それぞれの課題
「セラさんの熱は下がりましたか。よかったです」
爽やかな春の光が窓から差し込む事務所の奥。柔和な銀縁メガネの顔に執務机から微笑まれ、僕は恐縮して頭を下げた。
「その節はありがとうございました。僕の不手際で沖田さんの手を煩わせてしまってすみません」
「誰だってうっかりはありますよ。まして身内の緊急事態だったんですから」
「そうですけど……」
「僕は〈T-ショック〉の専属マネージャーです。こんなときに動くのは当然だし、いまや後輩でもある君をフォローするのも僕の仕事ですからね」
沖田さんはファイルを手に椅子から立ち上がると「さあ、もうすぐ十時ですからスタジオに行きましょう」と僕の肩を軽く叩き、ドアに向かって歩き出した。
セラの緊急入院からはや三日。
彼女は無事、僕たちのかかりつけである横浜総合病院に転院し、要人などが利用する隔離病棟の個室に落ち着いた。
それらの采配を振るったのは僕の上司、〈T-ショック〉の所属事務所、GAプロダクツのベテランマネージャー、沖田智紀さんで、彼は僕からの報告で事の危うさを察知すると、すぐさまかかりつけの総合病院の事務方に話を通し、翌日の昼前には移送できるよう手筈を整えた。そして僕が転院の手続きを進めている間に弁護士を伴い、救急病院側に患者のプライベート情報に対する守秘義務の徹底を要請、漏洩した場合の責任について説明した。つまり、万が一セラの情報、即ち「〈T-ショック〉のタクミの関係者(或いは血縁)らしい」ことが外部に漏れた場合、法的手続きを取るとの姿勢を示したのだ。
僕もあのあと担当の看護師から少なからず拓巳くんたちについての探りを入れられ、「祖母が仕事の縁で親しくしている方々です」などと話しておいたが、容姿が似ているのは誤魔化せないので効き目があったかわからない。
そのため早い段階での交渉は重要で、現に古びた感のある病院の院長はすぐさま頷いたという。普段、誠実で人がよく、しばしば拓巳くんに振り回される沖田さんの、マネージャーとしての手腕を改めて実感した思いだ。
「それに僕は、君たち全員を呼んだ住吉先生の判断は的を得ていたと思いますよ。なにしろ相手が相手でしたから」
階段を降りながら沖田さんが言い、僕も並んで頷いた。
「はい。そこは僕たちの意見も一致しています」
住吉副理事が拓巳くんに電話を入れ、真嶋さんや俊くんなど複数の人を呼んだのは、ひとえに高橋要が絡んできたからで、そうでなければ連絡は翌日、僕にするつもりだったという。実際、もし身内のことだからと僕や拓巳くんだけで要と対峙していたら、かえって危ない事態に陥っただろうと予想され、これはGプロスタッフの立場からしてもありがたい判断だった。
「的を得ていなかったのは僕の連絡手順です。現地に着いた時点で沖田さんに連絡して、どんな病院かを確認するべきでした」
「そう。でも和巳君は、時間が深夜に差しかかっていたから、もう少し状況をつかんでから報告したかったんでしょう。それは無理もないと思います。今回の事例を今後の判断に活かしてくれればいいんですよ」
「はい」
穏やかな指導だが、内容を考えると身が引き締まる思いだ。それはともかく、最高のフォローをしてもらったからにはこの先の注意を怠らず、僕がGプロから託された重要職務『拓巳くんに仕事を完遂させる』ことに全力を尽くすのみである。――のだったが。
「ああ? なんだよそれ。意味わかんねー」
「別にたいした違いはないだろうが。つべこべ言うんじゃない」
地下一階にある練習用スタジオに入室した途端の光景に、僕は思わず一歩引いてしまった。
な、なんなんだ。のっけからこのケンアクな雰囲気は。
こんなときに 頼りになる祐さんは、今日は《別行動》なのでいない。
(あの、沖田さん。今日って次のアルバムに向けた新曲の練習と打ち合わせだけでしたよね?)
同じく足の止まった沖田さんに伺うも、彼もメガネの奥の目を丸くするばかりだ。
(え、ええ。そのはずですが……)
もう何度となく繰り返されたお馴染みの作業で、時間的にも余裕があり、音響スタッフもサポートメンバーも慣れた人材が揃った、いわば『対・タクミ』的な安心の顔ぶれであるのだが。
あ、ちょっと違う。
その顔ぶれを順に追ったところ、バックバンドのドラマーに見知った顔を見つけ、僕は沖田さんに会釈してからその場を離れると、ステージの中央で楽譜を片手に睨み合う俊くんと拓巳くんを回り込み、こちらに目線をよこすドラマーに歩み寄った。
「お疲れ様です、凱斗さん」
「久しぶりだな、高橋和巳」
旭ヶ丘学園時代の先輩であり、今はスタジオドラマーとして活躍する浜田凱斗である。
彼とは少なからぬ因縁を含んだ間柄であったが、とある事件を介して歩み寄る機会を得、ともにGプロの門をくぐったことで縁を繋いだ。今では過去と現在を共有する数少ない相手である。
「今日は凱斗さんだったんですね。よろしくお願いします」
「ああ。ドラムの前島さんが腕を壊しちまってな」
祐さんに匹敵するハードボイルドな容貌の、鋭角的な印象の顔の中で、男らしいラインを描いた唇が薄く笑う。
「『これじゃマースのクオリティに応えられん!』ってことで治療に専念するらしい。で、マースから指名を受けた」
前島さんは俊くんの信頼厚い大ベテランだが、そろそろ還暦に差しかかる。
「指名を。じゃ、今日だけでなく」
「ああ。しばらく付き合うことになりそうだ。よろしくな」
「こちらこそよろしくお願いします。凱斗さんに来てもらえたのはラッキーでした」
なにしろ俊くんの音作りはストイックなことで有名で、そのニーズに応えられる奏者などそうはいない。その点、彼は高等部時代にはすでに俊くんと祐さんを唸らせていたほどの腕前で、ありがたいことに拓巳くんへの免疫も持ち合わせているのだ。
僕の脳内から思考が駄々漏れたか、凱斗がどこか面映ゆそうな表情で言った。
「〈T-ショック〉からの指名はまあ、俺にとっても価値が大きいからな」
「ありがとうございます」
まだぎこちない部分はあるものの、こんな風に会話できるようになったことに感慨を覚える。
ホントに角が取れたよなぁ……。
きっとプライベートのほうも充実してるんだろうな、などと余計なことを想像しながら、僕は本題へと話を進めた。
「それで、何があったんですか? 今日のメニューであの人が口を尖らせる理由が思いつかないんですが」
拓巳くんは、歌を歌うことはキライではない。実は好きなんじゃないかと思われる。周囲も同じ意見だが、迂闊にそれを本人に告げると天邪鬼になるので黙っている。そんなわけで、新曲の練習は楽しい部類に入るはずなのだが。
いがみ合う二人へと目線を移すと、横から凱斗が言った。
「タクミがな。ソロを出すってのが気に入らねぇらしい」
「ああ、確かにソロはあんまり……えっ?」
ソロ?
僕は凱斗に目線を戻した。
「それって、まさか今度のアルバムにソロを混ぜるってことですか?」
「いや。先にソロのシングルを作るようだぜ。マースが新しい曲を二つ持ってきた」
「でもこの先は、月はじめに出したシングルの『クレシェント』を主軸にしたアルバムを制作する予定でしたよね?」
『クレシェント』に入っている二曲に新たな三曲を加え、五曲が固まったので、今日はそのアレンジに入ると聞いていたのだが。
ソロなんていつの間に書いていたんだと言いたいけど、俊くんはアイデアが湧いたときは一夜で三曲書いちゃうんだよね。
やや声が高かったか、拓巳くんがこちらに気がついて振り返った。
「聞いたか和巳。ひでぇだろ。いきなりソロとか無茶ぶりしやがる」
「曲調が違うから伴奏をピアノにしただけだ。おまえのやることは変わらないんだから別にいいだろ!」
「ピアノ伴奏……」
あ。聞いてみたいかも。
つい心が動いてしまい、拓巳くんの目が吊り上がる。そして僕を見た俊くんの顔が輝いた。
「詞はできてるのに音が決まらない曲が幾つかあってな。一昨日の夜、ソロの曲調を思いついて作ってみた。思ったとおりいい感触だったから、先にこっちをやりたいんだ」
ほんのり頬を上気させながら持ち上げた楽譜の枚数がなんだか多い。
するとそれを指差した拓巳くんが訴えた。
「ナニがいい感触だ! 出だしは高音のアカペラ、サビは超高低差、終わりは高音ピアニシモ。しかも八分って長すぎだろ!」
な、難曲……!
全国のボーカルが嫌がりそうな設定である。しかし俊くんは口元で笑いながらあっさり言った。
「できるだろ? おまえなら」
「……っ、」
あの、俊くん。もうちょっと言葉を選んだほうが。
案の定、傾国の美女のような美貌が怒気を帯びた。
「知るかっ! とにかくアルバムの曲に戻せ!」
「いいから読み込めよ。出だしはメロディー出すから耳で捉えろ」
「おいっ!」
俊くんは拓巳くんを無視してこちらに目線を投げた。
「今日はつかみだけでいい。ギターは伴奏部分から楽譜をなぞってくれ。凱斗は感覚で合わせてくれればいい」
「了解」
凱斗、そしていつものサポートメンバー、ギターの梶原さんとベースの箕口さんが構え直す。慌ててステージから降りて横に下がると、俊くんがステージの脇に置かれたアップライトピアノに向かった。
あ、キーボードじゃないんだ。
向かって左側に置かれた俊くんのキーボードはまだカバーがついたままだ。
「ふざけんな雅俊! 俺はやらねーぞっ、」
食い下がる拓巳くんの声にアカペラ部の旋律が被る。それはどこか哀愁を含んだ綺麗なメロディーで、瞬く間に室内の空気を変えた。
「……っ、……」
拓巳くんが動きを止める。
これを、拓巳くんの高音で。
思わず脳内がその情景を映し出し、耳が音を欲する。
横目に見える沖田さんや、先に待機していたスタッフたちもやや前のめりになっていて、奏でられるピアノの音に集中している。
なんだろう……今までになく、ジンと来るような。
ギターが重なり、ベースの低音が加わる。ドラムがリズムを刻む頃には、拓巳くんの姿勢も直っていた。
「――……」
楽譜を目で追いながら歌詞を口ずさんでいる。
それはゆっくりとした曲調で、けれども主旋律はうねるように幅広く、ときに明るく、けれども哀切を帯びていて心に妙に響く。
間奏のピアノに差しかかったときには、ふいに細かく刻まれ出した音の流れに周囲のスタッフともども息を呑んだ。
これはまた、本格的な……!
俊くんがアトリエやマンションのピアノで僕のいないときに練習しているのは知っていたけれど、こんな風にみんなの前でしっかり弾くところを見たことはなかった。少年期にピアニストを目指していて、指を痛めて断念せざるを得なかったと耳にしていたので、僕からは極力、触れないようにしてきたけれど、人前で弾く気持ちになれるくらいに回復していたのなら嬉しいことだ。
やがて他の楽器が静まり、ピアノの流れるような指使いが旋律と和音を弾き分けて静かに音が消えると、周囲からワッと拍手が沸き上がった。
「すごい。なんかこう、グッと来ちゃいました」
「俺も。胸がギューってなった、っつーか」
新配属スタッフの広田稔と橘奏太がため息混じりで言い、沖田さんも頷いている。音響スタッフたちも口々に感想を述べる中、ピアノを離れた俊くんが拓巳くんの前に立った。
さすがに力を使ったか、額の汗をぬぐう俊くんに対し、拓巳くんは無言で譜面を睨んだままだ。
「拓巳」
俊くんが声をかけると、彼はようやく顔を上げた。
「…………」
ものすごい仏頂面である。
(き、気に入らなかったのかなぁ……)
(やっぱ長いかな)
広田と橘が不安げにささやく。しかし僕には彼の心の叫びがハッキリ聞こえていた。
なんだよ、ヘンなもの持ってきやがって! まーたボイトレだぜ。チクショーッ! 〔※超訳→いい曲だ。しょうがねぇ。咽鍛えるか〕
気に入ったんだね。
俊くんにも読み取れたのか、確認するように僕を見てから大きく息をついた。
「よし。決まりだな」
(え、拓巳さん、あれオッケーなの⁉)
(やるってこと? ホントに?)
目を丸くして広田と橘がこちらを見るのに頷き返す。周囲のスタッフたちにも伝わったところで、やる気に満ちた俊くんがバックバンドのメンバーに言った。
「ちゃんとしたパート譜は今日中にデータ処理して渡す。それまでに、各自アレンジを詰めておいてくれ」
「了解」
見ると、彼ら三人の楽譜も俊くんの手書き楽譜をコピーしたものだ。
ホントに昨夜できたばっかりなんだなぁ。
最近の、特にロックやポップスの作曲はパソコンを利用する人が多い。詳しい知識がなくてもソフトがあれば簡単に曲が作れるからだ。とはいえ主旋律や伴奏の各楽器を打ち込むには手間が必要で、ちゃんとした楽譜を起こすにはそれなりの時間がいる。
しかし俊くんは正式に音楽の勉強、それもオーケストラの作曲を学んでいるのだそうで、五種類程度の楽器のパートなら最初からスコア(指揮者が持つ総譜)形式で書き起こせる。つまり五線譜の上段に主旋律の音符を書きながら、その下に伴奏の楽器A、B、Cの段といった順で、各パートの音符も同時に書いていくことができるのだ。ゆえに彼の場合は手書きの方が打ち込むより遥かに速く、一昨日の今日で楽譜が各パートの分まで揃っていることになる。
まてよ。ってことは、昨日までの二日間はもしかして徹夜……。
見れば南国の美女にたとえられる華やかな美貌の中で、アーモンド型をした大きな目の下にうっすらと隈ができている。
まったく。僕が行かない週末は油断がならない。
そんな人の気も知らず、彼は楽譜に目を通しているメンバーを満足げに眺めると、いまだ仏頂面のままの拓巳くんを見上げた。
「いいだろ?」
拓巳くんは嫌そうな顔をしながらも、俊くんを見た。
「……ピアノ、いけるのか」
目線がだらりと垂れ下がった左手に移る。俊くんは肘を曲げて左手を軽く振った。
「あのくらいなら、なんとかな」
そうは言ってもまだ整わない息づかいが大変さを物語っている。拓巳くんは口を開きかけてからため息をついた。
「しょーがねぇ……」
遠回しの了解だ。
それを聞いた俊くんは破顔して拓巳くんの肩を軽く叩いた。
「よし。じゃ、今度は音取りしながらやるから位置につけ」
「おい」
ふいに拓巳くんの目が開かれ、腕が前に動く。そのときには僕も異変に気がついた。
俊くん?
自分ではわからないのか、彼の体がまるでピサの斜塔のように傾いている。
「アカペラの部分から、もう一度――」
言いながら俊くんはピアノのほうに振り返ろうとし――。
「雅俊!」
そのまま肘をつかんだ拓巳くんと僕の間に倒れ込んだ。
◇◇◇
「それで雅俊さんは大丈夫なの?」
プラインド越しの柔らかな日差しが照らす個室の窓よりの位置で、ベッドから身を起こしたセラに僕は椅子から身を乗り出して答えた。
「はい。主治医の渡辺先生の見立てでは、過労による自律神経の乱れと寝不足だろうとのことでした」
この病院に運び込んでから約三時間。こちらの部屋では昼食の時間が終わり、簡易テーブルから食器が下げられたところだ。
「ただ、少し体温が高いので念のために血液検査をして、今日は様子見で入院です。何事もなければ明日は帰っていいそうです。この部屋の隣の個室が空いていたので、点滴が終わり次第、移ってくる予定です」
「そう。よかった」
微笑んで胸を撫で下ろすセラに、僕も笑みを返した。
スタジオで倒れた俊くんは、まもなく意識を取り戻した。
「悪い、寝不足だ……」
しかし起き上がろうとするも頭の位置が定まらず、しまいには拓巳くんに「動くんじゃねぇ!」と床に押さえつけられた。
「明らかに目眩を起こしていますね。これは病院に行くべきかと」
沖田さんの言葉にみんなが賛成して主治医の渡辺医師に連絡し、「大袈裟だ。少し休めば直る」と言い張る俊くんを無視して車を手配、裏門からこっそり入って診察してもらい、現在に至るというわけだ。
「本人はすぐにも戻りたかったようですが、目眩もあるので大事を取ってとなりました。僕も正直、休んでくれたほうが安心です」
ちょっと目を離すとすぐ休養をおろそかにするんですと続けると、セラが申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいね。ここに通ってくれていたから、目黒のマンションへは行けないでいたのでしょう? 雅俊さんは何事にもストイックだけど、あなたが一緒だと無茶しなくなるのだと、前に拓巳が言っていたもの」
僕は慌てて否定した。
「それは雅俊さんがそうしろと勧めてくれたからです。それに普段、ちゃんと生活していれば、週末のたった二日で倒れたりしません」
この三日間、僕たちは交代でセラの病室に顔を出しつつ高橋要を警戒した。そのため僕はいつものように週末を俊くんのマンションで過ごすのではなく、病院から近い自宅マンションに留まった。確かに俊くんが倒れた主な原因は週末の無茶だろうが、ベースは明らかに平日の過ごし方だ。
「きっと新しい作品に向けてのアレやコレやで夢中になって、夜な夜な打ち合わせとは名ばかりの飲み会で盛り上がっていたに違いないんです。いくら色々な人の話を聞くとアイデアが湧くからって、僕がいないときに飲み会ばっかり行かなくたって……!」
つい拳に力が入ってしまい、ハッと手を元に戻す。僕は咳払いして誤魔化すと、心配そうにこちらを覗くセラに微笑みかけた。
「と、とにかくセラさんのせいじゃありません。そこは押さえておいてくださいね」
セラは僕を見て目を丸くしていたが、やがて口元を押さえて「はい。わかりました」と小さく笑った。
多少、恥をさらしたが、わかってもらえたらしい。
場が和んだところで、僕は本日の要件を切り出した。
「そんなわけで、偶然にも雅俊さんの退院日はセラさんと同じ日の見込みになりました」
そう。今日、僕がセラの病室に立ち寄った目的は、俊くんの付き添いついでの報告ではない。Gプロから重要なミッションを託されたからだ。
僕が背筋を伸ばして正面から顔を見つめると、セラも察したように表情を改めた。
こうしてじっくり向き合うのは本当に久しぶりだ。
小造りな細面に納まる美しい鼻梁。薄めに整った淡い桜色の唇。秀でた額の下に納まる、二重切れ長の大きな瞳は青みがかった薄茶色で、長い睫毛と相まって夢見るような眼差しを醸し出している。右目の瞼に刻まれた傷は隠しようもないが、彼女の美を損なうにはまったく至らない。
よく似た造りながら、ときに氷のような鋭さを放つ硬質な美貌の拓巳くんに比べ、柔らかさと儚さを伴った究極の女性美だ。それはいまだに執着を持ち続けていると見られる男の心境を僕に知らしめた。
なるほど。要のような自負心に満ちあふれた男からすれば、彼女の美しく儚げな風情にはさぞかし保護欲をくすぐられるだろう。絹と宝石を纏わせ、風にも当てないように大切に守り、愛と信頼のすべてを己に向かせたいと渇望するだろう。
それは彼のような男には自然な欲求なのかもしれない。そしてもしかしたら多くの女性にとっても、そんな風に求められるのは心地よく嬉しいことなのかもしれない。
けれど彼の考え方はある方向において、セラの意思にそぐわないはずだ。
〈拓巳くんに対する二人の姿勢は永遠に一致しない〉
そう確信する僕はセラに申し出た。
「ひとまずでいいです。うちのマンションに身を寄せてください」
セラはじっと僕を見つめると、首を横に振った。
「それはできないわ。そんな資格ないもの。あなたたちに迷惑はかけたくないの」
「では、どうするつもりですか?」
「しばらくホテルで過ごすわ。京子が大学講師の籍を取っておいてくれたから、職場復帰するまでにアパートを探すつもりよ」
俊くんたちが探ったとおりである。
「うちに来ていただけないのは、あなたがロンドンに戻った理由に触れるからですか?」
僕の問いにセラはゆっくり頷いた。
「ええ……。やっと宿題の一部を終えられたのだもの。ちゃんと自分の足で立ってからあなたたちと過ごしたいの。だからもう少し待っていてね」
儚げながらもけして折れない柳のようなセラの粘り強さに、僕は内心で息を吐いた。
セラの宿題とは、ロンドンで病に臥せる父親のもとに赴き、過去に犯した罪を認めさせて高橋要に明かし立てることだ。彼を怒りと執着から解き放つ――それができてはじめて拓巳くんの母として生きる資格を得る。彼女はそう思い定めている。
それは拓巳くんを高橋要から救いだし、守り育ててくれた真嶋さんへの、彼女の精一杯の証立てにほかならない。
その気持ちは尊重したいが、こちらにも事情がある。
Gプロにとって、稼ぎ頭である〈T-ショック〉のボーカルで、今なおモデルとしても高い評価を受けるタクミの価値は大きい。
そのタクミに対し、数々の問題行為を仕掛けてくる実父の存在は最大の懸念で、彼が絡んでくるとわかった以上、タクミが母と認めた女性を放置するわけにはいかないのだ。
『申し訳ないが、なんとしても彼女を我々の保護下に置き、あの厄介な御仁から切り離しておかないと安心して眠れないのだよ』
とは、改めての説明を受け、高橋要の人となりを詳しく知ることとなったGプロ社長、後藤守氏の言である。
それを受け、セラの退院後の居場所について、僕たちはスタッフも交えて何度も話し合った。
セキュリティのレベルが高く、なおかつ彼女が承諾しそうな落ち着き先となると、うちか俊くんのマンションが候補になる。とはいえ拓巳くんに不幸をもたらした責任を取ろうと努力している人なので、今の状況ですぐにこちらの庇護下に入るとは考えにくい。現に俊くんがそれとなく打診してみたものの、セラは辞退したという。
「おまえから言ってもらうのが一番のようだ」
俊くんから託され、アプローチしあぐねていたところに今回の事態となり、沖田さんの「これはいい機会です。思い切って現状を訴えるべきではないでしょうか」との言葉に背中を押されて覚悟を決めたのだ。
期日は待ったなし。セラさんの希望に添えないのは心苦しいけど、他に手がない。
僕は外堀から埋めはじめた。
「大学講師の籍とは、旭峯大学の横浜校舎にある教育学部音楽科の声楽講師のことでしょうか」
「そうよ。知っていたの?」
「いえ。住吉先生に教えていただきました」
住吉副理事は複雑そうな顔で「本当は入学式であなたたちを引き合わせて、驚かせてあげるつもりだったのに」と言っていたものだ。
その台詞からも、本来ならセラはロンドンで葬儀を終えたのち、まっすぐ横浜に来るつもりでいたことが窺える。ところがあの男がしつこく追ってきたせいで僕たちに何かあってはと心配になり、連絡する機会を逸してしまったのだろう。
「では、僕が同じ旭峯大学の経済学部に進学することはご存じですか?」
「経済学部?」
セラは目を見開いた。
「旭峯大学だとは聞いていたけれど、世田谷校舎の芸術学部だとばかり……」
「詳しいことは省きますが、僕は心因的な問題から絵を描くことが難しくなってしまい、Gプロで準社員として働きながら経済学部に入学することになりました。つまり同じ校舎に通うわけです」
「まあ…、……」
事の重大さが伝わったか、セラは口元に手を当てて言葉を途切れさせた。
「当然、顔を合わせる機会が増えるということで、僕には嬉しいことです。でも今のセラさんには心配のほうが先に立つのでは?」
「…………」
セラが思わずというように目を伏せ、僕はここぞとばかりに畳みかけた。
「単刀直入に言います。あの男の態度から察するに、セラさんは今、自分が思い描いた生き方を脅かされつつありますね? 彼は引き下がったわけではなく、近いうちにまたあなたの前へ現れるはずです。何があったかは聞きませんが、この状況での一人暮らしは家族としても、またGプロとしても看過できません。どうか僕たちのところに来てください」
「……、……」
セラは絶句したように僕を凝視すると、やがて深いため息をついた。
「……ロンドンに戻って、母とともに要さんを病院へ案内したとき、父はすでに痴呆が進んでいて会話にならなかったの」
えっ……。
会話の急変に戸惑う。
セラの青みがかった薄茶色の瞳が色を深くした。
「母の証言で、失踪の経緯が間違いなく父の策略だったことは伝わったのだけど、とうとう父の口から真実を語らせることは出来なかった」
その言葉で彼女がロンドンでの日々を語るつもりなのだと気づき、僕は姿勢を正した。
「言葉を紡げなくなった父を、あの人は週に一度訪れるようになった」
「週に一度?」
「ええ」
セラは僕の背後にあるガラス窓に目を向けた。
「徐々に衰える父を、あの人はただ静かに見つめていた。そして自宅に帰る私を車で送るようになった。私は以前、働いていた大学に復帰して、声楽講師をしながら母の待つ実家と病院を往復し、たまにあの人の誘いを受けて、近くの公園の屋台で食べ物を買って一緒に食べた」
不思議に穏やかな日々だったわ、とセラは薄く微笑んだ。
「時折来るあの人を交えながら、このまま母と二人穏やかに過ごせるのなら、これもまたひとつの生き方のように思えたわ。けれど八ヶ月後に父が亡くなって、葬儀の手続きに追われている最中に母が突然、倒れたの」
「そうだったんですか……」
本当に急なことだったのだ。
セラの顔が曇った。
「母はでも、以前から心臓が弱っていることを知っていて、私に自由に生きるように言った。『もう我慢しなくていいから、この先はあなたの望むようにして、自分の人生を取り戻しなさい』と」
僕の脳裏に、優しげでありながらも芯の強い老婦人の姿が浮かび上がった。
きっと苦難を受けてきたセラさんへの、最後の願いだったに違いない。
彼女も同じ思いを抱いたのか、青みがかった瞳を僅かに潤ませた。
「私の望みはただひとつ。声楽講師を続けながら、あなたたちを見守って生きること。だから母が亡くなったあと、あの人にこれからのことを聞かれたとき、横浜に帰って静かに暮らすつもりだと答えたの。あの人はそうかと頷いて、家の処分や手続きを手伝ってくれた。てっきり私が一年前の暮らしに戻ることを理解してくれているのだと思っていたのだけど……」
「違ったんですね?」
彼女は頷いた。
「あなたたちに連絡するときは、すべてが片付いてからと決めていたのだけれど、京子にだけは報告していたの。彼女は私の希望を知っていたので、前と同じ職場へ復帰する手筈を整えてくれていた。だから帰国の準備が進んだところで、彼女に手続きをお願いしようと電話して……」
セラはそのときのことを思い出したように、華奢な肩を縮めて俯いた。
「あの人はそばでそれを聞いていて、途中で通話を遮った。驚いて理由を聞くとこう言ったの。『働く必要はない。声楽をやりたいのなら私が出資する。君は好きなだけ音楽に触れて過ごせばいい』と」
「それは……」
あの男が若かった頃、セラに伝えた台詞ではなかったか。
セラもわかっているようで、僕に向けて頷いた。
「あの人は、ずっとそれを頭に置いていたのね。もう遥か昔に描いた夢を。でも、私は……」
彼女は再び俯き、僕は経緯を理解した。
そうか。きっとセラさんは自立して仕事を続けたいと訴えたんだ。けれども要は受け入れず、自分の描く夢に固執した。だから彼女は帰国しながらも僕たちに連絡することができなかったんだ。
その推測を肯定するように彼女は頭を下げた。
「ごめんなさいね。連絡もしないで来てしまって。あの人を説得してからと思っていたのに、こんな形で迷惑をかけてしまうなんて。……できればちゃんとしておきたかったのだけど、あなたに万一のことがあってはいけないわね」
どうやらわかってもらえたようだ。
「すみません」
ホッとして頭を下げると、微笑んだセラはこう続けた。
「私は横浜を離れましょう。世田谷の芸術学部にも音楽専科があるから、そちらで働けないか京子にお願いしてみるわ」
え、ちょっと!
「待ってください。なんでそうなるんですか!」
セラは不思議そうな顔になった。
「それはもちろん、要さんがどんな行動に出るかわからないからよ。せっかく拓巳への執着が薄れてきているようなのに、あなたを巻き込んでしまったら台無しでしょう?」
それはその通りなのだが、突っ込みどころも満載である。
拓巳くんや僕によくても、セラさんが犠牲になったらダメじゃん!
「セラさんのお気持ちは尊いですが、大事なことを忘れています。あなたが世田谷へ移っても、そこで高橋要に付きまとわれたら意味がないじゃありませんか」
「えっ……」
なぜ? という顔をされ、僕は前のめりになって訴えた。
「僕と拓巳くんにとってあなたはすでに家族ですよ? それなのに一人にして、もし強引に連れ去られでもしたら僕たちは悔やみ切れません。自責の涙で溺れます」
「そんな、あなたたちに責任なんて」
「立場を逆にして考えてみてください! セラさんだって同じように感じるのでは?」
「…………」
「それに一年前、あなたは拓巳くんに約束したでしょう。すべて終わったら帰ってくると」
「でもそれは」
「あの男を拓巳くんから引き離すために、ロンドンにいるお父さんに引き合わせて真相を明かす。話を聞く限りそれはちゃんとやりとげましたよね? 思うような結果にならなかっただけで」
「…………」
「セラさんの想いに対するあの男の答えは先日のとおりです。『何もしなくていい。働く必要はない。養ってやるから来い』と。あなたはそれを受け入れることができますか?」
「それは……、」
セラ再び絶句し、僕はそうですよねと頷いた。
「あの男は変わらない。彼にとって僕と拓巳くんが所有物であるように、セラさんもまた同じです。それを退けるにはうまく立ち回らないといけません。まずは僕たちのところに落ち着いて体調を整えてから、どうするのが一番いいか考えましょう」
「……でも……、……」
セラはなおも眉根を寄せ、逡巡しているようだった。高橋要を退けられないまま僕たちのそばで暮らすのが怖いのだ。
そこには真嶋さんへの思い――これを解決できないようでは拓巳くんの母親として認めてもらえない――という気持ちもあるだろう。
わかる。わかります。でも相手が悪すぎる。あんな自負心の塊みたいな押しの強い男、セラさん一人で拒むなんて無理です!
なんてサラッと言えたらどんなに楽だろう。でも僕だって自分の不甲斐なさに何度も悔し涙を流した身。気持ちは痛いほどわかるからそんなヒドいこと言えない。
とはいえこのまま押し切って一緒に暮らしたら、セラさんが落ち込んでしまいそう……。
社命と共感の狭間でどう言葉をかければいいのかわからなくなったとき。
「おい、なに考えてんだ。あんた一人であいつに立ち向かうなんて無理に決まってんだろ」
耳に馴染んだテノールの声にズバッと切り込まれ、僕は飛び上がりそうになりながら後ろを振り返った。
「拓巳くん! いつからそこに……っ」
いつのまに来ていたのか、室内用サングラスをかけた拓巳くんがドアの前に立っている。
「さっきからいたわ。ノックして入ったのにおまえが気づかなかっただけだ」
「えっ、それはごめんなさ……って、拓巳くん、仕事は?」
「雅俊に言われたことはやった。午後の分は智紀が調整中だ」
彼は艶やかな長髪をなびかせてツカツカと歩み寄ってくると、僕と反対側のベッド脇に立って偉そうに腕を組んだ。
「いいかセラ。相手が悪い。雅俊でさえ一対一じゃ厳しいんだぞ。あんたみたいなか弱そうな女に太刀打ちできるはずあるか」
さらにズケズケと言われ、セラが涙目になった。
「拓巳、でも……っ」
「でもじゃない。現実を直視しろ。この前のヤツの態度を見ただろう。あいつは欲しいとなったら奪ってでも手に入れる。本人の希望や意見なんて関係ないんだ」
どっちが年長者なのかわからないほどの見事な分析である。しかしなんとも言葉に遠慮がない。
やめてっ。セラさんがますます落ち込んじゃうよ!
これじゃうちに連れてきても萎れちゃうじゃないか、と頭を抱えたくなったが、拓巳くんはそこで話の向きを変えた。
「ヤツの要求を退けたいならガードを固めるんだ」
「ガード……?」
「そう。あいつはプライドがやたら高いから、人前で恥を晒すことを嫌う。人目のあるところではあまり強引なことはしない」
だからな、と拓巳くんはベッドの柵に手をついてセラを覗き込んだ。
「ヤツに意見を呑ませたいなら助っ人を頼むんだ。できればあいつが苦手なタイプをな。それにはまず仲間に助けを求めないと」
「助けを」
「そうだ。芳弘や祐司や雅俊……俺なんかしょっちゅう頼んでばっかりだ。けどそのほうが結局はみんなの負担が少なくて済むし」
「―――」
セラが考える顔になり、拓巳くんはさらに畳みかけた。
「俺たちは要のヤローに対して一蓮托生なんだから、一人で行動するのは厳禁だ。でないと雅俊や芳弘や祐司が困るんだからな。まずはうちに来て、落ち着いたらみんなで作戦を練るんだ」
「………」
「返事は?」
「……はい」
ええーっ! そこであっさり承諾って……っ。
僕の心の叫びをよそに、拓巳くんは満足げに頷いた。
「よし。じゃあ明日、迎えに来るからな」
そしてやはり偉そうな仕草で僕を手招くと「雅俊が隣に移ってきたから行くぞ」と言って踵を返した。
「あの、ありがとうございます。じゃ、また明日、来ます……」
セラに挨拶し、その後ろ姿を追いかけながら、僕は彼女との共通点を自分に見いだしていた。
もしかして。
僕のこの、強引な物言いで翻弄してくる相手に弱い性格って、環境のせいとかじゃなくて、遺伝かも……。