譲れないもの
「まったく落ち着きのない方だ。祐司さんを見倣っていただきたい」
苛立たしげにため息をつく柾さんを早川さんが宥めた。
「致し方ありません。あの方は、塚田警視の状況を知ってから、これを防ぎたいこともあって自ら動いていたわけですから」
ああ、そういうことだったのか。
僕は今こそ納得した。
僕たちを守ることで、祐さんの自由を守る。そのために塚田さんに協力していたんだ。
けれどもそれが追いつかず、とうとう祐さんは……。
いたたまれずに俯くと、柾さんの声が響いた。
「まあ、あの人のことは置いておきましょう。やれやれ、すっかり時間が過ぎてしまった。今日の私の目的はこの先だというのに」
顔を上げると、柾さんが背もたれから体を起こしていて、隣に座る早川さんの表情も引き締まったように見えた。
「このようなわけで、警察の内部が頼りない中、セラさんの捜索を委ねる立場にあるのはさぞ不安なことと思います。そこで和巳君と拓巳さんに提案があるのですよ」
そういえば、さっきも言っていた気がする。
なんでしょうと僕が聞き返すよりも早く、こちらも珍しく姿勢を正したままの拓巳くんが口を開いた。
「俺からも頼みがある」
――えっ?
「ほう」
柾さんは興味を抱いた顔になった。
「あなたが私に頼み事ですか。それは意外ですね」
すると拓巳くんは軽く首を振った。
「あんたじゃなくて早川さんだ。総司さんに取り次ぎを頼みたい」
「取り次ぎ、でございますか」
早川さんが怜悧な印象の目を見開く。拓巳くんは「ああ」と頷いた。
「なるべく早くしてくれ。もちろん時間は総司さんに合わせる。頼めるか」
「承りました」
早川さんが畏まって一礼すると柾さんが口を挟んだ。
「拓巳さん。どんなご用件なのかを伺ってもよろしいですか?」
拓巳くんは僅かに顎を反らした。
「断る」
「なぜです。私が妨害するとでも?」
「………」
黙り込む拓巳くんの無表情が「するんだろう」と訴えている。柾さんはちょっと肩を竦めた。
「あなたからのお話を会長がよしとなさるなら、たとえ私が妨害したいと考えても止められるものではありません。ここで聞くか、あとで知るかの違いしかないですよ」
「……あんたは祐司の味方か」
「味方などとはおこがましい。信奉者の一人であると自負しております」
拓巳くんはばらく黙っていたけれど、柾さんが待つ姿勢を崩さないとわかると、小さく息を吐いてから顔を上げた。
「俺は先代から、無条件で財閥に協力要請できる権利を三回分、もらっている。その内のひとつは去年、総司さんをパーティーに呼ぶために使った」
「アイドル救出のためでしたね。存じ上げていますよ」
それは先代の遺言で拓巳くんがもらった『寛文じいさんのプレゼントカード』なるものだ。
ちゃんとした金色のプラスチックカードで、実は財閥系の銀行ならどこでも引き出せる小切手にもなっている。上限が欧州の超高級車一台分という、とんでもない遺産なのである。もっとも拓巳くんいわく『下手な使い方をしたら祐司が持ってかれそうな気がする』のだそうで、みんなの命運がかかっているときにのみ使うと決めてある。
「残りを使って総司さんと交渉する」
交渉?
柾さんが首をかしげた。
「あのカードを使って交渉、ですか」
「ああ。祐司を返してもらう」
「――なんですって?」
柾さんが目を見張る。僕は内心で声を上げた。
そういうことか!
同じく理解したか、柾さんの顔色が変わった。
「……祐司さんは、別に命を取られるわけではないですよ。あのカードは、ご自身や和巳さんの重大な局面で使うべきではありませんか?」
「祐司にとって、これ以上、音楽を削られるのは死ぬのと同じことだ」
「それはあなた方の音楽グループにとって、でしょう。支柱として欠かせないから抜けられると困るわけで」
「違う」
あんたは誤解してる、と拓巳くんは続けた。
「俺は別にかまわない。祐司のためになるなら養子にだってなるしバンドだってやめていい。けど祐司はそれじゃだめなんだ」
「別に、完璧にやめなければならないわけではありません。音楽を楽しまれる時間は十分に取れると思いますよ?」
それを聞いた途端、拓巳くんの気配が冷気を帯びた。
「その程度しか祐司を理解してないなら話すことはない」
言いながら背もたれに身を沈められ、柾さんの頬が僅かに紅潮した。
「あなたこそどこを見ているんです! 祐司さんの度量、才能、どれを取っても当主たるに相応しいではありませんか。いつまでも中途半端では宝の持ち腐れです!」
拓巳くんは聞く耳持たんとばかりに早川さんへと目を逸らした。
「夕方までに連絡がなかったら勝手に電話して会いに行く。けどできればリハビリ中の人にそんなことはしたくない。よろしく頼む」
複雑な表情を浮かべながらも早川さんは頭を下げた。
「……心得ました。では秘書に確認してまいりますので一旦、失礼を」
そして一礼してから立ち上がり、その場を外れて応接室から出ていった。
残された柾さんが呻くように言った。
「……まさかあなたが壁になるとは。私も焼きが回ったものです」
どういう意味だろう。
疑問が表に出てしまったか、彼は僕に顔を向け、自嘲したように笑った。
「二月の騒動の顛末を伺い、拓巳さんは祐司さんのためならご自身を割り切れる方だと見込みました。芸術の世界を極める小倉さんとは違い、祐司さんためならご自分の立場をもなげうてる方なのだと」
とんだ誤解でしたとつぶやかれ、僕はつい反論してしまった。
「柾さんは正しいです。父は祐司さんのためなら自分を捨ててしまえる人です」
「しかし彼を音楽の世界に取り戻すと決めていらっしゃる」
「それは、祐司さんにこそ必要だからで」
「どこがですか! 今、そんなことをしたら彼は窮地に追いやられますよ!」
ふいに声を荒らげられ、ビクッと肩が揺れる。柾さんはハッと目を見開き、己を恥じるように手のひらで顔の半分を覆った。
窮地って。なにが起こるんだ。
「失礼。言っても詮ないことでした」
引き上げましょう、と柾さんが腰を上げ、尾崎さんがスツールから立ち上がる。僕は慌てて二人に続いた。
「待ってください! 祐さんが窮地に追いやられるってどういう意味ですか」
柾さんは横目で僕を見上げた。
「それは、文字通りの意味ですよ。お二人には興味のない、財閥内のことですが」
あなた方は彼が音楽さえできれば問題ないのでしょうと続けられ、僕は柾さんの前に回り込んだ。
ここは聞き逃しちゃいけない気がする。
「あの、父の物言いが足らないことをお詫びします。ですからどうか詳しく教えてください」
「しかし会長を訪ね、祐司さんを戻せと願われるのでしょう? あのカードをすべて出されたら会長に拒否権はありません。知ったところで意味はない」
「訂正します。お話を伺ってから判断したいと思います」
「和巳! 余計な口を挟むな。それは決定事項だ!」
途端、斜め下から声が上がり、僕は腹に力を溜めて拓巳くんを見た。
「もしそのせいで祐さんが別の危機に見舞われたらどうするの!」
「祐司にギターが奪われる以上の危機なんてない!」
「中身も知らないのにどうして断言できるの?」
「それは、……っ」
「祐さんはそういうの、僕たちには絶対見せないよ。片側だけしか見ないで判断したらきっと後悔する。だからちゃんと状況を理解しておこうよ」
「…………」
拓巳くんが黙り込む。僕は柾さんに体を戻した。
「父も僕も、けして祐司さんが音楽さえできればいいと思っているわけではありません。どうかお願いします」
深く頭を下げると、柾さんの手が導くように僕の肩をソファへと押した。そして自らも隣に座り直した。
「……私は愚かですね。早川からも聞いていたというのに、あなたの真価を見逃してしまうところだった」
「……あの、」
柾さんは僕の肩を軽く撫でてから離した。
「窮地というのは、今の祐司さんの立場です。先ほども触れましたが、財閥内も一枚岩ではありませんから足の引っ張り合いは日常茶飯事です。十人の理事の中で、退いた形の武文伯父の支援者はまだ三人いる。その代表が正夫という別の叔父で、筆頭だった武文伯父に次ぐ席でした。あなたも確か会長ご入院の際に病院や本家で同席したはずです」
「病院や本家……」
僕はふと、祐さんの叔母である玲さんに案内されたVIP用控え室での出来事を思い出した。
あれだ。小柄で痩せたご老人。拓巳くんの髪を見て、だらしなく髪を伸ばした若造とか言った、頭のてっぺんが寂しいおじいさんだ。
「年配で痩せ型の、いつも武文さんの隣に座っていた方ですね?」
柾さんは頷いた。
「正夫叔父は腰巾着ですが、やり手の長男がいます。これが叔父の代わりにまとめ役になっていて、武文派の崩壊を防いでいるのです。もちろん祐司さんの手腕は素晴らしいので何事もなければ揺らぐ隙はありません。しかし彼の支持者は私を含めて若手、中堅の五人。うち一人が澪奈さんでしたが現在は降格、残りの二人は中立です。着任して半年あまりの不始末では、祐司さんの求心力を弱めかねません。ですから素早い対応が必要でした」
初めて聞く財閥の内情に心の奥がざわめく。
「あなた方にかけられた嫌疑は偶然と不運もありますが、塚田警視や大橋警視監との友誼が影響しての、敵対派による作為であることは明らかでした。しかしこちらも初動で遅れをとった。すでに正式な会議で取り調べの方向まで決まっていたとなれば、副会長であってもできる手段は限られています。かくして祐司さんは状況把握ののち、トップ会談を選択したわけですが、それは当然『暫定の副会長』にできることではありません」
「…………」
それはそうだ。相手は首都の犯罪を取り締まる巨大組織なのだから。
「彼は私に言いました。『本家に会長代理としてトップと交渉することを願い出るから、理事会の承認準備を進めてほしい』と」
「それは……」
「正式に副会長になるから手続きを頼むということです。来週には理事が顔を揃える段取りになっています」
―――。
言葉の重みに固まっていると、柾さんは気持ちを押さえるように前へ傾いていた体を戻した。
「祐司さんのなさる運営や改革、その手腕に感服し、こちらに重心を置いて欲しいと願っていたのは私ども若手だけではありません。多くの幹部や社員が期待していました。誰だって、素晴らしい上司のもとで働きたいものでしょう?」
それは、そうだ。
「それが叶うというのなら、たとえ私的な理由での職権発動であっても目を瞑ろう。巨大組織の一角と事を構えようと、あの方が頂点なら心配はない。私どもの下にはそう思って口出しを控えた多くの部下がいるのです。それがもし、その場しのぎの見せかけに終わり、理事に戻ってしまったらどうなるか」
柾さんの顔に苦悩が浮かび、僕はじわじわと追い詰められた気分になった。
「期待が大きかっただけに、今度ばかりは祐司さんの信用も地に落ちます。ひいてはそれをお許しになった会長までも。お二人が成してきたものが崩れ、慣例と序列、コネがものを言う武文伯父の派閥が力を盛り返してしまう。財閥の運営は荒れるでしょう。祐司さんを戻すというのはそういうことです」
「…………」
言葉を失っていると、柾さんが訴える表情になった。
「確かに祐司さんにとって、あなた方と作る音楽の世界は大きいのだろうとは思います。しかし考えていただきたい。今、私が申し上げたことも含め、彼はすべてを承知した上で決断しているはずです」
そこで柾さんは拓巳くんに目線を投げ、僕に戻した。
「あなた方は祐司さんが家族にと望んだ別格の存在です。拓巳さんの申し出はあの方を揺さぶるでしょう。ですが今回ばかりは財閥での立場を優先してもらえませんか。もしあの方が心配だとおっしゃるのなら、どうか別の形で支えていただきたい。そのほうが祐司さんには遥かに力になるはずです」
拓巳くんがソファの上で身じろいだ。
「別の形とはなんだ」
「明日にでも養子に入っていただくことです」
えっ、明日?
「そんなに早くですか?」
どうしてそれが支えることなのか。
柾さんは「これは私の個人的な勘ですが」と前置きした。
「祐司さんは、どなたか心に留める方がおありではありませんか?」
「……っ」
なぜそれを。
祐さんの心に棲む特別な存在。それが亡き母、若砂であるのだとは、二月の騒動で拓巳くんに教えられたばかりだ。
ただしそれは拓巳くんが愛したISの若砂――実在した僕の親ではなく、彼が女性と勘違いして胸に刻んでしまった戸部若砂だというのだが。
僕たちを交互に見た柾さんは、やはりというように頷いた。
「一族の中には拓巳さんとの仲を噂するたわけ者もいますが、お二人が一緒におられるときの祐司さんを拝見していればそうでないことはわかります」
「ほ、本当ですかっ?」
つい勢い込んで聞いてしまい、慌ててすみませんと頭を下げる。柾さんは「苦労なさってますね」と目を細めてくれた。
「拓巳さんを見る祐司さんの目はどうみても保護者のものでしょう。あなたを見るときのものとよく似ている。とはいえそんな表情すら稀なもので、普段はどの場面でも泰然として感情を読ませません。それは、その聖域には踏み込ませないとの心の現れであると感じています」
この人は祐さんをよく見ている――そう思った。
「しかし今回の決断で、祐司さんの肩書きは正式なものに変わります。今後は社交界も彼への見方を変えるでしょう。当然、戸籍が空いていればあちこちから縁談が持ち込まれます。それらをすべて断るのは、実はなかなか厄介で難しい」
力関係によっては断るのが大変な場合もあるからです、と柾さんは苦い顔をした。経験があるのかもしれない。
「これは一見、軽い問題に見えますが、聖域を持つ方には深刻です。ですがお二人がただちに養子縁組みをしてしまえば、外部へ発表されたときにはすでに世帯主であると認識されます。この効果は高いですよ。祐司さんを守る防波堤の役目を果たせます」
力強く言われ、僕はちょっと首をかしげた。
「でも、結婚はできますよね? 養子が防波堤になるんでしょうか」
「もちろんですとも」
柾さんは口の端で笑った。
「上流などというものは、相手がフリーであれば離婚歴など問題にもしませんが、そこに扶養家族が残っているなら話は別です。なにしろ相続権を持っていますからね」
「――!」
そういうことか。
柾さんは満足げに頷いた。
「おわかりでしょう。拓巳さんとの噂や、和巳君が実は祐司さんの隠し子であるなどの臆測は、せいぜい茶の席を沸かす中傷の種にしかなりませんが、正式な養子となればもはや無視はできません。それだけで余計な縁談の三分の二が消えるでしょう」
さりげなく混ぜられた憶測とやらに内心キョッとしながらも、柾さんの言わんとすることは理解できた。
確かに、それは祐さんの助けになることだと思う。けど。
チラリと拓巳くんを窺うと、微妙に眉根を寄せている。提示されたアイデアや申し出が意に沿わなかったときの顔だ。
そもそも財閥への縛りが圧倒的になる副会長の正式就任そのものを阻止しようとしているわけだから……。
だめかと嘆息していると、柾さんが続けてこう言った。
「もちろん、防波堤となればお二人が槍玉に上げられるのは必至。くだらない嫌がらせもあるでしょう。しかし重要な恩恵も受けられますので、今のあなた方にとっても悪い話ではないはずです」
「まさか相続権のことを言ってるんじゃないだろうな」
氷のような冷気を帯びた拓巳くんの声が、『そんなもので釣れると思うなら今すぐ帰れ』と言っている。柾さんは心外なとばかりに顎を引いた。
「遺産カードをお持ちの方にそんな発想はいたしません。セラ・オースティンさんの捜索に対する財閥安全部警備班の活動範囲のことです。今日、この場で承諾いただけるなら、私の専務理事特権を使い、セラさんをただちに副会長の縁者として遇します。明日の夜までには彼女を取り戻すことをお約束できますよ」
「ええっ!」
さすがに声が上がり、拓巳くんもソファから身を乗り出した。
「まさか、もう居場所を突き止めてるのか!」
柾さんは自信をたたえた笑みを浮かべた。
「私がここに来る前に受け取った報告では、ターゲットが三ヶ所に絞られたとのことでした。そうだったね、早川」
ふいに柾さんが僕の背後に呼びかけ、静かな足音が近づいてきた。横目に見上げるといつの間に戻っていたのか、早川さんが立っていた。
「警備班の能力から判断して、夕方にはなんらかの回答が得られると期待しております」
事も無げに告げられた言葉は業務報告のように淡々としていて、それがかえって信憑性を感じさせた。
「早川が言うなら間違いはないですね。内部齟齬をきたしている警察よりは確実に仕事が早いですよ」
柾さんがだめ押しのように請け合い、僕は思わず拓巳くんを見た。
どうする、拓巳くん!
彼はしばらく難しい顔でいたけれど、やがて何かを探るように口を開いた。
「俺たちがすぐには養子にならなかった場合、セラの捜索はどうなる」
柾さんが早川さんを見上げ、促すように指先を振る。早川さんはやはり淡々と答えた。
「いつでも指示に応えられますよう、状況を把握します。しかし現場に踏み込むことはありません」
僕は思わず彼を見た。
そこまで割り切った対応をするのか。
少しモヤモヤした気持ちでいると、同じように感じたらしい拓巳くんが硬い声で言った。
「そこに被害者がいるとわかっていても、関係なければ見てるだけか」
すると早川さんの表情に鋭いものが走った。
「警備班のスタッフも私どもの大切な社員でございますので」
普段、静かな色を湛えた瞳に暗い光が宿る。
「いくら優秀な技量の者たちとはいえ、過度の危険を伴う救出作戦を、根拠も報酬もない方のために決行せよとは口が避けても言えません」
まるで睥睨するような眼差しに『我々は使い捨ての商品ではありません』との怒りが透けて見える。
「……っ、」
さすがに拓巳くんも読み取ったか、鼻白んで顎を引いた。
彼の言葉を訳すなら、状況把握まではスタッフの安全が確保できるが、救出は人的被害の可能性があるからただではできないということだ。
それはそうだ。あたりまえじゃないか。大怪我を覚悟して、けどボランティアで助けろなんて僕にだって言えない。
でも……!
やり切れずに俯くと、拓巳くんの声が頭上に響いた。
「俺のカードで、セラの救出作戦の続行を依頼することはできるか?」
あ、そうか!
カードは二枚あるのだから、一枚を祐さんの交渉に使ってもう一枚を、と考えたところで柾さんの声が耳に届いた。
「もちろんカードでの救出依頼はお受けできますが、その場合は祐司さんの交渉を諦めていただくことになります」
えっ、なんで⁉
「なんでだ!」
拓巳くんが語気を強めると、柾さんの目線に冷気が漂った。
「まさか、たった一枚で祐司さんを暫定に戻せるなどと考えてはいらっしゃらないでしょうね?」
井ノ上財閥の副会長の座はそこまで安くありませんとつけ足され、僕は肩を落とした。
そうだよね。もっともなことじゃないか。
珍しく拓巳くんが粘った。
「祐司が暫定に戻った状態で、すぐに養子の手続きをした場合は?」
「それも無理でしょう。会長に準じることが決定していない状態では、警備班の対処義務はあなた方までです」
それはさっきの言葉にあった『根拠と報酬』に関係するのだろう。
「わかった。ならいい」
拓巳くんはため息を吐くように言い、背もたれに体を戻した。
「所詮、財閥は企業の利益でしか動かないし、社員は社命でしか働かない。そんな世界に閉じ込められたら祐司の何かが壊れちまう。そうなる前に返してもらうだけだ」
まて。
「だめだよ拓巳くん!」
僕は慌てて彼の隣に戻った。
「役員さんが利益で考えるのは責任者なんだからあたりまえだし、社員さんが社命を守るのも入社した人の義務なんだよ。そこを善悪で考えちゃだめだ」
必死の言葉に拓巳くんが横を向く。僕はさらにそばへと詰め寄った。
「ね? 投げ出さないでよく考えようよ。僕たちの判断でセラさんの運命が変わるかもしれないんだから」
「セラについては幸司さんの手腕を信じる」
拓巳くんは宙を見たまま言った。
「祐司も手を打とうとしているはずだ。幸司さんはこれ以上、祐司に財閥の力を使わせたくないから全力で動く。だから俺は祐司を助ける」
なるほど素晴らしい分析だ。――じゃなくて!
「そんなの、幸司さん一人が五課の捜査に加わったからって、井ノ上の警備班のようにすぐ結果が出るとは思えないよ!」
「あの人の思考回路はヘンテコだが、実務能力は警備班を凌ぐと聞いたことがある。そうだろ?」
拓巳くんが早川さんに目を向ける。つられて見上げると、早川さんはどこか恥じるように目を伏せた。
本当のようだ。
拓巳くんの顔が決意を帯びた。
「だから大丈夫だ。祐司を優先する」
いや待って。そこだけじゃなくて!
「拓巳くんの気持ちはわかるけど、勝手に動いちゃだめだよ! 祐さんの話を聞いて、真嶋さんにも確認しないと!」
「甘いな。もたもたしてたら祐司の信奉者たちに手を回されちまうわ。明日の朝一でニュースにでもなってみろ。そのあとで交渉したところで祐司の負荷がデカすぎて手遅れだ」
「でも……!」
「その男の顔を見てみろ。今すぐ本社に戻って広報部を動かしてやるって書いてあるぞ」
拓巳くんが柾さんに向けて指を指し、今度はそちらを振り返る。すると柾さんが優雅に立ち上がった。
「当然でしょう。これだけお伝えしたにもかかわらず、祐司さんの判断を妨害なさるのでは話になりません。私は私のできることをして祐司さんを利するのみ」
では、とソファから抜け出られ、尾崎さんに続いて拓巳くんも立ち上がる。僕は心で悲鳴を上げた。
待って、それはやめて!
同時に頭をフル回転させる。
今、最優先なのはセラさんの救出だ。下手をすれば命に関わる。
けれど時間的な猶予でいったらこっちが待ったなしだ。もし今、柾さんを止められなかったら、拓巳くんは即行で鎌倉へ飛んでいくだろう。どちらに転んでも勝手に事が進むわけで、そんなの祐さんは絶対に喜ばない。
じゃ、どうすれば⁉
咄嗟に体が反応し、僕は突き動かされるままにソファを飛び出した。そして優雅にカーペットの上を滑る足の前に身を投げ出した。――文字どおりの意味で。
「柾さんにお願いがあります!」
靴の先に頭を伏せた途端、頭上と前方から複数の声がかかった。
「やめろ、和巳!」
「和巳君⁉」
「和巳さん!」
僕は頭を上げず――つまり土下座したまま臙脂色のカーペットに向かって声を張り上げた。
「父の言動をお詫びします! どうか僕に時間をください!」
「やめろ!」
拓巳くんの近づく気配がし、僕はカーペットに額ずいたままそちらに向きをずらして叫んだ。
「お父さんにもお願いします‼」
瞬間、息を呑む音がした。──ような気がした。
僕はすかさず臙脂色の床に向けて声を張り上げた。
「どうか祐司さんと会う時間を取ってください! お願いです!」
頼むからみんな止まって……! との願いはどうやら叶ったようで、四人の大人の動く気配が応接室から消えた。
僕は少しだけカーペットから額を離し、けれども頭は上げずに続けた。
「お父さん。あなたが祐司さんを心配する気持ち、僕には痛いほどわかります。あの人はギターで呼吸してステージで命を燃やす、音楽がなければ生きていけない真の演奏家です」
思い出すのは二月の騒動のときの言葉。財閥での自分の姿を『皮一枚被った気分だ』と苦い顔で表現した彼。
「財閥での生活は祐司さんの本質にはそぐわない。皆さんに讃えられる手腕と能力は忍耐の結果であって、音楽があるから成り立っている。お父さんの勘は正しいと僕も思います!」
柾さんから距離がある場所で、だったら……とつぶやかれた声に、僕は「ですがっ」と続けた。
「祐司さんの運命を、本人のいないところで気持ちも確かめずに動かすのは反対です。彼のためだとしても、それは越えてはいけない一線だと思います」
僕は床に手をついたままの状態で顔を上げた。
「もし、お父さんが自分の意志で決めたことを、僕や真嶋さんに覆されたら、良かれと思ってのことだとしても傷つくんじゃないでしょうか」
ソファから出たところで立ち尽くす拓巳くんと目が合う。ここぞとばかりに見つめると、彼はしばらくして頭を垂れた。
伝わった……!
思わず背中から力が抜けそうになる。しかしここで緩めることはまだできない。
僕は黒光りする革靴の隣からずり下がり、品のあるライトグレーのスーツを見上げた。
この人を説得できなければ意味がない。
「柾さん。父はただ闇雲に反発し、祐司さんを取り戻そうとしているのではありません」
たとえ端からはそうとしか見えなくても、僕は知っている。
「彼の中にある何かが警告を発し、祐司さんが置かれる状況を危険と感じているのです。それはおそらく祐司さんが背負う負担で、音楽を欠いた状態では心の均衡が崩れるのだと思います」
柾さんは驚きの表情を訝しむものに変え、僕の顔を覗き見た。
「祐司さんが? まさか」
僕は首を横に振って訴えた。
「父は昔から人の本質を見抜く感覚が鋭く、本人すら気づいてないうちから察します」
それは幼い頃から奪われ続けた結果、研ぎ澄まされた防御本能のひとつだ。
僕を奪うもの――幸司さんを恐れ、俊くんを警戒し、けれどもみんなが勘違いした亜美さんには反応しなかった。僕が関心を持っていないことが感覚でわかっていたからだ。
「父には僕たちの目に映らない祐司さんが見えているのです。どうか養子の件も含め、事を動かす前に祐司さんと話す時間をください。父と話す祐司さん見届けてからでないと、支えるにしても安心して務められません。お願いします!」
ひれ伏すようにして再びカーペットに頭をつけると、黒い革靴が動いて背中に手のひらが触れた。
「顔を上げてください」
感情を押さえた声音からはどちらの返答かが窺えず、僕は床に伏せたまま動けなくなった。すると柾さんの両手が左肩を挟み、ぐいと上に引っ張り上げた。
「……参りましたね」
起こされた状態で顔を上げると、手のひらひとつ分の距離に苦笑する柾さんの顔があった。
「二月の騒動のあと、早川が会長にあなたを引き抜くよう願い出たと聞いて驚きましたが、その理由がわかった気がします」
気配を感じて横を向くと、柾さんに倣うように片膝をついた早川さんがこちらを気遣わしげに見ていた。
「これほど強靭で柔軟な魂を久しぶりに見ましたよ。しかもまだ二十歳そこそことは。頼もしいを通り越して恐ろしいですね」
いえ、まだ二十歳じゃありません。
とは言わないでおいた。
柾さんが横を向くと早川さんが真顔で言った。
「私は今でも諦めてはおりません。かの事務所には折に触れ打診するつもりです」
僕の目元が引きつった。
ここはスルーだ、スルー。
「そうですね。しかし焦らずとも大丈夫ですよ、早川。まずは養子縁組で押しましょう」
柾さんは早川さんに頬笑み、それを僕に向けた。
「いいでしょう、和巳君。あなたを信じましょう。拓巳さんがとどまるなら私も動きません」
「ほ、本当ですか?」
「ただしひとつ約束していただきたい」
言いながら柾さんは僕を立たせ、早川さんも一緒に立ち上がった。
「もし、それでもカードを使う判断になったときは、祐司さん本人が鎌倉へ出向くこと。これを守っていただけるなら引き下がりましょう」
「……っ、」
それは話し合いの結果、もし拓巳くんの意見を通す気なら、祐さん自身が願い出ろという、彼の性格を見越しての牽制だ。
祐さんが自分の意見を撤回する人じゃないってわかってての条件だな。
柔和に見えてもそこは井ノ上の専務理事。譲歩したように見せながらきっちりアドバンテージを取ってきた。
あ、でも。
脳内に閃きが走ったそのとき、拓巳くんが近づいてくる気配を感じ、僕は頭を下げて即答した。
「わかりました。その場合、祐司さんが鎌倉へ行くとお約束します」
「和巳」
拓巳くんに呼ばれたが、柾さんはかまわずに答えた。
「交渉は成立です。もちろん養子縁組の件も有効ですので、決まったら早川に連絡してください。夫人への配慮がただちに動くでしょう。よい判断を期待していますよ」
「はい。ありがとうございます」
では早川、行こうかと背を向ける柾さんに再度一礼する。二人の姿がドアの向こうに消えてから僕は後ろを振り返った。
「大丈夫だよ、拓巳くん」
笑顔を作って言うと、怒り顔の拓巳くんが目の前に迫った。
「どこがだ! 祐司が自分から願い出るわけがないだろうが!」
後ろの尾崎さんが顔をひきつらせる中、噛みつく勢いの彼の肩をポンポンと叩く。
「だって僕が柾さんに約束したの、祐さんが鎌倉へ行くことだけだもの」
「だからそれじゃ」
「みんながついていっちゃいけないとは言われてないし、総司さんに誰が申し出るかも約束してないよ」
「……!」
だからね、と僕は拓巳くんの手を握った。
「なにが祐さんや僕たちにとっての最善なのか、ちゃんと考えて話し合おうよ」
ちょっと切ない気分で片方の手を外し、人差し指で彼の頬をつつくと、後ろの尾崎さんが「お見事です」と息を吐き、拓巳くんにばかやろうと抱き締められた。




