キャンパスの再会
『以上を持ちまして、旭峯大学第五十二期生、入学式を終了いたします。新入生は各案内に従い、順番にご退場ください。来賓の方は案内係が来るまでその場でお待ちください』
一気に周囲のざわめきが増し、紺や黒のリクルートスーツを纏った八百人の学生たちが一斉に大ホールの座席から立ち上がる。僕もそれに倣い、案内係の女性が指し示す左の出口を目指して歩き出した。
今日は四月の第一土曜日、旭峯大学横浜校舎の入学式の日だ。
僕の通う経済学部は八十人、商業科と経済応用学科の二クラス編成で、他に理学部、工学部、社会学部、教育学部があり、複数の科にそれぞれ三十人から四十人の学生がいる。とはいえ最初の一年間は一般教養なので、学部の垣根はそれほど高くない。加えて大抵の学生は、ホール出入口の先にある正面広場に設置されたサークル勧誘ブースに引っかかるので、学部を越えた繋がりが強固に築かれることになる。
まあ、僕にはそんなヒマないけど。
とはいえ健全なサークル活動が奨励されている旭峯大学において、諸先輩方に僕の事情が通用するかどうかはわからない。さらには事情の中身(←芸能事務所のマネージャー業務)もあまりペラペラ明かせるものではない。
むろん僕としても無策で今日の日を迎えたわけではなく、先輩や友人の助けを受らけれるよう手は尽くしてあるのだが、ホールの入り口で受付したときに垣間見た広場の賑やかな様子に、無事にあの中を突破できるのかちょっぴり不安になる。
「おい、和巳」
ふいに名を呼ばれ、ドキっとして振り替えると、馴染みある顔がスーツの人込みからこちらに抜け出てきた。
「健吾」
みんなと同じく紺色のスーツを着た幼馴染み、バイト仲間でもある宮内健吾だ。
彼も同じ経済学部だが、僕が応用学科であるのに対し、彼は商業科なので席が離れていたのだ。
「こんなところにいたのか。早く抜け出さないと外に出られなくなるぜ。右側から行こう」
「あ、うん」
彼には夕べのうちに今日のスケジュールを話してあり、この先のガードを申し出てもらっているのだ。
リクルートスーツ集団の中をかき分けてホール出入口の右側に移動し、赤い煉瓦を敷き詰めた正面広場に出る。門柱まで続く煉瓦敷きの通路脇には刈り込まれた芝生が広がっていて、そこにフリーマーケットの出品ブースに似た光景が展開されていた。
「こちら、テニスサークルでーす。誰でも気軽に楽しめるよー!」
「さあみんな! 大学のサブカルチャーったらアニメでしょっ!」
「あっ、そこの君、バスケどう? 楽しいよ?」
「新入生諸君! 将棋クラブよろしくっ!」
ガタイの大きなスポーツウェアのお兄さんから小柄なコスプレギャルまで、手作り感あふれるブースの前に立ってチラシを手に声をかける姿は、まさしくサークル同士の凌ぎを削った新入生獲得の戦場だ。
「うわぁ……」
思わず立ちすくんだ僕の腕を、健吾がグイとつかんで引っ張った。
「止まるな。おまえの目的地はあそこだ」
健吾が指し示したのは芝生の右奥に位置する小綺麗な建物で、ホールからも中庭の細い通路で繋がっているという。しかし今日は大勢に解放された式典の日なので、一般の学生や保護者は入れないよう制限されているらしい。そして僕の保護者たちはその建物に案内されていて、僕が合流するのを待っているのだ。
ちなみに健吾が大学内の情報に詳しいのは、中高時代に所属していた軽音部の先輩が経済学部に在籍していて、学園祭に顔を出すなど交流を続けていたからだ。
「こっちは裏側になるから、回り込めばそうは捕まらずに行けると思うぜ」
「うん。ありがとう」
彼は僕を送ったあと、その先輩の所属する軽音クラブに入会する予定なので、他の友人に声をかけつつ引き返すのだという。
「祥さんにさ。おまえのサポートスキルも魅力だからぜひ口説いて欲しいって頼まれたんだけどな。タクミとGプロを敵に回しますよって言ったらあっさり諦めてくれたわ」
祥さんとは佐伯祥、凱斗がいたバンドのボーカルだった人である。旭ヶ丘学園の卒業生として、そのあたりの情報をちゃんと把握してくれたのはありがたい。逐一説明して断るのは気が引けるので、ぜひ他のサークルの先輩方にも流しておいて欲しいものだ。
そんな願いもむなしく、煉瓦の道を右側に進む手前で僕たちは捕まってしまった。
「ちょっと待ったぁ。君たち、ぜひ見ていってよ」
「そんな端っこにいたって見逃さないよ~」
あっという間に複数人の男女に取り囲まれ、かわいいワンピースを着た小柄な女子にチラシを渡される。
「あの、俺たち約束があって」
同じくチラシを渡された健吾が慌てて声を上げたが、すぐさまあちこちから畳みかけられた。
「大丈夫。時間は取らせないわ。私たちのスイーツ同好会はそんなに忙しくないわよ」
「週一で集まって都内の人気店に行って、感想をインスタにあげたり、たまに実習会をして楽しむの。さ、今日は名前と学生番号記入するだけでOK」
「俺たちのマジック研究会だって手間はいらないよ。校内に部室があるから好きなときに顔を出すだけでいいんだ。ぜひ見ていってほしいなぁ」
負けじとチラシを渡してきたのは明るい雰囲気の男子で、大学生活を謳歌しているらしい笑顔につい頷きたくなる。
イヤ、なに血迷ってんの。そんなヒマあるわけないじゃん。
「お、興味ある? いいねぇ。じゃ、こっちに記入」
一瞬の心の動きを見透かされたか、男子学生が身を乗り出す。慌てて「いえ、すみません」と謝ると、健吾が庇うように口を挟んだ。
「俺たち軽音クラブの先輩と約束してて、これから行かなきゃいけないんです」
「軽音? ああバンドか。殆どのサークルは学園祭の活動だけだから、かけ持ちしても大丈夫っしょ」
「いえっ、桜木町でよくライブとかやってるバンドなんで……!」
健吾が苦し紛れにつけ足すと、スイーツ女子たちが一斉に色めき立った。
「桜木町のライブって、もしかして祥ちゃんのグループ?」
「うそ! あなたたち佐伯祥の後輩なの⁉」
え、ホントかよ、あ、よく見たら旭ヶ丘学園っぽい顔だわなどと意見が飛び交い、別の意味で焦る。
(ねえ。ますます抜けづらくなってない?)
(お、おう? 祥さんて結構、有名人……?)
健吾にもよくわかってなかったらしい。
さらにワイワイと囀ずっていた女子たちの一人が、ハッと僕を指差した。
「そうよ! この子どっかで見た気がしてたんだけと、タクミの息子じゃん!」
「え、マジッ!〈T-ショック〉の? デカ過ぎね?」
「ホントよ。旭ヶ丘じゃ溺愛っぷりが有名だったんだから! 下手にこの子困らせるとタクミに睨まれちゃう」
うぇ。もうバレたか。
どうやら自身も旭ヶ丘学園の卒業生らしき女子はさらにまくし立てた。
「そういえば今日、白いベンツが裏門から入るところ見たもん。絶対どこかで見張ってるよ」
それを聞いた周囲の学生たちからどよめきが上がり、僕はちょっと残念な気がしたものの、ある意味ホッとした。
できれば新しい人間関係を築いたあとで知ってほしかった。けどこれで、僕を誘おうなんて人はいなくなるよね。
ところが。
「そりゃいい。君、ぜひ登録してくれよ。きっとサークル会員が増えるよ」
「待って! 先に誘ったのはうちよ。こっちに優先権あり」
さらに後ろからも。
「ちょっと待った。そういうことなら僕ら写真同好会も参戦する」
「待てよ。本人の希望を無視するのはいただけないね。まずは俺たち合気道サークルに話をさせてくれ」
さすが大学生。タクミの逸話もナンのその。みなさん予想外に逞しく、まさに千客万来である。
ど、どーしよーっ!
(やべぇっ! ひとまず祥さんのところへ避難しよう!)
青ざめた健吾が僕の腕を取ったそのとき。
「私の後輩を困らせているのは誰?」
凛とした声が前方からかかり、人だかりの中から一人の背の高い女性が現れた。
「悪いけどみなさん。こちらの高橋君は私と約束があるの。今日のところは引き取っていただけるかしら」
まさか!
ファッションモデルのような細身の体を包む稽古着の黒袴。
涼やかな二重切れ長の瞳に高い鼻筋と薄い唇。まっすぐな黒髪を後ろに結わえた姿は拓巳くんに似た美しさ。
彼女はこちらに歩み寄ると、僕の顔を覗くようにして微笑んだ。
「ようこそ旭峯大学へ。元気そうで何よりね」
「稜先輩……」
須藤稜。三年前、僕の心に軌跡を残した初めての女性だ。
学内に同好会があるのか、師範の免状を持つ棒術の六角棒を手にした姿は三年前と変わらない。
いや、さらに師匠オーラが増したかも。
「須藤師範の後輩? じゃ、こっちの彼は護身術研究会に入るんだ。それならかけ持ち許可をお願いしたい」
マジックなんちゃらの男子が稜先輩に詰め寄ると、他の男女も「待って師範! だったらうちも」と輪を狭めた。
あいかわらず人気と人望があるようだ。
稜先輩は彼らを見渡すと、涼やかな眼差しで薄く笑った。
「彼も私と同じで二足のわらじを履いているの。だからサークル活動には誘えないわ。旭ヶ丘の出身者なら知ってるでしょうけど」
「あっ、そうだ。マース……じゃない、小倉蒼雅の弟子……!」
スイーツ同好会の女子が声を上げる。他の男女は「ナニ? それ」という顔だが、稜先輩は構わず彼女に頷いた。
「蒼雅先生のお手伝いは大変なの。お父様が所属なさっている会社にとっても、彼はスタッフとしてなくてはならない戦力だと聞いているわ。本来なら世田谷の芸術学部に行く予定だったのを、こちらの学部にしたのもその影響だそうよ」
若干、ニュアンスの違う説明をされてつい顔を見てしまったが、稜先輩は「任せなさい」とばかりに僕を見、すぐに目線を戻した。
どうやら情報を得ているようだ。
「芸術学部の教授たちは有望な生徒を逃したのを残念に思っていて、彼が希望すればいつでも編入できるよう待ち構えているのだとか。あなたたちがお父様の人気にあやかろうと彼を追い回したり、お父様が来校したときに騒ぎ立てたりしてしまうと、居心地の悪さに編入希望を出されてしまうかもしれないわね」
「……! ……!」
もちろん編入うんぬんはウソである。しかし取り囲んだ面々は棒を飲んだような顔になり、稜先輩は涼しい顔で畳みかけた。
「それよりは彼の日常を温かく見守って、各種イベントの日には必ず来るであろうお父様の姿を拝めたほうが、あなたたちにとってもプラスになるのではないかしら」
「えっ! タクミが来るの? 大学祭とかに?」
「オープンキャンパスも?」
みんなが口々に言い、稜先輩は笑みを含んだ顔で断言した。
「来るわよ。彼がいる間は必ず」
「………!」
なんて上手な話の運び方なんだ。
一同の脳内に浸透した頃合いを見計らった稜先輩は、僕と健吾に手を差しのべながら締めくくった。
「あなたたちはあちらの校舎に行くのだったわね。案内するわ。ではみなさん。失礼するわね」
そうしてサッと僕たちの腕をつかむと、まだ棒立ちしたままの男女を掻き分けてその場を離れた。
健吾と途中で別れ、目的の建物の入り口に来たところで、僕は稜先輩に声をかけた。
「稜先輩、ありがとうございます。今日はあの、もしかして」
彼女は足を止めると、遮るように僕を見上げた。
「背が伸びたわね。すっかり抜かれてしまったわ」
フッと目を細めて微笑まれ、そこはかとない憂いを感じて言葉に詰まる。彼女は少し首を傾けると、目線を庭に続く通路に移した。
「……あなたの親友が佐伯君に頼んでいたのを、凱斗が聞いたらしいの。学部の一件も蒼雅先生から聞いていたようで」
やはりそうだったか。
色々な意味で心配された入学式対策だったが、保護者たちに対するガード問題は意外にもあっさり解決した。旭峯大学の入学式はもともと保護者と新入生の使用空間が別々になっていたので、生徒との接触は駐車場からホール正面にある出入口までの道のりだけだったのだ。
そこで大学側に相談すると、旭ヶ丘学園からも申し送りされているとのことで裏口を案内してくれ、拓巳くんの白いベンツは騒がれることなく職員用駐車場に入ることができた。彼らはそのまま別に用意された控え室に案内され、式が終わってのちはこの建物に来るべく裏道へと誘導されたはずである。特に騒ぎになってないところを見ると、作戦は無事に遂行されたのだろう。
問題だったのは僕のほうで、その中心はサークル勧誘対策であり、学内の生徒に対してどこまで現状を明かしたらいいかが争点になった。
「俺の息子だってのはある程度知れてるから構わんと思うが、Gプロスタッフなのは隠したほうがいいだろ。プロダクション就職狙いのヘンなヤツに目をつけられたら危ねーし」
「他の大学生だって色々なバイトをしてるんだから、ある程度は明かしておいたほうが安全じゃないか? あとでバレたほうが色々やっかまれそうだ」
拓巳くん、俊くん、どちらの意見も頷けるのでなかなか難しい。すると話を聞いた健吾がこう提案してくれた。
「そうだ。大学で軽音クラブやってて、ライブハウスでも活躍してる祥さんたちの意見を参考にさせてもらおう。俺、祥さんのグループに誘われてるから、前もってその話、通しておくわ」
その、佐伯祥が今、所属しているバンドのライブに、凱斗も助っ人で参加するのだと聞いたことがあったのだ。
一瞬、胸の奥が疼き、そんな自分を恥じる。彼女もわかっているのか、黙ってこちらを見た。
「もしかしたら凱斗さん経由で先輩の耳にも入るかなとは思いましたけど、まさか来てくださるなんて」
手間を取らせてすみませんでしたと謝ると、彼女の手のひらに肩を起こされた。
「謝らなくていいのよ。別に彼からはっきり頼まれたわけではないの。学部変更のいきさつやお仕事の話を聞いてちょっと心配になったから、練習の帰りに様子を見にきただけ」
そう言いながらも少しだけ頬に朱が差している気がするのは、僕の気のせいだろうか。
「それでも。先輩のナイスフォローのお陰でなんとかやっていけそうです」
そんな彼女の様子に心を動かされ、僕は凱斗には聞けないでいたことを口にした。
「先輩は、凱斗さんと今も……?」
彼女は僕を見上げたまま言った。
「そうね。まだ、縁はあるようだわ。こうしてあなたを挟んでやり取りできたし」
「僕を?」
「ええ」
彼女はちょっと目線を下げると、どこか寂しげに言った。
「私と凱斗のことを、あなたはどこまで知っているのかしら」
僕は少々重くなった口を気合いで動かした。
「僕が高等部に上がる頃、お二人は付き合いはじめたと……」
その先のことは聞いていませんとつけ足すと、彼女は頷いて話しだした。
「あの人と私は似たところがあって、最初はそれがよかったのね。話してみると思ったよりも楽で、そばにいても自然体でいられることが不思議だったわ。その不思議のわけを知りたくて、彼の求めに応えたの」
当時のことを思い出しているのか、稜先輩の顔が少しほころんだ。
「付き合ってみると意外とマメな人で、家族思いなところも感心させられたわ」
凱斗の家庭は父親の暴力によって壊れたが、母親の頑張りと妹への愛情によって彼自身は闇への転落を踏みとどまったのだ。
「しばらくは穏やかな付き合いが続いたのだけど……」
薄茶の眼差しが揺れる。
「卒業後、彼はあなたのお父様と同じ事務所のスタジオドラマーになって、私は教育学部に進学して同好会にも協力することになったから、お互い忙しくて会える日は減ったけど、その分、新しい生活の話を聞けたりするのが楽しくて、私は充実していたの。でも彼は、いつからか笑うことが少なくなって」
彼女は一旦、口を閉じ、ひとつため息をついた。
「今年に入ってすぐだったかしら。『俺が負担になっているのなら隠さずに言ってくれ。おまえを邪魔する存在にはなりたくないんだ』と言ったきり、彼からは連絡が来なくなった」
「えっ!」
驚いて目を見張ると、稜先輩は「あ、違うのよ」と続けた。
「私から連絡すれば応じるし、メールには返事をくれるけど、向こうから誘ってくることがなくなったの。だから今回、あなたのことが話題に上がって、あの人のほうからあなたの近況や情報を話してきて、そんなやり取ができたのが久しぶりだったのよ」
「………」
そんなことになっていたのか。
稜先輩の風情にどことなく憂いのようなものが感じられたのは、あながち間違いではなかったのだ。
僕は先日の凱斗の様子を思い浮かべながら訊ねてみた。
「『邪魔する存在になりたくない』とは、どういう意味かわかりますか?」
「いいえ。心当たりもないわ。まして負担になってなんて。なぜ彼があんなことを言ったのかわからない」
「聞いてはみましたか?」
「ええ、メールでは何度も。でもそれに対する答えは返事の中になくて。直接会うチャンスもなかなかなくて、たまに聞けてもはぐらかされてしまうの。それでどんどん日が過ぎてしまったわ」
え、でも。
その返答に僕は少しだけ引っかかった。
「凱斗さんのような契約だと不規則で都合のつかないことも多いでしょうが、先輩は? 大学生のほうが時間に余裕があるように思うのですが」
合わせることはできなかったのだろうか。
稜先輩は困ったように首を横に振った。
「一昨年はまだ余裕があったのだけど、去年からは道場のほうでの立場が変わってしまったので、まとまった時間が取れなくて」
「立場?」
「ええ。代替わりで父が祖父から真陰流七代目を襲名したので、私も次席に就くことになって、宗家の一員としての仕事が増えてしまったの」
本家での会議や稽古を引き継いだりで身動きがままならなくて、と彼女はつけ足して目を伏せた。
「それはいつからの話ですか?」
「去年の五月よ」
「…………」
幾つかの要素が脳内を巡り、先日の凱斗の様子と重なる。やがてひとつの仮説が僕の中に宿った。
想像でしかないけど、もしかしたら。
「……すぐには無理でしょうが、僕のほうが聞き出せるかもしれません」
「あなたが?」
「はい。凱斗さんとは今、仕事でご一緒しているので」
言いながら、僕はふと自分の思考回路に気いて思わず笑ってしまった。
こんなこと言い出せるようになるなんて。
「凱斗さんの性格を考えると、先輩が聞けば聞くほど引いてしまう気がします。その点、仕事仲間であり、下級生でもあった僕なら本音が出やすいかもしれません。もちろん先輩が望まないならやめますが」
「…………」
彼女はしばらく僕を注視すると、片手を軽く額に当てて小さく息をついた。
「稜先輩?」
「いえ。そうね」
次いで手を下げると、微笑みを浮かべて僕に向き直った。
「そんな機会があったら聞いてみてちょうだい。私も知りたいわ」
「わかりました」
僕の返事を聞いた稜先輩は、少し眩しそうな顔をした。
「……もうすっかり一人前なのね。叶わないわ」
「そんなことはありません」
僕はさすがに赤面した。
「まだまだ足りないところが多くて……教えられることばかりです」
「そんなことないと思うわ。きっと……蒼雅先生との日々が、あなたをこんなにも立派に成長させたのね」
立派かどうかはさておき、僕の成長に俊くんが大きく関わっているのは事実なので軽く頭を下げる。
「本当は、今日この場に来ることを迷わなくもなかったの。でも、今のあなたに会ってよかったわ」
きっと先輩も、僕と同じことを考えたのだろう。それがわかるので僕も笑って頷いた。
「僕も、お会いできてよかったです」
「あなたとも、またしばらく縁が続くわね。よろしくお願いするわ」
「こちらこそ」
差し出された手を軽く握ると、先輩は先ほどより晴れやかな顔になり……。
「あ、」
と小さな声を上げ、僕の背後を覗くように首を伸ばした。振り返ると、少し先にある砂利の敷かれた小道に、案内係と思われるスーツの女性と、サングラスをかけていても困った顔をしているのがわかる拓巳くん、そして明らかに負のオーラを背負った蒼雅の装いの俊くんが佇んでいた……。
◇◇◇
「誤解です。それはホントに誤解ですから!」
目黒区の中央に位置する高級マンションの一角。
見晴らしのよい窓から景観が楽しめるリビングのど真ん中で、僕は姫君にかしずく下僕よろしく片膝をついた格好で、白い革張りのソファに顔を伏せたまま寝転がっている背中に説明と懇願を繰り返していた。
「例のサークル勧誘で助けていただいたので、お礼を言っていたんです! 」
「……よかったな。お会いできて」
「そこだけ抜き取らないでください。挨拶の一部ですから」
「ほー。で、手を握りしめて見つめ合ったと」
「だ、か、らっ、挨拶の握手ですっ!」
もはや完全なすねっ子である。しかしここでどうにかしないと被害が周囲に及ぶのだ。
『月曜までにはなんとかしろよ、和巳!』
ああ、拓巳くんの言葉が重い……!
別館の入り口前で拓巳くんや俊くんと再会した稜先輩は、砂利の上で足を止めた二人に歩み寄ると、六角棒を脇に携えてスッと一礼した。
「高橋さん。蒼雅先生。ご無沙汰しております。この度は和巳君のご入学おめでとうございます」
無駄のない所作には武道を極めた者だけが持つ清廉な気配が漂い、二人に対して怯む様子がないのは相変わらずで、答えた拓巳くんのほうが気圧され気味だった。
「……須藤稜。あんたもここだったのか」
「教育学部体育学科に在籍しております」
彼女は淀みなく応えると、いまだ無言の俊くんに向けて微笑んだ。
「三年生として、また同窓の先達として、和巳君が安全な学生生活を送れるよう、心がけるつもりです。どうぞ安んじてお過ごしください」
俊くんも口元に笑みを浮かべた。
「……ありがとう。よろしく頼む」
「はい。では失礼します」
稜先輩は隙のない身ごなしで再び一礼すると、サッと踵を返して戻っていった。そして後には微妙な空気が残された。
「あの、息子さんですよね。それではこちらへお願いします」
どこか作り笑いの感がある案内係の女性に従って建物の中に入り、貴賓室とおぼしき部屋に通される間も俊くんは無言で、樋口隼夫なる壮年の学長と挨拶を交わしているときも、和やかに受け答えながらも目は笑っていなかった。その影響かどうかはわからないながら、『花』の他に三点ほどの絵画が飾られた室内で、僕の体に現れた症状は冷や汗のみであった。
やがて拓巳くんが手洗いの名目で中座を申し出つつ僕にも(ちょっと来い!)と目配せし、どうにか後を追ってトイレに駆け込んだときには、彼の顔色がなんだか青くなっていた。
「おいっ、どういうことだ。いつから須藤稜と密会なんて!」
僕は思わずシーッと人差し指を立ててから小声で説明した。
「違うからっ。サークルの勧誘広場で取り囲まれたところを助けてもらっただけだよ!」
誤解のないよう凱斗の件にも触れながら事の顛末を話すと、拓巳くんは難しい顔になって顎に手をやった。
「そうか、凱斗と……でもうまくいってないわけで……いやでも和巳は凱斗に聞くんだし……?」
そしてしばらく口の中でぶつぶつ続けたあと、片手でこめかみの奥あたりをかき掻きむしった。
「あー、だめだ。ヤな想像しか浮かばねぇ!」
「今の稜先輩とは何もないってば」
だから拓巳くんが困るようなことにはと言いかけると、彼はキッとこちらを向いた。
「バカ言ってんじゃねぇ。相手は須藤稜だぞ⁉ 俺でさえ勘ぐるんだ。雅俊の疑惑は子タレの比じゃねぇっての!」
「そんな」
子タレとは、半年前にGプロへ移籍してきた若手のトップアイドル柳沢亜美のことである。彼女の移籍に関わった僕は、その際によかれと思って取った行動の数々で、俊くんをかなり不安にさせてしまったのだ。
「あのときはおまえも参ってたから言わなかったがな。曲の仕上がりや音への注文がメチャクチャ厳しくなって、ダメ出しダメ出しの毎日で大変だったんだぞ!」
そのときの様子を思い出したか、拓巳くんは身震いした。
「俺は今、新曲のためにヤツのボイトレ受けてんだ。アレ以上のダメ出しされるなんてごめんだ!」
そして真剣な眼差しで僕の肩をつかむとこう言った。
「このあとの昼食会はキャンセルだ。幸い今日は土曜日。月曜のボイトレまでにはあと一日ある。このまま目黒に送ってやるからおまえはこの責任を取って雅俊の怒りを解け!」
そうして学長のもとを辞したあと、俊くんも一緒に乗せてきたのをこれ幸いと、セラも加えて食事会をする予定だったのを変更し、目黒のマンションに直行、即、車から追い出された。その際、
「雅俊。気持ちはわかるがひとまず和巳を部屋に上げろ。そして話を聞け。でなきゃ月曜からのボイトレは断固拒否するぞ!」
との捨て台詞を残したため、僕はかろうじて閉め出しを免れた。
それから蒼雅の装いを解き、編み込みの髪を元に戻した俊くんに金魚のフンのごとく付き従い(その間、ポイ捨てされた黒いワンピースや髪留めなどを回収、かつ所定の位置にしまい)、ソファに突っ伏してのちは脇に膝をつくこと数十分。僕はこうしていまだに顔を上げてくれない彼に必死の抗弁を試みているわけだ。
「ほら、そんな体勢でずっと伏せてたら体が疲れちゃいますよ」
「……別に」
「まだ熱だって時々上がるのに」
「……すぐ下がるし」
「メイクも落としてないから気持ち悪いでしょう?」
「…………」
蒼雅で公の場に立つときはさすがにスッピンとは行かない。今日はまだ薄化粧のほうだとは思うが、塗っていることには代わりないのでさっぱりしたいはずだ。
そんなことを思い、ソファからはみ出てだらりと垂れ下がる片手にそっと触れると、指先がピクリと揺れたものの払われはしなかった。
あ、よかった。
そのまま細い指に自分の指を絡めて握り込み、僕は呼びかけるような気持ちで言った。
「正直に言えば、確かに僕はあれから稜先輩と会うのを避けてたよ。僕の中に少しでも何かの感情が残っていて、先輩を目にすることで動いたら困ると思ったから」
一瞬、動きそうになった細い指をしっかりと絡めて引き寄せる。
「でも先輩の顔を見て、どこか憂かない様子なのが気になったけど、その理由がさっきも説明したように凱斗さんとのトラブルのせいだったと知って……どうしたらいいのかあれこれ考えているうちにわかっちゃったんだ」
そのときのことを思い浮かべていると、ソファの背もたれ側に伏せられていた俊くんの顔が、もそりと動いてこちらを向いた。
その目が「何がわかったんだ」と訴えている。
僕は腕の位置を変えて手を握り直すと、さらに近づいて顔を寄せた。
「僕の頭の中は、どうやったら稜先輩の憂いを取ってあげられるか、そのことだけだったんだよ」
「……どうにかしてやりたいって気持ちは、それだけ気があるってことになるんじゃないのか?」
ちょっとスネた口調で言われ、僕は握っていた手を両手で包み直した。
「そうだね。似てるかもしれない。でも僕には全然違う。だって僕は、好きな人が他の誰かのことで悩んだり気を取られてたりしたら、その誰かを排除したくなるもの」
「………!」
少し目を見張った俊くんに僕は笑った。
「でもそうじゃなかった。先輩に対しては、どうやったら凱斗さんの本音を聞かせてあげられるのか、その方法にばかり考えがいってた。今の僕は、凱斗さんをどうにかしたいだなんてこれっぽっちも思わなかったんだよ」
「それは、凱斗が今のおれたちの仕事に必要な存在だからじゃないのか?」
俊くんがこちらに体ごと向きを変えたので、僕も引っ張られるようにして肘をついた。
片手を外し、白い額に乱れかかるウェーブの髪を梳くようによける。
「僕は二年前、あなたに有用な人材と知りながら、留学先から帰ってきた北斗を心の底から排除したいと思ったよ」
「―――」
北斗とは、女流画家の小倉蒼雅をバックアップするギャラリーのオーナー、柏原晴彦の長男で、跡取りとしてギャラリーに勤務していた青年だ。彼は得意先の息子であるだけでなく、幼馴染みとして俊くんと過去を共有し、また彼自身が俊くんを熱望する求婚者として僕の前に立ちはだかった。僕は親しげに過去の思い出や絵画についての感想を語る二人の姿に、幾度となく心揺さぶられたのだ。
結局最後は彼のほうが焦って僕を排除にかかり、俊くんの怒りを買って自滅した。でも北斗の行動を笑う気にはなれなかった。一歩間違えたら僕のほうこそが――それを自覚していたからだ。
「今の僕は、あの頃よりだいぶ濁ったしずる賢くもなったと思う。稜先輩もそのあたりの変化に気がついたみたいで」
離れ校舎の入り口で、しばらく僕を見つめてから額に手を当てた先輩。そのあとついたため息は、きっと過去の僕との決別。
「もしかしたら先輩は、前の純粋な僕に会いたかったのかも知れないね。けど最後は吹っ切れた顔で『会ってよかった』って言ってくれたんだ」
だから僕もですって返したんだよと締めくくると、俊くんの空いたほうの手が伸びてきて、僕のこめかみにかかる髪に触れた。
「濁ったなんて言うな……おまえは美しいままだ」
黒目勝ちの、オニキスのように輝く瞳がこちらを覗く。そこに幾ばくかの痛みを見つけ、僕はすぐに微笑みかけた。
「僕にとってそれは勲章なんだ。すべてがあなたに近づくための経験だから」
北斗を憎んだことも、零史に落とされたことも、そこから這い上がろうといまだもがいていることも。
「雅俊さん。あなたといられるのなら、僕はどんなことだって――」
ふいにこめかみの手が頭の後ろへと滑り、そのまま引き寄せられる。
「――、……」
柔らかい感触に迎えられ、髪に絡めていた手を頭に添えて僕も応えた。
いつもより深い口づけに、アルコールを飲んだような酩酊感を覚える。
このまま続けたら抜け出せなくなりそうで、僕は理性をかき集めてそっと唇を離した。
あ、でも。
ふいにあることに気づき、つい口元が緩む。
「――?」
疑問の眼差しを向けてくる俊くんに僕は説明した。
「僕ってやっぱりずる賢くなったよ」
「なんでだ」
「だって俊くんがわかってくれたなら、拓巳くんに連絡して安心させてあげなきゃいけないのに」
言いながら彼の頬に手のひらを滑らせる。
「今、連絡したら『じゃ、合流する。食事会するぞ』ってなるから、黙っていればこのまま二人で……なんて」
すると俊くんがキラリと目を光らせた。
「勘違いしちゃ困るな。状況は理解したが感情は別だ。おれはまだ納得はしてないぞ」
「えっ⁉」
ギョッとして顔を覗き込むと、彼は「だからな」と僕の頭を引寄せ、唇を耳に近づけてささやいた。
「おまえはこのあと、持てる時間のすべてを使っておれに奉仕することになるんだ。連絡できるのは多分、明日の夜遅くだろうな……」