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T‐ショック ムーブメント~まだ見ない明日へ  作者: 木柚智弥
③仲秋の火焔
36/51

見えてきたもの


 眩しいライトの光が容赦なく拓巳を(あぶ)る。

 まだか……。

 ちっ、やっぱり慣れてねぇのが紛れてやがるなと内心のイライラが限界に近づいたところで、ようやくその声がカメラマンから飛んだ。

「はい、オッケー!」  

 お疲れ様でした! とハンドタオルを手にした橘が駆け寄り、廃墟をイメージしたセットの真ん中に立っていた拓巳は深く息を吸って吐いた。

 午後からスタートしてはや二時間。現場の進捗(しんちょく)状況としては三十分オーバーだ。

 遅れに遅れていた拓巳のソロアルバムのジャケット撮影がようやく始まった。

 といっても今日はそれ単独でなく、音楽雑誌〈ミュージックレーベル〉の表紙と同時進行だ。なぜそうなったかといえば、企画が出たときに拓巳が音楽雑誌の撮影を渋ったからで、雅俊からの指令を受けて困っていたマネージャーを和巳が救った結果である。

『何回も撮影の日があるのが嫌ってことなので、同じ日に同じ場所で撮れば一回で済むから大丈夫です。けど長時間は辛いですから企画はコンパクトにしてもらいましょう』

 雑誌社のスタッフは『断られるよりマシだ』と歓迎し、拓巳もコンパクトプラン(←つまり仕事が減る)が気に入ったので了承した。

 和巳はさらに撮影場所を綾瀬の会社のスタジオでと提案した。

『両方とも衣装はクレストですから、アヤセ・インターナショナルビルのスタジオならスタッフさんが余計な移動をせずに済みますし、専属の美術さんにも協力を仰げます。合間に次のコレクションの打ち合わせもできますから、三つの仕事を一度に無駄なくできて、時間的にも余裕のあるスケジュールが組めますよ』

 その話を持ってこられた綾瀬は「ではうちのスタッフも、コレクションの参考のために撮影を見学させていただくわ」と二つ返事で快諾し、スタッフたちは「合理的なプランで助かりますぅ!」と感激していたという。

 ただし、このプランにはひとつだけ外せない要因があった。むろん『和巳がいることが大前提』である。

 でないと複数の現場スタッフが関わるがゆえの、数々の不幸が拓巳に降りかかるのだ。

「じゃ、タクミさんはあちらへ。背景チェンジします」

 スタジオの隅にあるフィッテングスペースを示され、拓巳は片眉をあげた。

 おい、ちょっと待て。休憩だろ。

 さっそく不幸その一がやってきたようだ。

「あの、」

 すかさず付き人の橘が前に出るが、ジャケット撮影隊のベテラン女アシスタントにあしらわれる。

「時間、押してますよね。このまま続けていきますから少しだけお待ちくださいね」

 ミュージックレーベルのスタッフさんに申し訳ないですから、などとこじつけて若造の橘につけ入る隙を与えない。

 この企画の欠点は、ジャケ撮のスタッフと音楽雑誌の撮影スタッフがぶつかることにある。そこをうまくとりなす技術が必要であり、和巳なら十分に果たせるという計算だったのだ。

 橘のバカヤロー。押してるのはそっちのトロい助手のせいなんだから休憩取りますくらい言え!

 拓巳が見たところ、ジャケ撮スタッフには新人が紛れ込んでいて、そいつがもたつくのでいつもより手際が悪い。しかし配属歴半年あまりの橘では違いがわからないため、指摘できずに言いくるめられてしまうのだ。

 拓巳が言っても構わないのだが、そうすると間違いなく新人スタッフが萎縮して逆効果――つまり撮影が長引く。それでは意味がないので我慢するか、あるいはバックレるかの二択……それが和巳のいないときのパターンだ。

 芳弘は、来ないか……。

 フィッテングスペースでコームとスプレーを手に待っているのは、芳弘の部下の女性スタイリストのみだ。彼女はキャリアが長く、拓巳の顔にも多少の免疫がある。今日のヘアスタイルには変更がないため、乱れたら直すだけだからとここを任された。しかし根が真面目で繊細なので、ピリピリしている現場を収める胆力はない。もともとは和巳がこの場にいる設定だったので、従順タイプの部下でも十分だった。そして芳弘は綾瀬とコレクションの打ち合わせを兼ねているので、ここにばかりいられない。

 変更なしでやるって決めたのは俺だもんな……。

『なるべく顔を出すからね。癇癪(かんしゃく)起こさずに頑張るんだよ』

 それはそれは不安げに言われ、わかってるから大丈夫だと虚勢を張ってしまった以上、今日ばかりはバックレるわけにもいかないだろう。

 それで話が伝わって、和巳が心配してまた体壊したら困るし……。

 せっかく面会許可が下りたのだから、ちゃんとやっていることをマネージャーからも報告させ、安心材料を増やして一日も早く戻ってきてもらえるよう、今は耐えなければならない。

 俺が穏やかに頼めばいいんだ。穏やかにな。

「ちょっと待て。確かに押してるが、二時間経ってるから」

 休憩取らしてくんねーかな。

 と続けようとしたのだが、拓巳を振り返ったジャケ撮のベテラン女は「えっと、急ぎますからっ、どうぞっ」と目を瞑ってフィッテングスペースを両手で示した。

 おい。人の話聞けよ。

 一瞬で穏やかさを吹き飛ばし、眉間にシワを寄せる。「た、拓巳さん、ひとまず行きましょう」などと尻尾を垂れる橘にもムカつき、やっぱバックレようと内心で決意を固めたとき。

「あ~、すみません。拓巳さん、休憩ですよ」

 どこかのんびりした声が後ろからかかった。

「えっ、ちょっと」

 ベテランアシスタントが驚いて立ち止まる隙にするりと声の主が割って入る。それは今日の担当助っ人、Gプロスタッフジャンパーを着た西名だった。

「もう二時間過ぎました。契約でも休憩取ることになってますんで」

 西名はなぜかバイト中だけ変えてくる黒縁(くろぶち)眼鏡のつるをクイと上げ、拓巳に顔を向けてこう言った。

「そろそろお腹すきましたよね。控え室に(わらび)(もち)入ってます。休憩は二十分ですから早くしないと食べられません」

 さ、急いでと肩を押され、呆けた顔の橘に「時間が来たら呼びにきてください」とストッパー役を依頼する。

 こいつすげえ。

 感動しながら行こうとすると、焦った顔のベテランアシスタントが西名の肩をつかんで食い下がった。

「待って。聞いてたでしょ? 押してるの。付き人は口挟まないでちょうだい。次の予定の人たちに迷惑かけたらGプロさんも困るだろうし?」

 あんたの雇用先が困ってもいいわけ? と言わんばかりの口調に隣の橘が青ざめる。しかし西名はこう切り返した。

「はい、見てました。そちらの」

 と指差す先には、拓巳が不馴れな新人だと判断した男が重そうな機材を抱えて立っていた。

「若いスタッフさんが二回も道具を渡し間違えて、そのたびにライトを直したりカメラマンさんが集中し直したりして時間がいつもより延びたんですよね?」

「……なっ……、」

 ベテラン女が言葉をなくす。図星を刺されたからだ。

 よく見てんなー。

 感心を深めていると、女の態度にカチンときていたらしい西名はこう続けた。

「タクミさんはちゃんと一発で決めてましたから、休憩する権利があると思うんですけど」

 西名の主張は正当で、引っ込みがつかなくなった女が顔を歪める。すると後ろからチラ見していた今日のカメラマン、門倉(かどくら)隆夫(たかお)の髭面が動いて唇が尖った。

 あ、やべ。あいつヘソ曲げるかも。

 門倉は中堅カメラマンの中でも実力派と評判の人物だ。芸能人がお世話になるポートレートはもとより、絵画的なセンスが重要なポートフォリオも手がける逸材で、雅俊の難しい要求に毎回応える見事な手腕の持ち主である。

 拓巳は内心でため息をつき、仕方ねぇと門倉に目を向けた。

 撮影現場においてはカメラマンが王、モデルは女王。どっちが上かと言われれば、それは当然、王である。拓巳はキャリアと知名度のお陰で立場がほぼ拮抗しているが、それでもカメラマンの面子を潰すのは面倒だ。

 和巳ならそのあたりも十分わかっているから、相手を持ち上げつつちゃっかり休憩も確保してくれるんだがな。

 それでもほしいものはほしい、と腹に力を入れ、拓巳は目を細めて口の両端をちょっとだけ上げた。自分ではまったくわからないのだが、こうすると相手からは『いつもより優しい顔』に見えるらしいのだ。

 嫌だけどしょうがない。和巳は今、いないんだから。

「すみません、門倉さん。補給しないと持ちません。ちょっと休憩、いいですか?」

 大変珍しい拓巳からのアプローチに、こちらをチラチラ見ていた門倉は相好を崩した。

「えー、しょうがないなぁ。タクミからのお願いじゃ断れないよね。じゃあ、後半も一発決めで頼むよ?」

「努力します」

「みんなもいい?」

「先生がおっしゃるなら……」

 ベテラン女がしぶしぶ引き下がる。それでも「あ~あ。和巳君とだったら気持ちよく仕事できるのに」などと西名へのイヤミを忘れない。

 それをスルーして門倉に軽く頭を下げ、ドアへ向けて踵を返すと、後ろから門倉とスタッフたちの会話が聞こえた。

「ひゃ~、さっすが門倉先生。あのタクミも先生には頭を下げるんですねー」

「そりゃそうよ。先生は超一流なんだから。どの芸能人だってみんな先生に撮ってほしがるのよ」

 王の取り巻きたちも自分の不手際を咎められないよう必死だ。

「まあまあ、おしゃべりはあとにして僕たちも今のうちにひと息入れよう。何か飲み物ある?」

 満更でもない様子の門倉が隅に移動していく。どうやら機嫌は直ったようだ。

 やれやれ、ご苦労なこった……。

 疲労感に襲われながら廊下に出、向かい側の控え室に入る。奥に進んだ拓巳はソファにドカッと身を沈め、ローテーブルの上の蕨餅をパクついた。化粧した唇が汚れないよう、きな粉はちゃんと排除されている。

「どうぞ」

 夢中で頬張っているところに湯飲みを渡され、受け取って中身を覗き見る。そこには拓巳の好みに合わせた常温の麦茶が揺れていた。

 橘だと緑茶出すから、これは西名のセレクトだな。

 別に橘が悪いのではなく、蕨餅には緑茶が合うと一般的には言われているからだ。拓巳は緑茶も普通に飲むので、麦茶のほうがより好みであることを知る者は少ない。しかし健吾が選んだ助っ人たちは、みんなあたりまえのように麦茶を用意してくる。おそらくセラの準備室でのお茶会を覚えているからだろう。

 やっぱこいつら、よく見てるよな……。

 先ほどの見事な観察眼といい、楽屋だのスタジオだのと非日常な現場に連れてこられても、すぐに自分のペースを取り戻して揺らがない人柄といい、(ふくろう)の会の連中には本当に助かっている。もはや拓巳の頭にはスカウトの文字しか浮かばない(もちろん社長の後藤には進言済みだ)。

「西名、さっきはありがとな」

 麦茶を飲み干してから声をかけると、隣に座っていた西名は「いえ」と頭を下げた。

「僕、多分、言い方を間違えたんですよね。すみませんでした」

 カメラマンと被写体の力関係、もう読み取ったのか。

 拓巳は感嘆の思いとともに励ました。

「いや、あれはあれでいい。あの女アシスタントはカメラマンにいいとこ見せたくて必死でな。あのまま黙ってたら休憩後回しどころかナシで押し切られたわ」

「えっ、モデルさんの人権は無視ですか?」

 ハラ立ちませんかと聞かれて「まあな」と蕨餅をつつく。

「けど撮影現場の支配者はカメラマンだからな。連中の周りにはあんなのがウジャウジャいる。いちいち気にしてらんねーから甘いもん食って忘れる。おまえも食え」

 蕨餅のトレーを横へと滑らせると、西名は「いただきます」と備え付けの楊子を取って緑色の餅を刺した。

 この自然なやり取り。円滑に運ぶ会話。これがまともな職場風景というものだ。

 拓巳が満足のため息をついて楊枝をトレーの隅に置くと、西名が蕨餅の刺さった楊枝(ようじ)を見ながらぽつりとこぼした。

「でも、高橋君ならうまくやれるんですよね……」

 女の捨てゼリフが刺さったらしい。

「まあ、和巳はもともとああいうのを納めるのが得意だからな」

 拓巳がフォローすると、西名は蕨餅を咀嚼(そしゃく)してから聞いてきた。

「あの場合、彼だとどうするんですか?」

「撮影現場か? たとえば……」

 先ほど回想した、相手を上手に持ち上げて休憩を勝ち取った過去の事例を紹介すると、西名はハァとため息をついてからこんなことを言った。

「一見、物やわらかに見えるけど、中身は(はがね)みたいな粘り強さですよね。それなのに会話もままならなくなるほど心が乱れるなんて、よっぽど打ちのめされたんですね……」

 拓巳はそうだな、と頷いた。

 健吾から、雅俊の病状と和巳の現状について、矢部や和泉には伏せたが西名には説明したと聞いている。

「雅俊は意地っ張りだから、和巳に知られて変に気遣われるのが嫌だったんだろうな。気持ちはわかるが身内……同様の弟子からしたら、やっぱりそこは打ち明けて欲しかっただろうし」

 危ない、危ない。口が滑るところだった。

 雅俊と和巳がパートナーであることは、来年の六月まで非公開だ。いずれ西名には明かすだろうが、今はまだ健吾も伏せているだろう。

「でも雅俊は今までだってどうにかしてきたんだから、今回もちゃんといい薬が見つかると思うんだ。今日は和巳と会えるから、なんとか元気を取り戻せるよう励ましてくるわ」

 西名はあの、と何か言いかけたが、しばらく考えてから「そうですね」と頬笑んだ。


 その後、撮影は時々揺れながらも中断することなく進み、無事にジャケットと雑誌の両方とも時間内に撮り終えることができた。

 控え室に戻り、西名の世話を受けながら帰り支度をしていると、手の空いた芳弘が姿を見せた。

「頑張ったね、拓巳。西名君、ありがとう。お陰で予定どおりにできました」

 君も頑張ってたよと(ねぎら)われた橘は、嬉しそうに頭を掻いた。

「俺なんて全然。バイトの西名君に助けられてばかりで恥ずかしいッス」

 入社三年目の正社員でありながら、こういう素直なセリフを出せるのが橘の美点である。これがあるからウッカリな部分も許容できるというものだ。

 照れ笑いの橘は「じゃ、送っていくから支度して」と西名を促しつつ確認してきた。

「拓巳さんはどうしますか? 駅方面ですからいつもとそう変わらない時間でご自宅に送れますよ。それとも真嶋さんと一緒に帰られますか?」

 今日はGプロに戻らないスケジュールだったので、朝は迎えに来てもらっていた。

「あ、俺は許可下りたから和巳に会いに行ってくる」

 方向が違うからタクシーにするわと言いかけ、そうだと芳弘に目を向ける。

「芳弘も一緒に行こうぜ。乗せてってくれよ」

 当然「そうだね。じゃ仕事を終わらせてくるよ」と返されると思ったのだが、言った瞬間、橘の顔が慌て、芳弘の顔に痛みのようなものが走った。

 なんだ……?

 驚いて顔を注視すると、芳弘はハッと俯き、指先でこめかみを掻いた。

 一見、どうするか悩んでいるように見えるが、拓巳には明らかに『まずい』と思っているのがわかる。

 まずいって、なにが。

「二人で行くのはよくないのか……?」

 試しに声をかけると、芳弘の肩が微妙に揺れた。

 どうやらよくないらしい。しかもそれだけじゃなさそうだ。

「なんだよ。なに隠してんだよ。和巳の状態が悪いんだったら教えてくれよ」

 嫌な方向に思考が引きずられていると、芳弘が慌てたように顔を上げた。

「違うよ。和巳は徐々に回復してるって聞いたよ。ただ、僕が……」

 そこで芳弘の言葉が途切れると、帰り支度を済ませた西名がこう言った。

「まだ本調子じゃないと健吾も言っていましたから、真嶋さんとは一緒じゃないほうがいいですよ」

 拓巳はそれを聞いて「あ、そうか」と受け取った。大人数で(二人が大人数かどうかは疑問だが)会えるほどにはまだ回復しておらず、そんな中でも自分が最優先で会わせてもらえるのだと解釈したからだ。ところが。

「余計なことは言わないでくれるかな、西名君!」

 血相を変えた芳弘が西名に詰め寄り、西名は「えっ? なんでですか!」という顔で手のひらを向けた。途端、芳弘か動きを止め、焦ったように一歩下がった。

 まるで『しまった』とでもいうように。

 拓巳の中に黄色信号が点る。

 これ、なんかやっぱおかしいぞ。

 和巳は雅俊が進行性の癌だったことに打撃を受けて体調を崩し、仕事に穴を開けていることを苦にして症状が悪化したのではなかったか。

 芳弘の様子を改めて観察すると、いつもよりどことなく顔色が悪い。そして今ごろ気づくのもアレだが優しげな顔が前より痩せていた。

 いつの間に、こんなに調子悪そうにしてたんだ。

 ちっとも気づかなかった自分がちょっと情けないが、それだけ和巳抜きの日々は余裕がないということだ。

 そういえば、優花を助っ人に頼むこと、芳弘は最初反対だったんだよな。

 それを健吾が説得してくれて、お陰でなんとか拓巳の仕事はこなせている。そのほうが和巳の不安を解消でき、病状改善に役立つはずだと祐司に言われたので実行しているのだが。

 まさかそのせいで優花とうまくいってないとか? いやでも一昨日は二人とも普通に見えたよな。それにさっきの反応、おかしいだろ。

 こいつら絶対、俺に何か隠してんぞ。

「なあ。なんかあるんだろ? 言ってくれよ」

 芳弘の背中に声をかけてみたが、肩が揺れただけで動かない。ならば、と拓巳は方向を変え、青い顔で立ち尽くしている橘を見た。

「おい。吐け」

「すみません。俺、よくわかりません!」

 頭を横にブンブン振る姿にひとつだけ答えを得る。

「ほう。箝口令(かんこうれい)が敷かれてるってわけか。つまりそれだけ芳弘の隠したことは重いんだ」

 弾かれたように橘は頭を止め、拓巳と目が合った瞬間、今度は下げた。

 ち、こいつに構ってる場合じゃねぇな。

 さっきの場面を素早く思い返す。あのとき西名はなんと言ったのか。

『まだ本調子じゃないと健吾も言っていましたから、真嶋さんとは一緒じゃないほうがいいですよ』

 本調子じゃない。だから一緒には行かないほうがいい。この言葉の何が芳弘に『余計なことを』と思わせたのだろう。

 まてよ。『本調子』ってところじゃないなら他の言葉か?

『――と健吾も言っていましたから。真嶋さんとは一緒じゃないほうがいいですよ』

 健吾も言っていましたから。

「……健吾?」

 そう言った瞬間は見もので、芳弘と橘の肩が同時に跳ねた。

 当たりだ。

「健吾と芳弘の間でなんかあったのか……?」

 二人の顔に焦りと困惑が混じる。答えに近づいているようだ。

 確か健吾の説得で優花は助っ人を許されたんだから、芳弘の許可を健吾は取りつけたわけだよな。

 そこで拓巳はハッと気がついた。

 まてよ。それって重要なことだぞ。 

 芳弘が優花を拓巳の職場に近づけたくないのは、マスコミに過去をほじくり出されて優花を傷つけられたことがあるからだ。それは健吾も承知していて、しかし今回は助っ人の依頼を優先した。もちろんそれは拓巳の仕事のためでなく、得体の知れない症状に苦しむ和巳のためであるはずだ。

 一方、芳弘は最初反対だった。拓巳のスケジュールを和巳なしで実行するよりは、割り切って削ってしまったほうが、結果的には和巳の負担を減らせると判断したからだろう。しかし健吾に説得されて優花に許可を出した。健吾の言い分が芳弘の考えを上回ったからだ。

 つまり健吾は和巳の様子を知り、あるいは祐司から話を聞いて、優花をマスコミに晒してでも拓巳に仕事を続けさせたほうがいいと判断したわけで、芳弘もそれを認めたことにならないか。

「俺を、和巳から引き離す必要があった……?」

 その瞬間、三人の顔に浮かんだ表情が、拓巳の言葉を肯定していた。

「……なんで」

 拓巳は芳弘に言いかけ、そして言葉を飲み込んだ。

 やめろ、聞くな。

 本能が警鐘を鳴らしている。

 今、理由を知ったら和巳に会えなくなるぞ。

 和巳は今日、会いに来てと連絡をくれた。それは距離を取る必要がなくなったからで、質問すればちゃんと教えてくれるはずだ。

 それでいいのか?

 別の声が響く。

 きっと言いたいことの半分も言わないだろうさ。おまえの弱い心を守るためにな。

 そんなことはない。体調が回復したなら問題は解決できたってことだから、わかるように説明してくれるはずだ。

 バカだな。あの和巳がなんでおまえと会えなくなったか考えろ。昔も似たようなことがあっただろ? 

 あった。若砂の話をしてやれなかったときだ。

 そうさ。あのとき和巳は自分を抑えることができなくなって、おまえを問い詰めないよう会うのを避けた。雅俊が受け皿になって、自分を押さえ込めるようになってから帰ってきたんだ。

 でもだって、今回は雅俊を頼れない。和巳は逃げる場所がないじゃないか。

 だから体に跳ね返って、あんな状態になったんだろう!

「ああ……」

 そういうことか。

 拓巳は芳弘を見、そして悟った。だから彼は食事が進まなくなったのだ。

「俺と……芳弘もか。俺たちが和巳の何かを壊したから、和巳はあんなことになったんだな……?」

 訴えたくて、でも拓巳を傷つけることはできなくて、それなのに逃げ場まで失ったから吐いて拒絶するしかなくなったのだ。

 だからあんなに苦しそうにしていたのか。

「和巳の心が整うまで、俺は会っちゃいけなかったんだ」

 多分、健吾と祐司は最初の時点で気がついて、和巳の負担にならないよう、仕事にかこつけて拓巳に距離を取らせた。もちろん優花は協力を惜しまず、そして最初に反対した芳弘は健吾に指摘され、気づかなかった自分を恥じたのだ。

「和巳……」

 何を傷つけたんだ、俺は。もう、逃げる場所もないのに。

「拓巳」

 芳弘が目の前に立つ。拓巳は彼を見上げた。

「きっと、無理して呼んでくれたんだな……」

 拓巳を安心させるためだけに。でも――。

「だめだ。……どの面下げて会えばいいのかわからない」

 知ってしまった以上、無理して頬笑むのを見るのは辛い。

 俯くと肩に温かい手が触れた。

「そうだね。ここは慌てないでおこう。和巳には僕が伝えておくから」

 芳弘の声はすべてを読み取ったような優しさで拓巳を包んだ。しかし。

「待ってください。逃げるんですか」

 耳に切り込む、それは西名の声だった。

 顔を向けると、西名が芳弘を押し退ける勢いで拓巳の前に来た。

「それはないでしょう。本人が望んだなら行ってあげてください」

 黒縁メガネの向こうから覗く目が、いつになく鋭い光を放っている。

「西名君」

 芳弘が割って入った。

「事はそう簡単じゃない。拓巳にもどうにもできないことなんだ。順番を間違うと、和巳の努力まで無駄にしてしまうんだよ」

 和巳もよくわかってるはずだからと続けるのを西名は遮った。

「僕は拓巳さんに言ってるんです。邪魔しないでください」

「君こそ、事情を知らずに口を出されても困る」

 芳弘が返すと、西名の背後からイラッとしたものが吹き上がった。

「そんなんだから健吾に啖呵(たんか)切られるんですよ!」

「……!」

 芳弘の目が見開かれる。西名はメガネの縁を光らせて続けた。

「健吾だって付き合いが長いんだから、拓巳さんの事情ってやつは知ってるんでしょう? それでも高橋君を危ぶんだってことですよね。お嬢さんだって同感だから協力してるんでしょう!」

「……、……」

「あの(ほが)らかな男が怒りを表すって、よっぽどのことですよ!」

 芳弘の顔からいつもの笑みが抜け落ちる。西名の言葉が彼を揺るがせた証拠だ。

 西名は黙りこんだ芳弘を一瞥すると、拓巳に向き直った。

「拓巳さん。あなた立派な大人でしょう。なんでそこで逃げるんですか」

 容赦ない指摘に拓巳は声を絞り出した。

「俺はいつも、和巳に負担かけてばかりだから……」

「負担とは違うでしょう。高橋君は拓巳さんをリスペクトしてますから。でなければスタッフとして支えたいなんて思いませんよ」

「それは俺がこの世界で苦労してるのを知ってるから、助けたい気持ちの表れなんだ。でも親としては頼りにならなくて」

 だから辛い気持ちを訴えることができないようになってしまった。

「それは違うと思います」

 西名は拓巳の逡巡(しゅんじゅん)を一蹴した。

「あなたを凄い人だと認めているから支えたいんでしょう。少なくとも僕にそう見えました。あなたの息子であることを、彼は誇りに思っているんだと」

 ―――。

「……誇り?」

「そうです。あなたのことを話す高橋君からは、いつも心が浮き立つような気配を感じましたよ」

 今時珍しい関係だなと思いました、と西名は少し目線を外した。

「まあ、拓巳さんと話すようになって、なんとなく理由がわかりましたけどね」

「え……?」

 内容を聞きたかったが、彼は口の中で何かをつぶやき、首を軽く振ってから「とにかく」と話を戻した。

「その彼が呼んでいるんだから、自分のことはひとまず横に置いて行ってやってください」

「…………」

 今、話を聞きに行って、果たして本心を聞かせてくれるだろうか。――それを俺に受け止めることができるのか。

 答えられずにいると西名が詰め寄ってきた。

「拓巳さんは父親でありたいんでしょう? だったら頑張らないと」  

 拓巳は西名の熱意に引き出されるように本音をもらした。

「今日、呼んでくれたのは俺を安心させるためで、自分の本心は話してくれないと思う」

 それじゃ本末転倒だ。

「そこはしょうがないです」

 西名はあっさり返してきた。

「彼がそうしたいなら、させてあげるのも愛情です。それが、高橋君があなたに見せたい姿なんですから」

「………」

 そんな風に考えたことはなかった。

 迷いの縁から頭を上げかけたそのとき、聞き覚えのある声が後ろからかけられた。

「私も同感よ。でもごめんなさい。拓巳に用事ができてしまったわ。今日のところは私に免じて譲ってくださる?」

 なんだって?

 振り向くと、そこにはこのビルの女王が立っていた。

「綾瀬……」

 振り向いた芳弘がポツリと漏らす。艶やかな黒髪を肩で切り揃えた女王は、いつもの黒いドレスの()で立ちでツカツカと控え室に入ってきた。

「ご苦労様。西名さんだったかしら。残念だけど今日は諦めてちょうだい」

 橘が横から素早く綾瀬の役職を説明する。西名は一瞬、目を見張ったが、態度を変えることなく質問した。

「社長さんは、高橋君の関係者なんですか?」

 その平淡な声に、拓巳は内心で西名の胆力に感嘆した。

 綾瀬ほどの迫力美女にも変化なしか……!

 綾瀬は面白がるような笑みを口の端に浮かべて答えた。

「ええ。私はあの子の伯母よ」

 伯母という言葉に何を思ったか、西名は少し挑むような口調になった。

「甥御さんのためには、拓巳さんは行くべきだと思いますけど」 

「それはあなた個人の考えね。主治医の意見を聞いたわけではないでしょう?」

 言外に『素人の判断では通らないわよ』との意思が伝わってきて、西名の気配が険を帯びた。

「息子さんが父親を呼んでいるのに、主治医が許可しないかもしれないってことですか?」

「そうよ。この父親には主治医ですら慎重になるだけの理由があるの」

 西名は肩を竦めた。

「入院中の息子さんの希望を後回しにするほどのですか」

 綾瀬は自分の顎に手を添え、吟味するように首をかしげた。

「あなたの意見には、個人的な事情が絡んでいるような気がするのだけれど」

「……、」

 西名が黙り混むと、綾瀬は口元に妖艶な笑みを浮かべた。

「でも、あなたのような臆さない人は二人のために歓迎よ。特に過保護な方にはぜひ見習ってほしいと思っているのよ」

 言いながら彼女は向きを変え、芳弘の前に歩を進めた。

「相変わらずの甘やかしで困ったものね、芳弘さん。いい加減、子離れしないと娘から愛想をつかされるわよ?」

 からかうような笑みを浮かべられて芳弘の眉間に皺が寄る。そんな彼の肩に軽く手を触れた綾瀬は橘に顔を向けた。

「ごめんなさいね。拓巳は私のほうで面倒を見るわ。今日はそちらのバイトさんだけ送ってあげてちょうだい」

「はいっ。あ、あの……」

 条件反射のように返事を返した橘が、慌てて拓巳と芳弘に上目使いの目線を投げてくる。拓巳が西名の横顔に目線を当てると、綾瀬はその場の全員に言い聞かせるように続けた。

「和巳には私から連絡しておくわ。それなら拓巳が逃げたとは思わないでしょう」

 綾瀬を見ていた西名がこちらを向いた。

「拓巳さんは、それでいいんですか?」

「……俺は」

 言葉を探していると西名は表情を消した。

「わかりました。失礼します」

 そして拓巳の返事を待たずに踵を返すと、慌てて会釈した橘に連れられて出ていった。

 室内の空気から緊張が抜け、代わりにどこか空虚なものが漂う。

 次のバイト、断られるかもな……。

 なんとなく気まずくて俯くと、少し息を吐いた芳弘が口を開いた。

「なんだか最近、僕は若い子にやられてばっかりだ」

 拓巳は慌てて顔を上げた。

「ごめん……」

 健吾にもさぞかしきついこと言われたに違いない。

 芳弘は薄茶の目を見張った。

「なんで君が謝るの」

「だって、俺のせいで損ばっかしてて悪いと思って……」

 迷惑をかけている自覚はある。

 芳弘は少し目を細めて柔らかく笑った。

「君のせいじゃないよ。僕の認識不足だ。若いからといって侮ったらダメだな」

「そうよ」

 綾瀬か割って入った。

「子どもはいつまでも子どものままではいないわ。ましてや和巳はね」

 そして自分の言葉で思い出したように表情を引き締めた。

「いけない。本題を忘れるところだったわ。拓巳、あなたにお客様よ」

「俺に客?」

 西名を退ける方便じゃなかったのか。

「ここに?」

 芳弘も訝しげに首を傾ける。綾瀬は珍しく不安げな声を出した。

「ええ、そう。ちょっと、私も突然でどう対応するべきか迷ってしまって、取りあえず向かいのホテルに一室取って、そちらに待機していただいているの」

 その口調からは深い逡巡が読み取れ、女王らしからぬ歯切れの悪さに芳弘ともども驚いた。

「君がそこまで気を遣うとはまた珍しいね。もしかして、公にはしたくない相手だとか?」

 綾瀬は夜色の大きな瞳を瞬かせた。

「芳弘さん。あなたご自分の娘のことはよく外すのに、どうして拓巳のこととなるとそうも鋭いのかしら」

「まさか裏家業とか言わないだろうな」

 拓巳の頭に浮かんだのはもちろん誠竜会のことだ。

「それを警戒したから拓巳が病院に行くのを止めて、先に西名君を橘に送らせたのかい?」

 芳弘が拓巳の心を代弁するように訊ねると、綾瀬は優雅な仕草で手を振りつつ否定した。

「バイトの子と橘さんは確かにそうだけど、和巳のお見舞いのほうは違うわ。……というかその方、和巳が怪我を負って入院していることもご存じのようよ」

「は?」

 誰だよ。

 目が訴えていたか、綾瀬は珍しく顔を逸らしぎみに言った。 

「……あなたとお知り合いのようなのだけど」

 なんだと?

「俺の知り合い……ってまさか零史じゃねぇだろうな⁉」

 嫌な想像に噛みつきそうになると、綾瀬は思いきり眉をしかめた。

「そんなわけないでしょう。もっと年上の方よ。その方が、顔を合わせればわかる、会ってくれるだろうとおっしゃるのよ」

「年上のって。幾つの」

「還暦を越えたくらいだと思うわ。見た目はもっとお若くていらっしゃるけど」

 ふと拓巳は綾瀬の様子に気づいた。

「なんか、ずいぶん丁寧な態度だな。綾瀬も面識のある相手なのか?」

「パーティーで何度かお見かけしたことがあるわ。裏家業……かどうかはわからないのだけど、かなりの資産を持つ実業家一族の当主で、分家筋にうちのお客様がいらっしゃったはずよ。ただ、当主ご本人はうちの商品がお気に召さないようだと耳にしたことがあったので、こちらからはあまり近づかないようにしていたの。だからまさか突然、お一人で訪ねていらっしゃるとは夢にも思わなくて」

「そんな突然の訪問、どうして応対したんです」

 危ないじゃないかとのオーラを滲ませた芳弘に、綾瀬は宥めるような目線を投げてから理由を告げた。

「母の名前を出されたからよ」

「成瀬の?」

 拓巳が声を上げ、芳弘も首をかしげた。

「成瀬さんのお知り合いが、どうして君のところに」

「わからないわ。ただ、亡くなる前の母に言われたことがあるの。自分の名を出して訪ねてくる人がいたら、なるべく便宜を図ってやってほしいと。それがその方のことを指すのかはわからないけれど」

 でも母の名を出した初めての人だからと綾瀬はこぼし、芳弘は顎に手を当てて考え込んだ。

「そんな古いお知り合いが拓巳を訪ねてきて、おまけに和巳のことまで知っている……」

 そのセリフを聞いた瞬間、拓巳は閃いた。

 そうか、あの男だ!

 今、このタイミングに単独で忍んでくるとなると、やっぱりあの男は。

「……向かいのホテルにいるって?」

「相手のこと、わかったの?」

 芳弘に聞かれ、拓巳はちょっとためらった。

 今回の建設会館における救出劇について、二人には黒川のことまでは話していない。要が自分の懇意にする上役を呼び出したと説明しただけだ。

 これは言うべきか、黙っておくべきか。

 綾瀬を見るも、彼女からは戸惑いしか感じない。成瀬の名を出されてもわからなのいならきっと知らないのだ。

 だったらもう、会って確かめるしかないな。

「部屋の番号を教えてくれ。今からちょっと行ってみる」

 綾瀬は頷くと、最上階のスイートの番号を告げた。

「一人で来てほしいと言われたのだけど……」

「論外だ。僕も行く」

「いや、いい」

 芳弘の言葉を拓巳は遮った。

「多分、危ないことはないはずだ。それより目立ちたくない」

 二人はしばし顔を見合わせ、綾瀬がこう提案した。

「だったら同じ階に部屋を取りましょう。三人で行けばいいわ。私と芳弘さんがパーティーを抜けたカップルのふりをして、拓巳はその付き人を装って地味なダークスーツでまとめるのよ。芳弘さんは拓巳より背が高いのだから、後ろにいれば多少は目立たなくなると思うわ」

「どうやらそれが一番だね」

 二人は意気投合すると、さっそく「じゃ、私は衣装を見繕ってくるわ」「僕は出られる用意をしてくるよ」と動き出した。

 なんか、久しぶりに二人で息ピッタリだな。

 拓巳は一人で行くという意見をさりげなく押し切られた気がしたが、逆らうような野暮はしないことにした。




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