迷走のキャンパス(前編)
七月中旬を迎え、季節はすっかり夏だ。
今日も日差しは強く、猛暑日の様相を呈している。しかし夏休み目前の校舎内は館ごとに冷房が行き届き、和風レストランのような内装をしたこの第三食堂も快適で過ごしやすく、今日も食欲旺盛な学生たちに満足を提供しているのが見てとれる。
にもかかわらず僕の箸が進まないのは、けして学食メニューの一番人気を誇るAセット『地鶏唐揚げ定食』が口に合わないからではなく、先月のセラの付添人の件で、先方から難題を突きつけられたまま解決策が見出せず、そこに新たな問題まで加わって事態が混迷を深めているからだ。
「んで? 一言のもとに撥ね付けられたまま何の進展もなく、一ヶ月以上、過ぎたのにいまだ交渉は膠着状態が続いていて、しかも新たな問題まで発生している、と」
「そうなんだよね……」
Bセットメニューの肉団子を頬張る健吾に答えながら、僕は目の前皿に並んだ唐揚げを箸でつついてため息をついた。
「ごめんね。健吾にはまだまだ協力してもらうと思う」
彼が今日もこうして付き合ってくれるのは、哀れな僕をサポートせねばとの男気に他ならない。
頼もしい親友はよせよ、といった眼差しをよこし、箸をもつ人差し指の先を器用に振った。
「気にするな、和巳。慣れたことだ。……けどよ。高橋オーナーの性格を考えれば付添人の件は拒否られる前提の交渉かと思ってたんだけど。ここまでの長期戦は予想してなかったってこと?」
お茶で喉を潤す健吾に首をかしげられ、僕もとりあえず手前の唐揚げを箸でつまみ上げた。
「そうだね。そもそも初手を見誤ったのがいけなかったと思う。ガード役に文句をつけてくるのは予想したけど、まさか尾崎さんも問答無用で却下とは思わなかったから」
「そうかぁ? 綾瀬社長の部下っていってもオーナーにとっちゃ他人じゃん」
「でもまったく知らない人じゃない。綾瀬伯母の話では、その昔の尾崎さんはあの零史を凌ぐほど有名で、あの人からも一目置かれていたらしいんだ」
「ホストクラブ経営者としての評価ってことか」
「そうみたい。だから綾瀬さんには自信があったんだ。それなのに断られて、おまけに条件までつけられちゃったから……」
「『付き添いを二人にしたいなら親族限定』だったっけ。真嶋さんが大反対してんだよな」
「そう。それで綾瀬さんも意地になっちゃったんだよね」
「ああ、代案を用意したってやつ。けどそれも反対されて怒り心頭。まとまらないうちに問題が次々……って、そこんとこどうにかならんのかな」
「ほら、前からなんだかおかしい雰囲気になってるって優花から聞いてるでしょ?」
「おう。そもそもは綾瀬さんがセラさんにけしかけるようなことを言っただとかなんとか。そこから二人の間がおかしい方向に傾きだしたんだっけ」
「そう。それであの人と交渉した結果が条件付きだったから、真嶋さんは綾瀬さんが譲歩しすぎたと感じたんだ」
僕が口に放り込んだ唐揚げを咀嚼しながら言うと、健吾はコップをトレーに置いて肘をついた。
「あー。まあ、真嶋さんにしてみれば親族なんて全員人質候補だし。でもなぁ。二人のやり取りを見た拓巳さんが不安に陥って迷走中ってどんだけだよ。綾瀬さんの代案ってなんだったの?」
聞いてくれるか、健吾。
僕は厨房のおばちゃんたち(内装は和風レストランでも厨房スタッフは気さくなおばちゃんが多い)に、美味しいはずの唐揚げをため息つきで食べる非礼を心で詫びた。
事態が迷走するハメに陥ったのは、つまるところセラの望む話し合いに目処がつかなくなったからだ。
交渉を託してから数日経った週末。綾瀬さんは忙しい合間を縫って高橋要への電話連絡を取り付けた。
最初のやり取りでは、セラが直接話したいと言っていることは歓迎だったという。
「ようやく逃げるのをやめるか。綾瀬。あなたの助言だろう。感謝する」
そう受け取るだろうことを(しかも事実だ)察していた綾瀬さんは、最大限、それを生かして交渉する心づもりでいた。
「礼には及びませんわ。話し合いを言い出したのはセラ本人ですもの。まあ、さすがに芳弘さんが反対したから説得には協力したけれど」
「あなたの説得なら無下にはできんだろうよ」
「そこでなのだけど。彼女は父親の影響で、緊張すると男の方との会話がうまくできなくなってしまうの。だから付添人を同席させていただきたいわ」
「プライベートの話し合いにか。それは承諾しがたいな。いい歳をした大人が今後のことくらい当事者同士で話し合えなくてどうする」
「お気持ちはわかるけど、いきなりは無理よ」
綾瀬さんは、セラの家庭状況や植えつけられた恐怖を説明して訴えた。
「オースティン教授もあなたも稀に見る大柄な男性なのだから、そこは配慮してあげなければ。体が竦んで言葉が出ないのでは、ちゃんとした話し合いになどならないわ。しかも本人にはどうにもできないのよ? あなたにも困ることでしょう」
その意思が通じたか、そのときは彼も渋々承知したという。
「……いいだろう。付添人はあなたか」
「いいえ残念ながら。恥ずかしいけれど私では力不足よ。セラの言葉を上手に引き出すよりも、もどかしくて代弁してしまうわ。かといって、芳弘さんではあなたも承服し難いでしょうし。彼もそれはわかっているから祐司さんを指名しているわ」
「それもごめん被る。部外者である上に立場が問題だ。井ノ上の権力をチラつかせられては話し合う気も削がれるな」
ここまでは想定内だったので、綾瀬さんは余裕をもって話を切り出した。
「そう。彼なら拓巳も無条件で承諾するのだけど残念ね。では話し合いの進行役としてうちの尾崎を。彼のことはもちろんご存じだわね?」
「ほう。尾崎高志か」
「あと、護衛役として私のセキュリティを担当する中西。この二人でお願いしたいわ」
「二人? なぜだ」
「申し訳ないけれど、あなたは過去に色々な手を使って拓巳を脅かしていらっしゃるの。拓巳を説得するには二名が必要よ」
「話にならんな」
会話を打ち切ろうとする彼に綾瀬さんは食い下がった。
「あなたがこの話を拒否なされば、セラはもう二度とあなたと直接話す機会を持てないわよ。本当にそれでよろしいの?」
真剣に問われた要は躊躇したという。
「……いいわけがなかろう」
「でしたら多少は譲歩も必要でしょう。セラは希望をみんなに伝えることはできたけれど、交渉が実現できたのは拓巳が賛成してくれたからよ。彼の納得する条件が専門的なガードを含んだ二名なの」
「拓巳が?」
「そうよ。だからセラは、拓巳の心配を無視してまで自分の意思を通すことはしないわよ」
これだけは譲れないとの気迫が届いたか、高橋要は渋々といった声で答えたという。
「二名までは譲歩しよう」
けれどもすぐに「ただし」と続いた。
「プライベートであるべき話に立ち会うのだ。部外者は断固拒否する。親族から選んでもらおうか」
それは即ち僕と拓巳くんを指していると知れた。
「それは……、無理よ、要さん。拓巳と和巳では周りが承知しないわ」
「真嶋氏の反対か。それは君が説得することだ。親族から二名。これ以上は譲れん。今度はそちらが譲る番だろう」
もちろん君も親族に入るぞと言い置いて彼は電話を切り、以降は「人員が決まったらメールで知らせるように。それ以外は受け付けない」とのメッセージを送られ、電話をかけても応じる気配がない。仕方がなく綾瀬さんはその条件を持ち帰った。
当然、真嶋さんは反対した。
「親族だけでなんてただの嫌がらせだ。進行役はまだしも、ガードが専門職レベルでだめなら交渉なんて無理だ」
むろんそれを見越して言ってきたことが窺えるので、条件をさし戻せば話し合い自体が流れてしまう。そこで綾瀬さんは後日、僕を個別に呼んだ。
「このままでは埒が明かないわ。和巳。あなたの意見を聞かせてちょうだい」
僕にとって、拓巳くんの保護者たる二人がギクシャクしている状況は結構イタい。そこで言葉を選びながらも真摯に答えた。
「僕個人としては、一度くらいはセラさんにも気持ちを伝えるチャンスがあっていいんじゃないかと思っています。根本的な解決がなければいつまで経っても話が終わらない。それは僕たちにとっても不幸です」
「そうね」
「このまま避け続けて事なきを得ても、またいつか彼は仕掛けてくるでしょう。そのたびにセラさんが責任を感じて過ごすことになるのでは、いくら住まいが安全になっても気持ちよく暮らせないと思うんです。だって僕たちは繋がってるんですから」
少なくはあっても、セラと交流したことで僕と拓巳くんは家庭的な喜びを得たのだ。
「僕が役に立てるかはわかりませんが、なによりも僕たち自身のためにセラさんの問題を解決したい。けど……」
思い出すのは約二年前、まんまと填められてセラともども監禁されたときのこと。あのとき味わった屈辱もさることながら、拓巳くん、真嶋さんにもまして今もなお後悔を抱き続ける俊くんの涙。
「二年前のようなことが二度とあってはならない。僕を愛してくれている人たちは、そこは絶対に譲りません。強力なガード役が一緒でなければ承諾はしないでしょう。また僕も、みんなの心を無視して協力するのは難しいです」
僕が傷を受ければそれは拓巳くんと俊くんのダメージに繋がる。これ以上、彼らに負担をかけることは絶対に避けたい。
「真嶋さんがもし強く反対すれば、拓巳くんもセラさんの後押しが難しくなります。だから可能性を探るならガード役の条件です」
この人であれば和巳を付添人にしても大丈夫――真嶋さんがそう思えて、かつ高橋要が納得する人物を探さなくてはならない。
僕にはそれ以上のことは言えなかった。
綾瀬さんは「やはりあの人がネックね」などと不穏なことをつぶやき、こちらにやや身を乗り出して聞いてきた。
「あなた自身はどうなの? ちゃんとしたガードがいれば進行役を務められる?」
僕は少し考えてから答えた。
「話し合いをコントロールするというのは、まだ僕では力不足でしょうが、セラさんの言葉を邪魔させずに伝え切るお手伝いならできるんじゃないかと思います」
「そう」
その意見をどう捉えたのかは知るよしもない。
それからしばらくののち、綾瀬さんは仕事の打ち合わせに来た真嶋さんにこう言った。
「私と和巳で行くわ。セラと和巳の安全は私の名にかけて保証するから安心なさって」
「ええっっ‼」
当然、驚いた真嶋さんは止めにかかった。
「やめてください、綾瀬! あなたを巻き添えになんてもっとできない」
「あら。巻き添えなどではないわ。当事者の一人よ。しかも積極的に支援しているのだからむしろ適任でしょうに」
「万が一、向こうが強行手段に出たときに無事を確保するための護衛役でしょう! あなたの腕力でどうやって二人を守るんです!」
かくして押し問答になり、話が一向にまとまらないまま今日に至っているのだった。
「……なんと鬼畜な」
最後の茶を飲み干した健吾がやれやれと首を横に振った。
「祐司さんがだめだから綾瀬さん。真嶋さんでなくとも止めるわな。なんだってそんなこと言い出したんだ」
僕も最後の唐揚げを飲み下してから答えた。
「綾瀬さんが言うには、『ようするに三人の安全が確保できればいいのでしょう』ってことで」
つまり手を出すわけにはいかない者がそばにいればいいのだと綾瀬さんは言った。
「業界の実力者である綾瀬さんに手を出したら痛い目を見るのはむしろ高橋オーナーのほうで、自身の商売に悪影響が出るだろうって言うんだよ」
「なるほど。確かに綾瀬さんなら言えるセリフだな。ファッション界の女帝に出てこられたら無事に帰すしかなくなるというわけだ」
「綾瀬さんは、セラさんを後押しする立場としての責任も果たせるし、僕やセラさんを守れるしで一石二鳥だっていうんだけど……」
目を泳がせながら語尾を濁すと、健吾が「ははは」と悟った様子で腕を組んだ。
「真嶋さんとしては、それは承諾し難いな」
俺だって優花が付き添うとか言い出したら止めるわと健吾は続け、僕も同感だと頷いた。
真嶋さんにとって、綾瀬さんはただの仕事相手ではない。長年想い続ける心の伴侶なのだ。それは彼女も同じはずなのだが。
「今、ちょっとギクシャクしてる上に、綾瀬さんは有能な経営者だから理屈に合わない意見を言っても切り捨てられちゃうでしょう? だから『反対なさるなら、私の提案のどこに問題があるのか合理的な理由を示して下さる?』なんて聞かれた真嶋さんはすぐには言い返せなくて、結局『危険すぎるからです!』なんてショボいセリフしか言えなかったんだって」
「あの真嶋さんが」
「そう」
冷静、沈着。危険になればなるほど冴え渡る〈鋼鉄の理性〉。二十歳そこそこにはすでに献上されていたという異名も、綾瀬さんの前では雪のように脆かった。
「おまけにその日の夜、うちにスッ飛んできて、拓巳くんと僕に話してから『絶対に承諾しちゃダメだよ!』って詰め寄っちゃって」
「ゲッ、……その展開はまさか」
察してくれたか健吾。
「そう。次の日に綾瀬さんが拓巳くんの意見を聞きに来たもんだから、拓巳くんが挙動不審になって思いっきりバレた。で、余計こじれちゃった。お陰で責任感じた拓巳くんが『自分も何かしないと』って思い詰めたあげく斜め四十五度の行動に出たと」
「あちゃぁ……そうか、だから今の状況になったのか!」
さすが竹馬の友。わかってくれたか。
「それでいまだに解決の目処が立たなくて現在に至ってるの」
どころか新たな不安材料が増えてしまった。
「なるほど。それじゃ唐揚げも食べにくかろう」
あ、やっぱりバレてたか。
僕が頷くと、頼もしい親友は胸を張った。
「大丈夫だ、友よ。この学校には高レベルの耐性を持つ同窓の先達が各所に生息している。彼らの力を借りて乗り越えれば、また新たな道が開けるかもしれない」
「そ、そうだね。でもいいのかな。こんなに甘えちゃって」
「それは大丈夫だ。先輩方からも了解は得てるからな。ぼちぼち来る頃だから行こうぜ」
希望を持て、ありがとう、などと言葉を交わしつつ僕たちはテーブルから立ち上がり、目の前の課題に向き合うべく食堂を出た。
第三食堂から伸びる通路を進んで遊歩道に近づくと、垣根のそばからひょろりとした痩せ型の男子学生が現れた。
「あ、いたいた」
健吾が軽く手を上げて合図をすると、あたりを見回した彼は目を留めて破顔した。時間は午後の一時十分前。予定通りだ。
「やあ、健吾、高橋君。お待たせしちゃったかな」
彼はおっとりとした足取りで近寄ってくると、セルフレームメガネの奥の目を眩しそうに細めた。僕は拳ひとつ低い男子学生に頭を下げた。
「お世話になってます、西名さん」
彼の名は西名歩夢。僕たちと同じ旭ヶ丘学園出身で、理学部の三年生だ。といっても知り合えたのはひとえに運と偶然の賜物で、前から面識があったわけではない。
彼は僕に頷くと、健吾に親しみのこもった笑顔を見せた。
「今日は健吾も一緒なんだ?」
「はい。桜木町でライブなんで午後の講義は入れてません。和巳たちと一緒にここを出たら俺はライブハウスに直行して準備します」
「あ、そっか。じゃあまた酔っ払った祥を迎えに行かなきゃだ。夜にまた頼むね」
「こちらこそ。お待ちしてます」
そう、彼は健吾のバンド先輩である佐伯祥の友人にしてご近所の幼馴染み。ちょうど僕と健吾のような付き合いをしてきた仲なのだという。
いまやキレキレのロックボーカリストとして学内でも人気が高い祥先輩の親友にしては、なんとも線が細く地味なのだが、彼の得がたさは中身だということを僕や健吾はすでに理解している。仲介した形の祥先輩は、普段、周囲に侮られ気味だという親友が正しく評価されたことを喜びながらも、
『あのよ。一応、俺の大事なダチなんで。あの人に生気を吸いとられないよう気をつけてくれよな?』
と複雑そうな顔で健吾にこぼしたという。まあ、無理もない。
「じゃあ行こうか。今日は南校舎の部室に隠したんだ」
「ありがとうございます」
西名に案内され、僕たちは遊歩道を歩き出した。
見慣れない建物の中庭を抜け、さらに奥まった建物の廊下に出ると、ゼミの出席者と思われる一郡に出くわした。
「お、西名」
そのうちの一人がこちらに気がついて声をかけてきた。
「今日はゼミじゃないだろ? 何してんだ」
他の数人がつられたように足を止める中、西名は彼に向けてニコッと笑った。
「勧誘」
その一言で彼らは身を引き、僕たちに気の毒そうな眼差しを向けてきた。
興味を失った女子たちが目の前を通りすぎていく。
「ねー、今日はいるのかなぁ。私も一回は目撃してみたいー」
「毎回毎回、噂だけだもんねぇ。それも旭ヶ丘の子が一緒でないと会えないって」
「ほんとにいるの?」
「らしいよ。来賓が使う車庫の中に愛車の白ベンツが停まってるみたいだから」
「えー。じゃ、なんで私たちは見かけたことすらないの?」
「ここが教育学部の校舎じゃないからでしょ」
いえ、教育学部に居るのは別のヒトです……。
とは胸の奥にしまうべきことである。
いいなー、教育学部の子たちはぁ~との女子たちの会話を聞き流しつつ前髪を下げて俯いていると、西名が「じゃ、いくね」と男子から離れた。
じゃあなと手を振る男子の目線に憐れみが混じっていて、僕は改めてそのカムフラージュっぷりに舌を巻いた。
あの女子先輩たち、真実を知ったら西名さんをスルーしたこと後悔するぞ……。
「ちょっと急ぐよ」
西名が前方から来るもう一郡の学生を示してから避けるように足を早める。僕たちは周囲を見る余裕もなく彼を追いかけた。細く狭い道のりがまたしても覚え切れない。これで三度目だ。
「さあ着いた」
笑顔の西名が狭い廊下の先にある扉を示す。地学準備室と書かれた扉の横には『昭和漫研サークル』との札が貼られていた。
「今日は漫研ですか」
健吾が西名に聞くと、彼は頷いて扉を開けた。
「お疲れ様ー」
西名が声をかけ、僕たちが「失礼します」と続くと、懐かしくも独特の臭いが嗅覚を刺激した。――墨汁だ。
「お疲れ」
「お疲れ様」
声はかかるものの、誰もこちらを向かないのは、それぞれが机の上の紙に向き合っているからだ。
昭和漫研サークルは昨今のイラストやグラフィックソフトを使わない、手書きにこだわった古き良き漫画を愛する皆さんが集うサークルである。
教室の半分ほどのスペースの中央には、背中合わせの机が五台ずつ、計十台並べられ、それぞれの席で生徒が製作に励んでいる。彼らはきたるべき夏の祭典に向け、共同作品を出品すべく追い込み奮闘中なのだという。
西名は彼らの邪魔にならないよう壁際を通って部屋の奥へと進むと、シートを敷いた床に作品を並べて覗き込む小太りの男子に声をかけた。
「お疲れ様、鹿取君。お客さんは?」
「あ? ああ、西名君。あのままだよ」
ふくよかな指が示す先には、たくさんの漫画が収納された本棚が二列に並んでいる。その奥に隠れる形で置かれた長椅子から足先が二本、はみ出していた。
僕は小太り先輩に頭を下げ、奥に踏み込んで声をかけた。
「お待たせ、拓巳くん。時間だよ。起きて」
足の主は一瞬、ビクっとし、次いで長椅子に伏せていた上体を持ち上げた。
「和巳。遅かったじゃんか。お陰でうっかり寝ちまったわ」
あなたが寝られるってすごいですね……!
僕は背中にかけてあったバスタオルを取り上げて畳むと、眩しげに目を細める西名に改めて頭を下げた。
「ありがとうございます。毎回すみません」
「どういたしまして」
じゃ、今度は向こうの校舎ね、と指差す小さな窓の向こうには、教育学部の裏側にあたる木立が見える。
僕はお願いしますと返し、まだ眠たげな美貌の主に伊達メガネをかけさせてから、健吾と前後を固めて西名の後ろに従った。
細い裏路地に似た建物の脇を抜け、迷路のような裏庭を導かれて校舎の裏側のドアに行き着く。そこから一列に並んで職員用通路と見られる廊下を進むと、合流地点の中央廊下のほうから複数の女子の声が聞こえてきた。
「じゃ、蒼先生はまだなんですか?」
「そうだな。まだ行ってないな」
「えー、じゃあ今度行きましょうよ。デザート美味しいですよ」
「モンブランなんて絶品です」
教育学部の生徒だろうか、見知らぬ女子たちの質問の声に、耳に馴染んだ低いアルトの声が答える。
西名がサッと壁に身を寄せたその隣から様子を窺うと、案の定、僕たちを横切る形で廊下を進む集団の中に見慣れた姿があった。
細見中背、緩く纏めて後ろに垂らした天然ウェーブの髪。銀フレームの眼鏡でも隠せない、華やかさと少年の清涼さを兼ね備えた中性的な美貌。デザイン科特別講師の肩書きを手にした小倉蒼雅――蒼講師だ。
シルクシャツに白いデニムといった出で立ちで、取り囲んだ女子たちがいつもよりおしゃれ(張り切ったんだろう)なので同世代に見えてしまうが、一応、今の立場としては講師と受講生のはずである。
キャッキャとはしゃぐ女子の集団を引き連れた俊くん――もとい蒼先生が通り過ぎると、僕や西名を押し退けて壁際から伊達メガネの顔を伸ばした拓巳くんが歯軋りした。
「……なんであのヤロウが堂々と廊下歩けるのに、俺はダメなんだよ。おかしいだろ!」
今にも飛び出して追いかけそうな拓巳くんの肩を、僕は慌てて押さえた。
「仕方ないでしょ! っていうか立ち入り許可もらっただけでも感謝して」
西名さんがいなかったらそれも無理だったよ! と圧し殺した声で言うと、拓巳くんはチラッと西名を見、チッと舌打ちしてから渋々といった体で顔を引っ込めた。
いったいナゼこんなことになったのか。
話はセラの移動先のマンションへ俊くんと二人でお邪魔した三週間ほど前にさかのぼる。
「所持品が紛失?」
困惑気味のセラの話に、僕たちは警戒心を刺激された。
「キーホルダーやストラップが少なくとも三日前から、ですか?」
俊くんの言葉にセラは肩を縮めた。
「私のうっかりかもしれないのだけど……」
ひとつひとつは些細なものだったので、すぐには気がつかなかったという。
「だけど、バッグにつけてあったストラップは、簡単には落ちないと思って」
「ストラップ?」
「ビーズのストラップなの。小さいけれど生徒の手作りで。好きな水色だったからいつも目に入っていたのだけれど、不意になくなってしまったものだから」
講義をこなし、一日を終えたら無くなっていたというのだ。
「学長に報告は?」
「いいえ。あまりに些細なものばかりだから、わざわざ言うほどでもないと思って。けど……」
どんな小さなことでも日常に変化があったら必ず報告するようにとの、真嶋さんや綾瀬さんの言葉が頭をよぎったという。
「見逃したせいで大事になって、お二人に迷惑をかけてはいけないけど、こんな小さなことを報告するのも気が引けて。あなたたちに相談してからと思ったの」
「賢明な判断です」
俊くんはしばらく様子を見てまた紛失があったら連絡をくれるようセラに指示を出し、案件をうちに持ち帰って真嶋さんたちと協議した。
「盗撮の件からも一ヶ月経ってる。セラに何かアクションしようとする動きがあってもおかしくない」
リビングのソファセットを囲む中、俊くんの言葉に頷きながらも真嶋さんは意見した。
「何かある。それはわかる。問題は誰が、何の目的でということだね」
「要のヤローの嫌がらせじゃないのか?」
拓巳くんの質問に真嶋さんは頷いた。
「そうだね。セラさんの身辺を騒がせて大学に居づらくさせるために、零史あたりが学生を操った可能性はある。けど彼女個人に対する生徒の仕業かもしれない。線引きが難しい」
「学生を疑ってるのか?」
俊くんの質問に、真嶋さんは人差し指を立てて左右に振った。
「大学には色々な種類の人間がいるからね。彼らの中に彼女を見初める者がいて、迷惑行為に走ったという可能性もある」
「例のブログのことは関係ないのか」
足を組んだ祐さんの声が重々しく響き、真嶋さんが難しい顔で顎に手を添えた。
「そこも含めてのことだよ。ブログを見て、画像の女性とタクミが血縁らしいと〈T-ショック〉ファンには知れ渡った。その結果、このマンションの出待ちする子はいっとき増えたよね」
こっちが仕向けたのだから当然だ。そこに盗撮男が加わってしまったわけだが。
「綾瀬の進言があったから、あれ以上の発信は控えたけど、すでに見た人の中に旭峯大に通う子がいてもおかしくないし、セラを見かけて気づいた子もいるかもしれない。SNSを見てついアクションを起こしてしまったという可能性はある」
「まあ、それはある意味想定してたよな」
「そう。ファンの目の中にセラを入れ、より危険なものからの襲撃に備えようとしたわけだよね。だからこの件は、表だって追求できないかもしれない」
「そうだな……」
犯人を特定し、公にすることで、セラの周囲に巡らそうとしたファンの目という『盾』が、『腫れ物扱い』という名の無関心に転じてしまうかもしれない。
「セラさんの立場では、旭峯大学以上に理解やセキュリティが得られる職場なんてないだろうね。だからここの学生さんに対して傷を与えるような行動は控えないとまずい。いくら大学にも権限を持つ住吉副理事が庇ってくれても、職場のトップである学長に煙たがられたら働けなくなるよ」
たとえ学生ファンによるセラへのストーカー行為だったとしても、事を公にしての犯人探しは控えたほうがいいということだ。
「…………」
拓巳くんがムスッと黙り込む。僕も気が咎めてしまった。
拓巳くんのファンによる行動がセラへの迷惑行為に発展したかもしれない。そして拓巳くんが芸能人を続けている理由はつまるところ僕を守って養うためだ。
ああ、早く一人前になって、せめて自分で自分の身を立てたい。
唇の端に歯先を食い込ませていると、俊くんが僕の肩をポンと叩いて撫でた。
「そんな顔をするな。それこそセラに失礼だぞ。彼女は拓巳の母親でいたいからこそ今の生活を選んでるんだからな」
そして真嶋さんに向けてこう言った。
「紛失の件の解決に繋がるかはわからないが、今のおれたちにはあの大学に通う人間を一人でも多く味方につけることがポイントだと思う。実はひとつ提案されていたことがあって」
「提案? 大学側からかい?」
「ああ。教育学部の芸術学科の講師として誘われているんだ。単発でもいいからって。今回、それを受けようと思ってる」
「ええっ!」
僕が驚くと同時に拓巳くんの声が上がった。
「なんでおまえだけ!」
俊くんは口角を上げて答えた。
「そりゃ、おれの人柄と才能の賜物だろう。学生に伝えてほしい技があるってことだな」
「お、俺だって歌なら歌えるし!」
「おまえは自分の才能を他人にレクチャーできるのかよ」
それ以前にビシュアルの問題でマトモに受講できる生徒がいないだろう。
「……っ」
膨れっ面になる拓巳くんに危険を感じたか、真嶋さんが割って入った。
「でも雅俊。君は最近、体調が不安定だって和巳から聞いてるよ。これ以上、仕事を増やすのはよくないんじゃないのかい?」
俊くんは僕をチラッと睨んでから答えた。
「体のことは心配ない。検診は受けている。講師の件は、別に無理してやるんじゃないんだ。どっちかっていうと環境を変えて刺激を受けるため、かな」
「刺激だと?」
拓巳くんが眉根を寄せると、俊くんは口元を綻ばせた。
「大学ってところに興味があるというか。今までずっと突っ走ってきたけど、おれは通信制の大学で単位を取っただけだからキャンパスってやつを知らないんだよな。和巳もいることだし、せっかくの機会だから、ここでちょっと仕事のペースを落とすのもいいかと思ったんだ」
僕は思わず聞いてしまった。
「じゃあ〈T-ショック〉のアルバムや絵画展は急がない?」
なにしろ彼は思いつくと作りたくなってしまうので常にオーバーワーク気味で、最近はちょこちょこ熱を出すので心配していたのだ。
「そうだな。二十周年のイベントも終えたし。拓巳のアルバムの段取りはつけるが、他はもっとじっくり腰を据えるのもいいかな」
拓巳くんのシングルは二曲を追加し、昔の曲をリメイクしたものと合わせてアルバムになる予定だ。リメイクが入った分、負担が少ない。
僕は肩の荷が下りた気がした。
どんな心境の変化かわからないけれど、とりあえずペースを緩めてくれるなら大歓迎だ。
同じ思いでいたらしい真嶋さんが大きく頷いた。
「そういうことなら賛成だよ。セラさんも安心して過ごせるね」
その言葉が嬉しかったか、俊くんが破顔した。
「講師として学内に入れば生徒や教員たちと親交が深まる。周囲の目がこっちに集まればセラへの迷惑行為も止むかもしれない。もしまだ狙っていたとしても、おれが警戒していれば防ぎやすいと思うんだ」
「そうだね。祐司はどう?」
「ああ。悪くない」
頷いた祐さんに俊くんの言葉が重なった。
「よし。じゃ、さっそく学長に話を通して、段取りを進めることにする」
そのときの僕たちは、ひとまずセラの問題に手が打てることへの高揚感で目が曇ってしまった。
加えて僕は、学内で俊くんと会えるかもしれない喜びで箍が外れてしまってもいたのだろう。だから講師の着任手続きが整って出勤日が決まる中、約一名がやけにおとなしいことに対する警戒心を怠ってしまったのだった。




