりの謎
「なるほど。それでこの仏頂面なのね」
「すみません……」
黒と金のドレス姿も艶やかな綾瀬さんに嘆息され、僕は真嶋さんの隣で思わず肩を縮めた。
ここは綾瀬伯母の会社、アヤセ・インターナショナルが所有するビルの四階にある、三部屋ぶち抜きの大広間に隣接する社長用の控え室だ。
今、僕たちが座る、片方の隅がカーブした四人掛けソファの正面には大きな液晶モニターが置かれ、先程まで繰り広げられていた大口顧客向けのファッションショーの様子を映し出している。
このショーは、会社の中心であるメンズフォーマルブランド〈クレスト〉が、外部に向けて開く宣伝用のイベントショーと違い、自社で行う内輪のものだ。
といっても内輪とは名ばかりで、近年の綾瀬伯母は、外部のショーは部下に任せ、自身の作品はこのショーだけに絞っているので、優良取引先の幹部やセレブ御用達の店舗経営者などはこちらに足を運ぶことが多い。会社にとってはイベントショーをしのぐ経営戦略の目玉であり、その売上高が会社の運営を左右するので、かなりの資金を投入して技術スタッフや出演者には一流を揃える。
中でも拓巳くんの名を冠したパーティーフォーマル〈タクミ〉シリーズは、その年の新作が必ず何点か発表されるので、後半には拓巳くんが主役の時間帯があるという、彼にはかなりウェイトの高い仕事内容になっている。
その、重要かつ責任の伴うステージで、水曜日の一件を引きずった拓巳くんは終始、仏頂面だった。
とはいえ端から見れば普段の様子に準じる程度の変化であって、ステージでの存在感が薄れるものではなく、他のスタッフから漏れ聞こえた声は「今日の眼光はいつにもまして鋭いな……」や「なんか近寄りがたさが増してないか?」などと威風のほうに解釈され、注意や苦情といった負の意見が交わされた気配はなかった。
しかし僕の目には二日前に起きたスタジオでの一件以降、彼の内部に根付いた鬱屈が透けて見えていたし、もちろん真嶋さんにもわかっていて、ヘアメイクのたびに優しい声をかけ、宥めるように髪を梳かし、衣装スタッフに被害が及ばないよう努力する姿には涙を誘うものがあった。
そしてなんといっても誤魔化せないのは綾瀬さんである。
彼女は最初、いつものように楽屋でスタイリストたちと打ち合わせをし、各モデルの最終チェックを済ませると、ステージ進行はチーフデザイナーに任せ、自身は全体が俯瞰できるモニター室に控えた。そこでいつもは後輩デザイナーやアシスタントスタッフたちの奮闘を見守るのだが、今日は前半が終わったところで戦場と化した楽屋に出てきたのだ。
「気にしないで。たまにはあなたたちの姿を間近に見るのも刺激になるのよ」
彼女は己の仕事に不手際があったのかと緊張を隠せない現場スタッフたちに微笑みながらゆっくりと歩を進めると、いかにも「せっかく出てきたのだから主役の顔を見ておきましょうか」といった風情でパールブラウンの新作ジャケットに着替えた拓巳くんに歩み寄り、たったひと言だけ声をかけた。
「――拓巳」
しかし拓巳くんの目を見張らせるには十分な威力で、むろん僕にも真嶋さんにも言外のセリフが伝わってきて思わず背筋が震えた。即ち、
(なにやってるの拓巳! 舞台に集中しなさい!)
そして彼を送りしたあと、僕たちに小声でこう言った。
「二人とも。終わったら打ち上げパーティーの前に私の部屋へ寄ってちょうだい」
これまた端から見たらいつもと変わらないやり取りながら、僕たちには『説明してもらうわよ』との意図が明確に伝わってきた。
かくしてショーが終わったあと、緊張と疲労で控え室のソファに直行した拓巳くんを広田に見張らせて、僕と真嶋さんは雁首揃えて綾瀬さんの待つ社長室へと出頭、一昨日の話し合いのあとに起こった遭遇事件を説明したわけだ。
「だったら仕方がないわね……」
ソファのカーブした位置に座った綾瀬さんが痛恨の表情でこめかみに指先を当てた。
「私のミスだわ。事前に把握できていれば、パーティーのゲストにセイを招くなんてことはしなかった」
そう。なんとこのあとの接待パーティーに、セイがゲストピアニストとして呼ばれていて、それをスタッフから聞いてしまったために、綾瀬伯母の仕事には手を抜かない(←抜けない)にもかかわらず、拓巳くんは仏頂面のままフロアを闊歩することとなったのだ。
本人もできれば綾瀬さんの怒りを買うようなマネはしたくなかったろうが、彼としてはアレが精一杯だったと思われる。しかし以前だったら脱走騒ぎだったと予想されるので、成長の証と言えなくもない。
「申し訳ありません。昨日までに僕がもう少し拓巳くんの心をほぐせればよかったんですけど、そもそもの発端が僕の態度だったので……」
一昨日、俊くんと別れて追いかけたまではよかったが、駐車場で捕まえた拓巳くんはすっかり拗ねていた。
原因は僕がセイの誘いをはっきり断らなかったためで、「だって行きたいんだろ」と言ったきり自宅に直行、リビングのソファに伏せたきり大魔王再びの有り様で、あとから帰ってきたセラにはさぞかし迷惑だったことだろう。
「別にどうしてもってわけじゃないから。拓巳くんがそんなにイヤなら行かないよ」
一応、撤回してみたものの、彼の野生のカンは健在で、僕の中に宿った『お母さんの話を聞いてみたい』という望みをバッチリ読み取られてしまった。その結果、どうやら拓巳くんの中でも『大人げねぇ。行かせてやれよ』『嫌だ。あいつには近寄ってほしくない』と相反する感情が交錯し、僕への態度が徐々に怪しくなりだすという、周囲にとって極めて危険な状態になりかけた。
いっそあの人、あんなセリフを残さないでくれればよかったのに。そしたら僕だってスッパリ断れた。
そんな身勝手な思考に陥っている自分が情けない。
恥じ入って俯くと、隣で身じろぐ気配がした。
「違うんだよ、和巳。君のせいじゃないんだ。セイ……ここでは恍星君と呼ぶけど、彼の存在が拓巳にとって、そんな風に負の方向を向いていたことに気づかなかった僕の落ち度なんだよ」
一昨日の夜、もちろん拓巳くんは真嶋さんの家に行った。もしかしたら泊まるかもなどと心積りしていたら、思いがけず短時間で帰ってきたのだ。
なんでも不満を打ち明ける拓巳くんに対し、真嶋さんはこう諭したという。
「それは無理もないんじゃないかな。和巳にとっては貴重な情報の持主なわけだし。君も誘われたんだろう? 相手は恍星君なんだから、そんなに邪険にしなくても」
それを聞いた拓巳くんは形相を変え、落ち着いたばかりのソファからガバッと立ち上がった。
「そうだよな! 芳弘にとってもあいつは真面目な協力者だったっけ。悪かったよ! じゃあなっ」
かくして超大魔王になって戻ってきた拓巳くんは、その日は寝室にこもって出てこなかった。
その翌日、つまり昨日は幸いにも仕事が午後からだったため、僕は沖田さんに事情を伝えて三時合流の予定を変更し、大学の講義を午前中で切り上げて帰宅、迎えに来ていた沖田さんと協力して拓巳くんのサポートに全力を注いだ。夜には真嶋さんも加わって、セラにも協力してもらい、なんとか不機嫌大魔王から拗ねっ子仏頂面にまで引き戻した。
そして今朝は普通の無表情にまでレベルが戻り、やれやれと肩の荷を下ろしていたら、ここに入ったところでパーティー出席者の説明があり、一気に逆戻りしてしまったのだ。
「僕がもっと拓巳の心中を思いやって言葉を選べばよかったんだ。たとえ僕らにとっては勇気ある行動をした人であっても、拓巳にとっては痛い過去に直結した相手なんだから」
「あなただけではないわ」
綾瀬さんが遮った。珍しくも怜悧な美貌に憂いが漂っている。
「むしろ私こそが察するべきだった。私は拓巳が彼に見た姿を知っていたのだから」
長い睫毛が伏せられるのを見、僕は一昨日から胸に抱いてきた疑問を口に上らせた。
「あの……そのあたりの話を、詳しく聞かせていただいてもいいでしょうか」
「和巳?」
こちらを向いた真嶋さんに僕は俊くんの言葉を伝えた。
「雅俊さんが、拓巳くんには聞かないほうがいいと言ったんです。なんだか歯切れも悪くて、自分より真嶋さんや綾瀬さんのほうがよく知っているとも……」
「それは……」
真嶋さんがためらうと、綾瀬さんがこちらに体を向けた。
「そうね。セイ……荻原恍星が帰ってきて、こうして仕事でも接する機会が出てきた以上、あなたは彼が過去に果たした役割を知っておくべきだわ」
彼女はひとつ息を吐くと姿勢を正した。
「和巳。あなたは拓巳が昔、父親の高橋オーナーから受けた虐待のことを知っているわね?」
過去の瑕に関わる重い質問に、僕も背筋を伸ばして答えた。
「彼の経営するホストクラブの上客に……夜を奉仕させていたと聞いています」
「奉仕……そうね。ではその具体的な内容は?」
「……っ、……」
容赦ない質問に思わず体が強張る。むろん、僕が瞬時に思い浮かべたのは、一年前の冬に受けた凌辱の記憶だ。
「綾瀬」
僕を庇うように真嶋さんが身を乗り出すと、事情を把握している綾瀬さんは軽く手を上げた。
「申し訳ないわね。けれど拓巳の気持ちを理解するためには欠かせない確認なの。むしろ和巳はあの被害を受けたことで、より拓巳の気持ちに寄り添える立場になったとも言えるわ。だからこそ、過去に恩を受けたはずの荻原恍星に拓巳が隔てを置く理由を知りたいのでしょう?」
僕は頷いた。
「はい。雅俊さんだけでなく、真嶋さんまでシュナイダー、ええと恍星さんと親しげなのに、拓巳くんだけは違う。その差がどこから来ているかを理解しないと、いずれまた失敗します」
僕も彼への第一印象があまり芳しくなかったので、二人が彼を高く評価する理由を知りたくもある。
「結構。立派な覚悟だわ」
綾瀬さんが真嶋さんに夜色の目を向けると、彼は窺うように僕を見てから肩の力を抜いた。
綾瀬さんが続けた。
「人は様々な理由から自己の基準を作る。ある者は、体を捧げることは心を捧げることだと言い、またある者は、体と心は別だと言う。別である者たちは体を使うことを割り切れる。それは個人の自由であり、法に触れなければよいのだと」
『法』のところで真嶋さんが身じろいだが、綾瀬さんは構わずに続けた。
「私もそれは一定の理を含んでいると思うわ。人間はもともと倫理観に違いがある。生まれながらの生理的なものもあるし、育った環境や立場によるものもある。拓巳と高橋オーナーの不幸は、親子でありながらこの倫理観が真っ向から対立したところにあるのよ」
「倫理観ですか? 性格ではなく」
「あの二人の性格、頑として持論を曲げないところなどそっくりに思えるのだけど」
「…………」
反論できない。
「けれど倫理観はまったく違った。高橋オーナーは元々ホスト出身。利益のために自身を売ることを厭わず、それで成功して今の立場を築き上げた。当然、己の城には自分の経験に基づく倫理観を当てはめ、客を繋ぎ止めるために『努力』した従業員は相応に評価した」
努力――即ち枕営業である。
「彼の店は年齢を問わなかったので、家出をして一攫千金を狙う少年や若者が集った。オーナーの采配は公正だと評判だったそうよ」
すると真嶋さんが反論した。
「だからといって、まだ十代半ばの少年たちをホストクラブに立たせるなんて……っ」
「立たせたのではないわ」
綾瀬さんの声がやや強さを帯びた。
「彼らの多くは求めて立ったの。トラブルがなかったわけではないけれど、今でも基本は変わらないわ。少年たちの多くは高収入と栄達を求めて自ら入ってきたのよ。高橋オーナーは条件を示して、承諾した者だけを受け入れている」
「条件を達成する『努力』とやらの中に未成年者による売春が含まれていても?」
「オーナーが具体的な指示をしていない以上、罪には問えないでしょうね。彼らは努力内容を先輩の姿から学ぶのだもの」
「それは詭弁だ。未成年とは子どもで、子どもは間違う。だから守らなくてはならないんだ」
前から調査しているのでわかっているのだろう、真嶋さんが憤る。すると綾瀬さんの目元がフッと和らいだ。
「そう。あなたはそうやって、少年たちに埋もれて喘いでいた拓巳を見つけた。私の目から見ても、高橋オーナーに罪があるとすればそれは嫌がる拓巳に強要したこと。これに尽きるわ」
真嶋さんがホッとしたように頷く。綾瀬さんはそんな彼に目を細めてから続けた。
「拓巳にとって、自分はむろんのこと、他者についてさえ、ホストの仕事に就くことはもちろん、心がない相手に体だけ提供するなど我慢できないことだった。これは推測だけど、彼は幼い頃から潔癖症の気があったのではないかしら」
「それは、あるんじゃないかと思う」
真嶋さんが言い、僕も頷く。
確かに、昔から余程親しくない限り、長い付き合いのスタッフであっても握手はもとより肩が触れるといった軽い接触すら避ける。普通はそこまで気にしないものだ。
「片親しかいない子どもの場合、たとえ無体な内容であっても親からの命令であれば、多くは見捨てられるのを恐れて従い、やがては慣れてしまうものよ。高橋オーナーにしてみたら、自分が歩んできた道をなぜ拓巳がそこまで拒絶するのか、逆に理解できなかったでしょうね」
「…………」
かといって、拓巳くんは断じて悪くない。
僕の思いが伝わったか、綾瀬さんは諭すような口調で言った。
「その感覚の違いこそが、今回の拓巳の恍星に対するわだかまりの原因なのよ」
「……どういうことでしょう」
「つまり、荻原恍星は高橋オーナーの要望に応えた優秀なホストだったということよ」
「………っ」
そういうことか……!
思わず真嶋さんを窺うと、彼も知っているようで目を伏せた。
「グランドピアノも弾きこなす美少年ホスト――シルバーフェニックス」
ソファにもたれた綾瀬さんが歌うように続けた。
「高橋オーナーの覚えもめでたい稼ぎ頭の一人。現在はオーナー代理を努めるあの零史と凌ぎを削ったナンバー2」
「………!」
「ちなみに雅俊はナンバー3。それは見事な所作だったものよ」
さらに追い討ちをかけられ、僕は苦しくなって胸を押さえた。
そうか。だから拓巳くんは嫌がり、俊くんも言いにくそうにしていたんだ。
真嶋さんたちのほうが詳しいとは、自身は同僚の立場だったので、より客観的な説明ができるということだろう。
いや? でも。
「今、雅俊さんがナンバー3だったと言いましたね。雅俊さんも優秀なホストだったってことですよね? なぜ雅俊さんはよくて恍星さんはだめなんです」
ホストという存在を拒否するのなら、ナンバー3だったという俊くんへの態度の説明がつかない。
「それは、雅俊が拓巳を助けるために店入したのに対して、恍星君はもともと自分の目的のために働いていた人だからだよ」
真嶋さんが答えた。
「彼は拓巳が店に出される以前に入店し、高橋要の条件のもとで成果を出して上位に登った人なんだ」
「じゃあ、ホストとしては零史と同じ立ち位置だったってことですか?」
「ライバル同士だったようだよ」
だとすれば、拓巳くんが隔てを置くのは当然、むしろ雑談していたのが不思議なくらいだ。
「そんな人がなぜ、拓巳くんとやり取りできるようになったんです」
「彼こそが、一番最初に拓巳の状況を危ぶんで行動を起こした人だからだよ」
真嶋さんは真摯な眼差しになった。
「彼も家庭環境が危うくて、一人立ちを急ぐ立場だったんだ。そのために要の店に入り、努力して地保を築いた。ところが要が拓巳を連れてきて、理不尽な扱いをしだした。彼は見て見ぬ振りができなくなり、拓巳に手を差しのべた。けれどホストとして活躍する彼の手を拓巳は取ることができなかった。そこで彼はピアノ科の後輩で、拓巳と似たような境遇にいた雅俊に拓巳を会わせるんだよ」
「それじゃ拓巳くんと雅俊さんは恍星さんを介して知り合ったんですか?」
そんな根幹の人だったのか!
すると真嶋さんは少し考えるように手を上げた。
「いや、二人が最初に会ったのはその前のはず。確か雅俊がホテルで拓巳を助けたのがきっかけで……」
「あ、」
語尾を濁した真嶋さんを見、僕は昔、俊くんに聞いた話を思い出した。
そうだ。男に連れ込まれそうだったところを二人で逃げ出したのだ。
真嶋さんが続けた。
「けれどそのときはお互い名乗らずじまいだったようで、恍星君に紹介されて初めて雅俊と拓巳はお互いを知るんだよ。もしそれがなかったら二人は違う人生を送ったと思う」
だからある意味、彼のお陰と言えるよねと真嶋さんは目を伏せた。
「恍星君は拓巳を雅俊に紹介し、僕が拓巳と交流したことを知るとすぐに僕の勤め先を訪ねてきた。そして事情を明かして助力を求めてきたんだ。僕が動き出すと協力して、資料や証拠をコツコツ集めた。それが後に彼が日本を離れるきっかけになってしまうんだけど……」
「日本を離れるきっかけ? ピアノの関係とかじゃなくてですか?」
真嶋さんは痛みを含んだ眼差しで頷いた。
「彼はピアノの才能を見込まれて渡欧するんだけど、それはたまたまタイミングよく話が持ち上がったからで、本当の理由は僕の依頼で内部調査を手伝ったときに、要の部屋から重要な証拠を手に入れて僕に渡したせいで、あの男の怒りを買って横浜にいられなくなったからなんだ」
「………!」
僕は今度こそ驚いて真嶋さんを見た。
そうか。それで俊くんも真嶋さんもあの人への信頼が厚いんだ……!
ただ助けを求めたり協力したからじゃない。要の評価と信頼を裏切ってまで拓巳くんのために動いたからだ。
僕が悟ったことを見て取ったのだろう。綾瀬さんがしなやかな体を背もたれにうずめて嘆息した。
「その当時、私はまだ若輩だったので、パトロンの世話を受ける立場だった。パトロンに連れられて高橋オーナーの店に行き、ゲストとして彼らのもてなしを受けたわ。 シルバー……恍星はそつのない笑顔と話術が巧みな人気のホストだった。その立場を捨ててまで拓巳のために協力した人だもの。今回の企画が演出から持ち上がってきたとき、再会に花を添えるのもいいかと思って許可したの」
「そうだったんですか……」
彼女もそこを気にかけていたのだ。
「でも、ホストとしての彼の姿を拓巳もずっと見ていたわけだから、手を差しのべてくれた人の一人とはいえ、人間性に相容れない気持ちを抱くのは仕方がない。そうとわかった以上、本来なら同席は避けるよう配慮すべきなのだけれど……」
彼女はチラと僕に目線をよこした。
「このあとのパーティーのために今日のショーがあったのだから、スタッフの奮闘のためにもモデルたちの筆頭であるタクミの姿を欠くわけにはいかないわ」
「……はい」
アヤセ・インターナショナルにとってショーはいわば見本市で、経営スタッフたちが商談を繰り広げるパーティーこそが本番なのだ。主要のモデルたちはパーティーに出席することも仕事に含まれている。しかしあの状態の拓巳くんに仕事を遂行させるのは至難の技だ。
「今の拓巳を説得するには……私は手が空かないし、芳弘さんは昨日のことがあるから甘えられたら弱いでしょうし、和巳はそもそも原因だし……」
「す、すみません。でもあの、そのところのお話も聞かせていただければ、なんとかなるかと思うのですが」
ようは僕が彼の知る母の話に興味がなくなればいいのである。当時の殆どを見聞きしてきた綾瀬伯母なら見当がつくだろう。
そんな意味を込めて言ったのだが、意外にも彼女はため息をついた。
「若砂と恍星が同じ店で働いていたという話ね。それは高橋オーナーの店に来る前のことでしょう。残念ながらその頃の私はあちこち飛び回っていたので、若砂のバイト先の話まではよく知らないの」
「そう……ですか」
思わず真嶋さんを見ると、彼も首を横に振った。
「僕も。恍星君と若砂が一緒にバイトしていたなんて初めて知ったくらいだよ」
「そうなんですか?」
「そもそも僕は、若砂がホストをしていたこともよく知らなかったし」
母が石川町で伝説的なホストだったことを教えてくれたのは、去年の夏に亜美の事件でお世話になった真嶋さんの師匠、アツシさんだ。その話を聞いたときはただ驚いただけだったが、こうして色々わかってくると別の側面に気づかされる。
戸部若砂という人は、いったいどんな経緯でホストになどなったのか。
ホストを嫌う拓巳くんが選んだ人でありながら、あの零史と張り合うような上昇志向の持ち主とバイトしてたってどういうことだ。
「……二人は別のホストクラブで凌ぎを削った仲だったということでしょうか」
不安になってつぶやくと、真嶋さんが首を横に振った。
「いや、それは違うと思う。その店は確か雅俊も最初に入ったところで、ホストの真似事をするカフェだったはずだよ。接客の練習場所になっているのだとか」
「ホストになるための修行として、ホストカフェでバイトしたってことですか?」
「修行のためではあっただろうね。ただ、どうも若砂自身がその頃のことを忘れたがっていたようで、拓巳も触れないようにしていたらしいんだ」
「じゃあ、ホストといっても恍星さんとは違うタイプの人だったんですね?」
「敦さんから聞いた話では、若砂のいた店は上品で落ち着いた、女性のための癒し空間だったそうだよ」
それを聞いてホッとすると、真嶋さんが微笑んだ。
「でなければ、拓巳が選ぶはずはないだろうからね」
「そ、そうですよね」
するとそれまで考え込んでいた綾瀬さんがふいに顔を上げた。
「……そうよ。若砂からの預かりものだもの。ここは彼に頼ってもバチは当たらないわよね」
お母さんからの預かりもの?
「綾瀬?」
不思議なつぶやきに真嶋さんが首をかしげると、綾瀬さんは「待って」と答えてから立ち上がり、数歩先にある電話の受話器を取って喋りだした。
「ええ、そう。そちらからは外れて……ありがとう。急いでね」
指示を終えた彼女はもとの位置に戻ると僕たちに言った。
「助っ人を呼んだわ。私の知らない若砂を知っていて、おそらく恍星との関わりも知っている人よ」
「えっ!」
そんな人がこの会社にいたのか。
誰だろう、と綾瀬さんを凝視すると、彼女は夜色の目を陰らせた。
「ただ、そこに触れることを許してくれるかはわからない。若砂の話を聞けるかどうかは和巳、あなた次第ね」
許してくれるかわからないとは、綾瀬さんらしからぬ気の遣いようである。
「けれど彼に頼めば、少なくとも拓巳をパーティーに出席させることはできると思うわ」
「出席させられるって、あの拓巳くんをですか?」
それが本当だとしたらすごい人である。
「そうよ。彼の言葉なら、拓巳には無視できないはずよ」
すると真嶋さんが僕の横から綾瀬さんのほうに少し身を乗り出した。
「まさか、若砂の?」
お母さんの? と真嶋さんに顔を向けたそのとき、背後でドアをノックする音がした。
「社長。お呼びと伺いました」
「入ってちょうだい」
綾瀬さんが呼びかけると、頑丈な作りのドアが静かに開いた。
「失礼します。お待たせいたしました」
――あっ。
落ち着いたテノールの声をかけて入ってきたのは、確かに僕も面識のある男性だった。
「ごめんなさいね、いきなり現場から外して」
「いえ社長。もう段取りは済んでいますから。真嶋さん、今日はお疲れ様でした。和巳君もご苦労様です」
真嶋さんがやっぱりといった顔で「尾崎さんもお疲れ様です」と答え、僕も慌てて会釈する。
尾崎高志さんといえば、綾瀬さんが日本にいるときには秘書を務め、留守中は裏方を統括するマネジメント部門の責任者だ。ショーやパーティーで必ず見かけるので僕も小さい頃から顔を合わせている。
知らなかった。この人、お母さんの知りあいだったんだ。
三十代後半には入っているはずだが、彫りの深い端整な顔立ちと、品のある立ち振る舞いが魅力的な独身男性で、会社内でも高い人気を誇っているらしい。身長があと五センチ高かったら、モデルへの転向を薦められていただろうと言われているが、控えめで堅実な人柄の彼には秘書のほうがふさわしく思える。
尾崎さんは挨拶を返した僕たちに微笑みかけると、手招きをする綾瀬さんのそばに立った。
「さっそくだけど尾崎。重要なお願いがあるの。あなたにしかできないことよ」
綾瀬さんは前置きしてから先ほどの話をかいつまんで話した。
「……というわけで、拓巳はセイ、つまり荻原恍星に対してアレルギーがあるようなの。むろん会社の立場では 〈セイ・シュナイダー〉のピアノ演奏は外せないわ。けれどこのままだと拓巳の出席が覚束ないのよ」
じっと耳を傾けていた尾崎さんは、少し考えるように間を置いてから口を開いた。
「社長は、私に何を期待しておられますか?」
静かでありながらどこか硬い響きがある。この先の展開を予測して警戒しているのかもしれない。
そりゃ誰だって、『拓巳がグズってるのに和巳たちは役に立たないの。代わりに引っ張り出してきてくれるかしら』なんて頼まれそうになったら構えるよね……。
残念な思いで綾瀬さんに目線を向けると、その気配をどう判断したのか、彼女は優雅な微笑みで尾崎さんに言った。
「和巳に協力してあげてほしいの。どう? 引き受けてくれるかしら」
なんとも抽象的な言い回しである。が、意味は読み取れただろう。
固唾を呑んで見守っていると、彼は僕に目線を投げてから綾瀬さんに軽く頭を下げた。
「承知しました」
え、いいの⁉
驚いて尾崎さんを見上げると、目の端に映る綾瀬さんが僕に言った。
「良かったわね、和巳。時間が惜しいからさっそく行ってちょうだい。芳弘さんには頃合いを見てから合流してもらうことにします」
「あ、はいっ」
僕は慌てて立ち上がり、尾崎さんに頭を下げた。
「あの、ありがとうございます」
姿勢を戻して向き合うと、彼は一瞬、目尻に笑みを浮べたように見えた。けれどもすぐに表情を改めると穏やかな声で言った。
「では行きましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
僕は尾崎さんと並んで綾瀬さんと真嶋さんに会釈すると、先行する彼の後ろに従って部屋を後にした。
拓巳くんの控え室は三階の奥、普段はフィッティングルームに使っている部屋のひとつを用意したものだ。
勝手知ったる廊下を進む姿勢のいいスーツの後ろ姿に従っていると、細い通路の先に控え室のドアが見えてきたところでふいに彼が立ち止まった。
「和巳君。君は私に何を望みますか?」
振り向いた端整な顔に正面から聞かれ、綾瀬さんの言葉が脳裏に浮かんだ。
『私の知らない若砂を知っていて、おそらく恍星との関わりも知っている人よ』
この人に聞けば、お母さんの昔のバイト先の様子がわかるということだ。そうすれば根本的なことが一気に解決して、僕も安心して拓巳くんを説得できるようになる。誠実と評判の尾崎さんから聞かせてもらう分には、拓巳くんも嫌がらないんじゃないだろうか。
あれ。じゃ、尾崎さんと拓巳くんも昔からの知り合いだったってこと?
そんな素振りは一度も見たことはなかった。でも。
「和巳君?」
こちらを覗き混むように見上げてくる切れ長の目に向き直り――僕は咄嗟に喉まで出かかっていたセリフをやめ、別の言葉に置き換えた。
「……あの、まずはた…、父をパーティー会場へ送り出すために力を貸していただけますか?」
彼は一瞬、目を見開き、次いで口を開いた。
「拓巳さんを動かすことができるのは、君か真嶋さんしかいないというのが社内の常識ですが」
言いながらも鋭く感じた目線が和らいでいる。僕は彼の意思に添えたことを確信してホッとした。
危ない、危ない。綾瀬さんが言ってたじゃないか。『話を聞けるかどうかはあなた次第ね』って。あれはきっと、いきなりプライベートな質問をするような無神経なことをしたら、答えてもらえないってことだぞ。
でなかったらこの時間のない場面で、こんな風にはぐらかすような聞き方はしないはずだ。
「今日に限っては、その常識は当てはまりません。理由は先ほど綾瀬伯母が説明していたとおりで、僕や真嶋さんがシュナイダーさんに示した態度のせいで父の不興を買ってしまっているからです」
「拓巳さんはセイ・シュナイダー氏にアレルギーを抱いているにもかかわらず、お二人が親しみを表したから、でしたね。では私などがしゃしゃり出ていってもなおさら不興を買いそうではありませんか」
「いえ。伯母から尾崎さんも父を動かせる人だと聞きました」
「その話の根拠を知らないのに、君は信じられるのですか?」
言外に「先に確認しなくていいのですか」と問われ、僕はグッと顎を引いた。
「本音を言えば、納得してからにしたいです。でもそれは僕個人の希望でしかありません。伯母……綾瀬社長が動かせると断言したからには、まずはそれを信じ、タクミにスケジュールを全うしてもらうよう努力するのが僕の仕事ですっ」
最後は未練を捨てるつもりで言い切ると、尾崎さんは整ったラインを描く口元に笑みを浮かべた。
「立派な心がけです。では私も私心を捨て、君に倣いましょう」
そうして彼はドアの前に進み、ノブに手をかけて拓巳くんの控え室に踏み込んだ。