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T‐ショック ムーブメント~まだ見ない明日へ  作者: 木柚智弥
➃落日の星~最終楽章
45/51

最後の準備

                ◇◇◇


「おい高橋! 待ってくれっ」

 舞台裏の通路を急ぎ足で奥へと向かっていた僕は、馴染みある呼び声に足を止めて振り返った。

「あ、先生」

 裏口から追いかけるように入ってきたのは去年までの担任、〈T-ショック〉ファンクラブ会員ナンバー二桁台、七十二番の向井(むかい)(ゆずる)だ。

 時間は午後の四時。開場まではあと一時間。スタッフ用パスをあらかじめ渡しておいたので、〈早めに来たなら健吾が案内できます〉とのメッセージがちゃんと伝わったらしい。

「いらっしゃい。今日は最後まで楽しんでいって」

 くださいねと言おうとしたのだが、バシッと両肩に置かれた(叩かれた?)手に遮られた。

「なあっ、教えてくれよ。あの噂、ガセなのか? それともちょっとは当たってんのか」

 よほど早足で来たのか、晴れているとはいえこの寒いのに額が汗ばんで見える。服装は黒のデニムに黒シャツ、柄のジャンパーとごく普通の厚みなので、それだけ気になって急いで来た証拠か。

 僕は前方から来た別のスタッフに挨拶し、向井を通路の脇に寄せてから答えた。

「噂ってどれです。焦らなくても逃げませんから」

 つかまれた肩に目を向けると向井は手を離し、代わりのようにズイッと顔を寄せてきた。

「解散だよ、カ、イ、サ、ン。今日が最後だとか言うやつが多いんだよ」

「ああ、それですね」

 あっさりと認めると、向井はなんだと肩から力を抜いた。

「やっぱガセネタか。まあSNSの投稿が元だろうし、いちいち取り上げてたらやってられないんだろうが、最近はなんだか盛り上がっちまってて。ライブハウスやロックカフェでもファンとアンチで喧嘩になってよ。昨日も伯父貴の店がやばかったわ」

 向井の伯父の店とは、健吾の先輩、佐伯(さえき)(しょう)のバンドもたびたびお世話になる『ライブハウス桜木(さくらぎ)』である。

「そうだったんですか……」

 ちょっと申し訳なくて俯くと、向井は「まあロックファンはケンカっ早いのが多いからな」と今度はフォローを入れた。落ち込んだ学生を見ると支えたくなる教師の(さが)に違いない。

「今日もコンサートに来てる連中の間で変な空気になってるところがあるって聞いて、行列のそばを抜けるときにそれとなく注意してみたけどよ。なんかいつもより野郎どもがギスギスしてる気がするんだよな」

 女の子たちは相変わらずキャーキャーしてたけど、と向井は裏口の向こうを見るような目をした。

 うん、そのとおり。さすがよく見てるね、先生。

 開場一時間前ともなると入り口には観客が並んでいる。三列で並んでもらってもぐるりと建物一周分はある。外の誘導スタッフはすでに仕事中で、実を言えばこちらでも気にしていたので、手が空いた隙をついて偵察しに行っていたのだ。

「まあ今回、いきなり一日限定でタイトルもちょっとアレだったから、一部の連中が騒いだのがSNSで拡散したんだろうけどさ。珍しくマースがブログでフォロー入れてこないから不安、ってのもあると思う。そこんとこ伝えといてくれよ。できれば最初のMCのときにちゃんとしといたほうがいいと思うぞ。ま、おまえが承知してるんなら余計な心配だったけどな」

 邪魔したな、と裏口へ戻ろうとしたので、今度は僕が向井の肩をつかんで止めた。

「見ていかないんですか? リハーサル。会場に入れば健吾が案内できると思うんですけど」

 祐さんにも言ってあるしと伝えると、向井は嬉しそうにしながらも手を横に振った。

「急な変更だったのは本当なんだろ? いつもと勝手が違うだろうから邪魔しないでおくわ」

「じゃ、楽屋で待っててくださってもいいですよ。せっかくフリーパス発行しておいたことだし」

 向井の首からぶら下がったプラスチックケースを指すと、彼はちょっと照れた顔になった。

「気を使わせて悪いな。でも伯父貴も一緒なんだ。他に仲間も来てるから抜け駆けはよしとくわ。終わって伯父貴たちと解散したら合流させてもらうかもしれんけど」

 打ち上げの店は健吾が連絡済みだ。

 僕は少し息を吐いた。

 どうやら俊くんの言葉は僕が伝えるしかなさそうだ。

「わかりました。じゃ、雅俊さんからの伝言だけ。『解散の噂、流したのはおれだからよろしく』だそうです」

「……は?」

 振り向いた向井は僕の顔を見た。それを見返していると、彼はだんだん顔色を変えた。

「おい。よせよ……」

 そしてもう一度、今度はそっと肩に触れ、僕を覗き込んだ。

「なんで……って、おまえに聞いてもいいのか?」

 僕は頷き、言葉を選ぶべく昨日までの出来事を思い浮かべた。


 僕がそれに気づいたのは十日ほど前、公式サイトをチェックしていたときのことだった。

「あれ……?」

 ファンから寄せられたコメントの中に、〈解散するって、ただの嘘ですよね〉〈解散とかデマ流されてハラ立つ〉などなど『解散』の文字がちらほらと出てきたのだ。

 否定ではあるけれど『解散』って言葉が目立ってきてる。困ったな。

 今回の決定は、二十年以上も多くのファンに支持されてきた〈T-ショック〉の終わり方としては唐突すぎる。特にチケットが買えなかった人たちからは裏切りだと言われても仕方がない。そこで準備期間中は極力『解散』の二文字を使わず、コンサートでは『再編成』のほうを意識して伝えてもらって、次のバンドに繋げていくという方向で運営を進めていたのだ。

 取りあえず打ち消しておこう。

 コメントの返信欄には解散を否定するものを増やしておき、一応、沖田さんと俊くんに報告したが、特に何か手を打つという話にはならなかった。しかし一昨日(おととい)の夕方の時点で、ワイドショー系ニュース配信でお馴染みの『いよいよ解散か!』の記事に対するコメントには、明らかにまともな受け止めをして議論する言葉が増えてきていた。

 それらに目を通し、他のSNSをチェックするうちに不自然さを覚え、昨日の夜、拓巳くんと俊くんとの会食の席で二人にまず伝えてみた。

「これって誰かが故意に流してるような感じがしない?」

 拓巳くんは食事の手を止めて俊くんを見、ため息をついてから再び手を動かした。

「それについては、俺はよくわからん。それより、このあと家に帰ったら明日の支度して目黒へ行け」

「えっ?」

 明日は水曜日なので自宅のつもりでいたのだが、二人とも僕の質問にはそれ以上、触れないまま食事が終わり、拓巳くんが俊くんに「十時頃に届けるわ」と声をかけたあと、返事も聞かないうちに店から連れ出されてしまった。

 そして自宅マンションに戻るなり彼はこんなことを言ってきた。

「あいつが何を企んでるか聞き出せ。そんで明日、会場に入る前に教えろ」

「どういうこと?」

「噂を流したのはやつだと思う」

「俊くんが?」

「ああ。根回しのつもりだかなんだか知らんが、(ちまた)はヤバい雰囲気になってきてるらしい。ファンへの裏切りだとか言われてるようだ」

「………」

 なるべく事情には触れず、自然な流れで俊くんの出番を減らしていく。その橋渡しとしての形が新バンド結成だったはずだ。

 もしかして、この形にはやはりどこか不本意な思いがしているのだろうか。

 不安な気持ちで目黒へと送られていくと、迎えてくれた俊くんは、僕の質問に目を見張った。

「そんなつもりはない。まあ確かに噂を流したのはおれだが、そういった理由じゃない」

「じゃあ、どうして……」

「これはおれのけじめだ」

「けじめ?」

 彼は僕をソファの隅に押しやると、隣に座って甘えるように体を預けてきた。

「どんなに言い方を変えても、〈T-ショック〉が今までの形を保てなくなることにはかわりない。おれたちを支えてくれたファンの中には明日会えない人が大勢いる」

「ああ……」

 俊くんにはどうしてもそこが気にかかるのだ。

「解散か、それとも再編成と受け取るのか。それはおれの言葉を聞いたファンが判断することだ。Gプロの運営陣には申し訳ないが、おれのせいで形を変えざるを得ないなら、せめて感じ方はみんなの自由であるようにしたい。記者会見のときの言葉では、それを伝えられなかったから」

 終焉と再生――the() last(ラスト) movement(ムーブメント)

 あの会見の時点ではまだ、混乱を避けて時間を稼ぐ必要があったので、タイトルに込めた本当の意味は説明できなかったのだ。

「来られないファンの人に、前もって伝えたいんだね?」

〈T-ショック〉のマースとしてステージから呼びかけることが、今までのようにはもうできなくなることを。

 そうだな、と寂しげにつぶやく俊くんを僕は抱きしめた。

「わかった。僕もそのつもりでいるよ。明日、楽屋に顔を出した人に聞かれても、言い逃れるような説明はしない」

 コースケさんとか向井先生とか、と今まで差し入れに来てくれた人の名を出すと、俊くんはその場面を思い出したように少し笑った。

「おれに時間がなかったら頼むわ。あいつらはキャリア長いから、最初は悪態ついても、最後にはわかって…、……」

 そこで言葉を途切らせた俊くんの肩が震え、僕は腕を取ってさすった。

「一人じゃない。僕もいる。ずっと支えるから」

 すると彼の手が僕の顔を引き寄せ、縋るように唇を重ねてきた。それは心の内側が伝わってくるような口づけで、僕はなすがまま受け止めた。

 彼のこの決断に対する非難はすべて、僕も分かち合うべきもの――それだけは、忘れてはならない。


「……色々な事情があってのことですが、新しいバンドにスイッチする計画なんです。SNSへわざと投稿したのは、ファンのみなさんにも受け止め方を選ぶ権利があるので、より公正でありたいと思っての行動だそうです。ですから向井先生にはこれが解散かどうか、自由に判断してください」

 向井は一瞬、目を見張り、難しい顔で唸った。

「つまり〈T-ショック〉は一旦、終わり、けど形を変えて生まれ変わると」

「そうです」

「なんで急にマースはそんなこと。記者会見では『節目だから色々なアイデアを考えた』って言ってたが、これじゃニュアンスが違わないか」

「非難は甘んじて受けます。そのあたりは本人がコンサートで直接みなさんに伝えたいと言っていますから」

 もっとも、本当の事情に触れることはないだろうけど。

 もともと周囲には弱味を見せない人だ。唐突な変更を謝罪し、次への展望を伝えたら、何を言われようと甘んじて受けるつもりなのだろう。だから僕もそれに殉じるのだ。

 向井はしばらくそのまま考え込んでいたが、やがてひとつ頷いてから顔を上げた。

「……わかった。形を変えてもなくなるわけじゃないならまあ、俺は気にしないさ」

「先生……」

 腹を据えた表情に目を見張ると、向井はどこか困った顔をした。

「だって、あのマースが変えるっていうからにはそれ相応の理由があるんだろ? 多分、クオリティかなんかの問題だよな。自分が納得できる音楽環境を維持できないってことだろうから、形を変えれば続けられるってんならそのほうがいいさ」

「―――」

 体のことは何も知らないはずなのに、なんて洞察力なんだ。

 思わず涙が出そうになり、慌てて目元を押さえると、向井は察したように一歩離れて片手を上げた。

「じゃ、みんなに頑張るよう伝えてくれよな」

 そして今度こそ(きびす)を返し、裏口に向かって駆け出した。僕はその背中に頭を下げ、足音がドアの向こうに消えるまで見送った。



 廊下のスタッフと声をかけ合い、メンバーの楽屋に足を踏み入れると、ちょうどステージ側の通路から拓巳くんが先に戻ってきたところだった。

 薄い色のサングラスはまだつけているが、最後のリハーサルなので衣装を着ている。綾瀬さんが今日のために仕上げた、黒銀と紫を組み合わせたロングジャケットだ。そこにメッシュでパープルを入れた長い髪が流れるように落ちかかっている。

 さすが。綾瀬さんの手が入ると豪華さが際立つな。

 その後ろにはコームを手にした真嶋(まじま)さんが続き、隣にはメモ用紙を覗く健吾と西名の姿もあった。 

「お疲れ様。リハーサル終わったんだね」

「お、和巳」

 僕の声に気づいた拓巳くんは、機材の箱やお祝いの花を器用によけながらテーブルの前に来た。

「外はどうだった。やっぱ異様な雰囲気か」

 僕は隣に歩み寄りながら、そうだねと頷いた。

 拓巳くんには今朝、俊くんの意志を報告してある。

「まあ、俊くんが仕掛けたんだから、それなりに結果は出るよね」

 拓巳くんはちょっと不満そうな顔をした。

「あのやろうは図太いくせに、変なところで繊細になりやがる」

 わざわざ解散の文字を世間に投げかけたことを、拓巳くんは理解しながらも「バカなやつ」と評している。

「で? 実害はありそうか」

「そこまでは。ただ、祐さんのファンに見える黒い集団のあたりがイライラしてて、俊くんファンの女の子たちが怖そうにしてたから、警備員さんに移動してもらったよ」

 それを聞いた拓巳くんは眉を寄せてこめかみを掻いた。

「あー、祐司のファンは荒っぽいのが多いからな……」

「あ、でも向井先生と会って話せたんだ。少しは自制が効くかも」

 すると後ろから追いついた健吾が「えっ?」と声を上げた。

「俺んところには連絡来てないぜ?」

 拓巳くんに並んだ真嶋さんも続く。

「一緒に来なかったの?」

 そこで僕が向井とのやり取りを告げると、少し唸った拓巳くんがこう言った。

「さすがだな。コースケといい、雅俊のやらかすことをよくわかってるわ」

「コースケさんがなんて?」

 どこにいるのかと楽屋を見回すと、真嶋さんが軽く手を振った。

「ついさっき。君が出ている間に差し入れ置いて、ちょっと話しただけで行っちゃったんだよ」

「えっ……」

 大きなテーブルの上にはなるほど、たくさんのお菓子やペットボトルがあふれている。いつもならそのまま楽屋にいて、開演十分前までみんなを笑いでほぐしてくれるのだが。

「ちゃんと察していて、誰からも聞いてないようなのに『僕、ちゃんと見届けるからね』って」

 拓巳くんが続いた。

「コースケも雅俊をよく知ってるから、一連の流れとタイトルである程度わかったんだと思う」

「そうなんだね……」

 一流は、一流を知るという。

 ちょっと感慨深くなってため息をつくと、拓巳くんが「だから問題はそれ以外だ」と続けた。

「素人にはそんなことわからん。雅俊の姿勢はプロ的には高評価だろうが、一般人に通用するかはわからない。開演中に騒ぎになったらさすがに後味悪くなるぞ」

「………」

 コンサートでは歌が終わるたびにファンから声がかかる。普通は盛り上がって次の曲に繋がるのだが、それが抗議や非難の声に埋まっていったらどうなるのか。

 今までのステージで、収拾がつかなくなるなんてことは一度もなかった。けどさすがに今回は……。

 おそらくはみんなも想像したのだろう。言葉がなくなった楽屋に、後ろから低く通った第三の声が届いた。

「そんなことは考えるだけ無駄だ。俺たちは自分の役割をしっかり果たせばいい」

 振り向くと、西名の後ろに頭ひとつ抜きん出た偉丈夫の姿があった。

「祐司」

「祐さん」

 基本、黒の上下でありながら、銀とメタリックパープルを配色した短めのジャケット、絹地のような光沢のレザーパンツと、いつにもまして貫禄十分な祐さんが拓巳くんの前にゆったりと立つ。

「雅俊を信じろ。音だけに集中するんだ」

 目線を揺らしていた拓巳くんは、吸い寄せられるように祐さんを見た。

「おまえの声が雅俊の曲を歌い切れば、必ず会場はひとつになる。不安なら、来たくても来られなかった大勢のために中継カメラを見て歌え」

 拓巳くんはサングラスの奥で目を見開き、次いで肩から力を抜いた。

「……そうだな。譲ってくれた人もたくさんいるからな」

 すると後ろの西名がいつもの淡々とした口調で続けた。

「チケットは早々に諦めて、後輩を脅してバイトに加わったやつもいますけど」

 後輩であるところの健吾がすんませんと頭を下げる。それを見た拓巳くんの顔から緊張が抜けた。

(しょう)か。そういやさっき客席でゴミ拾ってたわ。バイトって手はなかなか思いつかねーよな」

「まったく。同感です」

 笑い混じりの相槌(あいづち)に室内の空気が和らぎ、僕はチラッと西名を見てから目で感謝を伝えた。

 本来なら優待チケットを用意できるスタッフの身内も、今回はすべて遠慮してもらっている。二百人程度ではあるが、僅かでもファンに回すためだ。友人や知人などへの優先配布もなくし、全席が公平な窓口での取り扱いだ。代わりにインターネットの当日配信を低価格で、後日の配信を無料公開する。セラや陽子さんはもとより、ロックが好きな健吾の両親でさえ、今回は「若いファンに席を空ける」とライブ配信にした。今日、僕たちが届ける相手は、ここに来てくれた人だけではないことを忘れてはならない。

 そのためにも、なんとしても騒乱だけは避けなければ。

 後でもう一度見回りをして、警備責任者と打ち合わせをしようと心で段取りしていると、祐さんが僕の肩を軽く叩いて促すように言った。

「そろそろ雅俊のところに行ったほうがいい。時間が迫っている」

 用事があるんだろう? と言われて感謝しつつ拓巳くんを横目で見ると、そっぽを向いたまま早く行けと手を振っている。

「打ち合わせはまだ終わりませんか」

「ああ。セイと残ってやってる」

「………」

 リハーサルが終わったあと、俊くんだけが残って音響スタッフと打ち合わせをする。それはいつものことで、そこにセイが加わるのはあたりまえ――どころかこの先のためにも必要なことだ。

「わかりました」

 僕は一瞬だけ引っかかった心を戒め、気持ちを切り替えてステージへ続く通路に向かった。


 袖の暗幕から(ひら)けた中へと足を踏み入れると、独特の貝殻を重ねたような天井とともに、ライトに照らされた巨大ホールが目に飛び込んできた。

 さすが(ワイ)ホールの約三倍。なんて大きいんだろう……!

 もちろんアリーナなど、もっと大きな会場でもコンサートはやっている。しかし建物の作りとして、スタジアムはあくまでもスポーツ施設だ。そこへいくとホールとして建築されたこの建物は、アイボリーの壁に臙脂(えんじ)の座席がクラシカルな雰囲気で、丁寧な内装の作りに圧倒される思いだ。

 でも俊くんは、ホールでやるときは音響や観客との距離を重視したんだよね。

 このホールでもイベントのゲストで演奏をしたことはあるが、コンサート会場に使ったことはない。臨場感あふれる音楽をなるべくファンと近い距離で――それがYホールを年末コンサートに選んできた理由だ。

 それでも今回、一日とはいえ俊くんが全力で演奏できるのは、このホールが近くにあってくれたお陰だ。

 文句言ったらバチが当たるとステージ側に目を向けると、足場を組んで設置した巨大スピーカーの根元に、ステージを覗き込む小柄なスタッフジャンパーの後ろ姿が目に映った。

 ……あれは。

 そっと近寄って後ろから「お疲れ様」と声をかけると、肩がビクッと揺れてお下げが跳ねた。

「来ちゃったんだね?」

 長めの前髪に隠れたメガネ顔が、フルフルと揺れながらこちらを見上げる。アニメオタクが喜ぶ幼顔の女の子キャラにしか見えない平凡な姿――亜美(あみ)だ。

「た、高橋先輩。あのっ。どうしても、け、見学したくて……っ」

 すみませんっ、と頭を下げようとするのをサッと肩をつかんで止める。

「別にいいから。ちゃんとバレないようにカモフラージュしてるし。ジャンパー着てきたならホントに雑用もやってたんでしょ?」

 覗き込んだ手元には、ハサミやテープなどの小道具が入った箱がある。猫の手も借りたいのが開演前の裏方。スタッフジャンパーでウロウロしていれば捕まって当然だ。

 若手ナンバーワンシンガーの呼び声も高いGプロ期待の美少女アイドルが、普段は地味なメガネっ子だなんて近しい人しか知らないし。

 しかも付き人経験が豊富なので雑用は得意、むしろそっちのほうが本人も気楽だというのがなんとも複雑である。

 複雑と言えば――。

「あれから君の周りはどう? 異変とかはない?」

 色々を省略して問うと、亜美はすぐに気づいて声を潜めた。

「はい。榑林さんからお話を聞いたときは驚きましたけど、今のところ私の身の周りに変化はありません」

「そうか。よかった」

 黒川(くろかわ)一郎(いちろう)専務のお陰かどうかはわからないけれど、今度の事件で(せい)竜会(りゅうかい)の手が亜美に及ぶ可能性はなさそうだ。

 薬物取引事件のあらましを亜美に伝えるかどうかは正直、迷った。発端が母親である白川(しらかわ)皐月(さつき)の残したメモ帳にあったとはいえ、本人はまったく気づかず、メモ帳も自ら手放していて、優花が僕に預けたことすら知らなかったからだ。

 しかし母親が裏組織に巻き込まれていたことや、そのために自分が遠ざけられていこと。それらを最後まで知らされずにいたことに対して彼女は深く傷ついた。今回、セイが関わっていて、しかも皐月との交流を経て亜美の存在を知り、コラボの相手に選んだとなると、知らないままセイと同じ事務所で活動することになるのはあまりに理不尽だ。そこで叔父であり、今やGプロの有望なマネジメントスタッフでもある榑林と相談の末、亜美ならば対処できると判断して伝えることにしたのだ。

 実際、榑林からの説明に対し、亜美はセイと白川皐月の関係に驚きながらも、しっかりと消化して胸に納めた様子だったという。

「セイのこと、気遣わせてごめん。できるだけ今までどおりに、って言われてもやりにくいよね」

 亜美はいいえと首を横に振った。

「母とのことを考えるとちょっと……複雑ですけど。シュナイダー先生とのコラボは勉強になりましたし、この先は一対一でお仕事をする機会はないと思いますから」

 知らされないよりはずっといいです、と亜美は微笑んだ。

「あの、先輩こそ、先生のこと……色々、大丈夫ですか?」

 逆に(もろ)々を含めたとわかる質問を返され、僕も同じく複雑な思いに苦笑いしながら大丈夫と答えた。

 最初こそ、自分の立たされた位置に戸惑っていたセイだったが、こちらが本気で任せる気だと悟ると開き直った。

「だったら俺も演奏家として割り切らせてもらう」

 以来、如才なく自負心に満ちた最初の頃の態度に戻り、僕たちへの遠慮のようなものはなくなった。そのあたりの図太さが僕の忍耐を刺激しないではなかったが、このくらいでないと任せられないことも事実なので呑み込むしかない。

 僕は気持ちを切り替えて亜美に質問した。

「ステージはどう? まだ終わる気配ない?」

 彼女はあの、と顔を上げた。

「まだです。さっきスタッフさんに頼まれて、時間を伝えに行ったんですけど……」

 しょんぼりと垂れ下がるお下げが結果を物語っている。きっと流されたか取り合ってもらえなかったかで撃退されたのだろう。

「わかった。ありがとう。亜美さんも少し休憩して」

「あの、先ぱ、……高橋さん」

 ステージへと目を向けた僕を亜美が呼び止めた。

「わ、私には、たいしたことはできませんけど、何かお手伝いすることがあったらいつでも言ってください」

 雑用は得意です、と言われて僕はちょっと笑った。

「この前、マスコミ対策で大層なことをしてもらったけどね。また頼むかもしれないからそのときはよろしく」

 じゃ、と手を振ってから、僕はスピーカーを支える足場の横に足を進めた。

 道具を抱えて行き交う技術スタッフをよけ、コードやアンプなど機材の中を進むと、ステージのやや右側、座席から見て左寄りの位置で、二台のキーボードの前でやり取りする声が聞こえてきた。 

「違う。このタイミングで」

「それだと遅い。バックのギターと被るぞ」

「そこはいい。余韻になるから」

 メインキーボードを前にした俊くんが、バックに置かれたサブキーボードのセイに指示を出している。

 綾瀬さんの手からなる紫に黒と銀のジャケットは、拓巳くんの配色とは逆の明るいコントラストだが、セイのシンプルな黒ベースのジャケットとは違い、華やかで手が込んでいる分、生地に厚みがある。そのせいか、指示を出しながら音を確かめる彼の額には汗が浮かび、ドレッド風に編み込んだ髪の根本を濡らしているのが見えた。

 それはそうだ。もう二時間以上、やっている。

 ギリギリまでこだわる俊くんには、長年の付き合いであるバックバンドのメンバーでも根負けするときがある。けれども楽譜を横に置いて指示を聞くセイに根を上げる様子は見られなかった。

 ――ああ、同じなんだな……。

 魂の共通する部分が重なって見えた気がして、眩しいような切ない気持ちで眺めていると、セイから目線を外した俊くんがフッとこちらを見た。

「……和巳」

 つられたようにセイもこちらを見、次いで俊くんを見る。

「お疲れ様です」

 僕がゆっくりと近づくと、俊くんは夢から覚めたような顔で言った。

「時間か」

「はい」

 一瞬、物足りなさそうな気配が華やかな美貌によぎる。けれども彼は自分を抑えるように肩から力を抜いた。

「よし。ここまでだ」

 セイが楽譜を畳みながら、感慨深そうな顔をした。

「さすが神の声は違う。一発だ」

「なんだそれは」

「おまえを音楽から引き離すんだから人間技じゃないだろう。助かった」

 本番前からヘトヘトだ、と彼はキーボードの前からこちらに出てきた。

 さすがは波瀾万丈の人生経験者。この大舞台でも憎たらしいほど普段と変わらない。

「さっきも()っちゃいスタッフが『時間です』って声をかけてきたのに、手振りだけで追い払ってたし。かわいそうに、困った顔で戻っていったぞ」

 スタッフに嫌われてもいいのか? と聞かれた俊くんもキーボードから離れてこちらに来た。

「あれは亜美だろ。進行係からの伝言だろうから、まだ構わないと思って。そこで見ていたいんだろうし」

「えっ⁉」

 セイが驚いた顔で舞台袖を見る。どうやら普段の彼女を見たことがなかったようだ。

「ほんとに……?」

「行って、確かめてくればいいさ。ついでに事情を知りながら隠してコラボ相手に選んだことを謝ってこい」

 まだちゃんと亜美と話してないだろ? と続けられ、セイはバツの悪い顔になった。

「いや、それは、でも……」

「音楽に関してはあんたが先輩だ。けど亜美は母親のことで苦労してきた子なんだ。ここで再スタートを切るからには清算してこい。才能のある子だからちゃんとしてやってくれ」 

「……わかった」

 セイは苦手な宿題を押しつけられた生徒のような顔で僕の脇を通りすぎた。

「セイ」

 声をかけると彼はすぐに足を止め、肩で振り返った。僕は彼に向き直り、背筋を伸ばした。

「ステージの上の世界では、僕は……僕たちスタッフは無力です。どうか雅俊さんと〈T-ショック〉をよろしくお願いします」

 言いながら深く頭を下げると、足音が近こちらに近寄ってきて両手が肩を戻した。

「……君は、今も俺に頭を下げるのか」

 少し首を傾けるセイに、僕は目を合わせた。

「ステージで、雅俊さんを助けられるのはあなただけですから」

 彼はしばらく僕を見つめ、やがて薄く笑みを浮かべながら手を離した。 

「承知した。全力でやるから安心してくれ」

 そして僕の返事を待たずに踵を返し、固唾を呑んだような顔でこちらを窺っていた亜美を連れて出ていった。

「おれは、あいつの助けがなきゃ成り立たないような、ショボい演奏をするつもりはないんだがな」

 ちょっとスネたような声を背中にかけられ、僕は笑いながら振り返った。

「もちろん。でもああいうタイプの人に全力を出してもらうには、頼るのが一番だからね」

 でしょ? と顔を覗き込むと俊くんの指先が僕の額を弾いた。

「策士め」

「まあね」

 僕が何を心配してセイに頼んだのかを俊くんはわかっていて、彼がそこには触れないことを僕もわかっている。俊くんは全力を出し切るために、僕はそれを万全に支えるために、それぞれ可能な限り準備した――そういうことだ。

「お客さん、もうたくさん外で待ってるよ」

「そうか。ありがたいな」

「ちょっと、いつもより雰囲気が固い人たちもいるけど」

「……そうか」

 俊くんは客席に目を向け、宙に手を伸ばした。僕はその隣に立って同じほうを見た。

 広く深い深海のような空間が、静かにこちらと向き合っている。もうすぐ最後の観客となるだろう、五千五百人の〈T-ショック〉ファンを迎える臙脂色の座席とともに。

「少しでも、届くといいな。俊くんの世界が」

「ああ」

「それで、次の新しいステージに繋がったら嬉しい」

「ああ。そうだな……」

 少し切なそうに俊くんが目を細める。そこにはどんな結果になっても受け止める覚悟が覗いていた。

 僕は宙に浮かんだ俊くんの左手に自分の手を添えて握った。今日の二人の薬指には同じリングが光っている。俊くんから贈られたペアリング――来年にはマリッジになるリングだ。

 それを手ごと胸元に引き寄せながら、僕は少し下にある耳に話しかけた。

「ステージの袖で見守ってるよ。俊くんがみんなに心を受け取ってもらう姿を」

 そして近くに誰もいないことを確認すると、ジャケットの内ポケットに手を伸ばして取り出したものを見せた。

「和巳……」

 目を見開いた彼の薬指に取り出したそれを通す。プラチナの台に小粒のダイヤをぐるりとちりばめた、エンゲージがわりのエタニティリングだ。

「色々考えたんだけど、やっぱりいつも身につけてもらえるものがいいかなって」

 煌めきを連ねて湾曲したリングの中央には、他のダイヤよりも少しだけ大きい薄紫のダイヤが二つ並んでいる。貯めていたバイト代の殆どを注ぎ込んで、ペアリングのデザインに合わせてオーダーし、つい数日前に仕上がったものだ。

 本当は、二月の誕生日に渡すつもりだったけど、今日、つけてもらったほうが力になるかと思ったのだ。

「前振りもなしに、こんなところでいきなりごめん。でも、どうしてもステージに連れていってもらいたかったんだ。それとあと」

 耳に唇を寄せ、エンゲージリングを渡すときにつきものの言葉を伝えると、俊くんはしばらく震え――。

 僕を抱き締めてからこう言った。

「もちろん、イエスだ」

 そのときの笑顔は今までになく華やかで猛々しい生気にあふれ、いつまでも僕の胸の奥に刻み込まれることになった――。



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