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予想外の参加者

「じゃあ今はもう、拓巳はトラブルなく雅俊さんのレッスンをこなしているのね?」

 Gプロ社用車であるセダンの後部座席からセラに問いかけられ、僕は助手席で慎重に答えた。 

「はい。あれから日も経ちましたし、雅俊さんもそこはプロですので、このところは順調に進んでいます。……ですよね、沖田さん」

 運転席の姿を窺うと、沖田さんはメガネの奥の目尻を和らげた

「時々意見を戦わせていますが、おおむね普段と変わりありません。先ほど私が様子を見ましたときも熱心にやっていましたよ」

「そうですか。よかった。歌のレッスンは積み重ねが大事ですものね」

 後部座席から嬉しそうな気配が伝わってくる。沖田さんも感じ取ったか、右にハンドル切りながら声を弾ませた。

「セラさんは声楽の先生でいらっしゃるから、そこはやはり気になりますよね。時間が許すならスタジオにもご案内しましょう」

「あ、その……先日の拓巳の様子があまりに……いえ、差し出がましいことを申し上げました」

「そんなことは。専門家の方がそばにおられるのは我々にとっても嬉しいですよ。ねぇ、和巳君」 

 沖田さんが焦った様子でこちらに目線を投げてくる。僕は慌ててフォローした。

「もちろんです。特に雅俊さんは音楽のすべてに貪欲なので、セラさんの意見もぜひ聞いてみたいと思っているはずです」

 少し首を伸ばして後ろに声をかけると、セラは喜びを隠せない自分を恥じるように目を伏せた。

「……ありがとう。でも、まずは社長様へご挨拶をさせていただかなくては」

 僕はその姿を見、彼女がこの数日間、口には出さずにいてくれたものの、やはり色々思うところがあったのだと確信した。

 だから引っ越しの準備なんて言い出されちゃったんだよね。


 セラを自宅マンションに迎えてからおよそ三週間。

 僕たちの生活は嘘のように平穏で、彼女の手料理を囲んでの団欒(だんらん)はまさに夢のような時間だった。

「どうかしら。お口に合うといいのだけれど」

 今も週二でお世話になるベテラン家政婦、中沢(なかざわ)美智子(みちこ)さんのレシピを元に作ったという料理に対し、僕の称賛より彼女を喜ばせたのは拓巳くんの台詞である。

「やっぱコレが一番うまい」

 コレとは食卓の隅に添えられたセラの春雨サラダで、結局拓巳くんはそれしかおかずを食べなかったけれど、彼女は十分に報われた顔をしていた。

 もちろん毎日食卓を囲めたわけではないし、セラの目標もまずは職場に復帰することだ。けれどもリハビリを兼ねて家事を行う彼女は楽しげで、安全対策の上でもしばらく同居できるのが理想だったので、これなら大丈夫かもと肩の荷が下りた気分だった。そこに降りかかったのが今回の入学式事件である。

 俊くんの作戦(?)に乗った形で土日を過ごした僕は、月曜日の夕方に拓巳くんと合流してボイストレーニングに備えたわけだが、その日は俊くんの仕事がずれ込んだためにお流れとなった。しかし帰り際、「明日から覚悟しておけよ」などと冷たく言い残された拓巳くんは、二人きりになるなり青い顔で詰め寄ってきた。

「おまえ、ホントーに雅俊の疑惑を解消してきたんだろうな?」

「う、うん。ちゃんと許してくれたから大丈夫……のはずなんだけど」

 僕と俊くんの間では丸く収まったものの、拓巳くんに対してどう出るかはまた別の話で、トレーニング内容までは口を挟めないのでそれ以上のことは言ってあげられない。結果、不安要素が(ぬぐ)えないことを悟った拓巳くんは一気にトーンダウンし、その夜を落ちつかなげに過ごしていた。

 それは僕にはお馴染みの光景だったが、客間の和室に落ち着いてひと月にも満たないセラにはまた別の話だ。

 拓巳くんは俊くんに絞られると不機嫌になるが、個人レッスンでのダメ出しだと大魔王レベルになる。この場合、もともと乏しいコミュニケーション能力は極限まで衰退し、スタッフには地雷を踏まないよう戒厳令が飛ぶ。その間、僕もお世話に工夫を凝らして凌ぐのだが、最終的には真嶋さんの癒しテクに頼ることが殆どで、沖田さんから彼に報告が行き、夜はなるべく自宅に待機してもらうことになる。そして僕が鬼教師と化した俊くんを宥める役を担い、真嶋さんが大魔王を甘やかすのがいつものパターンだ。練習期間にはたびたび繰り返されてきたことだが、セラにとっては初対面での痛みを思い起こさせる負の光景である。

「あの、和巳。拓巳の様子がおかしいのだけど、どうしたのかしら……」

 ボイトレ再開の日の夜。

 帰ってくるなりソファに突っ伏した拓巳くんの姿に戸惑ったセラから質問され、僕は内心でまずいかもと焦りながら今までの対処法を説明し、少し距離を取って見守ってくれるようお願いした。

「話しかけてはいけないのね。わかったわ」

 彼女は口を出すことなく二日、三日と無言でソファに直行する拓巳くんを見守り、突っ伏す時間が短くなってからは安心したようにも見えた。しかしそれは彼女の僕たちへの気遣いであり、本当なら夕食をともにして練習の様子を聞いたり、もっと声をかけて励ましたかったに違いない。

 おまけに僕も授業が始まって勤務時間が夜にずれ込み、セラと接する時間が前より少なくなった。彼女自身も職場復帰の準備に入っていたとはいえ、帰ってくるやいなやソファに突っ伏し、やっと起きて着替えたと思ったら、無言のまま真嶋さんの家に向かう拓巳くんの姿に、拒絶されたような寂しさを抱いただろうことは想像に難くない。

 だから二日前、「復帰の準備が整ったから、そろそろアパートを探そうと思うの 」と言われたときは、急ぐ必要はないですよと返しながらも、早く出たほうがいいとの考えに至ったのも無理はないと感じた。しかしこちらにもセキュリティの点で譲れない部分があり、加えてセラには見過ごせない問題があることも発見してしまった。

 これを放置するのは危険と判断した僕は沖田さんに相談し、幾つかの案を検討した。それはすぐに社長へと報告され、その結果、今日、メンバーがビルの地下スタジオに入ったあと、セラを四階にある社長室に迎えて面会する段取りになったというわけだ。


 本社ビルに到着し、スタッフ用エレベーターに向かってロビーをまっすぐに進むと、行き交うスタッフたちがすれ違い様に足を止め、その後ざわめくのが背中越しに伝わってきた。

 そうでしょうとも。

 今日は僕たちが密かに進めてきたセキュリティ対策の効果を確かめるため、セラにはいつもより華やかな装いにしてもらっている。

 普段、襟足でひとつにまとめている栗色の髪はふんわりした巻き髪にして下ろし、服装は定番のタイトスカートではなく、明るいクリーム色をしたフレアーのワンピースだ。そして視力の落ちた右目に合わせて作り直した金縁(きんぶち)メガネに代わり、たまにしか使わないというコンタクトにしてもらっているので、額を(あらわ)にした髪型と相まって顔の造作がはっきりとわかる。Gプロにおいてはたとえ印象が百八十度違っていようとも、この容姿を見て足が止まらないスタッフなど皆無だろう。

 そうとは知らないセラはエレベーターの中に入ると、自分の右瞼のあたりを手で触れて気にしだした。

「あの、なんだかみなさんがこちらを見ている気がしたのだけれど、やはりメガネをかけたほうがよいのではないかしら……」

 僕は彼女の手を止めて説明した。

「違います。目の傷はメイクのお陰で殆ど目立ちません。みんなセラさんの美しさにビックリしただけです」

 無論そこには『とある絶世の誰かさんに似て』との文言が付随する。けれどもセラは気づかない様子でこちらを見上げた。

「ここには若くて美しいタレントさんがたくさんいらっしゃるのでしょう? そんな風に濁さなくてもいいのよ」

 お世辞を言われたと感じたのか、珍しく眉が寄っている。しかし僕が否定する前に沖田さんが発言した。

「いえいえ。和巳君の言葉は嘘じゃありません。セラさんは大変お美しいですよ。なにより目に優しいという点において、我が社のスタッフにはこの上なくインパクトがあるのです」

「目に優しい……ですか?」 

 セラが不思議そうに首をかしげる。僕は沖田さんの言葉に頷いてしまった。

 美しいけれど目に痛い誰かさんは、普段、薄いとはいえサングラスをしているせいでスタッフには顔がはっきり見えない。人は美しいものは見たいと感じるので大変残念な気持ちになる。しかしサングラスを取られると今度は直視ができなくなり、スタッフにはある種のフラストレーションが溜まる。ところが今、一瞬すれ違った女性は明らかに誰かさんに似た美麗な面立ちをしているのに、儚げな風情と柔らかい表情のお陰で目に痛くないのだ。

 このあとビル全体で『おい見たか! あのタクミによく似た美人!』が席巻するのは間違いない。

 まあ、それを狙ってるんだけど。

「ですからどうか安心して、できれば気にしないでください」

「でも……こんな傷物の顔をさらしてしまって、失礼にならないのかしら」 

 沖田さんの言葉にもセラはまだ懐疑的である。これこそが僕の発見した問題点、容姿への間違った認識による自覚のなさだ。

 セラにとって、瞼の上にある傷は過去の痛みの象徴だったという。しかしメガネをかけていれば縁に隠れて気にせずに済んだので、公の場ではいつも薄い色つきの縁ありメガネを使っていたらしい。その結果、彼女の美貌は人の目から隠され、また控え目な性格も影響してか評価されずにきた。

 しかし容姿に対する低い認識の根本は、彼女の言葉の数々から、独占欲の強い父親が他人の関心を退けるために、あえて娘が自分を低く見積もるよう、容姿を貶すなどして意識操作したのだと僕は考えている。そうでなくてはいくら瞼に傷が残ったとはいえ、明らかに群を抜いた美貌を持つセラが、こうも自分の外見を卑下することが説明できないからだ。

 それらの間違いを正し、今日の話し合いで会社側の主張を納得してもらうために、彼女にはメガネを外してもらう必要があったのだ。

 初めての場に赴く彼女にとって、それはかなり勇気のいることだったらしい。けれども今の彼女には呪文が効くのでどうにか実現できた。

 それがこの言葉だ。

「でもセラさん。拓巳くんにとっては、セラさんがメガネを外してくれるのは嬉しいことなんです。だから気にしないでいきましょうよ」

 声を落として伝えると、彼女はハッと顔を上げ、己を戒めるように胸のあたりを手で押さえた。

「そうだったわ。私が気にしてばかりいたらがっかりさせてしまうわね。ごめんなさい。もう言いません」

 新たに上書きされた瞼の傷は、拓巳くんにとって、彼女の顔を直視してもフラッシュバックを起こさない護符になった。それは彼が初めてつかんだ克服の糸口で、以来、家でもどこでも「あんたはコンタクトにしろよ」と、こればかりは機嫌のよさがわかる口調で言うのだ。高橋要への抵抗によって生じたセラの新たな傷を、拓巳くんは同じ痛みを持つ者同士の誇りとして認識しているのだろう。

「着きました。降りましょう」

 僕は励ますように微笑みかけ、彼女をエレベーターの先へと誘導した。

 到着した三階のフロアは、主にミーティングや打ち合わせを行う場所だ。

 正面の広いスペースには、窓側に沿ってオープンカフェのような丸テーブルと椅子が置かれていて、壁際には無料の自販機もあり、幾つもの集団が紙コップを片手に言葉を交わしている。人々の立場や業種も様々(さまざま)で、ジャケットや背広姿は言うに及ばず、ジャンパーを着たスタッフ、ジャージ姿の芸人、ミニスカートのアイドルにポロシャツの俳優もいる。ざっと見ただけでも七、八グループはいそうだ。

「さ、セラさんの行き先はあの先です」

 案内役の沖田さんを先頭にセラと並んでカフェスペースの脇を通ると、ロビーと同じくみんなが一様にこちらを注目してざわめいた。

(ちょっと! あの美魔女ダレ?)

(タレントって感じじゃないな。女優か?)

(いっしょにいるのは沖田マネージャーと和巳君だぞ)

(わかった、あれだ。タクミの……!)

(きっとそうだ。ハーフか? 綺麗だなぁ……)

 ザワザワ、ザワザワ。

 フロアが浮き足立っている。そして会話も聞こえている。セラを窺うと、彼女にも聞こえたようで顔が赤らんでいる。

 よしよし。わざわざ三階から社長室に行く甲斐があった。

 本来なら社長室へ行くには四階で降りるのだが、わざわざ三階を通っているのにはもちろんわけがある。

 この場所を使える人たちって全員Gプロの許可証を発行されているはずだから、ここで見聞きしたことに対して守秘義務が課せられるんだよね。

 拓巳くんとの関係が連想される顔立ちなので、外部に情報を漏らされないよう、なおかつ称賛を浴びる容姿だということを実感してもらうためにここを通ってもらう必要があったのだ。

 効果抜群のフロアを奥の階段に向かって進んでいると、最後尾のテーブル席のところで体格に差のある人影が二人、同時に立ち上がった。

「お疲れ様です、沖田さん、和巳君」

 律儀に挨拶してきたのは背の高いほうの男性で、〈T-ショック〉のサブマネージャーだった横澤(よこざわ)浩之(ひろゆき)さんだ。今は隣に並んだ小柄な女の子、Gプロきっての実力派アイドル(やなぎ)(さわ)亜美(あみ)のマネージャーである。

「横澤さん。ああ、コラボの打ち合わせですか。ご苦労様です」

 沖田さんがチラと彼らのテーブル席に残った人影を窺ってから鷹揚に答え、僕も二人に挨拶した。

「お疲れ様です。亜美さん、元気そうだね。体調は良好?」

「はい。ありがとうございます」

 彼女はセラに目を奪われつつもぴょこんと頭を下げ、以前より柔らかい笑顔で応えてくれた。

 かつて上級生だった僕を慕い、俊くんの心を騒がせた柳沢亜美。彼女とは一時距離を置いていたが、僕の幼馴染みで亜美には部活の先輩に当たる優花の働きによって、最近ようやく話せるようになったのだ。

「亜美さんは新しい企画が進んでいますね。コラボの成功を応援してますよ」

 沖田さんが上司の風格で頬笑み、横澤さんと亜美が頭を下げる。じゃあ行きましょうかと言いかけたところで、セラの足が止まった。

「セラさん?」

 一瞬、亜美に目を留めたのかと思ったが、彼女の視線はその先を見ている。なぞるように追うとそれは亜美たちのテーブル席で、コラボ相手とみられる端正な面立ちの青年が、退屈そうに長い足を組んで座っていた。

 え、何? セラさんの知ってる人?

 彼もセラの視線に気づいたようで、不思議そうな表情で見返している。

 男性にしては肌が白く、少し波打った髪も目の色も明るめで、彫り深く涼やかな切れ長の目が印象的である。服装も物の良さそうなシャツブラウスにスラックスと、極めて上品で爽やかだ。

 でも、セラさんに比べたらまだしも日本人的な顔かな。 

 彼女を覗き込むと、浮き立つような喜びを秘めたため息が桜色の唇から小さく漏れた。

 えーっ、何事⁉

 内心で驚いていると、セラがハッと気づいた顔で口元に手を当てた。

「まあ、私ったら不躾な……まさかこのような場所でお会いできるとは夢にも思わなかったものですから。どうぞ許してくださいね」

 丁寧なしぐさで会釈するセラに、しかし挨拶された当人はまだ心当たりがない顔をしていた。

「失礼ですが、あなたは……?」

 やや目を細めて問いかける様子から、「誰だったっけ?」といった疑問を向けているのがわかる。

 彼の戸惑いを読み取ったか、横澤さんが場を繕うように口を挟んだ。

「シュナイダー先生にはどこにでもファンがおられるんですね」

 合わせるかのごとく亜美がそのあとに続く

「こんな綺麗な方まで。すごいです、先生」

 そうか。亜美さんが今度コラボする相手は、きっと何かのジャンルの専門家なんだ。どうやら日系人らしいけど、ノーブルな雰囲気からしてロックやヒップホップとかじゃないな。

 ジャズか。はたまたクラシックか。

 亜美の歌唱力ならなんでもいける、楽しみだな、などと思い巡らしていると、セラが「ああ」と手持ちのバッグから薄い色のついた金縁メガネを取り出した。

 あれ。持ってたんだ。

 そしておもむろにそれをかけると、斜めに上げていた前髪を下ろし、ふんわりした巻き髪を手で撫でつけて左右の耳にかけた。

「ご無沙汰しています先生。セラ・オースティンです」

 どこかホッとしたように指先をメガネの縁に添えられ、複雑な気持ちで青年に目をやると、今度は彼もわかったらしく「えっ!」と驚き、先ほどとはうって変わった態度でガタッと椅子から立ち上がった。

「セラ! セラなんですかっ、まさかそんな!」

 ええっ⁉ この激変ぶりは何事!

 その剣幕には僕たちのほうが驚いてしまったが、セラは動じることなく「お元気そうで」と微笑んだ。

「驚いたな! どうしたんです。ああ、どうかメガネを取ってくれませんか」

「いやですわ先生。私はこちらのほうがしっくりきますのに」

 セラは苦笑しながら耳にかけた髪とともにメガネを外し、バッグに戻した。

「いや、でも……っ」

 さらに続けようとした彼は、ハッと動きを止め、こめかみを軽く叩いてからこちらに軽く頭を下げた。

「失礼。騒ぎ立てて申し訳ない。こんな場所でまさかセ……ミス・オースティンと会うとはこ思わなかったので」

 セラのロンドンでの旧知なのか。それにしても。

「シュナイダーさんは、こちらの女性をご存じでしたか」

 沖田さんが確認すると、彼はバツの悪い顔でこめかみを掻いた。 

「ええ、その。イギリスに滞在していた折りに世話になりまして」

 そして困ったように笑いながらセラに質問した。

「あなたは? やはり歌の仕事の関係でこちらの会社へ?」

 それにはセラが言葉に詰まり、僕へと目線を向けてきた。僕はチラッと沖田さんを見、ここで明かす相手ではないと判断してすぐに笑顔で答えた。

「これより企画会議がありまして、オースティン先生にお越しいただきました」

 表向きはそういう設定にしてあるので一応、嘘じゃない。

 彼は僕に目を向けると一瞬、怯んだような顔をした。しかしなんだろうと思う間もなく目元を和らげて答えた。

「そうだったんですか。彼女は優れた声楽講師ですから歌手の育成にはうってつけですね」

 どうやらすんなりと納得してくれたようだ。

「まあそんな。シュナイダー先生こそ」 

「セイです。前のようにセイと呼んでください」

 彼はセラの手を取ると、優雅な貴族のようにキスをする真似をした。セラも応えるように膝を軽く折ったので、一瞬、イギリス社交界のような雰囲気が漂った。

 なんだかキザな人だな。似合ってるけど。

「さ、それでは参りましょうか」

 それを合図にして沖田さんがセラを促し、僕たちは会釈して別れた。最後にもう一度、肩越しに目線を投げると、亜美たちが再び着席する中で、セイと名乗った青年だけがまだセラを目で追っていた。

 よほど思い出のある間柄なのだろうか。

 あとでセラさんに聞いたら教えてくれるかな。

 そのことに意識が向いていたので、どんなジャンルの専門なのかを聞きそびれてしまい、それを知るのはもう少し先のことになった。そして彼の挙動が一部不審だった理由がわかるまでには、さらに長い時間がかかることになる――。



「よくいらっしゃいました、ミス・オースティン。それとも内田さんとお呼びするべきでしょうかな?」

 笑顔の後藤社長にドアを開けたすぐ先で出迎えられ、セラは少し目を見張ったあとで挨拶を返した。

「はじめまして。今日はよろしくお願いします。どうぞセラとお呼びください」

「こちらこそ。ではセラさん。どうぞ中へ」

 社長室に足を踏み入れると、奥のソファセットのあたりに複数の人の気配がした。

 えっ、人?

「みなさんもお待たせしました」

 みなさんとの呼びかけに目線を先へと走らせると、ドレッシーな調度品でバランスよくまとめられた室内の中央で、黒い革貼りのソファセットのあたりに思わず足が止まる光景が展開していた。

 ええーっ! ナニこれ。僕、聞いてないんだけど!

 沖田さんを窺うも、彼も驚きのあまり頬が引きつっている。 社長に目を向けると笑顔の額に汗が浮かんでいて、僕は喉元まで出かかっていた質問をなんとか飲み込んだ。

 どうやら社長にも予想外の参入だったらしい。

 この業界では大手の部類に入るGAプロダクツの社長にも断れない相手。それも複数。

 僕は腹をくくると、高級感あふれるソファセットに歩を進め、こちらに顔を向けている面々にきっかり四十五度、体を傾けて挨拶した。

「お久しぶりです早川(はやかわ)さん。綾瀬(あやせ)さん、先日はお世話になりました。今日はいらっしゃると知らずに失礼しました」

 そして困った顔で三人掛けの片側に座る、この中ではただ一人『できれば来てください』と声をかけてあった人に顔を向けた。

「真嶋さん、ありがとうございます。お店は大丈夫だったんですね」

 真嶋さんはチラッと両者を見てから複雑そうな顔で頷いた。

「まあその、店は忙しかったんだけど、後藤社長から迎えをよこされてしまって……」

 なんとも歯切れの悪い口調に状況を察する。

 今日の話し合いの主目的は、一人暮らしを望むセラへの状況説明と説得だ。

 僕たちがセラを迎えるにあたって進めた安全対策は、高橋要に対してある程度の効果が認められたもので、真嶋さんも知っているGプロお馴染みの手段である。とはいえ彼女のストレスになる可能性も考慮し、おいおい説明しつつ慣れてもらう予定でいた。しかし早くの一人暮らしとなると話が変わってしまうので、まずは彼女の認識不足を正し、事情を知らせた上で再考を促してみて、もしそれでも自立を望むのであれは、会社側が提示する物件のみにしてもらうのだ。

 その、ごく内輪の話し合いに参入してきたのが、真嶋さんの向かい側に座る()(うえ)財閥の私設秘書、早川(はやかわ)(さとし)さんと、はす向かいの一人掛けに足を組む、僕の伯母にしてアヤセ・インターナショナル社長、デザイナー、アヤセ・トベこと戸部(とべ)綾瀬(あやせ)さんだ。

 二人が醸し出す雰囲気から、この場に題名をつけるとすれば『華麗なる前哨戦』といったところだろうか。しかしなぜ、顔を揃えたくても多忙すぎて叶わないはずの二人が、わざわざ足を運んで争う姿勢を匂わせているのかがわからない。おそらくは社長も不安を抱き、両者から一目置かれている真嶋さんに助けを求めたに違いない。

 まあ、その気持ちはわかります。

 井ノ上財閥とは国内有数の巨大財閥で、祐さんの実家の一族である。ところが二ヶ月前、彼の叔父である会長が倒れたため、理事の肩書きを持つ祐さんは会長就任の危機に陥り、あわや〈T-ショック〉の活動を断念させられるところだった(僕も働きを買われ、Gプロから引き抜かれそうになった)。力関係では太刀打ちできない、後藤社長には鬼門の財閥である。

 片やアヤセ・インターナショナルといえば国外にも展開するフォーマルデザイナーズブランドで、代表のアヤセ・トベはファッション界の重鎮、芸能界に多大な影響力を持つ女性だ。目利きである彼女のコメントひとつで俳優やタレントの運命が変わるので、売り込みたいタレントを抱える芸能事務所にとっては神であり、これまた無視などできない存在だ。

 そして真嶋さんといえば、井ノ上財閥が手腕を欲してやまない祐さんが尊敬し、兄と慕うただ一人の従兄であり、綾瀬伯母にとっては元恋人、今はビジネスパートナーとして全幅の信頼を寄せる、また唯一の身内である僕と拓巳くんの庇護者として苦楽を共にしてきた相手だ。

 ……のはずなんだけど。真嶋さんの表情を見るにどうも不穏な雲行きだよなぁ……。

「さ、セラさんは和巳君とそちらにおかけください」

 若干上ずった声の社長に促され、戦々恐々としながらひとまずセラともども真嶋さんの隣に腰かけると、社長が綾瀬さんの正面になる一人掛けに、そして沖田さんが恐縮の顔で会釈しつつ早川さんの隣に座った。

「それではご紹介しましょう。こちらは」

「いえ、後藤社長。自己紹介させていただきましょう」

 さすがは井ノ上財閥会長の懐刀(ふところがたな)、機先を制して主導権を取りに来たようだ。 

 早川さんは仕立ての良さそうな背広の胸を張り、僕に笑みを見せてからセラに微笑みかけた。

「お初にお目にかかります。井ノ上財閥会長、()(のうえ)総司(そうじ)の私設秘書兼、鎌倉本宅の執事を務めております早川と申します。以後お見知りおきください」

 どうぞこれをと中腰で名刺を差し出され、セラも腰を浮かして受け取った。

「ご丁寧にありがとうございます」

 礼儀正しく微笑みながらも、覚えのない富豪からの使者に戸惑っているのがわかる。するとそれを読み取ったようにはす向かいからアルトの声がかかった。

「いきなりのことで驚かせたわね、セラ。連絡もせずにごめんなさい」

 セラは顔を向け、こちらは親しみのこもった笑みで答えた。

「とんでもない。綾瀬さんには前もって連絡しなくてはと思っていましたのに」

「いいえ。色々と大変だったのでしょう? 倒れたと聞いたときは肝が冷えたけど、パリにいたので身動きが取れずにいたの。無事に回復なさって良かったわ」

 定番である黒に金を配したシックなツーピースの出で立ちは、艶やかなボブカットの黒髪と相まって、綾瀬さんの華やかな美貌に玲利な印象を与えている。しかしセラに向ける夜色の眼差しはやさしく、深い親愛の情が窺えるもので、これはマスコミから畏怖を込めて『女帝』と呼びかわされている彼女の表情としては、ごく限られた相手にしか与えられないものだ。

 その限られた内の一人であるところの真嶋さんが口を開いた。

「それで綾瀬。多忙なあなたが時間を割いてまでここに来た理由は? 僕は自立したいというセラさんの申し出に対して、どう支援していくかを話し合うと聞いたのだけど……」

 早川さんにもチラッと目線を投げた真嶋さんが言葉を濁す。Gプロ代表である僕と沖田さんも同じ思いで二人を交互に見た。

「無論、その話し合いに参加して、私からの提案をセラに受けてもらうためよ」

「提案?」

 すると向かい側の早川さんが遮るように手を上げた。

「お待ちください。それに関しましては当方にも提案がございます」

 えっ、と注目すると、早川さんは素早く足元の鞄から書類を取りだし、パンフレットに似た薄手の冊子をガラステーブルに広げてセラの前にズイと差し出した。

「僭越ながら、当家の主より内田世羅様へこれらの物件をご案内するよう、申し使ってまいりました。旭峯大学へのアクセスを考慮し、立地、セキュリティなどを厳選した、いずれも当方の建設部門が手がけた安心設計のマンションです」

「ええっ⁉」

 思わず声を上げてセラの前に置かれたパンフレットを覗き見ると、なるほどチラシなどでよく目にするマンションの案内だ。どの物件もハイクラスなものばかりである。セラともども目を走らせていると、横から二枚のコピー用紙が差し出された。

「それは私が仕事で確保している物件よ。大学へのアクセス可能なものをピックアップしてきたわ。急いだのでコピーで申し訳ないけれど、契約までにはうちの不動産部の担当者が正式な物をお見せできてよ」

「ええっ……?」

 慌てて用紙を手に取ってみると、なるほど不動産物件の書類をコピーしたとおぼしき図面が連なっている。

「私のために確保したマンションだから、セキュリティは完璧よ。広さも手頃で使いやすさも保証するわ。もちろん客間があるから和巳や拓巳も泊まれるわよ」

 やや早口で説明する綾瀬さんは、早川さんに口を挟ませたくないらしい。どうやら井ノ上側の物件にはセラを住まわせたくないようだ。

 っていうか、ナゼ二人ともセラさんが一人暮らしをすると決まった設定なんだ?

「「ちょっとお聞したいのですが……」」

 セラと声が被り、僕は慌てて「どうぞ」と譲った。

「ごめんなさい。あの、早川さんとおっしゃいましたか、私の住居をあなた様がご紹介くださるのは、こちらの社長様からのご依頼があったからでしょうか」

 戸惑いながらも冷静に考えを巡らせた質問に、しかし社長が手を振りながら割って入った。

「いえっ、そうではありません。実をいえば、今日の話し合いは我々四人、或いは真嶋君を加えた五人と考えておりました。内容も、セラさんの置かれた立場を詳しくご説明し、一人暮らしはもうしばらく見合わせていただけないかとお願いするつもりでありました。ですから今朝、こちらのお二人から参加を申し出られたことについて、私も少々戸惑っている次第です」

 やはり口を挟まれるのを防ぎたかったのだろう、ひと息に喋り切った社長にセラが目を見開いた。

「まあ……」

 後藤社長は二人の客人を窺い、口を出す気配がないことを確認してから続けた。

「無論、このご時世、我が子を私物化して売り込み、稼がせて私腹を肥やす厚顔無恥な輩もおりますことを(かんが)みれば、ご子息である拓巳君に迷惑をかけることなく自活し、陰ながら見守っていきたいというあなたの姿勢は大変貴重に思っております」

 これは高橋要に対する痛烈な皮肉とも取れるな、などと考えつつこちらに目線をよこす社長に頷く。

「しかし申し訳ないながら、あなたの置かれた立ち位置では、一人で安全にお暮らしになるにはまだこちらの準備が足りないのです」

「準備……?」

「そうです。この部屋に来る前にお気づきいただけたと思いますが、あなたはご子息と同じく大変お美しい容姿をしておられる」

「いえ、私など」

「事実ですので自覚してください。そして我々は今回、あなたの安全を担保するために、我が社が拓巳君や和巳君に取っている手段を適用いたしました」

 社長はガラステーブルの下に手を伸ばすと、ノートサイズのタブレットを取り出した。もちろん僕には次の展開がわかっていたので、中腰になってそれを受け取り、操作してからセラの前に立てかけた。

「そちらの画面をご覧ください。」

 社長に促され、セラがタブレットを覗く。そこには僕が管理する〈タクミ〉のホームページが開かれていた。ちなみに〈T-ショック〉としてのサイトは別にあり、言うまでもなく俊くんと祐さんもそれぞれ持っている。

「あら。今、練習している曲のことがもう……」

 セラが見つけたのは右上の枠にあるお知らせコーナーで、モデルの掲載雑誌や出演予定番組などの情報の下に《久々のソロ、年末に発売予定。ただ今奮闘中》とある。

 これ、まだ早いけど、俊くんの指示で書いたんだよね。

 僕は左下の半分を占める活動報告コーナーを指し示した。

「こっちです」

「あ、はい……」

 そこには拓巳くんからファンへ向けた、一行日記的な文章が載っていた。無論、ブログはおろかツイッターさえやらない彼が自分で書き込むはずもなく、僕が本人に聞き出してから会社側の希望範囲内に修正して上げているのだ。いわく、

《今日、息子が卒業した。ちょっとカンドー。みんなに感謝》

《新曲の打ち合わせをした。知らないうちにソロが増えていた。難しすぎてヤバイ》

《雑誌の撮影で革のジャケットを着た。重くて暑い。祐司を尊敬する》

《息子の入学式に行ってきた。席が遠くて見えなかった。ガッカリした》

 なんか、改めて読むとこっぱずかしいな……。

 これでも〈みんなに感謝〉のくだりを後付けしたり、〈難しすぎだ、あのヤロー!〉 を変えたりと手を尽くしているのだが、なんとも幼稚感が拭えない。

 けれどもこれが案外『タクミの日常が見れて嬉しい!』とファンには好評で、具体的な情報は一切ないにもかかわらず《息子さん、おめでとうございます》だの《タクミにも難しいんだ。頑張って~(^-^)》だのマメなコメントが山と返される。何日も空けると瞬く間に体調不良説やマースとの不仲説が世間に出回るので、影響力はかなりのものだ。

 そのファン注目の活動報告の下から二番目を指し、僕は「これを見てください」とセラを促した。

「あ、これは……」

 セラが目を丸くする。そこには今から十日前の報告が載っていた。

《夕飯に好物が出た。 前にも作ってもらったおふくろの味。なんで他の人には作れないんだろう。相変わらず旨かった》

 セラの脳内に文章が浸透したのを見計らい、僕は画面を操作して次を見せた。

「これがファンからのコメントです」

 切り替わった画面にはビッシリと文字が書き込まれている。

《お母さん来てたんだ。やっぱりタクミもお母さんの料理が一番なんだね》

《タクミって好きな料理〈特にナシ〉だよね。お母さんの料理ってなんだったのかな》

《お母さんって死んじゃったんじゃないの?》

《亡くなったのは妻です。息子は一人。父親や母親の公式データはないです》

《タクミの母親はアメリカでモデルをしてるって話》

 などなど、一部ナニかの設定に似ているようなガセネタ記述もあるが、おおむね『タクミが母親の料理をおいしく食べた』と解釈されている。

「次に下のコメントをどうぞ」

 画面を日記コメント欄に戻す。

《雅俊のボイトレ厳しすぎ。くたびれた。またアレを作ってもらおう》

「…………」

 セラが頬を赤らめて口元に手を当てる。僕は再び画面を返信コメントへと移動した。

《おふくろの味のこと? お母さん、一緒に住んでたっけ?》

《これホントにお母さんのこと?》

《違うかも。マースのブログ見た》

《あー、あれ。もしかしていい人ですかぁ》

《えー、ショック。マジやめてー》

 こちらは母親の手料理に対して疑問が増えている内容だ。

「そしてこちらが」

 僕は画面に指を滑らせると、別のページにジャンプさせた。

「マース、つまり雅俊さんのブログです」

 俊くんはマメなので、自分のサイトにブログを載せている。その最新版のブログには、一枚の画像とコメントが載っていた。

『夕食会のひととき。タクミたちと一緒』

「……そういえばこの前、雅俊さんが写真を一枚ブログに使わせてくれと……」

「はい。それがこれです」

 その写真はセラや俊くんが退院した数日後に開いた食事会のときのもので、場所は健吾のお父さんのレストランの一角だ。俊くんと拓巳くんとセラがテーブルの右端を囲んで座り、僕がすぐ後ろに立っている。僕とセラの顔はわざとイラスト調の大きなサングラスが上書きされているが、鼻から下は見えている。拓巳くんと並んだセラは造作が似ているもののほっそりとして若々しく、これを母親と断定できる人はいないだろう。

 社長が説明を再開した。

「今、見ていただいた三点は、あなたの存在を匂わせてファンに憶測を促すために、わざと発信したものです」

 セラが驚いて顔を上げた。

「私のことをわざと? なぜですか」

「我々がもっとも手を焼く人物を牽制するためです」

「それは……、」

「そう。あなたもよくご存じの男性だ」

 セラが息を呑み、社長は大仰に頷いた。

「彼――高橋要氏は以前から我が社の宝である拓巳君に対し、様々な手法を用いて手を伸ばしてきました。最近ではその矛先が息子の和巳君に向いているのはあなたもご存じの通り」

 去年の二月に起きた事件を思い出したのだろう、社長の眉間にシワが寄った。

「しかしその基本とするところは同じです。即ちかつて自分のものであったはずの拓巳君を、その息子ともども取り戻し、己の築いた城に侍らせる。それこそが彼らに命を与えた己の正当な権利であると」

「…………」

「その対象にあなたも加わった。それが彼の行動に対する我々の見解です。ゆえにあなたの知名度を上げたわけです」

「知名度、ですか」

「そう。これは遠い昔、真嶋君が取った手段でもあります」

 社長がセラの手前に位置する真嶋さんに目を向け、すぐに戻して続けた。

「真嶋君は過去、高橋要氏と拓巳君の身柄を争う中で、時に苛烈な手を使う彼が、公の立場が傷つく事態は避けていることに気がついたのだそうです。そこで拓巳君をモデルにし、知名度を上げて世間の注目を集めた。それがのちに〈T‐ショック〉を結成した雅俊君の活動を助け、今に繋がっているわけです」

「それを最初に教えてくれたのは僕の師匠で、拓巳に道を開いてくれたのも彼です。僕は何も」

 俯きながら真嶋さんが言い、社長は「それは謙遜(けんそん)だ」と肩をすくめた。

「私が聞かせてもらった話が事実であるのなら、君の導きがなければ拓巳君は一歩も動けなかったと思うがね。まあそんなわけで、プライドの高い要氏は己の名を犯罪者に連ねることをよしとせず、有名になってしまった拓巳君には手が出せなくなった。そこで幼い和巳君を狙うことにしたわけです」

 セラが痛ましげな眼差しで僕を見た。

「幼少の彼があわや拐われかけたあと、我々は保護の一環としてファンに向けて折にふれ〈タクミの息子〉の情報を出し、イベント同行の際には認知を得ることで衆目を彼の盾としました。無論、真嶋君や祐司君、雅俊君……多くの手が彼の保護に力を尽くしておりましたが、中学時代に高橋要氏と遭遇するまでは平穏無事でしたから、一定の効果はあったと考えております」

 少し遠回りしての説明だったが、セラは理解したようにため息を吐いた。

「私にも〈衆目の盾〉をとお考えなのですね?」

「さようです」

 社長は我が意を得たりと頷いた。

「もちろん、幼少時の和巳君のようにはいきますまい。たちの悪いマスコミもおりますから、このビルの敷地内やファンが集まるイベントに限定してのお話です。現に和巳君も付き人となって間もない頃は、外部にはタレント候補で通しておりましたし」

 言いながらこちらを見る社長に頷き返し、僕はタブレットを閉じてテーブルに置いた。

「それでも事情を知る熱心なファンたちは察した上で見守ってくれる。これもすべては彼らがファンとの交流を大切にしてきた結果です。ですからあなたのことも、事情は明かせずともきっと見守ってくれます」

 社長の言葉に沖田さんも深く頷く。

「なに、詳しい続柄などわからなくても、あなたの容姿が物を言うでしょう。そのために情報を発信し、今日もわざわざ三階のフロアを歩いてきていただいたのですから」

「え……?」

 セラが戸惑った様子で目線を揺らす。すると沖田さんがこちらに身を乗り出した。

「セラさんと拓巳君がよく似ているという意味です。事情があるとはいえ、拓巳君のそばに特定の女性の姿があったらファンにはおもしろくないですよね。しかしあのように発信しておけば、この先ファンがセラさんを目にしても『似てるからきっと血縁の人だ』と受け取ってもらえるわけですよ。親族ならファンも寛大になってくれます」

「まあ……」 

「その効果がどのくらいかを計るためにコンタクトで来ていただいて、わざと人の多い打ち合わせスペースを通ってみました。事情を知らないスタッフたちですらあなたを見てピンと来たようでしたので、ファンにも十分に効果が期待できるでしょう」

 沖田さんが結ぶと、社長が拳を握って訴えた。

「そんなわけですからセラさん。あなたにはこの先も我が社に足を運んでいただき、その姿を他のタレントや外部スタッフ、来客の人々に見せていただきたいのです。 名目はあなたの本業に沿って発声アドバイザーなどいかがでしょう。そしてこの効果が十分に浸透してのち、改めて住まいのお話を進めていけば、かの御仁への防御も叶うかと――」

「反対ですわ」

 突然、それまで無言で聞いていた綾瀬さんがスパッと切り込んだ。

「な、なんですと?」

 社長が目を剥くと、彼女は一人掛けのソファでゆっくりと足を組みかえた。しかし黒薔薇(くろばら)の女王と称えられる妖艶な細面が笑っていない。

「あなた方の手法には反対だと申し上げましたの」

「そ、それはまた、どういう……」

「意味など明白。危険だからです」

「危険?」

 社長は食い下がった。

「ですがアヤセ。高橋要氏にはこれが効果的だと、前にあなたも認めて」

「確かに。でもそれは和巳に関してですわ。セラではまったく違います」

「違う? なぜです」

 綾瀬さんは社長を見たあとで僕たちにも目を向け、「わかってないわね」と言いたげな表情でため息をついた。

「後藤社長ともあろう方が気づかないのは、ある意味感覚が麻痺してしまっているのね。まあ、そうでなくては拓巳の雇用主などやっていられないでしょうけど」

 そして僕や真嶋さんには嘆かわしげな目を向けてきた。

「あなたたちにはもっと期待できないから私がわざわざ来たのよ。こちらで仕事する予定があったことに感謝してちょうだい」

 えー、なんのことですか……?

 そんな内心が伝わったか、綾瀬さんはやや不機嫌な目つきになった。

「自分の身内を卑下するつもりは毛頭ないのだけれど、(わか)()の面影を受け継いだ和巳の見た目は、着飾らなければ一般の範疇(はんちゅう)よ」

 若砂とは亡くなった僕の母で、俊くんと同じ性分化疾患、IS(アイエス)とも呼ばれる体質の持ち主であり、綾瀬さんの弟として暮らしていた人である。

「和巳はイケメンの部類だと思うけど……」

 真嶋さんが口を挟むと、綾瀬さんはキッと目を吊り上げた。

「だから、一般のイケメンだというのよ。並み以上の美男美女が揃うモデルの世界だったら埋もれてしまうわ」

「あ、なるほど……」

 そこですぐ引き下がる真嶋さんってどうかな、と思いながらも事実なので相槌を打つ。

「そうですね」

「ところであなたたち。何度もステージを見てきたはずだから聞くけど、そんなモデルたちの中で拓巳はどう映っているかしら」

「あっ……」

 僕と真嶋さんが同時に声を上げた。

 そういうことか。

 僕たちの表情に理解の色を確認したか、綾瀬さんはちょっと息を吐き、いまだわかってなさそうな社長や沖田さんに向かって説明した。

「社長は先ほどおっしゃいましたわね。拓巳とセラがよく似ていると。そう、セラは似ているんですのよ。容姿が抜きん出た集団の中にいてもなお、一瞬にして観客の目を奪う〈タクミ〉にね」

「…………」

「前髪を下ろして俯いたら人混みに埋もれてしまう和巳とは違うんです。よくご覧になって。ここに座る女性がいかに美しいかを。その彼女を衆目にさらす? そんなことをしたら別の妖怪どもが大量発生しますわよ」

「た、確かに……」

 意味を理解した沖田さんがメガネの奥で目を見開いた。 

「つまり綾瀬社長は、セラさんの場合だと和巳君のときのような効果は期待できないとおっしゃりたいのですね?」

「そうよ。あなた方は拓巳に比べてセラが控え目でおとなしいから緊張もなく接することができるのでしょうが、外見だけで見れば絶世の美女なのよ」

「あの、綾瀬さん。私はそんなんじゃ」

「ごめんなさいセラ。あなたの意見は参考にならないの」

 微笑みながらも一言(いちごん)で退けた綾瀬さんに「違います?」と目を向けられ、後藤社長は蛇に睨まれたカエルのようになった。

「ましてや似ていることを強調して装わせるとなるとね。和巳を見守ってきたファンの大半は女性でしょう? けど〈T‐ショック〉のファンには男性も大勢いるし、このビルに出入りするスタッフにだって不特定多数の男たちがいるのよ。彼らがどんな感想を持つかなんて想像したくもないわ。この場合は彼女のおとなしい性格が仇になることは間違いないわね」

 僕は華やかに装ったセラの姿を間近に見たファンの男たち、或いはGプロの出入り業者たちを想像し――すぐに頭から振り払った。

 まずい。理性が壊れた男どもしか想像できない。

 さっきだってあのシュナイダーとかいう日系人がやたらと興奮してたし。

「うぬぅ……確かに。ですが……」

「このまま実行されたのでは拓巳や和巳の身まで危うい。そのくらいなら今のうちにセラを引き取り、別の場所に隔離するべき。あのホームページを見てそう判断したのは私だけではなかった――そういうことですわね? 早川さんとおっしゃいましたかしら」

 それまで存在を意識から外していたかのような綾瀬さんの急な振り方に、早川さんは苦笑しつつも姿勢を正した。

「ええ。さすがは業界に名を知らしめる女性経営者でいらっしゃる。危機管理の見識はお見事です」

「それはどうも。日本有数の財閥であるご一族の懐刀に評価していただけて嬉しいですわ。でしたらこの件、私にお預けくださいますわね?」

 どこか挑むような口調に、早川さんも声を強める。

「いえ、それはまた別のお話です。私どもの主人にとって、拓巳様と和巳さんの安全は最重要命題ですので、その危機には万全を期したい所存です」

「そのわりには、今まであまり手を出してはこなかったと記憶していますけれど。今になって積極的になられたのには別の理由がおありなのではありませんこと? たとえば、高橋の家の者がそちら様にとって大きく価値を変えるようなことがあったとか」

「それは勘ぐりすぎでしょう。主人にとってお二人は甥である祐司様の大切なご家族。今も昔も変わりありません」

「あら、それは失礼しました。先だっては伯母である私になんの断りもなく、大事な甥の名字を変えようとなさっていた気がしたものですから。てっきり私への挑戦かと思ってしまいましたわ。高橋姓を捨てるなら、まずは戸部を継がせるのが道理というものですものねぇ……」

 綾瀬さんの漆黒の瞳が鋭い光を放ち、早川さんの眉間が寄せられる。

 僕は二人の間に飛び散る火花を感じながら、今日、彼らがここに来た意味をなんとなく悟った。

 これって多分、この前の鎌倉井ノ上家お家騒動に関係してるんだぞ……。


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