楽聖たちの邂逅
「やっぱここは……だな。これでよし、と」
アップライトピアノに向きあう雅俊のつぶやきを、壁際の木製ベンチに寝転んだ拓巳は背中で聞いていた。
察するに、さっきの練習でつかんだ音が気に入って、また楽譜の黒スケども(←音符)を動かしたに違いない。
おい。これで何度目だよ。
午後一番でこのスタジオに入ってから、かれこれ二時間が経過したのだが、休憩はこの一回だけだ。しかもまだ五分くらいしか経っていないのにもう始めようとしているらしい。
案の定、椅子を軋ませた雅俊がこちらに声をかけてきた。
「拓巳。休憩は終わりだ。最初からやるぞ」
「おまえは鬼か」
拓巳は硬い座面で寝返りを打ち、壁からスタジオの中へと視界を移した。
Gプロビルの地下に三つあるスタジオは、収録や撮影で使う第一はもちろんのこと、今使っている練習用の第二や、隣の第三も音響設備がいいので予約の倍率が高い。いくら古株だからといって、たかが個人レッスンにそう長々と使えるはずはないのだが、ナゼか雅俊が使うときは誰も注意しにこない。
「粘ってないで起きろよ。まだいけるだろ?」
「ムリ」
「そんな風には見えないな。ぐずっても帰りが遅くなるだけだぞ」
いや、和巳ならわかってくれる。きっと休憩を伸ばすよう雅俊に進言してくれるはずだ。
そう思って壁掛け時計を見、分厚そうなドアに目をやって早く来いと祈る。しかしほどなく今日の和巳のスケジュールを思い出した。
そうだ。セラがそろそろ一人暮らししたいとか言って、社長室で話し合ってるんだった。
確か『まだ早いし、危ないから引き留める方向で説得するんだよ』と言っていたはずで、それは拓巳も同感である。しかし。
ああ。いつ話し合いが終わるかわからねぇじゃねーか……。
いつもなら、こういった練習のときは一時間以内に合流してくれるのに。あの柔らかい笑顔を見ないとやる気がでない……。
「おい。現実逃避しても状況は変わらないぜ」
いきなり雅俊に腕をつかまれ、拓巳は渋々立ち上がった。
「わかったよ。痛てーから腕引っ張るのはよせ」
「よし。じゃ、出だしのところな」
雅俊がピアノの椅子に戻って機嫌よくアカペラ部分の音を出す。しかたなく拓巳もステージの立ち位置に戻った。
背筋を伸ばして息を吸い、声にして送り出す。
光と風に煽られ 無数の花びらが散る
巡り続けた時の果てに 今、新しい扉が開かれた
細く高く囁きながら言葉をはっきりと区切り、滑らかに響かせながらも一音一音をぶれさせない。その相反する条件を、高い音域の中だけで何度も繰り返す。はっきり言って嫌がらせのような難曲だ。
ただし聞いてる分にはいい曲だけどな。
芽吹きの春、幾つもの喜びや苦悩、そして新しい日々への思い……〈扉のむこう〉と題されたそれは多くの者が経験する、春の喜びと寂しさを内包した曲だ。
まあ、端的にまとめれば《色々ツライこともあったけど、それが人生だよな。これからもめげずに生きてこうぜ》ってな曲で、明らかに和巳へのメッセージが込められていて、必然的に拓巳の感情も入りやすいというわけだ。無理難題な音階を歌詞が補っていて、まんまとハメられた気分が拭えない。
伴奏が始まり、耳に心地よい音の連なりが声を支える。拓巳はつられるように声量を上げた。
「っ、……」
一瞬、喉が支えきれず、音が微妙に外れる。雅俊がすぐにピアノの手を止めた。
「ブレスが甘い。集中しろ。これで三度目だぞ」
容赦なく注意が飛び、拓巳は思わず切れた。
「やってるわ! 声出してばっかで喉が疲れてんだよ!」
「言い訳か? 情けない。それだけ声が出るならできるはずだろうが」
「なんだと、このっ……!」
思わずつかみかかりそうになったそのとき。
「おいおい、もったいない。ケンカはやめろよ」
ふいに後ろから声をかけられ、ぎょっとして振り向くと、いつのまに入っていたのか、ドアの前に長身の男が立っていた。
「せっかくいい気分で聞いてたのに。ずいぶん荒っぽくなったもんだな」
拓巳は雅俊への抗議も忘れて声を上げた。
「恍星……!」
「えっっ⁉」
首を伸ばした雅俊の声も裏返る。
彼は涼やかな目元を細めて歩み寄ってきた。
「よぉ。拓巳、雅俊。久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
◇◇◇
社長室を裏の扉から出ると、突き当たりにエレベーターがある。
社長や沖田さんたちに断りを入れ、僕は一足先に地下スタジオへと急いだ。
ああ。予定よりだいぶ時間オーバーだ。
今ごろ拓巳くんと俊くんが煮詰まっていることだろう。まだ担当になって日が浅い広田や橘がやきもきしているに違いない。
予定より時間がかかってしまったのはもちろん、予期せぬ来客のせいだ。
束の間、早川さんと睨み合った綾瀬さんは『邪魔立ては許しませんわよ』とばかりに深い夜色の瞳を光らせると、セラに向き直って説得を始めた。
「セラ。私はあなたの独り立ちしたいという意思には大賛成よ。ただ、残念ながら今のあなたの立場はあなたが思うよりもずっと厄介なの。だからある程度の束縛は仕方がないと思ってちょうだい」
「綾瀬さん………」
「心配はいらないわ。私のマンションなら買い物も各種手続きもビルの地下でできるし、外出もできてよ。社員がお供するくらいだからそんなに気も張らないわ。気楽に構えてちょうだいな」
すると正面の早川さんが負けじと意見した。
「お待ちください。高橋要氏が絡む以上、内田様の安全には高度なセキュリティが必要かと存じます。社員で済むレベルではないでしょう。その点、当方にお任せいただければ専門の者を配置でき、拓巳様や和巳さんにもご安心いただけますよ」
セラはとんでもないと首を横に振った。
「そんな、大層な」
「ご心配には及びません。自由にお買い物を楽しまれましてもお気づきにならないレベルで身辺をお守りできます。普段の暮らしには一切の変化を感じずに済みましょう」
「い、いえ、ですからどうか。私など、そんな風に気にかけていただくような者ではありませんし……」
「何を言ってらっしゃるんですか、セラさん」
再び声を上げたのは後藤社長だ。
「あなたは我が社が誇るトップアーティストのご家族。お一人暮らしは慎重にならなければ」
「そうよセラ。周りの目も警戒すべきだけれど、なによりあなたが向き合う相手はあの高橋オーナーなのよ。ここはやはり私のところに来るのが得策よ」
「いえ、まずは安全を第一に考えましょう。それには当方にお任せいただくのが最善かと」
「い、いえ、あの、私は……!」
恐れ慄くセラに一歩も引かない両者。
ど、どうしよう。
しかしそんな膠着した状態を正したのは真嶋さんだった。
「ストップ! 早川さんも綾瀬も落ち着いてください」
両手を突き出された二人はハッ表情を変え、やや前のめりだった姿勢をソファに戻した。
真嶋さんは若干、厳しい目を二人に向けた。
「お二人とも。今日はセラさんのために来てくださったと伺った気がするのですが、それ以外に何か含まれてますか?」
「…………」
「結構。他の何かが影響しているのなら、場所を変えていただかなければならないところでした」
二人を止めた真嶋さんは、その薄茶の眼差しをセラに向けた。
「セラさんも。ご自分を価値のないもののように言うのはやめてください。それはあなたの血を継ぐ拓巳や和巳をも貶めることになりますよ」
「そっ、そんなつもりは……!」
「あなたにそのつもりがなくても彼らからすれば、己の源泉であるあなたの自己批判は自分を批判されているのと同じです。それは僕には許しがたいことだ」
「……、……」
「二度とそのような表現はしないでください。わかりますね?」
「はい。申し訳ありません……」
しょんぼりと俯くセラを哀れに思ったか、そこで真嶋さんは表情を和らげた。
「その上でお聞きしたいのですが、拓巳と暮らすのはお辛いですか ?」
セラはハッと顔を上げた。
「いえ、そんなことはありません」
「本当に? 無理してはいませんか?」
「……あの、どうしてでしょうか……」
セラが肩を縮めると真嶋さんは苦笑した。
「余計なことを聞いてすみません。なにしろ我が儘で気まぐれな子ですから、驚いたことも多いかと思いまして」
「…………」
「ですがあれでいて、拓巳はセラさんが家にいることを喜んでいます。あなたが急にいなくなってしまったら不機嫌になるだろうとわかるので、僕としてはもうしばらくそばにいてやってほしいと思っています」
セラは縋るような眼差しになった。
「でも……」
「あなたがどうしても独り立ちなさりたいなら、長く引き留めたりはしません。ですから少しだけ猶予をあげてやってくださいませんか?」
柔らかな微笑みとともにお願いされ、さしものセラも固辞できずに頷いた。真嶋さんはすかさず礼を言って頭を下げ、すぐに二人の客人に向き直った。
「お聞きのとおり、セラさんの住まいは今しばらく保留です。もちろんご指摘の件はこちらも認識不足でしたのでもう一度練り直し、ご提示いただいた物件はよく吟味させていただきます。そのことについては後日、こちらから連絡させていただきますので、お二人とも今日のところはこちらにお預けください」
真嶋さんが二人にもそれぞれ微笑んでから頭を下げる。僕も慌ててそれに倣った。
さすが数々の危機対処に手腕を振るってきた真嶋さん。こじれそうだった話を、重鎮である両者を退けつつ、猶予を願う後藤社長の希望に添った方向で収めてみせた鮮やかさには脱帽だ。
むろん二人にこれを拒むことはできず、それぞれに連絡する手筈を整えてのち、後藤社長の見送りに背中を押される形で部屋を後にした。
そうして僕は真嶋さんに「ずいぶん過ぎちゃったね。先に降りた方がいいんじゃない?」と促され、後からセラとともに来てくれるようにお願いしてから飛び出してきたというわけだ。
もどかしい思いでエレベーターのランプを見上げ、Bの点灯とともにドアの前に立つ。開いたドアから飛び出して突き当たりの廊下を右に折れると、目的のスタジオの扉の前に人だかりができていた。
な、なに? まさか取っ組み合いのケンカとか。
ひとまず歩調を緩め、耳をそばだてつつ集団へと近づくと、半開きのドアの向こうから思いがけない音が聞こえてきた。
ピアノ演奏?
己のささやかなクラシック音楽知識が正しければ、この哀切を帯びたスラブ調の曲は、確かハンガリー舞曲というやつではなかったか。
これってまさか俊くん……?
有名な曲ではあるけれど、知っているものより音が複雑で難易度が格段に高くなっている。小さい頃に少し習っただけの僕でもわかる、プロのピアニストが弾いているような演奏だ。
こんな本格的な演奏ができるほど回復していたのか。
驚きを覚えながら首を伸ばすと、思いもよらない光景が人だかりの先に現れた。
あっ! あれってさっきの人!
なんと先ほどセラを見て興奮ぎみに挨拶していた青年が、俊くんとピアノの椅子を分けあう形で肩を並べ、複雑に手を動かしているではないか!
ピアニストだったんだ!
連弾なら、音が複雑で多いのも頷ける。とはいえかつて僕が観た発表会の連弾とはまったく違うレベルで、目まぐるしく盤上を行き交う手はどちらもためらうことなく鍵盤を捉え、複雑な指の動きは速すぎて目で追いきれない。一瞬でも気を抜けばすぐにぶつかるだろうその距離で、呼吸の合った演奏は圧巻の迫力だ。
これがプロの連弾! すご過ぎる……!
「すごい……!」
心のセリフが肩の下から聞こえ、ドキッとして目をやると、先ほど三階で顔を合わせた亜美が釘付けになっていた。
僕はつい聞いてしまった。
「亜美さん。あの人はいったい誰? 」
「えっ、あ、高橋先輩」
亜美は驚いたようにパッと顔を上げたが、僕を認めると緊張を解いた。
「セイ・シュナイダー先生はヨーロッパを中心に活躍する日系ドイツ人ピアニストで、今はロンドンの芸術大学の講師をなさってるそうです」
「日系の、ロンドンの大学講師……」
では、セラとは同じ大学で勤務していた仲間だったということか。
「そんな人がどうして君と共演することになったのか、聞いてみた?」
「はい。先生は日本で育った縁で、あちらでも日本人歌手とコラボすることがよくあったそうで、東京に来たときに私の曲を書いて下さった作曲家の先生と対談する機会があったようなんです。そこで次の曲の伴奏をピアノにする話が出て、アレンジをお願いしたら、生演奏してくださることになって」
「なるほど」
歌手がクラシックの楽器を伴奏で使うときによく出る話である。
「向こうでは有名なコンクールで何度も入賞しているのだそうで、私なんかが伴奏をお願いできるような方ではないと思うんですけど、先生はぜひやりたいと言ってくださって……」
言いながらチラと室内を窺う亜美の肩が縮む。漏れ聞こえる演奏の凄さに気後れしているようだ。
気持ちはわかるな。
群がるスタッフの先に覗く二人の手捌きは巧みで、交わす目線には余裕が窺え、ただの練習スタジオがいまやコンサートホールのような雰囲気だ。
しかもなに。あの長年コンビ組んでるゼ☆みたいな阿吽の呼吸。……じゃなくて。
僕は自分の胸に湧いたモヤモヤは脇に置き、ひとまず亜美を励ました。
「大丈夫。多くのクラシック奏者は、ヨーロッパで活躍していても日本ではホールが埋められないんだ。だから人気歌手とコラボすることで彼らの仕事もやりやすくなるんだよ」
これは前に俊くんから聞いた話である。
「そうなんですか? あんなに素晴らしくても?」
「よっぽど世界的に有名でない限りは。現に僕たちは彼のことを知らなかったでしょう?」
「……はい。確かに」
「日本では亜美さんの方が有名だ。だからあの人も君との仕事にはメリットがあるんだよ。いい曲を作ることに集中すれば、きっと喜んでもらえると思うよ」
「はい……はい。頑張ります」
少し気が晴れたか、亜美は笑顔を浮かべて頷いた。同時にクライマックスを迎えた演奏が終わり、周囲からドッと拍手が沸いた。
「すごい! ブラボー!」
「雅俊さんすごいッスねっ!」
室内から広田と橘の声がする。彼らも俊くんの本格的な演奏は初めてのようだ。
こちらでも集まったスタッフが拍手や歓声を上げながら口々に噂している。
「知らなかった。マースってピアノもすごいんだ」
「話には聞いたことあるわよ。昔、勉強してたんでしょ?」
「でも実演は今までしなかったよな。なんでかな?」
「そういう機会がなかっただけじゃない?」
ああそうか、そうだよなと収まったところで、そのうちの一人が僕に気づいた。
「和巳君。邪魔してごめんよ。どうぞ行って」
「亜美ちゃんも。あちらの先生とレッスンだったよね」
ごめんね、さぁ仕事に戻ろう、じゃ、すみませんと口々に告げられ、前に押しやられながらスタジオの奥へと進むと、こちらに気がついた俊くんが困り顔で立ち上がった。
「とんだ茶番に付き合わされた。お陰でヘトヘトだ」
室内を見渡すと拓巳くんの姿が見当たらない。休憩中だったということか。
するとセイ・シュナイダーなるピアニストが俊くんに言った。
「茶番はないだろう。ウォーミングアップって言ってくれよ」
「あんたにはそうだろうが、おれにはキツいんだよ。昔よりだいぶマシになったとは思うけど」
腰に手を当てて口を尖らせた俊くんに、椅子に腰かけたままのセイ・シュナイダー氏が笑う。その親しげなやり取りに僕は驚いた。
セラと向き合っていたときとは違う、まるで十年来の友人のような気安さだ。
そうか。きっと昔、Gプロの仕事で関わってたことがある人なんだ。その縁もあっての亜美の話なのかもしれない。
「そうだな。思ったよりよかった。レッスン続けてたのか?」
「そりゃ、ある程度は。リハビリも兼ねてたから」
リハビリと言われてつい手元を見てしまう。俊くんは左の小指を庇うように右手で包んだ。
「でも、今のおれには二、三曲が限界さ。リサイタルがこなせるあんたとは違う」
その言い方があまりにも寂しげで、僕は思わず口を挟んでしまった。
「雅俊さんにはピアノの他にも素晴らしいものがいっぱいあります」
そんな男に負けてなんていません!
「和巳?」
訝しげに呼ばれ、ハッと我に返る。
べ、別に競ってるとかじゃないし。
僕は慌てて仕事モードに戻り、俊くんに頭を下げた。
「な、なんでもありません。失礼しました。遅くなってすみません」
「謝るほどのことじゃないさ」
足音がし、止まると同時に肩を上げる感触する。
「でも、僕が……えっ?」
てっきり俊くんだろうと思ったら、肩を引き上げたのはなんとセイ・シュナイダー氏のほうだった。
「君、さっきセラを案内していたよな。彼女は帰ったのか?」
「は? いえ、あの、まだ……」
どうやらセラのことが気にかかっているらしい。そのうち真嶋さんとここに来るのだが、それを伝えていいものか。
俊くんの知人ならいいんだろうけど、なんか引っかかるんだよね、この人。素直に頷けないというか胡散臭いというか。
迷いを読み取られたのか、肩をつかむ手に力がこもった。
「まだここにいるんだ?」
「えっと……はい。あの」
「君は彼女の連絡役とかも担当してるんだろ? 俺も連絡取りたいんだけど、お願いできるかな」
「いえ、それは一存では」
「できないのか。ああ、社内規定に触れるんだ。じゃ、社長に申し出ればいい?」
立て続けに聞かれてまごついていると、突然、後ろから両肩をグイと引かれて彼の手が外れた。
「おい! なに迫ってんだ。離せよ」
「拓巳くん!」
背中から守るように覆われ、首だけで振り仰ぐと、いつの間に戻っていたのか、サングラスなしの端正な横顔が男を睨みつけていた。
目の前に来た俊くんが声を上げた。
「拓巳。おまえはトイレ長すぎ。お陰で一曲弾かされたじゃないか」
「うるせえ。おまえらがピアノ談義に花咲かせてるから気を利かせてやったんだろうが。それよりあんた、なに和巳に絡んでんだよ」
再び拓巳くんが突っかかり、僕は慌てて説明した。
「違うんだよ拓巳くん。シュナイダー先生はセラさんのことを聞いてきただけなんだ」
すると拓巳くんが目を見張った。
「シュナイダー……? 」
あ。拓巳くんはそんなに知ってる人ってわけじゃないのかな。
「拓巳」
俊くんが注意を促すような素振りで拓巳くんの肩を軽く叩いた。
「おまえには言ってなかったか。仕事の都合で改名して、セイ・シュナイダーが今の名前だ」
知らないんじゃなくて、名前が変わってたのか。
音楽関係者だと、CDなどを売り出すタイミングで名称を変更することはある。
「セイ……?」
拓巳くんは俊くんを見、そして彼が指差す方向を見た。そこには一人取り残されたような亜美がペコリと頭を下げていた。
「亜美。いたのか」
「はい。あの、シュナイダー先生と、第三スタジオでレッスンを……」
「あ、そうかコラボの」
拓巳くんが目線を戻すと俊くんは頷いた。
「だからこれからはセイって呼べよ」
拓巳くんは府に落ちたように頷くと、セイと名を変えたらしい男に顔を向けた。
「わかった。じゃ、セイ。和巳には社内での立場がある。あんまり困らせないでくれ」
「わかってるさ。社長に聞くって今、言ったじゃないか。まったく柄が悪くなったよなぁ……っていうかおまえ、この彼とはずいぶん親しいんだな。驚いた」
そのセイにしげしげと見つめられ、僕は再び落ち着かなくなった。
拓巳くんは気に食わなさそうだけと、そこそこ付き合いがあった人なんだ。拓巳くんの素顔に動じないし、性格も知ってるみたいだ。
にもかかわらず僕のことは知らないようなので、いまいち関係がわからない。
「あたりまえだろう。和巳は俺のためだけにここにいるんだからな」
拓巳くんがちょっと自慢げに言うと、セイは目を見張った。
「おまえの? けど彼はセラの世話係とかもしてるんだよな?」
「セラ? さっきも言ってたな。セラがなんだって?」
拓巳くんと俊くんがそれぞれ首をかしげる。僕が手短に三階での経緯を話すと、拓巳くんは呆れてつぶやいた。
「ロンドン時代のセラの講師仲間? 世間は狭いな……」
すると俊くんがハッと顔を上げた。
「まてよ。じゃ、あんたは知らずにセラと知り合ってたってことか」
「なんだ、おまえらも彼女の知り合いか? あ、もしかしてボイトレでお世話になったことがあるとか」
三人がお互いの顔を見合わせることしばし。俊くんがおもむろに横を向いて壁際に呼びかけた。
「橘、広田。和巳が来たから今日はもう大丈夫だ。マネージャーに報告したら帰っていいぞ」
彼ら二人は僕の代わりに控えていたわけで、野次馬スタッフの仲間ではない。
「あ、はい。じゃ、お疲れ様でした」
二人は頭を下げてそそくさと立ち去り、俊くんは亜美に目を向けた。
「横澤はどうした。一緒じゃないのか」
亜美はビクッと背筋を伸ばして答えた。
「よ、横澤さんは時間が来たら迎えに来る約束です」
一時間後です、とつけ足されて俊くんは頷いた。
「この先のこともある。亜美ならまあ、いいだろう」
「あの?」
俊くんから手招きされ、亜美がおずおずと近づく。手の届く距離に来たところで俊くんが言った。
「ここからの話は内緒にしてくれるか」
「えっ? あ、はい! もちろんです」
亜美が深く頷くと、俊くんは拓巳くんを押し退けて僕との間に立った。
「セイ。気づいてないようだから紹介させてもらう。和巳は俺たちの担当で、セラのスタッフじゃない。孫だ」
「あ、違うんだ。じゃあ社長に……なんだって?」
セイが眉を跳ね上げ、亜美がハッと目を見張る。俊くんは僕と拓巳くんに目をやり、再び彼に向き直った。
「孫だと言った。同時にマネージャー見習い中のスタッフであり、拓巳の息子であり、おれのパートナーでもある」
「なっ、えっ? むす、……パートナーって、前にこっそり報告してくれた拓巳の息子のことだよな?」
「そう。それがこの和巳だ」
セイは銀灰色にも見える薄い色の目を忙しなく動かしていたが、僕の顔に目を留めると声を上げた。
「そんな馬鹿なっ!! だって君は戸部若砂の息子だろう!? そっくりじゃないか!」
――えっ!
戸部若砂とは、亡き母の結婚前の名前である。
今の言い方だと、この人もお母さんを知ってることになるぞ。
そこでふと先ほどの三階フロアでの邂逅を思い出す。
じゃあ、さっき僕を見て怯んだような顔をしたのは、ビックリしてたってこと?
そのわりにはセラのことばかり気にして、僕には声をかけてこなかったのだが。
不審に思って彼を見返すと、いまだ衝撃から覚めやらぬように口元を覆っている。それを見た俊くんが「ああ」と苦笑した。
「あんたは若砂を知ってたから、それも話したんだっけな」
セイはハッと目を見開くと、血相を変えて俊くんに訴えた。
「そ、そうさ! ずいぶん前だけど、若砂は病気で亡くなって、でも息子を一人残したって……!」
どうやら俊くんから聞いていたらしい。
あれ? でも。だったら……。
胸に引っかかるモヤモヤを探る暇もなく二人のやり取りが進む。
「悪い。情報が中途半端だったようだ。つまり拓巳の結婚相手が若砂なんだ」
「まてまて! それってあの戸部若砂のことだよな? なにか勘違いしてないか? 彼は石川町きっての」
「そっか。あんたは若砂と面識があっても、詳しい内情までは知らなかったんだな。若砂の体質はおれと同類で、体が変化したんだよ。拓巳と出会ったのはそのあとで、和巳は若砂が産んだんだ」
その瞬間、セイの薄い色の目が恐怖に彩られた。
「……そ、そんなことが……っ!」
胸に手を当てた姿からは激しい動揺が窺え、僕は居心地が悪くなった。
ナニもそんな、この世の終わりみたいな顔しなくたって……。
「……おい。失礼なやつだな。そんな化け物見ちまったみたいな顔するんじゃねぇよ」
拓巳くんが不機嫌な顔で言うと、彼はハッと目の覚めた顔になり、バツが悪そうに頭を掻いた。
「いや、ごめん。そんなつもりじゃないんだ。ただ、あんまり……驚いて」
俊くんが苦笑した。
「まあ、確かに『普通』じゃないからな」
「おい」
拓巳くんが声を上げ、セイが慌てたように言葉を継いだ。
「悪かったよ。彼……和巳君か。彼がその、立派な青年だったから、話に聞いていた『拓巳の息子』と結びつかなかっただけなんだ」
拓巳くんがジロッと彼を見た。
「それにしては、若砂の息子だってのはすぐにわかったみたいだよな」
真正面から睨まれたからか、彼は一瞬、たじろいだ。が、誤魔化すように咳払いすると笑顔を作った。
「そりゃそうさ。これだけよく似てれば」
端整な顔が僕を見て感慨深げになる。拓巳くんが面白くなさそうに目を眇めた。
「へぇ……」
「ま、まあ、おまえにも似てるっちゃ、似てるかな」
そこはムリしなくていいです。
「それで? セラと和巳君はどう繋がってくるんだ?」
強引な話題転換だったがそれには俊くんが答えた。
「セラは拓巳の母親だ」
「……はっ?」
「印象が真逆すぎて気づかなかったろ。けどメガネを外して額を出せばそっくりだぞ」
「……あっ」
先ほどの再会を思い出したのだろう、目を見開いたセイに俊くんが続けた。
「詳しい話は改めてにするが、事情があって彼女は拓巳を育てられず、イギリスで両親と暮らしていたようだ。で、一昨年に帰国したあと、運よく再会したんだ」
「そんなことが……」
セイはなんとも言えない表情で聞いていたが、ふと何かに気づいたように涼やかな目を見開いた。
「……ってことはまさか高橋オーナーの」
僕はまたしても驚いた。
この人、あの男のことまで知ってるのか!
俊くんはそうだと頷いた。
「そのことで今、ちょっと厄介なことになってる。だからあんたは……セラとは表だって関わらないほうがいいかもしれない」
――?
それはどういう意味だろう。
「ああ、そうか。そうだな……」
しかし彼にはそれで通じたのか、洒落たシャツブラウスの広い肩が下がり、俊くんは気の毒そうな顔になった。
「悪いな。その辺の情報交換も兼ねて、時間が空いたら飲みにでも行こう。連絡先は変わってないよな?」
「ああ。俺の生活は相変わらずで、あちこち行き来してるけど、取りあえず仕事で一週間はここにいる。あとで宿泊先を教えるから、空いてるときに来てくれよ。地下にラウンジがあるんだ」
「わかった」
俊くんが頷くと、彼はこちらに顔を向けた。
「拓巳と、あとよかったら君も。俺と戸部若砂は一緒にバイトしてた時期があるんだ。多分、雅俊たちが知らない話を披露できると思うよ」
「えっ」
お母さんとこの人が!
瞬間、胸の中にあった彼へのモヤモヤが吹き飛んだ。
「あのっ、それじゃシュナイダーさんはバイト仲間だったってことですか⁉」
思わず前のめりになってしまい、慌てて一歩下がる。彼は一瞬、見開いた目を笑みに変えた。
「まあね。でももうずいぶん昔の、横浜で暮らしていた頃のことだから、そんなにたいしたことは覚えてないんだ。あいつと一緒にバイトしてた期間も短いし。ただ……」
「ただ?」
彼は言葉を切って俯くと、少し間を置いてから顔を上げた。
「別の店に移ったあとの彼と、彼の先輩の評判が高かったことは何度も耳にした」
そこまで言うと、セイは切り替えるように頭を軽く振り、傍らに控える亜美に目を向けた。
「ごめんよ。すっかり待たせてしまった。俺たちもレッスンしないとね」
「はい。よろしくお願いします」
「じゃ、行こう。雅俊、拓巳。邪魔して悪かったな。また近々会おう」
「ああ。連絡待ってる」
彼は俊くんの返事に手を軽く上げると、亜美に話しかけながらスタジオを出ていった。
ふと横を見ると、拓巳くんが難しい顔で考え込んでいる。
「どうかした?」
「…………」
黙り込む拓巳くんに俊くんが言った。
「おまえは昔からあいつには懐かなかったよな。一応、恩人なんだから、もうちょっと謙虚に振る舞えよ」
「恩人?」
つい声に出すと、俊くんがチラっと確認するような目線をドアに投げたあとで僕に顔を向けた。
「おまえに紹介し損ねたな。あいつはおれたちの中学時代の」
「やめろよ」
拓巳くんが遮った。
「こんな、誰が聞いてるかもわからないようなところでできる話じゃないだろ?」
「ちゃんと声は落としてるだろうが」
俊くんがムッとすると拓巳くんの表情が険しくなった。
「おまえには学生時代の貴重な先輩かもしれないが、俺にとってはそうじゃない。愛想振りまいて感謝するなんて無理な話だ」
そして僕の腕をつかむとドアへ向かおうとした。
「待てよ。どこへ行く気だ」
「今日はもう十分やっただろ。邪魔が入ったせいで気が失せた。先に帰らせてもらうぜ」
「おい、勝手に」
拓巳くんはふいに足を止めると、俊くんのほうをクルッと振り返った。
「あと、週末にあいつと飲みに行くなら和巳は返せ。俺は行く気はないからな」
えっ、行かないの?
ちょっと怯んだところに俊くんが詰め寄り、今にも動こうとする拓巳くんの腕を押さえた。
「そんなのおかしいだろ! 和巳だって誘われてんだぞ」
拓巳くんは俊くんがつかんだ腕を忌々しそうに見てから僕に顔を向けた。
「和巳は行きたいのか」
「えっ……と、それは、あの」
行きたくないと言ったら嘘になる。別にあの人自身に会いたいわけではないけれど、拓巳くんたちも知らないという若砂さんの話が気になるからだ。
しかし僕の戸惑いを察した拓巳くんは、一瞬、顔を歪めると、無言で僕の腕を離した。
「拓巳くん!」
そして俊くんの手を振り払って体を返し、足早にドアを開けて出ていった。
「いい。ほっとけ。あんなワガママ野郎」
「でも……、……」
僕は急いで考えを巡らせ、ピアノに戻ろうとする俊くんの肩をつかんで止めた。
「ごめん。僕、追いかけるよ」
「和巳?」
俊くんが抗議の眼差しで見上げてくる。僕は宥めるように手を取った。
「拓巳くん、なんだか様子が変だった。今日は一人にしないほうがいいと思う」
俊くんは一瞬、眉を跳ね上げたか、僕が目を見つめて待っていると、ひとつ息を吐いて俯いた。
「……しょーがない。今日は水曜日だが、プライベートにまで口を出せる日じゃない」
僕が彼の専属になる日は基本、土日で、水曜日は仕事のサポートに入るだけだ。
言外に行っていいと言われ、僕はホッとして笑いかけた。
「ありがとう。残りの時間、一緒にいられなくてごめん」
長い指の手を持ち上げ、両手で包んでそっと唇で触れると、俊くんは残ったほうの手で僕の頬を撫でた。
「その代わり、今度の土曜日はいつもより早く来い。恍星とは飲みにじゃなくて昼食にしよう。それなら拓巳もおまえが同席することをそれほど拒否しないだろうさ」
「そうだね、……って、コウセイ?」
ふいに出た名前に首をかしげると「あっ、つい」という顔で手を下ろした俊くんは、どこか言いにくそうに説明した。
「荻原恍星。昔のセイの名前だ。彼は中学時代の上級生で、おれとはピアノ科で凌ぎを削った仲だった。拓巳にはまた違う繋がりがあるんだが……あいつには聞かないほうが無難だな。そのあたりのことは多分、おれより芳さんや綾瀬のほうがよく知ってると思う」
「…………」
それは、真嶋さんと綾瀬伯母になら聞いてもいいということか。
「じゃ、拓巳は任せた」
芳さんたちにはおれから言っておくからと背中を押され、僕は喉まで出た疑問を胸に戻した。
ちょうど明後日は午後から夜にかけてモデル〈タクミ〉の仕事が入っている。
「俊くんも根詰めすぎないでね」
手を外して前髪を持ち上げ、額に額を触れ合わせる。今日は、熱は出ていない。
そのまま首を傾け、そっと唇を触れ合わせてから、僕は拓巳くんを探すべくスタジオを後にした。