進むべき道は
後ろ手にドアを閉めた拓巳は、重い足を動かして右手にある無人の談話コーナーまで移動し、大きく息を吐きながらスツール型のラウンジソファに倒れ込んだ。
痛い。苦しい。もう立ち上がれない――。
心臓を二度も三度も抉られるような和巳の言葉に、よくぞ耐えられたと自分でも感心する。
『拓巳くんが起こしてくれなかったのは僕を心配したからじゃない。自分が不安で仕方なかったからだ』
『先生が先に話したのも、僕より拓巳くんのことを優先した結果だと思う。だからこそ、僕を信じて起こしてくれなきゃいけなかった』
『でもあなたたちは三人で話をまとめて、僕の力を信じてくれなかった』
どの言葉も致命傷に近い。前の自分だったら即死していたかもしれない。
「――……」
思い返しだけで魂が飛散しそうで、手のひらで蓋をするように胸を押さえる。そうしてしばらく蹲っていると、ふいに馴染みの気配が鼻先の空気を揺らした。――相変わらずいつそばに来ていたのかわからない。
あんたは豹か。
でかいガタイなのにと内心でつぶやいていると、気配の主から声がかかった。
「大丈夫か」
拓巳はスポンジに似た感触のソファに手をついてよろよろと体を持ち上げ、座面に座り直してから相手を見上げた。
「……ボロボロだ」
こちらを気遣わしげに見下ろしていた黒豹――もとい祐司は、なぜか口元を綻ばせた。
「そうか。よかった」
いや俺、今ボロボロだって言ったよな。
思わず眉間にシワを寄せると、祐司は謎の笑みを浮かべたまま、拓巳が空けた右隣にしなやかな体躯を納めた。
「ボロボロでも踏みとどまった。たいした進歩だ」
「…………」
まあ、そうではあるんだが。
何か物足りなくて言葉を探していると、足を組んだ祐司はこうつけ足した。
「よく最後まで聞いてやれたな。立派だった」
労うような声音に、拓巳は俯いて首を横に振った。
「ぜんぜん立派じゃない。危うく逃げ出すところだった」
祐司はそうだろうなと相槌を打った。
「こっちもそれを予想していたから正直、感心している」
何が起こったんだ? と不思議そうな目線を向けられ、拓巳は小さな証明に照らされた壁際の本棚に目線を投げた。
『だから、話ができなくなったんです――』
あの和巳の眼差し。頬を伝う涙。すべてをさらけ出すしかなかった無念の思い。
あれを目にしたとき、自分のどこかに大きく穴が空いた。そして気がついたら立ち上がってドアを向いていた。
「今までだったらそのまま部屋を出て、場所が変わるまで意識が働かなくなってるところだったんだが……」
「今日は違ったのか?」
「……声が聞こえたんだ」
限界だ。おかしくなる前にそこを離れろ。
防御本能の命ずるままに足を前へと出そうとしたまさにそのとき、西名の声が後ろから響いたのだ。
『待ってください。逃げるんですか!』
それにビクッとして足が止まると、次の声が聞こえた。
『拓巳さんは父親でありたいんでしょう? だったら頑張らないと』
「引き止める力が強くて、でもそこらじゅうが痛すぎて、訴えるつもりで後ろを振り返ったら……」
両手で顔を覆う和巳の姿が目に飛び込んできたのだ。
和巳の肩が震えている。震えて泣いている。どうしよう。どうしたらいい。
そうしたら今度は黒川の声が被ってきた。
『君への尊敬を宿した息子が呼んでいるのだろう? まずは行ってやることだ』
『君も父親として成すべきことを果たしたまえ』
そうだ。ここは離れる場面じゃない。さっきも聞いたじゃないか。
『勇気を持て。それで傷ついても傷つけても逃げるよりは後悔しない』
とどまれ。そして前に進め。父親でいたいなら。
「それで痛みが小さくなった気がして、なんとか前に踏み出せて」
まだ謝っていないことに気づいて、あとは自然に言葉が出た。
「あのとき、やっぱり起こしてやればよかったと思って……」
だんだん落ち込んできて肩を落とすと、祐司がその肩を手のひらで軽く叩いた。
「いい。よく頑張った。十分だ」
健吾も認めてくれるだろうと言われてついため息が出る。
「でも、綾瀬のところでの一件で、西名に呆れられたままだ。もう健吾には伝えてるだろうし」
俯いたままぼやくと祐司が言った。
「今日の成果を報告して上書きしてもらえ。それで帳消しだ」
「……西名、また助っ人やってくれるかな」
「くれるかな、じゃない。くれるよう、つかみに行かなければだめだろう。俺たちには難問が残っている」
真剣な口調に拓巳も気を引き締める。わざわざ口に出すまでもない、雅俊の治療計画だ。
「あれを説得できるのは、最終的には和巳だけだろう。そのためには時間を作ってやる必要がある」
それ即ち今後も助っ人の需要が出てくるということだ。
「今回の件を伝えて頭を下げれば、まだ望みはあるだろう。まずは健吾に説明して、繋ぎを取ってもらうことだな」
なんなら俺も頼んでみる、と言われて慌てて首を横に振る。
こんなデカブツに頭を下げさせたら、逆に脅しと取られる気がする。
あ、でも西名は健吾の先輩、佐伯祥の親友で、祥たちはユージに憧れてるんだよな。
将を射んと欲すれば……。
「……まず俺が行く。だめだったら援護を頼む」
いささかせこい発想で手順を伝えると、祐司は「自立心も育ってきたか」などと斜め四十五度の解釈をした。拓巳は少々後ろめたく思いながらも話を切り替えた。
「それで祐司のほうは?」
彼は黒川専務が綾瀬の手でカモフラージュされてここから帰っていったあと、万が一にも警察や手下などの尾行がなかったか確認に行っていたのだ。
「問題ない。無事ここから離れた。うちの者も気づいていない」
拓巳は再び俯いた。
「悪かったな。面倒を持ち込んで」
祐司に警備班の目まで欺かせてしまった。
「おまえが謝ることじゃない。早川以外に伏せたのは俺の判断だ。それにまあ、俺もさすがに思うところはある」
あれだけ面影があるとな、とつぶやかれて拓巳は黙った。
実際、今日の黒川は綾瀬が髪や身なりに手を加えたせいか、先日会ったときよりもさらに若砂の面影が濃く感じられた。それは和巳に気づかせるべくより似せて髪を整えた影響もあり、正直、拓巳も心がざわついた。若砂を忘れない祐司に訴えるものがあったとしても不思議はない。とはいえ現実の彼の身辺には、近づくことすら憚られるのだが。
『生まれ落ちた場所で生き延びるためとはいえ、後悔はある』
誰しも生まれた場所は選べない。拓巳も、祐司も、そして黒川も。
「……黒川は横浜支部の責任者なんだよな。この先はどうなるんだろう」
あそこは基本、岡崎や補佐の榊が仕切っていたわけで、たまに顔を出すだけの幹部である黒川には馴染みがなかったのか、反発した若い手下が大勢いたように見えた。
いや別に、誠竜会なんぞの行く末を心配するつもりはまったくないんだが。
自らの矛盾に舌打ちしていると、祐司がチラッとこちらを見る気配がした。
「見事な蜥蜴の尻尾切りをしたからな。先に逮捕されていた幹部と岡崎、そして榊の個人的な取引ということで司法は決着する見込みだ。とはいえ松岡あたりが食い下がるだろうから、組織に対する警察の監視は続けられる。不満分子たちも当分はおとなしくするしかない。黒川ならその隙にそつなく排除するだろう」
俺の思考回路なんてお見通しだ。
拓巳が顔を向けると、祐司は口の端で笑った。
「それとは逆に、ファンネルベルク日本支社のほうは厳しいぞ。本格的に社内への捜査が始まるから、こっちは存続が危ういだろう」
潰れるかもしれんなと締めくくられて拓巳はつい聞いてしまった。
「……セイはどうなったんだ」
祐司は首を傾けた。
「気になるか」
「それは、まあ……」
腹は立っても事情を聞いてしまっては気にかかる。
「彼に関しては親父が動いている。元々が人質を取られての脅しによる犯罪荷担だから、悪いようにはしないと言っていたそうだ」
早川からの又聞きだが、と言われてふと疑問が口をついて出る。
「幸司さんは……」
いつから麻薬取締官なんてやってたんだ。
しかし声に出す前にブレーキがかかった。
そんなことを聞いてどうする。おまえには関係ないだろう。
やっぱいいと言いかけたところに祐司の声が被った。
「俺がはっきり知ったのは伯父が会長に就任したあとだが、なんとなく気づいたのは中学のときだ。おふくろが承知の上で結婚したようだとわかってな」
「承知の上で……」
結婚しただと?
「そんなに前か!」
つい声が強まり、慌てて口を閉じる。頷いた祐司は目線をあたりに投げてから話を続けた。
「まだ俺とおふくろが本家に顔を出していた頃、酒の席で結婚当初の話が出たことがあったんだが、最初おふくろは断られたらしい」
まて。
「プロポーズしたのは陽子さんか!」
声を殺して驚くと、祐司はあたりまえのような顔で頷いた。
「食い下がったおふくろが話し合いに持っていって、柔道三番勝負で一勝できたら承諾するとの条件を呑ませて見事果たした。ここまでは一族みんなが知っている。祖父さんもおふくろを応援したそうだ」
拓巳はその昔聞いた話を思い出した。
確か玲さんが連れてきたのを亡き寛文会長が惚れ込んで、結婚を望む玲さんの婚約者候補として財閥に取り込んだんだ。そうしたら陽子さんが幸司さんに走っちまって、玲さんに泣いてもらったんだっけ。
「このとき、食い下がった理由について玲さんがおふくろに質問した。その答えが『僕より弱い人とは結婚できないと言われたから』でな』
「…………」
そんなことを言ったら世界規模で見ても対象者なんて居そうにない。
「……断る口実だったとか?」
祐司は頷いて続けた。
「誰もがそう思ったし、おふくろが食い下がったのも無理はないと感じた。で、三番勝負を申し込まれて親父が折れたんだなとみんなは解釈した。おふくろも反論しなかったからその場はそれで終わった」
「祐司は終わらなかったんだな?」
「まあ、俺は二人の性格を知ってたからな」
幸司さんはそもそも好きじゃない相手とは交渉しないだろうし、陽子さんは脈のない相手に食い下がる人ではない。つまり陽子さんには交渉するだけの根拠があり、幸司さんには応えたい理由があったということだ。
拓巳が待っていると、祐司はひと息ついてから言った。
「おまえも武文叔父と親父の確執は知ってると思うが」
「ああ……」
二月の井ノ上家の騒動のときに聞いた、幸司さんが会長の弟である叔父を吊るして本家を飛び出した事件だ。
「親友が自分のせいで陥れられて、都会から出ていったってやつか」
「そうだ。その親友に親父は罪滅ぼしの援助をしようとして断られたんだが、井ノ上を飛び出したあと、今度こそ役に立つと張り切って探していたらしい。おふくろと出会ったのはちょうどその頃で、今までになく強い人だと評価してくれたそうだ」
「まさか一緒に探す相棒的な評価とか」
「まあ、おふくろの話だとそんな感じだ」
それでプロポーズを断られたのでは納得できまい。
「で?」
拓巳が促すと、祐司は目線を宙に飛ばして続けた。
「強いと認めておきながら、断り文句が『僕よりも弱い人とは結婚できない』はおかしい。で、ふと思い出したのが小さい頃、俺を鍛えだしたおふくろがいつも言っていた言葉だ」
鍛えだしたというからには柔道だろう。
「なんて?」
「『早く自分を守れるくらいに強くなるのよ。でないと父さんとはちょっとしか会えないからね』だったか」
「自分を守れるくらいに……?」
「そこもだが、この場合の注目は『ちょっとしか会えない』のところだな」
「……?」
よくわからない。
拓巳が眉根を寄せると、祐司は噛んで含めるように言った。
「プロポーズを断られた理由が『僕よりも弱い人とは結婚できない』だろう。これは親父をよく知る人間に言わせれば『強かったらできる』と言っているのと同じだ。したくないわけではないということになる」
「あ、そうか!」
『しない』でも『したくない』でもなく『できない』のだ。彼ならその気がなければ『君とはしない』と言い切るだろう。そして『ちょっとしか会えない』も同じこと。幸司さんは『会いたい』けど、祐司が弱いうちは少ししか『会えない』から強くなれということだ。
「自分より弱い人とは一緒に居られないと思う事情があったってことだ。それで麻取だと思ったんだな?」
祐司は「そこまで具体的ではなかったが」と肯定した。
「内閣調査室の調査員や麻薬取締官は家族にすら秘匿義務がある。相棒や恋人――つまり他人のうちならまだいいが、入籍となると弱点になる可能性があるから歓迎されない。おふくろは親父の身体能力や経歴を知るうちに、郵政省の肩書をカモフラージュにしてそういった職業に就いている可能性があることに気がついたんだな。それを踏まえて交渉した結果、自分なら秘匿義務は守れるし、危険にも対処できると認めさせたんだろう」
「なるほどな」
そして息子が生まれてもそのままの生活を続け、息子には『自分の身を守れるようになったらもっと会える』と教えるのだ。
「俺もそのあたりに気づいてからは注意して観察していた。そのうちにはおふくろも俺の態度に気がついて、うちでは公然の秘密扱いになってたから、井ノ上の代替わりで知ったときも驚かずに済んだ」
「そうか……」
それもあったから、あの人は横浜の家にあまり立ち寄らず、陽子さんも構わなかったわけだ。
あれ。でも。
「和巳のとき、なんで幸司さんはあんなに帰って来れたんだ?」
それはふと思いついて質問しただけだったのだが、祐司は少し眉尻を下げ、バツが悪そうに答えた。
「あとで知ったんだが、どうやら上司を脅して一時的に事務方へ異動していたらしい」
「…………」
マジか。
「それほどに和巳の威力は強大で、理性がきかなかったということだ。俺ですら、あのときは自分たちの見立てが間違いで、実はただの郵便局員なんじゃないかと疑ったくらいだからな」
いやちょっと。それって取締官の資質としてどうなんだ。
モヤッとした気分で見上げると、祐司は目線を逸らしぎみにして咳払いした。
「ま、まあ、そんなわけで、親父のその部分については今も公然の秘密だ。拓巳も見て見ぬふりでいてくれ」
頷きかけた拓巳はハッと気づいて質問した。
「和巳は? 建設会館でのことはどうするんだ。俺はこれ以上、和巳に何か隠したままでいる勇気はない」
思わず胸を押さえて身震いすると、祐司は申し訳なさそうな顔を真面目なものに変えた。
「そこについては大丈夫だ。親父が説明に赴くと言っている」
うん?
後半の言葉に引っかかりを覚える。
そういえばあの人は鎌倉の一件で、『やっぱり祐司くんが父親にふさわしいと思っちゃうから、みんなとはもう会わない』などと拓巳への揺さぶりとも取れる宣言を残して去っていったのではなかったか。
いやでも今回、セラのこととかで世話になってるじゃんか。
それは臨時だ。しかもあの人には業務のついででもあったらしい。あくまでも助っ人の援護的な、神出鬼没の接触だったわけで。部屋でどっぷり一対一の面会ってのは……。
「……会わせない場合は?」
警戒心を滲ませると、祐司の眉尻が再び下がった。
「申し訳ないが、家族には守秘義務があるから俺たちは説明してやれない。おまえの口から内緒で話す分には、まあ、目を瞑ってもいいが……」
思わせぶりに語尾を濁されて苦い気分になる。
そんなおっかない内容、無許可で伝えて和巳に何かあったら困るだろう――って言ってやがるな。
「…………」
「…………」
目線を当てて粘ったが、今さら祐司が動じるはずもない。他に伝える手段もなく、結局、拓巳は渋々ながらも一対一での面会を許可するハメになった。
◇◇◇
拓巳くんと話ができた翌日の昼。
今度は許可を得たという幸司さんが面会に来た。
「痩せちゃったねえ……」
目を潤ませてベッドから身を起こした僕の手を握り、温めるように撫でる姿は人懐こいままの彼で、先日の建設会館で見た、厳しい目をした麻薬取締官の面影はない。
「色々我慢しすぎて体壊しちゃったんだってね。周りの大人も気づかなくて親友に助けられたって聞いたよ。まったくなに見てたんだろうね」
そばにいるくせに不甲斐ない、と憤慨する幸司さんに僕は内心で突っ込んだ。
きっとみんな、あなたにだけは言われたくないと思ってますよ……。
他に誰もいなくてよかったと胸を撫で下ろしながら、僕は手前の椅子を勧めた。
「どうぞかけてください」
「あ、どうも」
銀メッシュのない黒髪の頭がそそくさと動いて椅子へと納まる。そのひと房の色が違うことだけが、あの日の彼の姿が幻でないことを示していた。
建設会館での様々な場面を脳裏に巡らせながら、僕は幸司さんに頭を下げた。
「色々と、助けていただいてありがとうございました。お陰さまで鞄も無事に戻ってきました」
ずっと守ってくださっていたんですねとつけ足すと、彼は困ったように笑った。
「あ~、全然気にしないで。ついでに忘れてくれると嬉しいな。って、無茶なこと言ってるのは承知してるんだけど」
「忘れたほうがいいですか?」
真っ正面から見つめると、幸司さんは口元に笑みを残したまま姿勢を正した。
「うん。ごめん。口止めに来た。あの日の場面に僕はいなかったって」
僕は頷き、次いでその先を口にした。
「いたのは建設会館に雇われた用務員、ですよね」
幸司さんは目を見張った。
「その設定、なんで知ってるの? 岡崎組の下っ端って言われると思ってたのに」
目を丸くされて口元で笑う。
「榊の部下に『雑用で』って言ってましたから。警察にも言い逃れるならそれが妥当かなって」
あの建設会館で、若い手下にあしらわれていたとき、彼は新人の三下で、使い走りと思われていた。そして会館に配属されたばかりだと言ったのだ。
「あとで頭を整理したとき、わかったんです。建設会館に雇われていたことにすれば誰も疑問に思いませんから」
警察には会館に雇われた用務員、岡崎組では新米の雑用係。一人紛れ込んでいてもあまり目立たない。潜入先、警察の捜査員、どちらからも距離を取る必要があったのなら、今までもそういう立ち位置で職場に潜り込んでいたのだろう。
そんな推察を伝えると、幸司さんはハァとため息をついた。
「なるほど、早川がお茶を濁すような話はしないほうがいいって言うわけだ」
「早川さんが」
ということは彼も幸司さんのことを把握してるのか。
あ、違う。逆なんだ。
「早川さんとは、彼が警察庁警備部時代からのお付き合いだったんですね。もしかしてご友人の大橋警視監の関係でしたか」
幸司さんは「あちゃー」と額に手を当てた。
つまり職務の遂行中に大橋健二警視監を介して警備部と関わり、何らかの事情を経て早川さんを井ノ上前会長、寛文氏の護衛に引き抜いたということだ。
どうりで二人とも、他のスタッフよりも親しげな雰囲気がしたわけだ。
脳内で勝手に話をまとめて納得していると、椅子の上の主からため息が漏れた。
「君の目は色々とものを視すぎるよ。こんなんじゃ、抱えすぎてパンクしちゃうのも無理ないね」
そして顔を上げるとやや身を乗り出した。
「ね、和巳。君は環境を変えたほうがいいんじゃないかな。やっぱうちの子にならない?」
いきなりそう来たか。
僕は間を空けてから確認した。
「『うちの子』というのは、幸司さんのという意味ですか?」
祐さんではなく、とつけ足すと彼は頷いた。
「そうだよ。もともと陽ちゃん――うちの奥さんとはそういう話でまとまってたんだから。それだって祐司くんの『弟』になるんだから家族と一緒だ。なんなら鎌倉の本家は僕が説得するし。それで退院したらうちから大学に通えばいいんだよ」
僕は断ろうとしたが、彼の顔を見て思いとどまり、言い方を変えた。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ。こんなに痩せちゃって」
幸司さんは椅子から腰を浮かして再び僕の手を握った。
「君は陽ちゃんや祐司くんといたほうが絶対に安定する。君みたいに色々見えちゃう子が、四六時中波乱万丈な人たちと一緒に過ごしてたらまた体壊しちゃうよ。ましてやこれからは雅俊くんとのことが大変に……」
なってくるだろうに、とのつぶやきを僕は手で止めた。
「今さら横浜のご自宅に父と二人でお世話になることはできませんし、雅俊さんの住まいの管理もありますから。お気持ちだけありがたくいただいておきます」
きっぱりと断ると手を握る力が増した。
「別に付き人やめろとかパートナー考え直せとか言わないよ。けど自宅では安心して休まないと。拓巳くんが嫌がるなら君だけでもしばらく来なよ」
「父一人を置いてはいけません」
「あの人、幾つなの! いい加減、子離れさせたって誰も文句言わないでしょ!」
Gプロスタッフが聞いたら『部外者が勝手なこと言ってんじゃねえ!』とか反論が吹き荒れそうだなと思いながら、そろそろ潮時だと感じて僕は姿勢を正した。
「幸司さん。僕はこれまでのこと、本当に感謝しているんです。だから心遣いを嬉しく思っていたいです。けどこれ以上、不可能な選択を勧められてしまうと、僕も聞かなければならなくなります。『その提案には何か別の意図が含まれていませんか?』と」
「……っ」
幸司さんは押し黙り、そろりと手を離すと乗り出していた体を椅子に戻した。そんな彼に僕は薄く笑いかけた。
「ちなみに僕はオブラートに包まれるよりも、厳しくても本当のことを伝えてもらったほうが気が楽です」
「…………」
「僕は、あなたの秘密に触れたために監視対象になった、……ということですよね?」
いつまでですかと訊ねると、幸司さんは片手を額にやり、ハーっと息を吐いてから膝に下ろした。
「あー……、もう。そこまで見抜いちゃうなら騙されたふりして我が家に入ってよ」
「父がいる以上、それはできませんから」
笑顔を作って返すと、彼は少しだけ膨れっ面になった。
「拓巳くんだって、マンションが監視されてるのに気づいちゃうよりいいんじゃない?」
「あの人は野性動物並みの勘をしてますから、下手に隠して横浜のご自宅に行ってもすぐにバレますよ。祐さんが気の毒です」
祐さんの名を出すと、幸司さんは残念そうに眉を下げた。
「祐司くんにも言われたよ。無駄なアイデア絞ってないでちゃんと伝えてやれって」
それなのに言ってみたわけか。
内心が漏れ出ていたか、僕を見た幸司さんはちょっと肩を縮めた。
「だって。『僕の職場の仲間がしばらくウロウロするからよろしく。拒否はできないから我慢してね。邪魔に思うならうちに来てくれたほうがいいよ』なんてあからさまに言うよりましじゃない?」
いや、言ってくれたほうが親切でしょ。
とは内心にとどめ、僕は安心させるように笑いかけた。
「僕たちが嫌な思いをするのではと心配してくださったことは嬉しく思います。でも、今の僕にはちゃんと言っていただくことのほうが、人として尊重されているように感じます」
「ああ、そういうことなんだね……」
幸司さんはしょんぼりと肩を落とした。
「それでも僕は、僕自身が不快に思うことを君にやらなきゃならないのが嫌だった」
ごめんねと頭を下げられて首を横に振る。
「そう長いことじゃない。僕の退職願が受理されるまでの間だから」
三ヶ月くらいかな、と言われて驚いた。
「退職なさるんですか?」
「そりゃそうだよ。僕、もう還暦過ぎてるんだから」
「…………」
それだけだろうか。
脳裏に浮かぶのは、建設会館の最上階でセイの上司の男を仕留めたときに出た言葉。
――おまえら一族のせいでどれだけの犠牲者が出たと思ってるんだ。
中には僕の尋ね人もいたんだからね。絶対許さないよ――。
もしかして、犠牲になった尋ね人というのが探し求めていた親友で、助けるために麻薬取締官になり、けれども果たせずに犯人を追い求め、あの男の逮捕で決着がついたからってことですか――?
「そんなに疑問?」
小首をかしげて質問され、僕はハッと我に返って頭を下げた。
余計なことは言うな。この人を困らせるだけだろう。
「すみません。とても実年齢には見えませんし、まだまだ活躍できそうな気がしたものですから」
彼は困ったように笑って手を振った。
「いやいやもう限界。引き留めてくれる健ちゃんには悪いけど、十分奉仕したしね」
幸司さんはちょっと背筋を伸ばすと真面目な顔になった。
「君が建設会館に連れていかれたのは偶然だし、巻き込まれた事件が僕の現場と重なったのは不可抗力だ。それは僕の所属先も認めているから監視といっても形式的なものだよ。僕が組織を離れれば問題はなくなるから、それまでは誰に聞かれても僕のことは伏せていてください」
それが形式であるかのような台詞に、僕も神妙に答えた。
「承知しました」
彼はホゥと息をつくと眉尻を下げた。
「ごめんね。もとはといえば、僕の仲間たちがセイとコンラート・リッテンベルガーの合流場面に間に合わなかったからだ」
「それは、……」
僕は後から聞かされた俊くん拉致の経緯を思い出した。
「雅俊さんがあの男に見つかってしまったという、セイが建設会館に戻ってきたときの話ですか?」
幸司さんは頷いた。
「僕の仲間は警察に紛れ込んで待機していた。本当ならセイからもらった情報で先回りして、コンラートが合流した時点でこっそり拘束する手筈だったんだ。けど肝心の誠竜会無力化がまさかの反撃で混乱して、仲間が身動きできないでいる間に雅俊くんが巻き込まれてしまって……」
ああ、そういうことだったのか。
ではもし取締官たちが予定どおりに動けていたならば、たとえ俊くんが退路から外れてしまったとしてもあの男に捕まることはなく、ましてや最上階に連れられた挙げ句、セイを庇って刺されることもなかったのだ。
セイを庇って。
「―――」
そのことを思い出すと、いまだにドロドロとしたものが消化できない。
やめろ。そこを思い煩ってどうする。しかも幸司さんの前でそんなことを考えるのはお門違いだろう。
わかってはいても、底辺まで落ちた今の自分に感情を抑えることは難しい。
胸を押さえてやり過ごしていると、幸司さんの手が肩を撫でた。
「ごめんよ。苦しい思いをさせて……」
「……いえ」
意外に大きな手のひらの温もりに、僕は辛うじて踏みとどまった。
「雅俊さんがはぐれてしまったのも、脱出しようとして逆に危険と鉢合わせてしまったのも、どれひとつとして故意じゃない。そういった、人には及ばない何かがもたらした結果を、目に見えるもののせいにして自分を宥めるようなことはしたくありません……っ」
自分に言い聞かせるように声を絞り出すと、幸司さんの手が肩で止まり、腕を伝って再び手を握った。
「すごいな、和巳は」
僕は俯いたまま首を横に振った。
「言ってるだけです。心がぜんぜん追いついてません」
「でも口にできた。僕にはできなかったことだ」
どこか自嘲の響きを含んだ声音に顔を上げると、目線を横に逸らして苦笑する幸司さんがいた。
「大切な人がいて、それが不当に害されてしまったとき、誰かや何かを恨むのは当然の心理だ。僕は相手に対して憤りをぶつけることを、まったくの悪だとは思わない」
それは、彼が歩いてきた生き様そのもののように聞こえた。
「幸司さんはそれを」
貫いたんですねと言いかけると、彼は「ただし」と遮るように被せてきた。
「ぶつけられた相手にだって理由や言い分がある。当然、反撃は食らうし周りも巻き込まれるだろうね。だからちゃんとそれに対する覚悟や身の処し方をわきまえていればの話。やりたければ最低でも家族と距離は取らないといけないし、そもそもそれが終わるまでは大事な人なんて作っちゃいけないんだ」
その覚悟がないなら復讐なんてしちゃいけない、と幸司さんは言った。
「それは、……」
まさしく彼が取ってきたスタンスではないのか。
すると彼はそこでフッと気配を変えた。
「でもね。そんなことを考えるやつに限って実は心が弱くて、結局は周りの支えや助けで自分の意思を貫かせてもらってるんだ。しかも時間が経ってからようやくその事実に気がつくという愚かさ」
それが自分と家族――祐さんや陽子さんとの関係を指しているのだろうとは、容易に想像できた。
「だからこそ、恨みに囚われずに前へ進もうとする君を尊敬する」
雅俊くんのためでしょう? と投げかけられ、僕は頷いた。
「聞いたよ。肝臓に癌が転移してたんだってね。ずっと前から化学治療に入っていたのに教えてもらえなかったって。辛かったよね……」
僕は首を横に振った。
「確かに辛いです。でも、そもそもの原因は一年前、化学治療に踏み切るときに支えられなかったせいでもありますから……」
去年の夏、僕がちゃんと取るべき選択をしていれば、あんなすれ違いの日々を送ることもなく、早くに明かしてくれていただろう。
「そうかもしれないけど、せめて春頃には伝えてくれるべきだったよ。おまけに治療を優先したくないんだって? さんざん好き勝手やらしてもらってきた僕が言えた立場じゃないけど、さすがに命を天秤にかけるのはどうかと思う」
「優先したくないんじゃなくて、できないんです。表現することをやめたら、それは雅俊さんにとって生きているとは言えないですから。でも」
だからといって、それをただ受け入れることも僕にはできない。
「どうしたらいいかまだわからないけど……ずっと診ていてくださった先生が諦めてない段階で、そこまで体のことを投げてしまうのは違うと思うんです。もう少しましな落としどころがあるんじゃないかと。それを探さずに諦めてしまうのは嫌です」
僕の我が儘かもしれないですけど、と続けると、彼は僕の手を握る両手に力を込めた。
「我が儘じゃないよ。僕は応援する。今まで人に支えてもらった分、今度は誰かに返す番だと思うから。そこでだけど、今回の件に関連して僕には幾つかできることがあるんだ」
そうして挙げられた内容に僕は驚いた。
「セイの量刑に関与って、そんなことができるんですか?」
「被害者感情が裁判を左右するのと同じだよ。僕の立場ならできる。彼の件だけでも君が思い煩わないようにしてあげたい」
ドイツの司法に引き渡すこともできるよと言われて心が揺れる。
「恨みを流そうとする君は立派だけど、溜め込んだら爆発することもわかったよね。だからこの先、雅俊くんのことを支えるためにも、ここは自分の心を楽にしてあげて」
セイのためでもあるから遠慮しないでとつけ足され、思わず目を見開く。
「セイの?」
幸司さんは困ったように笑って目を伏せた。
「人は罪悪感があるとき、罰を受けないと苦痛な場合もあるからね」
「…………」
この胸に巣くうドロドロの正体を、離れた場所から見ていた幸司さんはよく理解しているのだ。その上で、溜め込んではいけないと言っている。――おそらくは自分も過去に経験したから。
セイ・シュナイダー。僕の親、若砂に募らせた恨みを僕にぶつけて裏切った男。
にもかかわらず、俊くんが咄嗟に庇ってしまうほどの恩情を抱いている相手。
二重の意味で僕の心にひびを入れている存在に対して、本音を明かせば『二度と顔見せるな。同じ空気吸うな。土踏むな!』と言いたい。
ましてや俊くんのそばになんてとんでもない。二人のピアノ連弾なんて二度と見たくない。楽しそうに並んでる姿なんて――。
ふいにある光景が天啓のように下り、雷に打たれたような衝撃が走った。それは間違いなく僕が進むべき方向を示していた。
そんな……っ。
あまりの理不尽さに幸司さんの手から片手を抜き、自分の胸元をわしづかむ。
でもそうだ。きっと俊くんの心には響く。少なくとも提案されたら検討するだろう。
できるのか、僕に。
「―――」
「どうしたの? 苦しい? 人を呼んだほうがいいなら」
「いえ、……」
慌てた声で僕の背を撫ではじめた幸司さんの腕をつかんで止める。
「ちょっと、自分の思いつきがあまりにも厳しすぎて」
「えっ、あの、いくら罰でも、あんまり酷いのはさすがに……」
ちょっと引いたような声音を出した幸司さんに向け、僕は顔の表面にどうにか笑みを張りつけた。
「大丈夫。セイ本人に厳しいわけじゃないです」
まあ、ある意味彼にもキツいかもしれないけど、そんなのは知ったこっちゃない。
僕がセイへの希望と理由を説明すると、幸司さんは絶句した。しかし実行できるかとの問いに対して「できないよ」とは言わなかった。彼は他の幾つかの事柄についても説明し、名残惜しげに手を握ってから帰っていった。
僕はその日のうちに渡辺先生に申し出、病状が安定するまで禁止されていた俊くんとの面会を希望した。先生は僕に問診をしたあと、俊くんの容態についての詳しい経過を説明し、二日後の午後に時間を取ると言ってくれた。
この病院に運び込まれてからすでに十日あまり。季節は秋の半ばに入っていた――。
~仲秋の火焔 了




