星が落ちる日
〈E-リミテッド〉を見事、軌道に乗せた俊くんは、次の一年を精力的に過ごした。
ラジオのパーソナリティ、トーク番組のゲスト、インタビューに雑誌への寄稿。もちろん彼のファンのために企画したソロコンサートも開いた。
『タクミ&マース』と銘打ったステージなので、ちゃんとステージ衣装を身につけた姿で、MCを入れ、拓巳くんの歌にピアノやキーボードで伴奏する彼を、ファンは熱狂して喜んだ。
六月からの治療期間は相変わらず体に厳しく、体重の戻りも鈍りがちではあったが、その年の十月には〈E-リミテッド〉のセカンドアルバムが発表され、売れ行き好調のまま年末コンサートに臨めた。
勢いを保った状態で三年目に突入し、年明けにも様々な企画に参加してから三月に治療を受けた。
自宅療養に入った四月には僕の大学生活も四年目を迎え、就活ならぬGプロ社員研修に参加して早々に正社員の辞令を受けた。単位はすべて取り終えていたのであとは卒業論文だけになり、俊くんが自宅療養から仕事を再開し始めた頃には、登校日もほぼ週一になった。
「これでようやくこの先のスケジュールをGプロメインにできますね。頼りにしてますよ」
沖田さんの期待に満ちた眼差しを受け、僕も気を引き締めて頭を下げた。
「雅俊さんの療養が終わったら、いよいよコンサートツアーの準備ッスね」
「夏の札幌野外ステージ。みんな待ってるからなあ」
橘と広田が盛り上がり、
「その前に拓巳君のクレストを撮り終えるよう、アヤセ側に交渉しないといけませんよ」
「あ、ヤバい。ちゃんとフォローしておかないと、コンサートで高橋君が雅俊さんに取られるから拓巳さんが怒る」
沖田さんと西名がスケジュールの確認に走る。
ファンクラブ登録数も順調に増え、活動の場が広がる〈E-リミテッド〉への期待が増し、いよいよツアー開催に着手というところまで進んできたとき。
「雅俊さんが倒れました。熱が高いので救急車を呼びます!」
五月を目前にし、Gプロの会議に参加し始めていた俊くんに、とうとう異変が起こったのだった。
総合病院に呼ばれた僕と拓巳くんは、主治医の渡辺先生同席のもとで御射山医師の説明を受けた。
「今回の高熱は臓器の炎症から来ています。以前の反応と似ていますので、同じことが考えられます」
「それは、じゃあ薬の副作用ということですか?」
僕が確認すると、御射山医師は真剣な面持ちでパソコンを操作した。
「はい。これは予想していましたので、すでに別の薬を幾つか用意してあります。ただ、そのための検査をしてみましたところ……病巣の増殖数値が上がっていることがわかりました」
こちらですと示されたディスプレイの数値は、先週の値に比べ、どの項目も一桁台だったのが三から四桁にまで跳ね上がっていた。
「そんな。治療はちゃんと終わってるのに」
「どういうことだ。責めるとかじゃないから教えてくれ」
拓巳くんの質問に、御射山医師は固い表情で答えた。
「癌細胞とは厄介なもので……それまでは眠っているように動かなかったものが、ふいに活気づいて一気に勢いを加速させることがあります。臓器の炎症に関与する場合もありますので、それが起こった可能性も考えています」
「まて。雅俊は強い薬で癌細胞を叩いてたんだよな? それで減らしたばっかなのに、いきなり増えちまったってのはおかしくないか?」
効果がなかったってことかとつけ足されて渡辺先生が身を乗り出した。
「そうじゃないよ、拓巳くん。前回の数値は低いだろう? 薬が効いたから低いんだよ」
「でもじゃ、どうして急に。これじゃ別の、まるで耐性菌でもできたみたいな反応だ」
「それは……」
渡辺先生が言葉を詰まらせると、御射山医師が軽く抑えるように手を上げた。
「そう、ですね。その可能性はあります」
「御射山君」
少し慌てた顔の渡辺先生に、御射山医師は頭をひと振りして答えた。
「いえ、事実を直視するべきです。癌細胞も元は体の一部、外敵に攻撃されれば抵抗する機能を持っています。耐性菌とはメカニズムが違いますが、抵抗力の強いものが出現した可能性はあります」
早急に調べます、と御射山医師は決意を顔に浮かべた。
「まずは炎症を抑えるためにICUのほうで手を尽くします。お二人は小倉さんの入院の準備をお願いします」
その姿には真っ直ぐな潔さと覚悟が現れていて、拓巳くんもそれ以上、質問を重ねることはなく、僕たちは隔離病棟に用意された俊くんの部屋に荷物を持ち込んだ。
その日は一旦、自宅に帰り、翌朝に方々への連絡を済ませてから病院に戻ると、まもなく二人の先生から呼び出しがあった。
「まだ熱は下がっていませんが、ピークは脱しました。このまま容態に変わりがなければ個室に移動できます」
「よかった、ありがとうございます」
ひとまず胸を撫で下ろす僕に、しかし御射山医師は続けた。
「その後のことですが、熱が下り次第、次の投薬を検討したいと思っています」
「えっ!」
絶句した僕の隣から拓巳くんが質問した。
「昨日の話に何か結論が出たのか」
御射山医師は拓巳くんに目を向け、やや目線を下げながらも顔を見るようにして説明した。
「今朝の画像診断で、今までの病巣には薬が効いていることを確認しました。ですが血液検査では数値が高い。つまり別の病巣が進んでいるということです」
なんだって。
「それは……じゃ、やっぱり薬に反応して別の癌ができたってことか」
拓巳くんが畳みかけると、御射山医師はいえ、と否定した。
「薬の影響というにはちょっと種類が違うようです。が、今までの薬が効いていないことには変わりありません」
僕は思わず口を挟んだ。
「でも、熱が下がったばかりですぐにあんな辛い治療をなんて……っ」
とてもじゃないけど無理だ。
御射山医師は痛恨の表情で頷いた。
「もちろんわかっています。下がってすぐとはいきません。ですが今回のものは、今までのように間を開けることはできないと考えています」
ですからぜひ話し合わせていただきたいと彼女は頭を下げた。
すると渡辺先生が口を開いた。
「急な話でさぞ戸惑っているだろうね。ごめんよ。けどこれは、スピードが重要になってくるかもしれないんだ」
拓巳くんが質問した。
「早いとこ叩かないと危ないってことですか」
先生は白髪混じりの眉尻を下げた。
「癌細胞の中にも色々いて、進行が早くて臓器に食い込みやすいものがいるんだ。今まで雅俊君には、そのタイプのものはなかったんだけど……」
「今回はその可能性があると」
それには御射山医師が答えた。
「詳しく調べるために、専門部署に送ってありますから、三日後にははっきりします。もし当たっていた場合は……」
彼女はそこで言葉を切り、ひと回呼吸してから続けた。
「小さなうちに徹底して叩かないと、あっという間に広がってしまいます」
「―――」
思わず息を飲んだ僕の隣で、拓巳くんが身を乗り出して訊ねた。
「先生。もしあんたの見立てどおりだとして、いつから次の治療に入りたいんだ」
御射山医師は拓巳くんに目を向け、やや瞼を伏せぎみにしながらもはっきりと答えた。
「熱の下り具合にもよりますが、なるべく早く、できれば二週間以内に投薬ができればと」
「………」
それが体力的にかなりのリスクを負う治療だということは、僕にも拓巳くんにも想像できた。
それからしばらくすると、まだ点滴のついた俊くんがICUから個室に移ってきた。
少し面やつれした彼は、すでに先生からの説明を受けたようで、枕元に椅子を並べた僕たちに言った。
「悪いな。ちょっと……この先は予定どおりとは行かないようだ」
僕が答えるより早く、拓巳くんが口を開いた。
「それはいい。どうにでもなる。それよりもおまえの体が優先だ。とにかく今は熱を下げることだけを考えろ」
「無茶を言うな」
俊くんが笑った。
「念じて下がるものならとっくに下がってるわ。……この先のことを考えておく必要が出てきたってことだ」
俊くんは熱で潤んだ目を僕に向けた。
「和巳」
僕は逃げ出したい気持ちを押し殺して声を絞り出した。
「はい」
「どうやらここまでのようだ。……すまないな」
ちゃんと答えたいのに喉がうまく動かない。
首を横に振ると、拓巳くんが震える僕の肩を支えるようにつかんで言った。
「まだ早い。結果も出てないし、出たとしても、熱が下がって治療に入れるかもしれないだろ」
御射山先生は諦めてない、と彼は俊くんを見た。
「早めに叩けばどうにかなるって言うなら可能性はある」
俊くんは困った顔をした。
「おれに、まだ地獄を見ろっていうのか」
「そうだ。渡辺先生は、もう手がなくてダメなときはダメと言ってくれる人だ。尽くす手があるうちは諦めるんじゃない」
俊くんは、しばらく拓巳くんを見、ため息をついた。
「厳しいヤローだな……仕方ない。もうちょっとだけ付き合うか。それで勘弁しろよな」
肩をつかむ拓巳くんの手から少し力が抜け、俊くんが僕に目を戻した。
「……ってなわけだ。定まらなくて悪いな」
「そんなことないから……っ」
「ただし、だめだったときに備えておく必要はある。もしうまくいったとしても予定の変更は必要だろう。その辺のことをマネージャーと相談してくれ」
その言葉に従い、僕は沖田さんとスケジュールの変更を進めながら俊くんの回復を待った。
しかしその後も熱は出続け、三十七度台に下がるまでさらに三日を要した。そして個室を訪れた御射山医師からの報告は厳しいものだった。
「先日、お話したとおり、今までとは別の、進行の早いタイプでした。……残念です」
ベッド脇にパイプ椅子を並べた僕は、声もなく聞き入った。
「それで、おれはまだ治療の対象になるのか?」
ベッドを起こした体勢の俊くんが静かに問いかけると、御射山医師の肩が僅かに揺れた。
「今日の血液検査の結果でいくと、一週間以内に投薬を開始すればまだ効果は期待できます。ただ……」
「ただ?」
御射山医師はためらい、けれども思い切ったように告げた。
「このタイプは勢いが強いので、薬が効果を上げても半年は持ちません。この先は治療間隔を三ヶ月以内の短いものにせざるを得ないでしょう」
「―――」
それは、進行が早いと聞いたときから僕も予想していた言葉だった。即ちこの先、彼が投薬を受けても活動する時間は作れないのだと。
「そうか」
俊くんは御射山医師に労うような優しい声をかけた。
「ちゃんと話してくれてありがとう、千景。お陰で迷わずにこの先の手が打てる」
御射山医師は眉根を寄せ、無念の表情を浮かべた。
「それでだが、もしこのまま投薬治療しなかった場合、おれに残ってる時間は?」
彼女はハッと肩を揺らし、一度深呼吸してから医者の顔に戻って答えた。
「あくまでも統計ですが、このタイプで小倉さんの年齢ですと、半年前後と見るのが一般的です」
「半年か」
彼はまるで別の人のことを論じているような口調で言った。
「じゃあ、投薬治療を一回、頑張った場合は?」
御射山医師は考える口調で言った。
「……まだ小さい今のうちに取りかかれば、この病巣が再び力を持つのは三ヶ月から五ヶ月ほど、と考えられます」
「そこから半年だから一年弱か。わかった」
頷いた俊くんに、御射山医師が「小倉さん」と声を上げた。
「たとえ三ヶ月おきでも、まだ作曲はできます。自宅療養中には絵だって……っ」
「わかってる。明日までによく考える。自分がどうしたいかをな」
ありがとうと締めくくられた御射山医師は肩を落とし、「では……また明日、伺います」と頭を下げて出ていった。
それを目で追うようにして見送っていると、布団の上をつかんでいた僕の手に温かい指先が触れてきた。
「和巳」
僕は顔を俊くんに戻した。
「……はい」
「悪いが、今度は好きにしていいか……?」
僕は答えようとしたけれど、嗚咽にとって変わられそうだったので頷くことで返事に代えた。彼は僕の手を握り、「ありがとう」と微笑んでから静かに目を閉じた。二連のリングが嵌まる手指を握り返しながら、僕はもうこれ以上、引き留めてはいけないのだと自分に言い聞かせ、この先に待ち受けるものを覚悟した。
そうして翌日の午後。
再び俊くんの部屋にパイプ椅子を並べ、僕と並ぶ拓巳くん、渡辺先生、御射山医師に囲まれた中、点滴も終わり、ベッドから体を起こした俊くんが告げた。
「病巣を叩くための投薬を一回受けてみます。なるべく早くお願いします」
頭を下げられた渡辺先生は、ふくよかな体を少し椅子から乗り出した。
「それは、雅俊君。この先は新しい病巣と戦っていくということかな?」
彼は苦笑し、片手を上げた。
「いえ、さすがに。それはもう、鼬ごっこだってことはおれにもわかりますよ」
間隔が短くなっていくだけでしょう? と続けられた先生はしょんぼりと背を丸めた。
「あと一回だけやって、稼いだ時間で残した仕事の始末をつけたい。それがおれの望みです」
俊くんの希望に、しかし渡辺先生は上目使いで言葉を返した。
「君の大事にしているものを保てなくてごめんよ。でも、生きるって意味を考えれば、君にはまだ一緒に」
「先生」
たまらず僕は遮った。
「もし、僕のことに関連しているのであればお気遣いは無用です」
「和巳君……」
先生と、そして拓巳くん、御射山医師がこちらを見た。僕は隣からの視線を特に強く感じながら、真っ直ぐに先生を見た。
「僕にとっても、雅俊さんがやりがいのある時間を持ててこそ、治療をしてもらう価値がありました。ですからこの先はもう、思うように過ごしてもらうことが僕の望みです」
「和巳君……」
先生が絶句したように僕を見、次いで俊くんを見た。すると隣から拓巳くんが聞いてきた。
「和巳。それでいいのか」
僕は拓巳くんを見た。
「はい」
「……いいんだな?」
探るように再度確かめられ、僕は頷いた。
「わかった」
拓巳くんは小さく息を吐くと、渡辺先生に言った。
「先生。雅俊の好きなようにしてやってくれ」
「………」
先生は少しの間、悲しげに口を閉じ、次いで御射山医師に目線を転じた。
「頼めるかい、御射山君」
彼女は俯いていたけれど、渡辺先生に名を呼ばれると顔を上げ、俊くんを見て口を開いた。
「……あなたの時間を増やせるよう、最善を尽くします」
俊くんは微笑んだ。
「ありがとう。頼むな」
御射山医師は一瞬、顔を歪め、唇を噛み締めて会釈した。
そうして五日後の朝、彼は最後の投薬に挑んだ。
もはや自分の免疫には頼れず、無菌室へと送られて過ごす彼を、僕は時間の空く限り待機室のガラス越しに見守った。
今度の投薬は約一週間。短期に集中して効果を上げるため、休養を挟みながらもほぼ持続して入れ続ける。そのため絶えずもたらされる辛い副作用に彼は耐え続けた。
「経過は順調です。管理も徹底していますからどうかお部屋に戻って休んでください」
担当の看護師に何回ともなく促されたが、僕はそのたびに礼を言い、けれどもその場から動くことはできなかった。
そんな僕を見かねたか、御射山医師の指示で待機室に簡易ベッドが用意された。
「小倉さんを支えると決めたなら、あなたも戦わなければいけません。まずは彼が回復したときに笑顔で迎えられるよう、しっかり寝てください」
彼女は睡眠導入剤を処方し、気が立ったように休めなかった僕を眠らせてくれた。
やがて一週間が立ち、俊くんは無事、投薬を乗り切った。
「まだ外には出られませんが、予想を超えるような副作用は出ていません」
とはいえ体が受けたダメージは大きく、退院できたのはそれからさらに二週間後で、病院に担ぎ込まれてからすでに一ヶ月以上、経っていた。
「なんでも好きなものを食べて、とにかく体重を増やすこと。ただし酒類はまだだめだからね」
「えー……、はい」
「診察は一週間後です。くれぐれも外出はしないようにしてください」
「はいはい」
二人の先生にあれこれ指示を受けながらも俊くんは嬉しそうで、僕の拙い運転をからかいながら目黒のマンションへと戻った。
「あー、やれやれ。やっと帰ってこれた」
そして僕をソファに誘うと、甘えるように体を預けながら言った。
「あと一週間は休むしかないな。そしたらぼちぼち仕事したいんだ。いいか?」
僕は骨の浮いた背中を後ろから包み、折れそうな手首に手のひらを添えてそっと持ち上げた。
「この骨がもう少し見えなくなったらね」
「えーっ」
不満そうな声が上がり、僕は笑いを交えて続けた。
「嘘。ちゃんと生活ペースを守ってくれるならいいよ」
「なんだよ」
色の薄くなった唇が尖る。けれどもそれは続かず、すぐにまた楽しそうに弧を描いて収まった。
彼にとっては、この空間だけが芯から休まるのだ。
雰囲気を壊したくなくて、僕は気にしていただろうツアーのことを話した。
「この先の予定もね。みんなで頑張って、なるべく変えないようにしてたんだ」
「えっ? じゃあ、ツアーは」
「札幌と仙台、どっちも場所は押さえてあるよ」
「ほんとか!」
痩せてもなお華のある美貌がこちらを見上げる。僕は頷いて笑いかけ、
「ただ、時期は後ろにずれるから、順番は札幌を先にしてね。仙台は秋に入っても寒くないよ。投薬時期とも重ならないから観光も」
できるし、と続けようとしたけれど――。
もう、次の投薬スケジュールに備える必要はないのだ。
思った瞬間、それまで奥底に閉じ込めていたものが一気に込み上げ、堰を切ったように目から涙があふれた。
「……、……っ」
突然、言葉を止めたまま涙をこぼす僕を、俊くんは目を見開き、そして抱き締めてきた。
「和巳……」
その声も頭を撫でる手もあまりに優しくて、僕は肩に額をつけて声を絞り出した。
「だ……い、丈夫だよ。今だけ、今だけだから……っ。あなたがくれた時間に誓ったんだからっ」
僕のために治療を選んでくれたあの日から、辛く苦しい投薬のときが来るたびに。
「いつかその日が来たら、今度は僕が時間を……、楽しい時間をあげるんだって。やりたいことを全部叶えてあげようって!」
たとえすべては無理だったとしても。
「だから……、泣いちゃいけないのに。泣いてる暇なんてないのに……!」
彼が笑ってくれているのに。
「ごめんなさい…っ、今だけ、だから……っ、……」
すると耳元に柔らかい声が届いた。
「いいんだ、和巳」
指先が髪を探るように撫でる。
「おまえに辛い思いをさせてるのはおれも同じだから、謝らないでくれ」
な? と彼は僕の顔を両手で持ち上げた。
「おまえが泣くとおれも悲しい。けど我慢してるのを見るのはもっと悲しいよ。だから泣きたかったら泣いていい」
「……、っ」
止めどなくあふれる涙を、彼の指が優しくぬぐった。
「ただ、せっかく時間を作ったから、おまえの笑顔も見たい。だから変な罪悪感だけは持たないでくれ」
「…………」
「おまえが自分を責めるなら、おれはもっと責められるべきだ。年若いおまえを奪ったんだから」
「そ、そんなことは」
「あるんだ」
彼は涙で濡れた指先で僕の唇を止めた。
「誰とでも未来を結べるおまえにとって、おれはたくさんいる可能性の一人だっただろう。けど、おれにとっておまえは唯一の、そして最後の相手だった」
俊くんは眉根を寄せて続けた。
「ごめんな。おれも我が儘だから、この世で通じ合える人がほしくって、それを持ってるおまえを見逃すことはできなかったよ」
そこに覗く後ろめたさに僕はハッとした。
「我が儘だなんて、そんなことない……っ」
強く首を振ると、彼はふわりと笑い、少し疲れたのか再び体を預けてきた。
「ありがとう。そう言ってくれるなら、おまえも我慢しなくていい。辛かったら泣いて、けどそのあとで笑ってくれたら嬉しいな」
ちょっと矛盾してるよな、と彼は困ったように笑った。
僕は預けられた体を抱き直し、癖のある髪に額をうずめた。
治療のために肩の上まで短くした栗色の髪は、きれいだったウェーブの艶が減り、額に当たる感触も前とは違って腰がない。けれども伝わるぬくもりは変わらずに僕を温めてくれた。
泣くのは今日だけにしよう。明日からは笑おう。でないと彼が僕を選んだことを後悔してしまう。
そのときの思いは、のちに僕の心を踏みとどまらせる最後の支柱となった。
その後、俊くんは一週間をおとなしく過ごしてのち、御射山医師の診察を受け、僕と渡辺先生を交えて今後の段取りをした。
「今後は検査を中心にして、可能な限り薬で抑えます。異変が出た場合はどの薬がベストか、その都度考えていきましょう」
この先の治療は対処療法――即ち痛みを取り除くケアを中心にした終末医療ということだ。
治療内容が百八十度変わってしまったことを、しかし俊くんはしばらくスタッフには告げないことにした。
「悪いな。気遣われるのは性に合わないから、なるべく普通にしててほしいんだ」
拓巳くんと祐さんは予想していたようだった。
「まあ、そうだろうな。しょうがねぇ。付き合ってやるわ」
「わかった。おまえも無理はしないようにな」
凱斗は動揺を見せたが、稜先輩に情報共有が許可されたことで冷静を保った。しかし多くを担うことになるセイはそうもいかず、真っ青な顔のまま無言でいた。俊くんはその日の夜、彼と話し合う時間を取った。長時間にわたった話し合いの翌日、何かを決意したようなセイの姿があった。
メンバーの他に内情を知るのは身内とその関係者、そしてGプロでは後藤社長と沖田さんのみとした。
「予定したものはできる限り実行するつもりです。だからみんなにも普通でいてもらいたいんです」
「でも雅俊君。それでは君が困ったりしないのか」
社長は現場でのやり取りを心配したが、俊くんは「大丈夫です」と説き伏せた。
「そう長いことではありません。おれの周り――広田や橘あたりには折を見て伝えます。でも直接関係のない人までは知らなくていいかと思ってます」
「そうか……。わかった。そのあたりは任せよう。沖田君。和巳君もいることだ。よく相談してあげてくれ」
沖田さんは「わかりました」と眼鏡の奥の目を瞬かせた。
俊くんがやり遂げたい最大の企画はツアーだったので、すでに着手していた札幌と仙台だけに絞った。
突然の入院とその後の経過報告を兼ね、俊くんはスタッフにこんな説明をした。
「予定に穴をあけてしまって申し訳ない。大事を取り、まずは二つのツアーを確実にやりたいんでよろしく頼む。治療のほうは通院で済むようになったから、問題がなければ年末に横浜アリーナができるだろう」
「ほんとッスか。よかったですね!」
橘など若いスタッフの大半は喜んだが、中にはある程度、知識を持つ者もいて、社内の片隅で疑問の声を漏れ聞くこともあった。
「ってことは、効果の高い化学治療はもうやらないってことにならないか……?」
しかしその意味を知るがゆえに直接聞く勇気のある者はなく、しかも中心メンバーが淡々と準備を進めたので、やがて声は聞かなくなった。
そんな中、俊くん自身は徐々に体重を戻し、八月を迎える頃には仕事への完全復帰を果たした。
「北海道まであと少しか。急がないとな」
「きっと涼しいですよ。楽しみだなぁ」
まだ細身ではあるものの、髪や肌に艶が戻った姿は生き生きとしていて、スタッフと語らう姿は吹っ切れたゆえの清々しさすら加わり、いっときの錯覚を僕に起こさせた。
「札幌は新鮮な海産物がいっぱいあるよ。美味しそうなものを食べてみようね」
「そうだな。みんなでどこかに繰り出そうか」
ツアー直前の検診では数値も良好で、お酒など嗜好品の制限が弛み、札幌ではメンバーみんなで夜のご当地グルメを堪能した。そして翌日の野外ステージではファンの熱狂に迎えられ、〈E-リミテッド〉としてのツアー初舞台は大成功を収めた。
休養を挟みながら次の仙台へ移動し、そこでもファンの歓迎を受けた。中でも中盤のセイのMCタイムでは、舞台袖に控えるマースをみんなで呼ぶというサプライズがあった。最初は出る気のなかった俊くんも、『マース! マース!』とファンからコールをかけられては無視できない。そのあたりの心理を読んだセイの作戦勝ちで、最後は苦笑しながら舞台に出ていった。マイクを受け取って話に興じる俊くんの横顔が、文句を言いながらも笑っていて、満員のファンと交流できた時間は思い出深いものになった。
そうして横浜アリーナを三週間後に控えた十一月の下旬――。
「和巳。脇腹の痛みが収まらないようだ。悪いが病院に連れていってくれないか?」
いよいよ症状が体に出始めた。
◇◇◇
急いで病院に飛び込み、すぐに点滴が処置された俊くんだったが、ベッドに丸くなったままでいた体からまもなく力が抜けた。
「あれ? なんともなくなった」
様子を見に来た御射山医師が、脇腹を確かめるように触診したあとで頷いた。
「どうやら一過性のようですね。血液検査の数値に問題はないので大丈夫でしょう。取りあえず一週間後に診察日を取りますから、点滴が終わったら帰ってもいいですよ」
よほど青い顔でもしていたか、よかったですねと看護師に笑いかけられ、僕は赤面しながらもホッとして頭を下げた。けれども処方された薬は七種類もあり、体の状態の複雑さが窺えた。
「一番から六番まで、順番と時間を間違わないでくださいね。七番目の薬は急に痛くなったときに使ってください。一日に四回まで使えます」
大事な用事の前なら予防的に飲んでもいいですよ、と薬剤師に言われて俊くんがホッとした。
「仕事中にまた痛くなったら困るからな」
七番目の薬の存在が安心に繋がったか、アリーナの準備を進める様子は精力的で、セイと並んで意見を戦わせる姿に揺らぎは一切なかった。が、次の診察日では渡辺先生との問診のあと、御射山医師から注意を受けた。
「そろそろ運転は控えて、移動するときはどなたかが同行したほうがいいですね」
「なんでだ」
イヤそうな俊くんに彼女はこんな言い方をした。
「前回からお渡ししている薬は足にふらつきが出る場合があります。それ自体は休めばすぐに直りますが、あなたの場合は出先で症状が出ると大事になりますし、運悪く転倒してよけいな怪我をすることも防げますよ」
「そりゃそうだ」
俊くんは納得して引き下がり、「じゃ、先週の患部をもう一度診ますね」と御射山医師に連れられて検査室に向かった。僕は残った渡辺先生に確認した。
「先生。雅俊さんの痛みは症状が進んだからで、薬で抑える段階に入った……ということですよね?」
先生は白い眉を寄せ、細い目を糸のようにして頷いた。
「そう。今の薬は優れているから、まだしばらくは普通に暮らせるよ。……和巳君。辛いときはいつでも私のところに来てください。君のケアも大事だからね」
温かい気遣いが滲む言葉に、僕は頭を下げた。
その後、後藤社長や沖田さんと相談し、俊くんの仕事先には僕と沖田さん、メンバーが手分けして同行することにした。
「ってなわけだから拓巳。これからは平日も和巳は目黒でよろしくな」
「ふざけんな。寝るだけなんだからそこはカンケーねーだろ。どうしてもっていうならキサマが来い」
俊くんにとって、目黒のソファで過ごす僕との時間が癒しであるように、仕事でストレスを溜める拓巳くんにとって、他人がいない空間で僕とくつろぐ時間は特別だ。人への警戒心、不快感から解放され、心をリセットすることで、なんとか次のストレスに耐えている。
もちろん俊くんは理解しているはずで、二人がどこまで本気で言ったのかはわからない。けれども結果として、平日は俊くんが横浜で過ごすことになった。
そんな風にしてみんなで工夫したので、俊くんは薬を飲む以外、変わりなくアリーナ準備に邁進した。ただし予定していた演出を見直し、すべてセイと話し合いながら決めていった。
「でも雅俊。それだったらスモークにライトを当てたほうが」
「いや。それはコンサートホールなら見せる甲斐があるが、アリーナの設備じゃ遠くの観客には伝わらない。技術スタッフを困らせる企画は避けたほうがいい」
「なるほど、そういう考えか」
まるで伝授するようなやり取りが何を意味するのかはわかっていたけれど、僕はわからないふりをして過ごした。
できるかぎり明るく。悲しい顔は絶対に見せないように。
だから無事に横浜アリーナのコンサートを迎えられた日、舞台袖のモニターを見ている途中で、彼がさりげなく薬を飲みに下がってから戻ってきたときも、見て見ぬふりをして話しかけた。
「見て。やっぱり地元はすごいね。熱量が他と違う気がするよ」
「ああ、ほんとにな。よかった……」
画面を覗いた俊くんが、満員のアリーナ席から響く地鳴りのような歓声と、花火の光が乱舞するステージを見て満足げに頬笑む。
「この勢いが止まらないように、さっそくサードアルバムを仕上げないとな。あと二、三曲は増やしたいから、……ちょっと、引っ込んで集中するか」
笑顔のままに投げかけられ、僕は意図を察して答えた。
「そうだね。ここまで飛ばしちゃったから、さすがの俊くんも腰を据えないとアイデア出てこないでしょう。みんな待ってると思うし」
ですよね、と周りのスタッフに振ると、隣にいた橘が期待どおりに答えた。
「いいッスね! サードアルバム。早く聴きたいッス」
気遣わしげな眼差しの広田が続く。
「年末年始もありますから少しゆっくりして、……ご自宅で専念するのもいいと思います」
西名もそうですね、と頷いていて、物言いたげな目差しを向けてきた。
どんなに隠しても、気づく人は気づく。
彼らに明かす日もそう遠くはないなと胸に納めながら、僕たちは残りのステージを見守った。
横浜アリーナを大成功のうちに終えたあと、打ち上げ忘年会の挨拶で、俊くんはサードアルバムに専念すると宣言した。
「といってもスタジオには通うがな。内緒にしたいんで担当スタッフと関係者以外立ち入り禁止だ。楽しみにしてくれ」
これはうまい言い方で、これなら俊くんの姿は関係者以外の目に触れずに作業ができる。何も知らないスタッフたちは「えーっ、そんなぁ」「スタジオでのリハは公開で!」などと声を上げながらも楽しそうで、概ね裏の意図には気づいていなかった。
年が明けてしばらくすると、左腕や右足に痺れが出てきた。しかし診察日のあとに薬が処方されると症状は改善された。
「どうだ。まだ変か。変なら遠慮すんな。今日はやめとこうぜ」
「いや。なんともない。大丈夫のようだ」
スタジオの電子ピアノの鍵盤を弾きながら試す俊くんの傍らで、拓巳くんが不満そうにつぶやく。
「そこは無理しなくても全然構わないんだがな」
「あいにくと、おまえを前にすると不思議なことに治まるわ。残念だったな」
状況を知りながらも憎まれ口を叩き合えるのは、長年の絆の賜物なのだろうか。あるときは祐さん、あるときはセイや凱斗と相手を変えながら、一月の俊くんはスタジオに通った。
そんな中、とある一日にアトリエ行きを希望され、僕は手のひらに緊張の汗をかきながら運転手を勤めた。
「悪いな。あんまり行けてないから、今のうちに見ておきたいんだ」
「だ、大丈夫。前よりは慣れてきたから」
彼の車はコンパクトな外車のクーペで、右ハンドルなので未熟な僕にも運転がしやすく、狭い道が続く山手への道のりに威力を発揮した。
「ああ、こうして見ると外装がだいぶ煤けてきたよな」
俊くんは降り立った入り口でそんな言葉を漏らし、リビングでは壁際にあるアップライトピアノの前に佇んだ。そしてあちこちを見て回ったあと、二階から書類のようなものを紙袋に入れて持ってきた。
「ありがとう。帰ろう」
一連の行動の意味を僕が知るのはもう少しあとで、このときの俊くんは何も言わなかった。
二月に入ってもスタジオ通いが続き、一般スタッフの目に触れない状態での曲作りが進んだ。その合間には彼の誕生日を祝い、身内で夕食を囲んだりもした。けれども徐々に薬の効き目が短くなり、ふらつきが増えてきた。
そうして一日の痛み止めを使う回数が四回になった二月下旬。検診に行った御射山医師の診察室で。
「小倉さん。薬を変えるので、……そろそろホスピスの手配をしたいと思います」
パソコンのカルテに目を通した彼女が、とうとう俊くんに告げた。
「……そうか」
少し息をついた俊くんは御射山医師の顔を見、そして隣の僕を見た。
「和巳。サードアルバムを仕上げたい。もう少しだけおれを手伝ってくれ」
僕は張り裂けそうな気持ちを抑えて笑いかけた。
「もちろん。頑張るから安心してね」
力づけるように手を取ると、俊くんはホッとしたように微笑んだ。そうして最後になるだろう入院の準備を整え、各方面に連絡を入れてのち、目黒のマンションをあとにした。
ホスピス専用の病棟は完全看護で、終末を迎える患者の希望を極力叶えるために作られている。
ゆったりとした個室に入った俊くんは常用の点滴をつけられると、真っ先に電子ピアノを入れたいと希望した。
僕は病棟責任者に掛け合い、Gプロで使っていたものを持ち込めるようにした。
ここで僕と沖田さんは広田、橘、西名ら三人に説明することにした。
橘に伝えることは迷ったが、すでに把握しているだろう広田が必ずフォローしてくれると踏み、彼だけを外す判断はこの先のために避けた。
「というわけなので、これからは雅俊さんの個室が仕事場になります。まだ他のスタッフには伝えていませんから承知しておいてください。みんなで最後まで支えていけるよう、力を尽くしましょう」
五人だけの小会議室で、沖田さんの言葉を聞いた三人のうち、広田と西名は顔を歪めながらも「わかりました」と答えた。しかし案の定、何も気づいていなかった橘は言葉にならずに泣いた。
「そ、そんなことに、なってたなんて……っ、俺……、」
すると普段、穏やかな広田がふいに声を荒らげた。
「しっかりしろ、橘! おまえより辛い人がもっと前から耐えてるんだぞ!」
橘は弾かれたように僕を見、そして袖口で目を拭った。
「わ、わかっ……りました。俺、頑張ります」
「大丈夫です。俺が責任をもって使える男にしますから」
広田は橘を連れ、会議室を下がっていった。
僕は残った西名に向き合い、拓巳くんの担当を託すことを詫びた。
「すみません。この先もしばらくお願いすることになるかと」
「なに言ってるんだよ、高橋君」
西名は眉根を寄せて遮った。
「それは仕事なんだからあたりまえ。君が頭を下げることじゃない。それよりも高橋君こそ大変でしょう。雅俊さんは君にとって仕事だけの相手じゃないんだから」
休み取らなくていいの? と聞かれ、僕は笑みを浮かべて答えた。
「大丈夫です。雅俊さんは仕事をやりたくて、僕にも普段どおりにしていてほしいそうです。僕が行き来していると、外部に繋がっている感じがして安心するみたいで」
沖田さんが「いかにも雅俊君らしいですよね」と続けるのに苦笑して頷く。西名はメガネの奥の目を瞬かせると、訝しげな顔で僕を覗き込んだ。
「それって、君にとってはけっこう辛くない?」
「―――」
さすがに肩が揺れ、西名がハッと顔色を変えた。
「ごめん! 申し訳ない。余計なことを言った」
悪かったと頭を下げられ、僕は辛うじて声を出した。
「……父のことを、どうかよろしくお願いします」
「うん。任せて。君は雅俊さんに集中してくれて大丈夫だから」
「さ、さあ、段取りに移りましょう。電子ピアノを手配するんでしたね」
沖田さんが行きますよと西名を連れ出し、僕は笑みを顔に張りつけたまま後ろに続いた。
俊くんが求めるものを叶える――それは僕があの日に誓ったことだ。
だからどんなに辛くても、どんなにそばにいたくても、僕は彼の求めに応じ続けた。
「付き添いは、おまえが疲れるだろうからまだいい。アルバム製作のことを頼みたいからしっかり休んでくれ」
「はい」
「戸籍の件だが、この際だから綾瀬の申し出を受けようと思う。今、アトリエの権利を交渉中だから、もう少し待っててくれ」
「わかった。待ってるね」
俊くんが一番、気にしているのはサードアルバムの仕上がりで、午後から病室に入って彼の作業を手伝い、夕食後に次の指示を受けて帰宅し、翌日にまず事務所、次に俊くんとリモートでやり取りするセイの編集を補助し、そのあとで歌詞カードやジャケットの製作状況を確認してから病室に通う日が続く。
「ハードディスクとレコーダーをセイから預かってきてくれ。落としたりなくしたりすると大変だから頼むぞ」
「はい。行ってきます」
明るく頷くたびに、自分の何かが壊れていく気がしながらも、とにかく目の前の俊くんに笑顔を向け続けた。
「セイに届けたCDジャケットの色見本、どうなった?」
「二十七番か八番でどうかって。帰りに持ってくるよ」
「ああ、頼む」
「ちょっと待て。なんでいちいち和巳にばっか頼むんだ。そんなの広田とかに任せればいいだろ!」
居合わせた拓巳くんに抗議されると、俊くんは困った顔でこう言った。
「こういうものをスタッフに託す気はない。彼らには他の用事を頼んでる」
「なんでだよ!」
「おれが自分で運びたい大事なものや、目で確かめてから注文したいものを任せられるのは和巳しかいないからだ」
「……っ、」
その言葉は、壊れそうだった僕の何かを食い止めた。
そうだ。僕は今、彼の一番大事なものを託されているんだ。
拓巳くんが俊くんに詰め寄った。
「ほんとか? わざと用事作ってこき使ってんじゃないんだな?」
「そんなはずあるか」
「俺にはなんか不自然に見える」
僕は笑顔で拓巳くんを止めた。
「大丈夫だよ、拓巳くん。俊くんは自分で動けなくてもどかしいんだよ」
「和巳……」
それ以後は、拓巳くんも口を出さなくなった。
やがて点滴で薬を入れても足の痺れが取れなくなってくると、俊くんはパステルと画材を持ち込んでくれるよう希望した。
「イラストボードのメーカーは前と同じでよかった?」
「そうそう。できればマーメイド紙のやつがほしい」
「わかった。明日には買ってくるね」
そうしていつものように帰宅し、翌日に通う日を二日ほど繰り返している間に、彼は一枚の絵を描き上げた。
「これは……?」
ベッドにもたれた彼の横から簡易机の上を見ると、草原をイメージしたと思われる、若緑と青と白の小さな作品が画板の金具に挟まれていた。
「ああ。この前まで音をつけてた詩に、時間ができたら絵をつけようと思ってたんだ」
「それって〈まだ見ない明日へ〉って題がついてた作品のこと?」
まだ全容は見せてもらっていないものの、先週、五線譜に音符が書き終わってセイに届けた曲だ。
「そう。パステル画なら、おまえにも安心かと思って」
「―――」
得意のアクリル絵の具でも油彩でもなくパステルを持ち込んだわけを知り、熱いものが喉元に込み上げてたまらなくなる。けれども歯を食い縛る思いで笑顔に変えた。
「ありがとう。素敵な作品だね。さっそく額を用意しないと」
リハビリをずっと続けてきたお陰で、この頃には僕もようやく額への反応が落ち着いてきていた。
道具だらけのベッド周辺を片付けながら言うと、俊くんが棚の上のタブレットを指差した。
「詩を書き入れるからまだ完成してないけど、額は先に注文しておこうか」
そうして二人でタブレットを眺め、あれこれ言い合ったあと、細かい模様が刻まれた木製の額をギャラリー柏原に注文した。すると久しぶりの注文を喜んでくれたオーナーが、明日には用意できると連絡をくれた。
「だったらすぐにでも取りかかるか。……っと、遅くなっちまったな。拓巳がうるさいから早く帰れ」
「うん。じゃあ……」
一緒に額を選んだ時間が久しぶりに楽しくて、僕は少しだけ名残惜しくなった。
すると俊くんがベッドから片手を伸ばし、僕の頭を引き寄せて唇をそっと重ねてきた。
「……これでいいか?」
指先で顎をなぞられながら笑われ、僕は赤面しながら頷いた。
表情から察してくれたのだ。
「ありがとう。また明日」
「ああ。待ってるからな。額もな」
「額をでしょ」
「バレたか」
軽口を言い合ってから笑顔で病室を出、ナースステーションのスタッフに遅くなったことを詫びて地下駐車場を目指す。明日は額に入れるところまでいくかなと算段しつつマンションに帰り、遅いと文句をつける拓巳くんを夜の甘味で宥めた。
そうして翌日の朝を迎え、その日も同じように待ちわびた顔を見せてくれると思っていたのに――。
「和巳。今どこだ。すぐに病院へ来い!」
Gプロでの用事を済ませ、先に拓巳くんを病院へ送り出してから、ギャラリー柏原で額縁を受け取った矢先、僕のスマートフォンが届けてきたのは切羽詰まった祐さんの声だった。
必死の思いで駐車場のエレベーターに駆け込み、最上階のフロアに飛び出ると、焦燥を滲ませた祐さんが待ち構えていた。
「祐さん! いったい何が……っ」
「雅俊の容態が急変した」
言いながら祐さんの手が僕の肩をつかんで足早に運ぶ。僕は泳ぐようにして目の前に迫った銀色のノブをつかみ、ドアを横に滑らせた。
途端、カーテンの向こうから拓巳くんの声が響いた。
「だめだ雅俊っ! 目を開けろ‼」
―――!
心臓を槍でひと突きされたような衝撃がきた。
「……そんなっ、……!」
慌ててカーテンを開けてベッドの上を探し、斜めに底上げされた枕に横向きの顔を捉える。しかし酸素マスクをつけた顔に収まる瞳はすでに半眼で力がなく、明らかに意識を手放していた。
「雅俊さんっ⁉」
悲鳴じみた声が喉の奥から上がる。
俊くんに屈み込んでいた拓巳くんがこちらに顔を上げた。
「和巳、早く!」
手が向きを変え、僕に向けて差しのばされる。
引き寄せられるように駆け寄ると、掛け布団の上に投げ出されていた指先がピクッと動いた。
「あっ……っ、」
飛びつくようにその手を握り、ベッドに身を乗り出して顔を近づける。透明な酸素マスクのギリギリに耳を寄せると、掠れた呼吸音に混じって僅かな声がした。
「……、が……っ……」
「雅俊さん? 聞こえないよ。ねえっ……俊くんっ⁉」
そのとき一瞬だけ瞼が持ち上がり、オニキスの瞳が僕を見た。
――ありがとう、和巳。
はっきりとした声が頭に響き、黒い瞳が笑う。
「俊くん……っ、…」
けれどもそのままスゥ、と力が抜け、まもなく光を失った瞳が半眼に閉じた。
――ああ、俊くん。いくんだね。
「おいっ雅俊、ふざけんな! こんな終わり方かよ!」
「拓巳、よせ……」
拓巳くんが枕の脇に手をつくのを祐さんが止める。彼は拓巳くんを後ろから抱くようにしながら脇に目を向けた。
「先生。何か、手だては……」
のろのろと顔を上げた先では、二人の先生が切なそうに顔を見合わせていて、そのうちの白い頭のほうが祐さんを向いた。
「雅俊君は、一切の延命を拒んでいるんだよ」
ハッと体を揺らした祐さんが、肩を落として俯いた。
「……ああ、そうだったな……」
すると今度は拓巳くんが声を荒らげた。
「なんでだ。さっきまで普通だったぞ。急すぎるだろ!」
それには御射山医師が答えた。
「……ここのところの小倉さんは、ベッドの背を起こして、クッションを幾つも使っていませんでしたか?」
「クッション? そういやそうだったな。それが?」
「あれは楽にしていたんじゃありません。転移がかなり進んで、もう普通には姿勢が保てなかったんです」
「……っ、……」
「実はここ二日ほど、夜中はもう、痛みで満足に寝ることもできませんでした。ですが薬を増やすと日中に頭がはっきりしなくなるからと拒んで、みなさんといる時間は平気な顔をしておられた」
「―――」
「これより一段上の鎮痛剤を使うと意識が混濁して眠りにつきます。もう、使ってもいい段階だったのですが、『頭と右腕が動くうちは頑張っていたい』と。……よく、耐えたと思います」
拓巳くんが黙ると、彼女は俊くんのそばに歩み寄り、僕に向かって言った。
「拝見させていただきます」
「…………」
僕の握る手はまだ温かかったけれど、握り返してくることはなく、枕の上でこちらを向いた顔は穏やかに目を閉じていた。
動けない僕の目の前で、彼女は俊くんのもう片方の手を取り、瞼に触れ、そっと器具をかざし――。
「……瞳孔を確認いたしました。ご冥福をお祈り申し上げます」
静かな声が響いた瞬間、僕の周りから音が消えた。
こうして彼は僕を残し、二度と手の届かないところへ行ってしまったのだった。
幸せだったのは本当だ。
ただ、あっという間の日々だった。
そして最後まで駆け抜けるようにして行ってしまった。
僕の胸の奥に大きな穴をあけたまま――。




