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T‐ショック ムーブメント~まだ見ない明日へ  作者: 木柚智弥
➃落日の星~最終楽章
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説得への糸口


 鋭い指摘に内心で焦っていると、渡辺先生が笑い混じりの声で言った。

「大丈夫だよ、和巳君。メンバーは『幼馴染だから』でいけるし、男のスタッフは二メートル以内に近づかない決まりだって説明すればいいから。それすらも疑問視するほど事情に詳しい人は、臼井君の周りにはいないよ」

 でもこの人にはバレてますけど。

 との疑問が吹き出していたか、先生は御射山医師の隣に立った。

「彼女は別。マース……というか『小倉(おぐら)(まさ)(とし)』の長いファンだから」

 僕は思わず目を見開いた。

「小倉雅俊(・・)のファン?」

 マースでも小倉(そう)()でもないってことか。

 そこを区別して『小倉雅俊』と表現するファンはなかなかいない。

 いったいどんな経歴の人なんだと心にアンテナを立てると、先生はそこへの説明をしないまま話を続けた。

「改めて紹介しよう。こちらは御射山(みさやま)千景(ちかげ)君。腫瘍内科の専門医(スペシャリスト)だ。二年前までカリフォルニアの大学付属研究所に在籍していて、去年は国立がんセンターに勤務していた。今年に入ってからうちに来てくれた逸材だ。私は御射山君になら雅俊君を任せられると思ってるんだ」

 先生の賛辞を受けた御射山医師は、クールな印象の顔を僅かにほころばせた。 

 臼井医師が隣にいたときの無機質な表情とはだいぶ趣が違う。

 謎が深まりながらもひとまず頭を下げると、渡辺先生がちょっと眉尻を下げて続けた。

「本当は、今日は君と雅俊君に彼女を紹介して、雑談で親交を深めるのが目的だったんだよ」

 僕はホッとして頷いた。

「そうだと思いました。雅俊さんの性格を知らない先生じゃありませんから。でも、あれはかなりまずかったと思います。なにか院内の事情があったんでしょうか」

「ああ、ホントにね……」

 ちょっと座ろうか、と先生が部屋の奥にある二人掛けのソファへと移動し、僕はパイプ椅子を持ち寄ってソファに並ぶ二人の斜め前に腰かけた。

「臼井君も御射山君に劣らず優秀な経歴の医師だ。そして彼は病院長の親戚で、ここでのキャリアに実績がある。しかし見てのとおり、心療内科も受け持つ私の目から見ると、少々患者さんへの態度や言動に際どい部分があるように感じる」

 部分どころか存在自体が際どいような。

 僕の視線を受け取った先生は苦笑した。

「まあね……。でもガン患者さんの多くは病気への不安を抱え切れずにいる。何かに縋りたい心境の人は、彼のような勢いのある先生からビシッと治療計画を披露されたほうが、『どうしていきましょうか?』と振ってこられるより安心できるんだ」

「ああ……なるほど。それはわかります」

 未知の荒波に溺れそうなとき、人は知恵者の藁に縋るものだ。

「というわけで、彼はこの病院では将来を期待された専門医で、本人もそれを自覚して(がん)細胞を撲滅するために日々邁進(まいしん)している。部所内でも指導力を発揮しているので、今のところ着任して半年の彼女より立場が強い」

「精進ではなく、邁進(まいしん)なんですね」

 そこに臼井医師の問題点が透けて見える。精進は『たゆまぬ努力』、邁進は『怯まず突き進む』だ。

 先生は「さすが、わかってるね」という顔で続けた。

「このタイプの医師は成果主義に走りやすく、病原を排除することのみに意識が向かいがちだ。そのために失われる他のものの価値を低く見積もるきらいがある。けど人は様々なバランスによって成り立っているんだ。その価値感にも当然、個々に違いがあると思うんだよ」

 まさしく俊くんの価値観こそ大きく違うだろう。そこをよくわかっている先生は僕を見て頷いた。

「ある人にとっては捨てて惜しくないものが、別の人にとっては命を賭けるほど大切なものの場合もある。たとえ命を預かる医者であっても、それを一律で捨てさせる権利はないはずだと私は考えている。そして御射山君もその思いを共有する一人なんだ」

 僕は静かに先生の説明を聞く彼女に目を向けた。

「その上で、今までやってきた雅俊君への治療成績を踏まえると、このまま手をこまねくのはあまりに惜しいと私たちは判断している。だから専門医である彼女の意見や治療プランをぜひ雅俊君に知ってもらいたいと思ったんだ」

 するとそれまで黙っていた御射山医師が口を開いた。

「先生には自ら出向いてくださって、今日の話し合いで紹介したいと声をかけていただきましたが、先日のご相談の折りに小倉さんのカルテを臼井先生と共有していましたので、漏れ聞いた医療チームの一人が彼に報告し、幾つか提案があると言われて同席の流れになりました。うまく立ち回れずに申し訳ありません」

「いやいや、いいんだ。こちらこそ気を使わせちゃってごめんよ。けど下手(へた)に内々で話を進めると、あとでどんな言いがかりをつけられるかわからないからね。有名な患者さんの場合はなおさらだ」

「こちらの部所内でもご苦労されてますか」

「まあねぇ。雅俊君なんかは美と才能が備わってる上に、拓巳君と違って愛想もいいから。長年のうちにはそれなりに色々あったよね……」

 語尾がなにやら萎んでいて、そこに知られざる苦労のあとが垣間(かいま)()える。

「なんだかすみません」

 つい付き人の癖で謝ると「和巳君が謝るところじゃないよ」と渡辺先生に笑われた。

「そんなわけだから御射山君は気にしないでいいよ。それに和巳君の協力のお陰でスムーズにことが運べそうだ。あとは雅俊君の心に届くよう手を尽くすだけだ。実はそこが一番、ハードルが高いんだけど」

 どうアプローチしたらいいかな和巳君、と聞かれて僕は目線を下げた。

「先生。雅俊さんの意思はとても固くて……僕にもどうするのが彼のためなのかわからなくなりました」

「ひょっとして、雅俊君は君のところへ行ったのかい?」

「はい。実は昨夜――」

 夜に交わした言葉を要約して伝えると、先生は痛そうな顔になった。

「そうか……ずっと我慢していたんだな。ただでさえ科が違うとスタッフの手も変わるし、陽子線治療ではさらに別の医療施設という負荷もかかっていたから……」

 放射線治療の上をいく陽子線治療。目覚ましい効果と体への負担の少なさに加え、日帰り通院を可能にした最先端の治療だ。そこに新しい遺伝子治療薬や抗がん剤を組み合わせ、転移の早さに対抗して効果を上げてきたのだという。

 しかし陽子線治療は大がかりな設備がある施設へと出向かなければならない。性分化疾患を抱える彼にとっては『初対面のスタッフに体を預ける』という一点で、すべて医療行為が心の拷問に等しい施術の連続だったことだろう。

「それでも今までは、活動しながらでも寛解に持っていけるという一心で我慢してきたんだと思います。けど、それが不可能な部位に転移して、新しい薬まで使えなくなってしまったのなら、この先、どんな薬を選んだとしても、彼には辛い引き延ばしの時間になってしまいます……」

 ましてやあの臼井医師のような価値観の医療者が評価されている現状では、とても俊くんの心を守れるとは思えない。

 僕が模索しようとした、この先を生きるための目標。

 先細るだろう時間を、それでも永らえて生きることに、そういった治療で生じる犠牲を払うだけの価値があるのか。あの心からの訴えを聞いていたらわからなくなってしまったのだ。

「……マースとして、あるいは画家として、小倉さんの最大の価値が創作活動だとは承知していますが」

 ふいに御射山医師が言葉を発し、僕はカーペットの模様に落ちていた目線を持ち上げた。

「具体的にはどのくらいのペースでの活動を望んでいるのでしょうか」

 縁なしメガネの向こうにある静かな眼差しに捉えられ、僕は気を引き締めて答えた。

「絵画にしろ、楽曲にしろ、彼はいつも全力を傾けています」

「全力といっても人それぞれですよね。彼にとっての全力とはどのくらいなのでしょうか」

「えっ……」

「音楽と絵画では違うでしょうが、今までの創作活動ではどうされていましたか? 何日間くらいの行程で進むものなのでしょう」

 改めて聞かれてもすぐには答えられない。

「そ……うですね。だいぶ幅がありますが、一作品につき一ヶ月から長くても二ヶ月ほどで形をつけるでしょうか」

 色々思い出しながら伝えると、彼女は情報を吟味するように手を顎に当てた。

「なるほど。では普段の休息は? プライベートでのんびりできるのは週にどのくらいですか?」

「その時々によって違いますが、スケジュールに余裕のあるときは週末の二日を自宅で過ごします」

 その大部分は僕と過ごす時間だ。

「ざっくりまとめれば、ひとつのテーマが終わるのがだいたい半年ですから、約三ヶ月間集中して三、四作を仕上げ、一週間から十日ほど充電、また三ヶ月……と言えると思います」

「なるほど。クリエイターにはよくあることですが、小倉さんもリズムがほぼ確定していますね」

 そうかも――。

 こうして整理してみると、突発的な思いつきのときを抜かせば、意外と規則性があることがわかる。

「ではその一段落がつくという半年のあとに、三ヶ月の治療期間を入れるというのは考えられますか?」

「三ヶ月?」

「はい」

 御射山医師が少しだけこちらに身を乗り出した。

「私が小倉さんに考えている投薬プランも、今までの治療に準じる効果が期待できるものです。ただし副作用が少々強くなるかと思います」

 それでも以前の薬に比べたらましなのですが、と彼女は続けた。

「問題の肝臓以外には陽子線治療も使えますから、組み合わせを工夫すれば半年間の活動時間が稼げるのではないかと見込んでいます」

 僕はつい前のめりになった。

「活動時間とは、普通に仕事ができる時間ということですか?」

「はい。三ヶ月といっても投薬は一ヶ月、残りの二ヶ月は回復に使います。ですから睡眠時間と食事さえ気をつけていただければ、半年ほどの創作活動は問題ないでしょう」

「………!」

 三ヶ月は長いが、半年の活動に支障が出ないなら俊くんも許容してくれるかもしれない。

「もしそれが可能なら、説得できるかもしれません」

 うっすらと見えてきた光に向けて脳内が回転し始めたとき、少しだけトーンを落とした彼女の声が「ただし」とブレーキをかけた。

「この治療プランにはひとつだけ欠点があります。そこをクリアせずに勧めていいものかどうか……」

 メガネの縁に触れつつ悩む様子に逸る気持ちを抑える。

「どんな欠点でしょう」

「今、創作活動と申し上げましたが、そこには外に向けてのパフォーマンスが入ってないということです」

「え……っ」

 それはどういうことだ。

 口を閉じて凝視すると、彼女は残念な様子で息をついた。

「この治療を行う人には、一気に体力を使うような活動は控えるよう指導します。免疫力の低下を避けたいからですが、小倉さんも幾つかの活動を制限しないといけません」

「それが外へのパフォーマンスだというんですか?」

「そうです。たとえばこれがマラソン選手だったとして、ジョギングは問題ありませんし、マラソンもある程度はできます。ハーフマラソンの市民大会くらいなら出場可能かもしれません。しかしフルマラソンの国際大会で記録を目指すのは禁止です」

「あ、じゃあ……」

「小倉さんの場合はおそらくステージパフォーマンスがこれに当たると思います。つまり番組収録や音楽祭のゲスト参加はできるし、ミニライブなどもいいでしょう。しかし連日丸一日を費やすようなコンサートツアーは避けないといけません」

「………それは、まさか」

 おそるおそる目を合わせると、彼女は頷いた。

「年末恒例で有名な三日間コンサートは、……避けていただくしかありません」

「―――」

 それは果たして、俊くんの全力に触れないでいられるだろうか。

 僕の表情を見た御射山医師は「やはり難しいですよね」と嘆息した。

 すると渡辺先生が口を開いた。

「私も先日、この所見を聞いたんだけどね。ライブや音楽祭への参加ができるなら、そんなに心配しなくとも勧めていいんじゃないかと思ったんだよ」

 そんなに引っかかるかなぁ、と聞かれて言葉に詰まる。

「それは……やはり、大事な部分ではないかと」

 御射山医師も頷いた。

「マラソンの国際大会に出られないというのは、下位の選手なら折り合いをつけてくれるでしょうが、一流アスリートにとっては望みを断たれる酷な選択です。根治が難しいと聞けば、いっそ走れるうちにできるだけ挑戦しようと思っても不思議ではありません。ましてや小倉さんのような一流のアーティストなら、ステージでのパフォーマンスは外せない要素じゃないかと思うのです」

 さすが長いファンだというだけあって、御射山医師の指摘は理解に満ちている。

「活動できると説明しておきながら、一番肝心なステージは削ってくださいというのは、なかなか承服し難いのではないかと……」

 この言葉から、彼女なら俊くんの意に添う医療をしてくれることを確信する。

 ああ、そこが説得できれば。こんなにわかってくれる先生、他にいないだろうに。

 しかしもはや俊くんの意思は固まっていて、それを(くつがえ)すにはよほどの提案が必要になる。年末コンサートができないのは致命的だろう。

「でも、雅俊君にとって最も大切なのは生み出すことだろう? ステージはいわば発表の場だから、プロデュースのほうが大事なんじゃないのかい?」

 こちらも付き合いの長さでは引けを取らない渡辺先生が言った。

「コンサートで一番体力を使うのは演奏だよね。だったらプレイヤーの部分だけ他の人を入れるとかして、プロデュースの参加に絞れば問題ないんじゃないかな?」

「それはそうですが、演奏にはまた違う充実感があるでしょう?」

 御射山医師が反論した。

「彼のキーボードプレイは素晴らしいんですよ。それによくコンサートで『みんなを前にすると、生きてるのを実感するよ』とファンに語りかけてくれます。これはサービスではあるでしょうが、本心に近いのではないでしょうか。ステージで演奏することこそがミュージシャンの本領だという人は大勢いますから」

 コンサートをご覧になればわかりますよと言われて渡辺先生が首を捻る。

「そうかなぁ。だってゲスト参加はできるんでしょう? 私には、雅俊君がそこまでキーボードの演奏にこだわるとは思えないんだよね。コンサートへの情熱は、どちらかというと作るまでが重要で、演奏は付属というか。だからプロデュースだけにすれば全部できるって言えば、案外、割り切っちゃうんじゃないかなぁ」

 確信を抱いた言葉の数々を投げかけられ、さすがに心が傾く。

「どうして演奏じゃないと思うんですか?」

 先生はチラッと御射山医師を見てから小さな声で答えた。

「だって、彼はプロのピアニストになれた人だよ? キーボードじゃ、どんなに頑張っても満足できないでしょ」

 ………!

 それは、そうかもしれない。

 セイとの連弾を生で聴いたからこそわかる俊くんのテクニック。あれがウォーミングアップの領域だというのなら、キーボードなど論外だ。

 どういうことかと遠慮がちに質問する御射山医師に、渡辺先生は諸々を省いて説明した。

「では、指を怪我していなければ間違いなくプロになっていたと」

「そう。それもかなりハイレベルな演奏家になってたと思う。で、その夢は絶たれたけど、彼にはまだ作曲という才能があった。そこで優れた声を持つ拓巳君を介して表現することに絞った。そこに高い技術を持った祐司(ゆうじ)君が加わって〈T-ショック〉はできたんだ。だからキーボードはあくまでも二人の演奏を支える手段であって、彼にとっての生き甲斐じゃないはずだ」

「………」

 御射山医師が考え込むように俯く。先生はさらにこう続けた。

「確かに彼はコンサートを大事にしてるしツアーもやりたいだろうね。けど作り上げるほうに専念すればできると思うよ。マネジメントに加わる和巳君から様子を聞き取れば、御射山君と私で体に見合ったスケジュールを提示できるんじゃないかな。それなら『コンサート活動ができない』とは考えないと思うんだ」

 御射山医師を見ると、顎に手を当てたまま考えを巡らせている。その瞳には、先ほどはなかった可能性を探る気配が宿ったように見えた。

 この案で、果たして俊くんは受け入れてくれるだろうか。

 先生に顔を戻すと、彼は人差し指を立ててチョイチョイと動かした。

「ひとつだけ問題があるとすれば、彼の眼鏡に叶うキーボード奏者を見つけられるかってことだよね。これは和巳君に動いてもらうしかない」

 ――あっ。

 見つかるといいんだけど、との言葉を聞きながら、僕は運命の音を聞いた気がした。

 きっと、こういう巡り合わせだったんだ……。

 先への備えとして思いついた手段が、別の方向に向かい始める。

 ダメもとだ、和巳。手筈だけは整えて、提案してみればいい。それで受け入れてもらえなくても今より失うものなんてない。むしろ自分が踏ん切りをつけるためのステップになるじゃないか。

 僕は「頑張ってみます」と先生に頷き、次いで御射山医師へと頭を下げた。

「御射山先生。無事に説得できましたらよろしくお願いします」

 彼女は驚いたように顔を上げた。

「本当に、小倉さんはそれで考え直してくれるでしょうか」

 僕は姿勢を戻してから正直に答えた。

「難しいだろうとは思います。でも渡辺先生のご意見も十分納得できるものなので、試す価値はあります。演奏者にも心当たりがありますので」

「そうなのかい? それは心強いじゃないか」

 渡辺先生が勢い込む。僕は苦笑して「いえ」と続けた。

「ちょっとわけありの人なので……別の意味で色々揉めると思います。けど雅俊さんが聞く耳を持ってくれたなら実現するかもしれない。ですからまずはこの提案に耳を傾けてくれるよう、先生方は祈っていてください」

 二人の医師は顔を見合わせたが、それぞれに期待した顔で頷き、励ましの言葉を送ってくれた。

 翌日、僕は予定通り退院し、まずは拓巳くんの待つ自宅へと戻った。そして渡辺先生から託された治療計画を話し、しばらく俊くんとのことに専念する許可を願い出た。

 その際、説得方法への反対を予想し、あらかじめ作戦の半分を明かして協力を訴えた。拓巳くんは最初こそ強硬に反対したが、粘り腰で食い下がると最後は承諾してくれた。

 今までより意見をぶつけ合えたことに成長を感じながら、準備に一日を費やしたあと、心配顔で送り出す彼に感謝を伝え、俊くんの待つ目黒へと向かった。

 どうか思いが届きますようにと祈りながら。


                ◇◇◇


「拓巳!」

 Gプロ地下スタジオの隣にあるお馴染みの休憩室に、肩を怒らせた雅俊がバタンとドアを開けて乱入してきた。

 ──来たか。

 時刻は午後二時。ほぼ読み通りだ。

 拓巳は素早くサングラス越しに目線を飛ばし、部屋の中の顔ぶれを確認した。

 給湯設備の前には(たちばな)が、そして拓巳の後ろには西名(にしな)がいる。二人にはすでに説明してある。

 目線を浴びた橘がそろりと移動してドアを閉める中、雅俊が怒りを(あらわ)にして突進してきた。

「どういうことだ!」

 目の前のテーブルをバンッと叩かれ、手前に置かれた安倍川(あべかわ)(もち)のパックがポワンと跳ねる。拓巳は内心で気を引き締め、努めて平静を装った。

「怒鳴るな。話があるなら座れよ」

 片手をヒラヒラさせながら白い餅を楊枝(ようじ)の先に捕らえると、雅俊は右隣の椅子をガッと引き出して乱暴に座った。

 いちいちうるせぇ。怒鳴りたいのはこっちだ! ――との言葉を内心に押しとどめる。

 和巳との約束だからな。

 腐りそうな気分を、和巳が手配していったという老舗(しにせ)甘味(かんみ)で慰めていると、目の前のテーブルが今度はベシャッと鳴った。見ると、叩きつけられた手のひらの下から便箋(びんせん)がはみ出ている。

「和巳はどこだ。マネージャーは。おまえも承知してるってことか。どうしておれのスケジュールだけがキャンセルされてるのか説明しろ!」

 拓巳は空いているほうの手を伸ばし、透かしの入った白い便箋を雅俊の手のひらから救いだした。

 ちなみにマネージャーの沖田(おきた)(とも)(のり)は集中砲火を浴びないよう、広田(ひろた)と外回りに出してある。

「一度に質問するな。混乱するわ」

 これを雅俊が持っているということは、事が和巳の予想したとおりに展開したということだ。

 拓巳は落ちかかる前髪を避けつつ楊枝をパックに戻し、時間稼ぎのごとくゆっくりとテーブルに肘をついて便箋に目を通した。


 雅俊さんへ。


 昨夜はよく眠れたかな。


 誤魔化すのはよくないので正直に伝えます。

 昨日、断られた新しい治療プランの件、僕はまだうまく消化できなくて、せめて内容を聞いてから判断してもらいたい気持ちでいます。


 腹が立つよね。しつこくしてごめんなさい。


 でも僕は、このプランには雅俊さんに耳を傾けてもらえるだけの価値があると思ったのです。

 内容を聞いてもらい、それでも納得できないようであれば、そのときこそ僕も迷いを捨て、あなたの望むように寄り添うことができる。

 どうしても、その思いを捨てきれません。

 すでに心を固めた人に、ひどいことを望んでますよね。本当にごめんなさい。


 これは僕の弱さだから、ちょっとだけ時間をください。

 あなたを支える自分でいるために、大切な思い出が詰まる空間で、自分の心を整理をしてこようと思います。

 勝手に行動することをどうか許してください。

                            和巳より


※僕が時間をもらうことについては拓巳くん、祐さんに承諾を得ています。スケジュール等、確認してください。


 二日前に聞いたとおりの、和巳の心情があふれ出るような内容である。

 拓巳はため息をつき、手紙をテーブルに置いた。

「あと一週間、おまえのスケジュールはキャンセルだ。病み上がりなんだから当然だろ」

「ふざけんな。マネージャーはどこだ。連絡しても(つな)がらないのはおまえの仕業か」

 よくわかったな。そのとおりだ。――などとまともに答えたら話は終わりだ。

 拓巳は祐司からのアドバイスに従ってシレッと返した。

「俺じゃねぇ。祐司の判断だ。マネージャーもそれを受け入れた」

「なんだと……!」

 雅俊の背後から怒気が吹き上がる。目の端に映る橘が「ヒッ」と肩を縮めた。

 祐司。あんたにもこの場にいてほしかったぞ……。

 そもそも和巳の計画に不安を感じた拓巳に対し、雅俊を揺さぶってみる手もあるぞと入れ知恵してきたのは祐司である。

 時間がなさすぎて調整できなかったのは悔やまれるが、彼には彼の役目があるのだから仕方がない。

 拓巳はハラを決め、足を組んだまま雅俊に向き直った。

「俺も祐司の意見に賛成だ。もうしばらくおまえは自分の体と向き合え」

 雅俊はさらに目尻をつり上げた。

「だからその話はもう終わってると言っただろう!」

「渡辺先生の話では、まだ幾つかの選択手段があるってことだったが」

「それは昨日、断った。和巳も承知してくれたはずだ」

「でもこの手紙を置いてったんだよな? それは納得してのことじゃなくて、おまえの態度を見て引き下がっただけだろ。この先、おまえを支えるために踏んでおきたい手順だから、そこだけはちゃんと検討してほしかったんじゃないのか?」

「………」

 黒い瞳に思案する色が混じる。拓巳はここぞとばかりに餌を投げた。

「仕事に復帰したいなら、おまえの選んだ伴侶を納得させろ。その上での判断なら俺も祐司も受け入れる。条件によっては和巳の付き人時間を譲ってもいい」

「えっ」

 雅俊と、そして目の端に映る橘が目を見開いた。

 あっ、違った!

「じ、条件付きでの間違いだっ。全部じゃねぇぞ!」

 それでも凝視する雅俊から目線を逸らす。 

「体調次第では、もっと手厚いサポートが必要だろ。だからちゃんと和巳と話した結果なら、半分? くらいはまあ、いい」

「―――」 

 黙りこんだままの雅俊に拓巳は目線を戻した。

「おまえがこの問題に早く決着をつけたいのは、迷いを捨てて前進したいからだろ? それは和巳だって同じだと思うぞ」

 雅俊が俯く。拓巳はテーブルに肘を預けた。

「俺は……正直なことを言えば、おまえは何度も奇跡を起こしてきたから、今度だってまた打つ手が出てくるんじゃないかと思ってる。和巳はもっと深く考えただろうが、それでも手を尽くす余地があると踏んだんだろう」

「けど、もう……」

 垂れ下がる前髪の奥で唇を噛むのが見え、拓巳は内心で拳を握った。

 いいぞ。もう一息だ。

「別に話を聞いてそのとおりにしろとは言ってない。和巳の考えを聞くだけは聞いてやって、それで返事をするくらいはいいじゃんか」

「聞くだけ……?」

「おまえの中で答えが出てるのは、それだけの時間をかけてきたからだろう。けど俺たちは……特に和巳はまだ聞いたばっかなんだ。色々な可能性を模索したくなるのはあたりまえだろう?」

「それは……」

「言うべきときに明かさなかった、これはおまえが招いた結果だぞ。少しでも悪かったと思う気持ちがあるなら付き合ってやれよ」

「………」

 それでも頷かない雅俊に、拓巳は内心でため息をついた。

 くっそ。岩のように硬いわ。

 いつもならこのへんで我慢の限界が来るのだが、今回、踏み止まっていられるのは一昨日(おととい)の和巳とのやり取りがあるからだ。

『きっとすぐには考え直してくれないと思う。努力して苦しんだ末に出した答えだろうから。でもこのまま何もしなかったら後悔する。だから僕もできることは全部やりたいんだ』

 そのために選んだ手段がまた強烈だった。

『こんなことで俊くんが考えを変えてくれるかはわからない。でも一度決めたことを覆してもらいたいなら覚悟を見せないと。それにどのみち避けては通れないことだと思うから』

 そして渋る拓巳をこう宥めた。

『三日だけ試させて。三日経ってもダメだったら迎えに来てほしい。そのときは必ず一旦、帰るから』

 もちろんまた挑戦するけど、と語る和巳の目は不屈の意志が宿っていて、圧倒されて反論できずに渋々同意する風を装うのが精一杯だった。

 拓巳は落ち着けと自分に言い聞かせながら息を吐き、後ろの西名に麦茶のおかわりを頼んでから残りの安倍川餅に楊枝を刺した。

 とにかく、今はこいつの意識を和巳に向かせるのが肝心だ。

「これ以上のことは俺にも言えない。無理強いするつもりはないから今日は帰れ。そんでよく考えろ」

 言いながら最後の餅を頬張り、西名の手が差し出した湯飲み茶碗を手に取る。すると少し顔を上げた雅俊が、珍しくも上目使いで聞いてきた。

「……和巳はどこにいる」

 よし。

 拓巳は内心を抑えつつ麦茶をひと口飲み、平坦な口調で矢を放った。

「アトリエだ」

「――なんだと?」

 雅俊は弾かれたように顔を上げた。

「アトリエに? まさか一人でか。いつから!」

 そして椅子から立ち上がってこちらに身を乗り出した。

 そうだろうとも。

 なんといっても今の和巳にとってアトリエは鬼門のような場所である。特に保管室のそばへ近づくことはいまだにご法度なのだ。

「今朝、Gプロに顔を出したあと、打ち合わせを済ませてからその足で行ったはずだ」

「じゃ、午前中……!」

 むろん和巳は雅俊が組んだスケジュールが今日の午後からだと把握していて、昼までは寝坊することを計算して作戦を立てたのだ。

「なんだって今、あんなところへ……!」

「待て!」

 拓巳は席を立ち、体を返した雅俊の腕をつかんで止めた。

「時間をくれって書いてあっただろ! 行くなら話を聞いてやることが前提だ。できないなら邪魔するんじゃない」

「それとこれとは別だ! フラッシュバックを起こすかもしれないんだぞ!」

 むろん拓巳だってそんなことは承知している。しかし和巳はその克服に賭けたのだ。

「だめだ。和巳と約束してる。おまえがあそこに行くときは考え直したときだ」

 雅俊は頬を紅潮させ、腕を振り払って出ていこうとした。しかし拓巳はすぐに肩をつかみ直して止めた。

「人の話を聞け!」 

「……おまえはっ、和巳が心配じゃないのか!」

 なんだとこのやろう!

 拓巳は一昨日のやり取りを思い出して頭に血を(のぼ)らせた。

「心配に決まってんだろ! けど和巳の意志を無視して連れ戻しに行ったら地下の保管室に踏み込まれるんだよ!」

「……っ!」

 アトリエの地下に完備された保管室には、和巳のフラッシュバックを誘発するパネル状の作品が数多くしまわれているのだ。

「こっちだってめちゃくちゃ揉めたわ! けど和巳は譲らなくて、最後は土下座されそうになって仕方なく折れたんだぞ……!」

 そのときの場面を思い出して背筋をヒリつかせながら、拓巳は雅俊に顔を寄せ、圧し殺した小声で怒りをぶちまけた。

「貴様に俺を責める資格はない! 和巳はな。二人でいられる時間が見通せなくなったからアトリエの克服を急ぐことにしたんだ。あの場所でも一緒に過ごせるようになりたい一心でな!」

「――……」

「おまえ今、心で喜んだだろう……!」

「……っ」

「先のこともそうだ。命の期限が切れたことを、おまえ自身はそんなに悔やんでなんかない。むしろ心の隅では喜びさえ感じてるはずだ。『これでもう、和巳を失うことは永遠にないんだ』ってな!」

「そっ……」

「誤魔化しても無駄だぞ」

 目を見開いた雅俊を拓巳は睨みつけた。

「おまえが他の治療を拒むのは、今までの闘病が辛かったからでも、延命に価値が見いだせないからでもない。徐々に衰えていく自分を受け入れられないからだ」

 その苦しみから解放されたくて治療を拒んだのだ。

「おまえがもっとも恐れるのは、生きながら創造の手段を奪われることと和巳を失うことだろう。そのどっちも回避できるチャンスを喜ばないはずはない」

「………」

「だから俺はおまえの運命を悲しまない」

 拓巳は雅俊の肩から手を離した。

「俺だって、何度も命を投げ出したくなった身だ。長く生きるだけが幸せじゃないなんてことはわかってる。今のおまえは不幸じゃないし、このまま散りたい気持ちもわかる。ただ、おまえは残される側の気持ちだって知ってるだろう?」

「―――」

 雅俊の目が、何かを映すように揺らいだ。 

「俺ももう、いつ死んでも悔いはない。けどさすがにこの状況じゃ和巳が心配だから、生きる努力はしようと思ってる。それでもダメなときはまあ、仕方ないと割り切ってもらうが」

 だから人のことなんて言えた義理じゃないが、と続けると、雅俊の肩から僅かに力が抜けた。

 潮時だな。

 拓巳は雅俊から一歩下がった。

「おまえの人生だ。好きに使え。ただし和巳を選んだ責任は果たせ。アトリエに行くなら話を聞くつもりで行くんだ。聞きたくないなら行くんじゃない。そのうちには和巳も自分に折り合いをつけるだろう」

「……そのうちに、っていつだ」

 気がかりそうなつぶやきに、拓巳は目線を下げて嘆息した。

「それは俺が聞きたい。おまえを諦めるのにかかる時間なんだから」

「………」

 雅俊はうなだれると、来たときとは真逆の様子で休憩室から出ていった。

 さあ、このあとどう出るか。

 拓巳が目線を動かすと、橘が敬礼した。

「じゃあ俺、行ってきます」

「ああ。頼んだぞ」

 彼は畏まった顔で頷いたあと、西名に「よろしくっ」と声をかけてから部屋を出ていった。

 このあと橘は雅俊のあとを尾行し、こちらへの連絡役を担うのだ。

「……マースさんは動くでしょうか」

 空のパックを片付けた西名がこぼし、拓巳は「わからん」と答えながら背もたれにかけておいたジャケットを手に取った。

「だがまあ、かなりのプレッシャーにはなるはずだ。なにしろ期限を知らないからな」

 三日経ったら一旦、休むことは内緒である。

「策士ですね」

「このくらいは当然だ」

 和巳はそれでも難しいと考えているようだが、拓巳はそんなことはないだろうと読んでいる。しかし迷走した挙げ句にとんでもない方向へ逃げるときがあるから油断はできない。

 けど俺が和巳にしてやれるのはここまでだ。あとはせめて俺のことで心配かけないようにするくらいか。

 拓巳はジャケットの袖に腕を通しながら西名を横目で盗み見た。

 西名には大学で頭を下げ、あれから二回ほど助っ人を頼んだ。どうやら周りからのプッシュもあったようで、彼は淡々と引き受けてくれた。しかしこれからのことはまだ何も決まっておらず、就職スカウトの話にもまだ返事はないのだという。拓巳も忙しくてじっくり話す機会がなかったが、なんとなくこちらから聞いてはいけない気もしている。

 まぁ、こんな仕事、性に合ってないのかもな……。

「このあとはどうされるんですか?」

 内心でグルグルしているところに声をかけられ、拓巳はハッと我に返った。

 いかんいかん。未練がましい。

「広田が戻ってくる頃だから事務所で打ち合わせだ」

 地下スタジオの休憩室にいたのは他のスタッフを避けたかったからで、練習する予定で待機していたわけではない。

 一連の事件によって混乱したスケジュールをこなし終えた今は、新しい依頼はすべて保留にしてある。それよりもまずは今後の見通しを話し合い、幾つかのパターンを予測して組み立てておくのが先だろう。

 まあ、皮肉にも俺のソロアルバムだけは進んでるんだがな。

 ジャケットを着終えた拓巳は西名に向き直った。

「今日は助かった。無理を言って悪かったな」

「いえ……」

 じゃ、上がるかと声をかけてドアに向かおうとすると、西名が「拓巳さん」と声をかけてきた。

「なんだ」

 顔だけで振り返ると、彼は意を決した表情でこう言った。

「この前は、事情もよく知らないのに口を出してすみませんでした」

 ペコリと頭まで下げられ、拓巳は慌てて西名に向き直った。

「おい、よせよ。おまえは間違ったことは言ってなかったろ。まさかGプロの誰かに謝れとか言われたのか?」

 そんなことになっていたらスカウトなんて絶望的だ。

 内心で青ざめていると、西名は「違います」と手を振った。

「じゃ、なんで。この前も言ったが、おまえの言葉のお陰で俺には奇跡が起きたんだぞ。スタッフともども感謝しかないわ」

 奇跡を起こした言葉とはもちろん『逃げるんですか!』と『父親でありたいなら頑張らないと』だ。

 祐司だって伝えてくれたらしいし、(けん)()優花(ゆうか)も喜んでたし、誰か余計なこと吹き込むようなやついたっけ。

 顎に手を当てて真剣に考えていると、西名から苦笑する気配がした。

「そうじゃないんです。あのときは逃げたらだめだって本気で思ったから言いましたし、そこに文句言われても気に留めません。親が向き合わなかったら誰が向き合うんだって心の底から思いましたから」

 改めて聞いてもなかなか胸に刺さる言葉だ。けれどやはり間違ってはいないと思う。しかし西名はやや逡巡すると、フッと息を吐いて言葉を続けた。

「アヤセの社長さんから諦めてと言われたあとの、僕の言動は我ながらお粗末でした。あの人が、拓巳さんにも事情があることを匂わせてきたのが鬱陶(うっとう)しくて食い下がった挙げ句、ほしい返事がもらえないから切り上げてさっさと帰った。僕のしたことは幼児の癇癪(かんしゃく)と一緒です」

 あまりに自虐的な言葉に拓巳は面食らった。

「いや、そんなことは」

「あるんです。だってあのとき、僕はあなたに言っているようでいてその実、自分の父親に言ってたんですから」

「えっ……?」

 驚いて目を見張ると、西名は自嘲の笑みを浮かべた。

「今から十年くらい前ですけど、僕の目が色覚異常だってわかったとき、目の前で父は母を罵倒(ばとう)したんですよ」

「……!」

 罵倒とはまた穏やかじゃない。

「なんでそんな」

 ことをと言いかけた拓巳はハッと口を閉じた。

 そうだ。聞いたことがある。色覚異常は確か母親から遺伝することが多いんだ。

 拓巳が思い至ったことを、西名も読み取ったようだった。

「そう。僕の遺伝は母からです。しかも本人に異常はなく、母の家族にもそのときはたまたま見られなかった。だから結婚するときにそれを告げることもなく、もちろん父は知りませんでした」

 冷静に語る姿がどこか寒々として見える。

「でも、問題は父と母の育った環境で、父の家系はこれを『結婚するには障りがある遺伝病』と捉えていて、母の家系は『時々現れる遺伝特質』くらいに考えていたことでしょうね」

 当然、家の中は荒れました、と西名は冷めた口調で続けた。

「父は騙されたと言って母を責め、母は自分が責められることに憤りました。そしてどちらも僕に対して腫れ物に触るような態度になった。父にとって僕は『妻側の不誠実のせいで生まれた障害児』であり、母にとっては『言いがかりをつけられる原因の子ども』です。さすがに混乱しましたね」

「………」

 かける言葉が見つからずにいると、西名はでも、と笑った。

「今はありがたいですね。小学校の担任が父の言動に気づいて、両親に指導が入ったんですよ」

「そうなのか?」

「はい。これは教育現場ではデリケートな案件で、『色覚異常は注意すれば学校生活に支障を(きた)すものではなく、集団検査は生徒を不当に傷つける恐れがある』として今では検査対象から外れた項目です。確かに、色彩の選別が必要な職業には()けませんけど、それさえわきまえていれば健常者として生活できる……それが現在の正しい解釈です。――指導の上では」

「……現実は違うんだな」

 西名は口元で笑っただけで話を続けた。

「父は間違った解釈を正され、母は子どもの気持ちに寄り添うよう注意を受けました。母はそこそこ反省して態度を改めましたが、父は頭で理解しても感情が追いつかなかったんでしょうね。以降、僕との接触を避けるようになった」

「………」

「世間体を気にする父にとって、公的機関からの指導は痛手でした。しかし僕と会えば否応なく『遺伝病の息子』との意識が頭をもたげる。その矛盾から逃れるには息子から逃げるしかなかったんです」

 ――ああ、それで……。

 拓巳が理解したことが、西名にも伝わったようだった。

「学校で、あるいは課外活動で、僕にも何回か父に来てほしい場面がありました。でもことごとく言い訳をして、ついに応じてはくれなかった。そういった負の歴史が、この前の僕の言動には重なっていました」

 そこを社長さんに見抜かれて引っ込めなくなりました、と西名は再び頭を下げた。

「だから謝ったのはその分です。すみませんでした」

「わかったよ。おまえの気が済むならそれでいい。俺は気にしてない」

 拓巳が受け入れると、頭を戻した西名からホッと力が抜けたように見えた。

「ありがとうございます。あとバイトの件、拓巳さんが必要なら続けますが、まだ要りますか?」

「えっ!」

 ほんとか!

 拓巳はつい前傾姿勢になった。

「もちろん頼みたい。いいのか?」

 西名は僅かに照れたような顔をした。

「はい。健吾からも聞いてます。この先のことを考えると、高橋(たかはし)君にはどうしても時間が必要になると」

 拓巳はそのとおりとばかりに頷いた。

「さっきも言ったが、雅俊のことはしばらく守秘事項になる。会社の人間でも他の担当スタッフには当分、明かせない。だから俺とまともに会話ができて、内情を知ってる上に口も固い西名が続けてくれるのは助かるんだ」

 ダメなら健吾と優花に引き続き頼むつもりでいたが、二人でさえも西名ほどには会話が進まないときがある。それでも他のスタッフよりは何十倍もマシだが、できればより和巳に近いレベルが欲しい。和泉(いずみ)矢部(やべ)も貴重だが、彼女らは二人で西名一人分、しかも女子大生ということでそれなりに気を使う。そこは優花のほうがまだしも気が楽で、つまり誰にも一長一短がある。

 よし、西名が来てくれるなら……。

「ありがとう。これでマネージャーもひと安心、社長は大喜びだ」

「それは大袈裟(おおげさ)ですよ」

「それな。うちの連中に聞いてみろよ。誰も否定しないぜ」

 これならスカウトも視野に入ってくる。もし無事に和巳の作戦が実れば、だいぶ色々な手が打てるぞ……。

 今はまだ一人戦っているであろう和巳に心でエールを送ると、拓巳は今度こそ「じゃ、行こう」と西名を促し、二階の事務所へと移動した。



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