手がかり
「芳弘さん、拓巳、和巳。本当にごめんなさい。これはすべて私の責任よ」
社長室の中央、白いソファの前で深々と頭を下げる綾瀬さんに、僕は並んで座る二人を窺ってからローテーブルのほうに身を乗り出した。
「綾瀬さんのせいじゃありません。そんな風に謝らないでください」
「いいえ」
青ざめた綾瀬さんは、首を横に振りながらソファに崩折れた。
「自分で申し出ておきながら、忙しさにかまけて現場任せにしてしまった。こともあろうに私の手配したセキュリティのせいでセラが……っ、」
「綾瀬さん……!」
どう慰めればいいか手をこまねいていると、拓巳くんの隣から長身の姿が動き、ソファの前で身を屈める綾瀬さんの横に片膝をついた。
「綾瀬。今は失敗を嘆いている場合じゃない。冷静になってこの先の対応を考えなければ」
「芳弘さん……っ」
「情けないけど僕たちの手が及ぶ範囲は限られている。でもあなたは違う。あなたには、セラのためにしてあげられることがたくさんあるはずだ。嘆きや後悔はあとで。今は私情を抑えて出来る限りの手を貸してほしい」
肩に手を置いて語る真嶋さんの眼差しに甘さはなく、打ちひしがれた想い人にかけるにしては厳しい言葉だ。
ただでさえギクシャクしたままの状態でいたのに。
しかし目尻に涙を溜めた綾瀬さんは顔を上げ、教義を授けられた信者のような眼差しで真嶋さんを見た。
「私に、まだできることがあると」
目を細めた真嶋さんは頷いた。
「もちろん。あなたの力が必要だ。僕たちを助けてください」
「……ありがとう、芳弘さん」
そして彼女はグッと膝に力を入れて立ち上がると、僕と拓巳くんにこう言った。
「必ず、必ずセラの居場所を突き止めて見せるから」
踵を返して部屋を出る姿を見送る真嶋さんの眼差しに、励ますような色が浮かび上がる。そんな二人の姿に、僕は改めて彼らが培ってきた絆か、些細なすれ違いなどでは揺らがないだけの深さを持っていることを理解した。
だから僕も、勇気を出して臨まなければ。
なぜならこの事件の原因は、僕にあるかもしれないのだから。
その結論に至ったのは、数時間前に判明したセラ失踪の経緯だ。
僕たちが綾瀬さんの会社の応接間に腰を据えてから約一時間後、調査の結果が上がってきた。
「履歴書の偽造が疑われる箇所が判明しました」
左から僕、拓巳くん、真嶋さんが並んでL字型ソファから注目する中、尾崎さんがサイドボードの上に設置された液晶ディスプレイを操作した。
「こちらが吉浦実の履歴書です」
画面中央に映し出された書類は、ごく一般的な書式の履歴書だ。
左上に住所と氏名、年齢に生年月日、右上には証明写真。中段に学歴、職歴の記載、そして備考欄には取得した免許や資格が連なっている。体育系の大学から大手警備会社を経て二つの事業所に勤務するなど、簡潔ではあるが要点は押さえた、一見、なんの問題もない内容に見える。
だとすると、経歴を偽ったということか。
「職歴が偽造されていたということですか?」
同じ結論を出したらしい真嶋さんの質問に、尾崎さんは「いえ」と操作の手を止めずに答えた。
「我々もそう考え、履歴に沿って各事業所に問い合わせました。しかし吉浦実の経歴に間違いはありませんでした」
「えっ? じゃあ何を」
偽造したのかとの問いに、作業を終えた尾崎さんは横にずれて画面を示した。
「これをご覧いただければおわかりになるでしょう」
真嶋さんがハッと目を見張り、僕も内心であっ、と声を上げた。
あれは……!
ディスプレイには新たな履歴書が右側に並び、それらの上半分が画面ギリギリまで拡大されていた。
右と左で違うのは顔写真で、拡大されているので人相がはっきりとわかる。どちらも三十代ほどで引き締まっていたが、浅黒い肌色にエラの貼ったいかつい顔の左側に対し、右側の男はやや肌色が薄く、顎の狭い三角顔だった。
僕の脳内にある可能性が浮かび上がり、急速に不安が高まる。
「これは、つまり……」
真嶋さんの声がかすれ、尾崎さんが頷いて説明を続けた。
「吉浦実の履歴は本物でした。しかし左側の男、即ちこちらに勤務していた吉浦は、書類の吉浦実ではなかった。写真と住所を入れ換えた、いわゆる『成りすまし詐欺』の手口です」
「そんなことが簡単に……」
できるものなのか。
同じように思ったか、真嶋さんのつぶやきに拓巳くんが続いた。
「同姓同名の別人っていう可能性はないのか?」
「もちろん調べました」
尾崎さんは果敢にも拓巳くんに真顔を向けた。
「履歴にある前の事業所、それ以前の大学まで遡り、画像を含めた書類をやり取りして確認いたしました。間違いなくこの履歴を持った『吉浦実』は右側の人物です。しかしこちらも前事業所を退職後に引っ越し、本人の現住所はわかっていません」
「じゃ、左の吉浦はいったい誰だ」
誰もが思っただろう問いかけに、尾崎さんは苦しそうに目を伏せた。
「申し訳ありません。身元はいまだ把握できておりません」
「入社して一ヶ月なんだろう。何か手がかりになるような言動とかなかったのか」
「上司や一緒に仕事をした従業員に話を聞いておりますが、身元に繋がるような話はまだ」
拓巳くんが苛立ったように膝を揺らし、真嶋さんがそれを押さえて宥めた。
「調べはじめてからまだ四時間しか経ってないよ。それに尾崎さんはクライアント側であって警備会社の社員じゃない。やり取りに時間がかかるのは仕方ないよ」
ねぇ、とこちらにフォローを呼びかけられ、僕は顔を上げた。すると真嶋さんは薄茶の目を見張り、まじまじと僕を見た。
つられた様子の拓巳くんが僕を覗き込んだ。
「どうした?」
言いながら彼の手が伸び、胸を押さえる僕の手に触れた。
「……あ」
無意識のうちに、僕は自分の胸を押さえていたのだ。
徐々に眉根を寄せる拓巳くんの顔を見続けていると、こちらを見る真嶋さんから声がかかった。
「……和巳、まさか心当たりがあるのかい?」
鋭い光の目に見通され、僕は思わずうなだれた。
僕の記憶がもし間違っていたら、無駄に心配させる上にとんだお騒がせだ。けれどもし当たっていたらそれは大変なことで、なによりセラを見つけるための重要な手がかりになるのだ。
顔を上げると、それぞれが待つ表情になっていて、僕は急かさずにいてくれる姿勢に踏ん切りをつけた。
そうだ。確める手段がある。だったら。
「吉浦実さんに成りすました男を、前に見たことがある気がするんです」
「――!」
一瞬、二人の息を呑む音が重なり、拓巳くんが僕の肩をつかんだ。
「ほんとか! どこでだ!」
僕は去年の記憶をなぞり、拓巳くんから少しだけ目を逸らした。
「去年、パーティに潜入した有坂ビルの地下で」
えっ? と拓巳くんが首を捻り、真嶋さんがハッと目を見張った。
「一番下なんだね⁉」
頷くと、真嶋さんは愕然とした顔になった。
僕たちを引き止めた上役の男に、皐月さんを呼んでこいと指示された組員。カウンターから出ていくのを不安な気持ちで見送ったので覚えていたのだ。
「じゃあ、君が遭遇した地下取引のフロアの……!」
真嶋さんの言葉に拓巳くんが「あっ」と声を漏らす。それを見た尾崎さんが窺うように聞いてきた。
「なにか、手がかりになることが?」
「ええ。あの、実は……、」
真嶋さんは一旦、目を瞑り、ひと呼吸してから説明しだした。
「尾崎さんなら綾瀬からある程度は聞いているかも知れませんが、去年の夏、Gプロに移籍してきた柳沢亜美さんを巡ることで一悶着あったんです」
「『暑気払いの夕べ』の件でしたら多少、聞き及んでおります」
『暑気払いの夕べ』とは、亜美の前の所属事務所が関わる闇取引を含んだパーティの名前だ。
母親である女優、白川皐月の言動と、付き人にと指名された僕の態度に絶望した亜美は、事務所の方針に逆らって移籍を断った結果、そのパーティで裏取引される商品のひとつにされた。それを阻止するために僕たちは変装してパーティに出席し、地下の闇オークション会場に潜入して亜美を連れ戻したのだ。
「話が早くて助かります。実はあのとき、ビルの地下では闇オークションすらも隠れ蓑にしてもっと重要な取引があったんですが」
「それはまさか……」
尾崎さんが心当たりのある様子で目を見張り、真嶋さんは頷いた。
「そう、聞いたことがあるでしょう。ある暴力団が関わる麻薬取引のことを。和巳と雅俊は亜美さんを連れた脱出の途中で地下に逃れ、その現場に出くわしました。そこで見かけた男たちの中に、吉浦に似た男がいたかもしれないという話なんです」
「………!」
尾崎さんが息を呑む。
「雅俊と亜美さんはかなりの変装をしていたけど、会場で零史を引き留める役だった和巳はあまりしていませんでした。だからあのときの組員がなんらかの理由で和巳に目を留め、探している可能性はあります」
真嶋さんは膝の上で手を握り合わせた。
「それというのも二ヶ月前、セラさんと和巳が乗った車が事故に遭った日、零史に連れていかれたビルを出たあとで、その組織の組員らしい男に話があると言われて捕まりそうになったんです。そのときは祐司の父親の幸司さんが撃退してくれたお陰で事なきを得たんですけど。そうだったね?」
こちらを見る顔に頷きながら、内心で推測する。
きっとビルのカウンターを出るとき、僕の顔を見覚えていた地下の誰かがセラを見て、夏のパーティの拓巳くんと見間違ったことで目に留まってしまったに違いない。地味ではあっても造りは同じ。顔だけを見る分には似ているのだ。
真嶋さんは再度手元に目線を投げ、やがて姿勢を正すとみんなに向かってこう言った。
「今までそこにセラのことを関連づけて考えたことはなかったけど、考え方を根本的に見直さないといけない。もし成りすましの男が誠竜会の組員で、和巳狙いでセラを連れ去ったというのなら、警察に委ねざるを得ないと思う」
「警察……!」
それは芸能の世界で生きるものには最悪の方向だ。
みんなが水面下でやってきた努力が台無しになる!
「でもっ」
拓巳くんの横から身を乗り出すと、真嶋さんが僕を見た。茶色の眼差しは厳しく、さらに色を薄くしたように見えた。
「これが誠竜会の仕業で、セラは餌で君が本命だというなら、僕たちが下手に動いたら事態が悪化するかもしれない。暴力団を甘く見ることはできないよ」
その言葉は僕に要のセリフを呼び起こさせた。
――もしセラの身に何かあっても、状況によっては真嶋芳弘も井ノ上祐司も動かんぞ。
「あのっ。そんな気がしただけで、まだ確信したわけじゃありません。まずは内々に確認したいと思います」
今の段階じゃ、後藤社長だって警察に明かすのは躊躇するだろう。
「誰にだ」
拓巳くんが反応した。
「まさか零史に聞くつもりか」
もちろんそのつもりだ。
けれど僕が答える前に拓巳くんの形相が変わった。
「あいつは駄目だ!」
「でもっ、間違いなくあの人なら知ってる」
なにしろ僕とセラ、そして誠竜会の事情のすべてに関わっているのだ。
「零史なら、この吉浦、……に化けた男が誠竜会の人間かすぐに判別できるよ!」
「わかってるわ!」
「じゃ、なんで!」
「彼はきっと君を交換条件にするよ」
真嶋さんの声が割って入った。目線を向けると彼は鋭い眼差しでこちらに身を乗り出していた。
「こっちが圧倒的に不利だ」
「それでもセラさんのためなら」
「セラと、みんなの世間体のためでしょう。その気遣いは必要ないよ」
「警察が聞き取りに行ったって、零史は素直に話してくれないです! それじゃ時間がかかるかもしれない!」
「…………」
その可能性は、二人とも承知しているようだった。
僕はソファから立ち上がった。
「だったら、まずは聞きに行くべきです」
「待って。一旦、落ち着きましょう」
手を上げて宥める尾崎さんに僕は続けた。
「高橋オーナーから聞いてもらう手もあります。あの人はセラさんのためなら協力してくれる」
「要は要で見返りを望むだろうがな」
「拓巳くん」
横から立ち上がった彼に目を合わせると、硬質な美貌が色をなくしていた。
「あの男がこんなチャンス見逃すはずがない。零史に情報を出させる代わりにおまえに養子の件を制約させるだろう。絶対だめだ」
「だったら零史に直接聞くよ!」
「それはもっと駄目だろうが!」
「セラさんの手がかりに繋がるかもしれないんだよ⁉」
「あいつが出す条件くらいわかるだろう! おまえ自身だぞ!」
ヘイゼルの眼差しに迫られ、僕は一瞬、震えだった。そして震えだった自分にカッとなった。
この弱虫! 暴力団に連れ去られたかもしれないセラさんの恐怖に比べたら!
「それで確認できるならっ……!」
言った途端、拓巳くんの手が振り上げられ、咄嗟に首を竦める。けれどその手はすぐに後ろの真嶋さんがつかみ、背後から抱えるようにして止めた。
彼はその体制で僕を見据えた。
「今のセリフ、雅俊に言えるの?」
―――!
僕は弾かれたように真嶋さんを見た。
「もう一度言う。交換条件で零史が君を望む。それを雅俊に言えるの?」
「……それは、……」
「言えないでしょう。じゃあ隠すしかない。僕たちにも口止めするんだね? でも残念ながら雅俊は鋭いからそのうちにはバレる。彼はさぞかし僕たちに失望するだろうね」
「……、……」
「君が言っているのはそういうことだよ」
僕がうなだれると、真嶋さんの声がトーンを落とした。
「全身全霊をかけて守り育ててきた子が、自分の身を物のように扱って、嘘までついてくれという。悲しすぎて心が痛いよ」
あ………。
おそるおそる見上げると、拓巳くんは真嶋さんの肩に頭を預けるようにしてうなだれていた。
……僕はバカだ。
「ごめんなさい……っ」
込み上げてくるものをこらえながら、力なく垂れ下がった手を握る。拓巳くんは目を逸らしたままでいたけれど、手は振りほどかなかった。
スッと回り込んだ真嶋さんが僕と拓巳くんの腕を引っ張ってソファに戻し、僕たちの前に膝をついた。
「わかってる。君がそんな風に我を忘れたのは、自分のせいでセラが巻き込まれたと思ってるからだ」
それは、そのとおりだ。
「可能性、高いですから……」
「そうだね。あの車の事故の日、零史が君を見て目的を変えたために誠竜会のビルへ行く羽目になって、そこに夏のパーティのことで君を探していた組員がいたというのなら、セラはあの場にいたために目をつけられたのかもしれない」
それは、想像するだけで苦しい可能性だ。
「でも、もしそうなら原因は君じゃない。僕だ」
えっ? と目を向けると、こちらを覗く真嶋さんの眼差しが切ない色を帯びていた。
「あの作戦を立てたのはそもそも僕だよ。僕が塚田さんから余計な仕事を受けて、祐司の手を塞いでしまった。その結果、君たちはガードが薄くなって危機に見舞われたんだ」
「でもそれは、」
井ノ上財閥の力を頼らずに潜入するためには仕方なかったことだ。
真嶋さんは、それを言っても首を横に振った。
「計画の責任は指揮者にあって、故意の違反でもない限り実行者に負わせてはならない。それはどんな集団だってあたりまえのこと。だから君が負うものじゃないんだよ。それでも気に病やんで無茶な行動をするなら、それもまた僕のせいということになるね」
「そんなことは……っ」
「うん、しないでくれると助かる」
うっすら笑みを浮かべた真嶋さんの顔はどこか痛々しくて、僕はようやく、彼がこの事態に対して誰よりも責任を感じていて、けれども僕やみんなのために自分を律しているのだということに気がついた。
そうだ。真嶋さんはいつだって僕や拓巳くんや俊くん、そしてあれほど強い祐さんの身さえ案じる人じゃないか。そんな人がこの状況に心を痛めないはずがない。それなのに。
己の視野の狭さを反省していると、真嶋さんが僕と拓巳くんの膝に手を置いた。
「こんな情けない結果を招いてしまった僕だけど、だからこそ避けては通れない手順を踏もうと思う」
「……避けては通れないって、もしかして塚田警視に報告するのか」
まだナーバスな様子の拓巳くんがボソリと訊ねると、真嶋さんが拓巳くんを覗きこんだ。
「そう。誠竜会のことで何かあったときは必ず連絡するよう言われているんだ」
「それは、亜美の母親の件があるからか」
真嶋さんが頷き、気遣わしげにこちらを窺う尾崎さんに説明する。僕もそのときの顛末を思い出した。
去年のパーティ事件にまつわる塚田さん最大の手落ち。それはわざわざ真嶋さんに協力を依頼して、闇取引の情報を仕入れながら、亜美の救出を助けた白川皐月の身柄を保護できなかったことだ。
麻薬取引の疑いがある誠竜会を調べていた塚田警視のチームは、確信に迫る情報を得て詰めの証拠を集めていた。その中で浮上したのが連絡役と見られる女優、白川皐月だ。彼女は娘の安全を担保できた時点で出頭する覚悟だったようで、接触を試みた警察に協力的だったという。ところが手柄を急いだ部下の刑事が単独行動に走ったため、彼女は車での移動中に衝突されて事故死するという、極めて疑惑の残る結果となったのだ。もちろん警察はこれが事故を装った殺人で、誠竜会が証人を抹殺したと見て調べているが、運転手も怪我を負う中で物的証拠は上がらず、追求もままならずに一年が過ぎている。
「あのときの無念と後悔を忘れたことはないよ。個人的には警察への信頼が少し揺らいだ。けれども誠竜会に対抗するには、僕たちは非力すぎる。後藤社長に迷惑をかけないためにもここは塚田さんに話すしかない」
「あっ……」
芸能と暴力団の関係は複雑で、今も興業とヤクザがセットだった時代の名残がある。現代の大手プロダクションであればこそ、暴力団につけ込まれるような隙を作ってはならないとレクチャーでも教わったことだ。
そんなことも頭から抜けていたなんて。
「だからまずは彼に報告して、警察のデータベースから誠竜会の組員と照合してもらう。行動を起こせるかどうかはそのあとだ。いいね?」
「はい」
すみませんでしたと頭を下げると、真嶋さんの手が頭を撫でた。
「いいんだよ。それよりも、君には別の難問に向き合ってもらわないといけない。雅俊のことだ」
「このことを、どう伝えるかですよね」
「そう。彼もまた、責任を感じるに違いないからね」
憂い顔の真嶋さんに僕も頷く。
亜美の救出劇のとき、僕や亜美を従えて退路を選んでいたのは俊くんだった。誠竜会との遭遇はもちろん故意ではないが、先導した手前、彼がそれを苦にするのは想像に難くない。
「君も辛いだろうけどそれは脇に置いて、雅俊の心を落ち着かせるように説明してあげないといけない。協力してくれるかい?」
「はい。それは僕の役目です」
僕は拓巳くんの手を離し、真嶋さんに向けて姿勢を正した。
「さっきは僕が軽率でした。反省してます。雅俊さんのためにうまく伝えられるよう気をつけます」
真嶋さんはわかったと頷いてくれた。
「拓巳、それでいいかい?」
隣に目を向けると、拓巳くんがけぶるような眼差しで僕を見ていた。
…………。
拓巳くんの美貌を語るときに必ず挙げられる、どこか憂いを含んだ不思議な眼差し。
数多くの業界人やセレブ、そしてファンを魅了してきたその表情が、実は彼の曇った内面――やるせなさや孤独感、そして諦めを表すものなのだと気づいたのはいつ頃だっただろう。
僕はもう一度、拓巳くんの手を取った。
「ごめんね。話を終えたらちゃんと帰ってくるよ」
「………」
「拓巳くんを置いて勝手にどこか行かないから」
彼はフッと長い睫毛を伏せた。
「……行ってこい」
言いながらも握り返す手にはギュッと力が入っていて、本当は嫌だとの本音が透けて見える。
よかった。いつもの拓巳くんだ。
危ういところで踏みとどまれたことに感謝しながら、僕は「ありがとう」ともう一度手を握り返した。
そうして僕は沖田さんに、真嶋さんが塚田さんに、それぞれ報告やスケジュールの確認を進め、それらが一段落したあと、改めて尾崎さんと失踪の状況を洗い出しにかかったところで綾瀬さんが到着したのだった。
アヤセ・インターナショナルのビルを出たあと、横浜総合病院の俊くんを訪ねると、彼はまだベッドを起こした状態で起きていた。
「ごめん、遅くに」
時刻は午後九時半、面会時間は過ぎていたが、『トラブルがあって遅くなる』との連絡を受けた俊くんが先生に話を通してくれたのだ。
「大丈夫だ。それで? 何があったんだ」
手持ちのタブレットを脇に置いた彼に急いた様子で聞かれ、僕はこれまでに判明したことを、極力深刻にならないよう気をつけて話した。
「――というわけで、さっき真嶋さんが塚田さんに連絡した。そのあとは応接室で尾崎さんと今後の対応を話し合ってるよ」
いくら自然体を装って話しても、この内容では衝撃を与えないでは済まない。俊くんはただでさえ透き通った肌色を青ざめさせ、苦しそうに胸を押さえて言った。
「それじゃセラは、もしかしたら……」
その後に続く名前を口に出される前に、僕は早口で説明を続けた。
「その男の身元が予想どおりで、本当にセラさんの失踪に関わってるのだとしたら、当日はどのタイミングで連れ去ったのか。同僚の人というのは誰で、セラさんを送ったのかそうでないのか。あるいは男の偽造がこの件とはまったく関係がなくて、セラさんは別の理由があって故意に姿を消したのか。本当のことはまだまったくわかってないんだ」
それは改めての洗い出しで、排除しきれなかった可能性だ。
とはいえ故意に姿を消すなどあり得ないというのがみんなの一致した意見――などということは微塵も匂わせないように心がける。
「だからまずは男の確保を優先して、当日の足取りと身元を洗い出してるところだよ」
「…………」
「それと綾瀬さんの計らいで、当面、本社ビルの向かい側のホテルにみんなで泊まることになると思う」
この先、警察との関わりが避けて通れないことを鑑み、万が一、情報がマスコミに漏れたときのために綾瀬さんが先手を打ったのだ。メンバーのセキュリティや情報共有のことをふまえ、Gプロの後藤社長にも話が通っていて、その迅速かつきめ細かい対応に、この件に対する綾瀬さんの覚悟の強さが知れる思いだ。
「だから退院後は俊くんにも合流してもらわないといけないんだ。それでも大丈夫か渡辺先生に相談してみないと」
自宅のようにはくつろげない場所に退院させていいものか。
「みんなもそれを心配しててね。もしここにいられるなら……」
もともと先生は俊くんの退院を渋っていた。こうなると許可しないことも有り得る。
そんな思いで続けようとすると、俊くんは遮るように手を振った。
「バカ言うな。セラの身が危ないってのに。ここにいても気になって食事どころじゃない」
「そうだよね……」
隠しておくのが難しい以上、打ち明けるしかなく、知ればそう思ってしまうのはあたりまえのことだ。
本当は、セラさんが無事に見つかるまでここにいてほしいくらいなんだけど。
そんな僕の内心とは裏腹に、俊くんはもどかしげな顔で爪を噛んだ。
「ああ、くそっ。ここじゃろくな情報が手に入らない。明日にも先生に頼まないと」
僕は素早く指を捕らえて口元から引き離した。
「それはだめ。状況を話して、先生から許可が降りたらってことで。まずは体調優先でお願いします」
「和巳。おれだって」
「ここで急いで俊くんにまた何かあったら逆戻りになる。そのほうが痛いよ」
「………」
一瞬、不満が顔から吹き上がったものの、すぐに肩から力が落ちる。さすがに入院した経緯が頭をよぎったようだ。
僕は宥めるように取った手を両手で包んだ。
「あと少し養生すればちゃんと出してもらえるよ。だから焦らないで。セラさんだってきっとそう思ってる。それよりも」
僕は自分が罪悪感から取り乱したことを棚に上げ、話題を逸らすべく質問を投げた。
「この『同僚の人』が一刻も早くわかればだいぶ助かるよね。学長に報告したから、明日には職員にリサーチする予定なんだけど、むやみに聞き回るのも避けたいところなんだ。俊くんは心当たりない?」
彼は少し考え、首をかしげた。
「それこそもう少し情報がないと。その川原とかいう担当者はなんて?」
「それが、改めて詳しく聞いてみたら、偽者の吉浦が手前に立っていたからはっきり見えてなくて、証言できることが少ないんだって」
ただし、親しげに相手を見上げるセラの顔の角度から、背は高かったと推測されるという。
「後ろ姿は細身で髪はショート、白っぽいシャツに濃い色のスラックスを穿いているように見えたらしいんだけど、なにしろ道向かいの駐車場の、さらに奥の隅に停めた車の中からだから、女性なのか男性なのかもはっきり断言できないようで」
もちろん、様子を窺うために車を停めたわけではないので仕方がないが、警備会社の人間の観察としては少々物足りない気がする。
「なるほど……」
投げかけられた俊くんは、さっそく意識をそちらに集中させた。これはこれで解明したいところなのでありがたい。
そんなことを頭の隅で思いながら待っていると、俊くんは意外なことを言った。
「その証言だけでも候補者を絞ることはできる」
「えっ、そうなの?」
「まあな。セラは親しげに話していて、しかもその人の車に同乗することを承知したんだろう? そこまで親しい同僚となれば、教職員の三分の二は消えるぞ」
「偽者の男の言葉が本当なら、だけど」
「男はその場を離れて川原とやらを駅に送っていったんだろう? 同僚が車で送っていくと言ったのは間違いないんじゃないのか?」
「その商店街、よく聞いたらもより駅まで歩いて十分もかからない場所だったんだよ」
もし偽者の男がセラに『具合の悪い相方を送ってくるので待っていてください』と言っていたら、成立してしまいそうだ。
「そこは大学に出勤したことがわかれば解決だな。どうなってる?」
「残念ながらそこもまだ確認中。今日聞いた事務の人は、講義を休みにするとの連絡を引き継いだだけで、当日のことまでは知らないそうで」
夏休み中は基本、業務の一部を残して閉まっている。人員も輪番制で、いつもの職員ではない。そのためセラが出勤したかどうかの確認はすぐには取れないのだという。
「そうか……けど、偽の男は少なくとも川原を駅に送っているわけだから、警備担当者がその場を離れても大丈夫とセラが判断するくらいには、親しい人物だったと考えられるわけだよな」
「あ、そうか」
わざわざセキュリティの運転手をつけられているのだから、綾瀬さんの気遣いを無駄にするような行動は控えるはずだ。
「となると、いたのは教育学部の講師か、または音楽担当の講師か……そうだ、住吉副理事長は?」
あの人なら、警備員が離れても問題に思わないだろうと言われ、僕は首を横に振った。
「住吉先生は髪もショートだし、住まいも横浜だから僕も考えたんだけど、川原さんの『見上げていた』という言葉に当てはまるほど身長差はないんだ」
「うーん、確かに……」
「今頃は真嶋さんが報告してるはずで、僕にまだ連絡がないってことは、その線はないんだと思う」
「そうか、じゃあ……」
再び俊くんは黙考し、やがて幾人かの名前を上げた。
「俺の知る限りだから、心許ないけどな」
僕はスマートフォンに言われた名前を記録した。
「そんなことはないよ。真嶋さんに報告して、この人たちから先に聞いてもらうようにする」
ありがとうと立ち上がり、ベッドの角度を戻す。状況が状況なので大目に見てもらっているが、規定の消灯時間はとっくに過ぎているのだ。
布団の乱れを直して横になるよう促すと、彼は大人しく収まった。今のところセラについて思い詰めたりしてはいないようだ。
もとより俊くんにはなんの責任もないことだが、自分の思考回路を考えてみても、いつそちらの方向へ気持ちが動くかわからない。
僕だって、こうして話していないとすぐに揺れてしまいそうだ。
そんな気持ちを閉じ込めて、僕は彼に微笑みかけた。
「じゃあ、明日も来るからね」
「ああ。待ってる」
俊くんの手が僕のほうへと伸ばされる。それをつかみながら、また遅くなったらごめんねと顔を寄せて唇を額に落とすと、彼は僕の耳に向けてささやいた。
「もし他に手がなくなって、高橋オーナーのところに行くなら、おれにだけは話せ」
………。
顔を離して彼を見ると、オニキスの瞳が強い光を浮かべていた。
「誰に言わなくてもいい。おれはおまえの判断を取る」
「俊……」
「一人より二人だ。いいな?」
念を押すように言うと、彼は手を離した。
「帰り道、気をつけて」
「………」
僕はしばらくほっそりとした、けれども強い意思をたたえた顔を見つめ、そしてちょっとだけ笑いかけた。
「ありがとう。……そんなことが起きないように祈ってて」
「もちろんだ」
「じゃあ、また明日」
そうして僕は軽く手を振り、白い壁の病室をあとにした。――叶わないなと思いながら。




