タワービルの根元で
正方形のテーブルの四方にそれぞれ一人ずつが席に着いた状態で、落ち着かない気分で色ガラスの窓から外を行き交う人影を追っていると、右隣の零史が思い出したように言った。
「それにしてもさっきのユージの迫力ときたら。さすがの私もちょっと引いたよ。要さんからチラッと聞いたけど、君は本気で井ノ上の養子に入るのかい?」
さぞかし窮屈だろうと笑われ、僕はムッとして答えた。
「あなたには関係ありません」
「そんなことはないだろう。私は君の祖父、高橋オーナーの筆頭部下だ。彼が孫に感心を向けるからには準じないとね」
「そうですか」
「だから令夫人と孫の配偶者候補に便宜を図るのも当然のこと。買い物があるのでしたら遠慮なく私を使ってくれて構わないんですよ」
後半は正面のセラに向かって言われ、僕は断ち切るように身を乗り出した。
「セラさんはあの人の奥さんじゃありませんし、先輩は付き合っている人がいらっしゃいます。失礼なことは言わないでください。そして今日は時間がなくなってしまったので、沢村さんに気遣っていただかなくても結構になりました、とさっきから言っています」
「おや。夫人は仕事中じゃなかったのか? 買い物のあとは世田谷校舎に行くのかと思ったんだけどね」
「………」
どうやら行動範囲は把握済みらしい。
ってことはやっぱりセラさん狙いか。
「どうしてあなたがセラさんの仕事まで知っているんです。調べたんですか?」
零史は得体のしれない笑みを浮かべた。
「さあ。要さんに聞いてもらえばわかるんじゃないかな」
あの男の情報網にかかるとかなりのことがわかってしまうようだ。
だとしても、彼には犯罪者の烙印は断じて受けないという一線がある。だからこそこちらにもやりようがあるわけで。
これはあいつとの根比べだ。諦めないぞ!
「妄執って恐ろしいですね。セラさんはとっくに飛び立っていらっしゃるのに、いまだに籠に入れて愛玩できると思っているなんて」
「あー、そのヘンは私も同感だね」
零史は切れ長の目をセラに向けて嘆息した。
「いったい何がよくて、あの人がこんな地味でひ弱そうな女に執着するのかいまいちわからない」
拓巳なら利用価値が高いからわかるんだが、とつけ足されてムッとする。
「失礼ですね」
「だってそうだろう。確かに顔立ちはまあ、整ってはいるが、そちらのお嬢さんのほうがよっぽど拓巳に似てる気がするじゃないか」
本気で疑問に思っているようで、僕は可笑しくなった。
見た目の印象に関しては僕も同感である。しかし。
「それは沢村さんが間違ってますよ」
「間違ってる?」
「あの人は、もともとセラさんのように優しくて控え目な人が好みなんです。父に執着したのは、セラさんそっくりなのに中身が真逆で反抗されたからです。許せなかったんでしょうね」
「………」
目から鱗が落ちたような顔をされ、溜飲が下がる。しかし零史はすぐに笑みを戻すと肘掛けに肘をついて足を組んだ。
「なるほどね……。だとしたらなおさら厄介だな。夫人のようなタイプは要さんのそばにはいない。あの人の執着は誰にも止められないってことになる」
「…………」
「彼はどうでも夫人を手元に置きたいようでね」
零史は冷めた目線をセラに向けた。
「上流のセレブにだって要さんを求める美女はごまんといるのに、あなたは何が不満なんだ。さっさと来てくれないとますます彼が挙動不審になってしまうじゃないか」
「わ、私は、要さんとは……」
「言いたいことがあるなら本人に言ってくれ。もうすぐ来るから」
「えっ?」
なんだって!
思わず零史を凝視すると、彼は足を組みかえてため息をついた。
「さっき連絡を取らせたのさ。『すぐ行くから待ってろ』って返信がきてね」
拗ねた子どものような口振りで上着のポケットのスマホをチラリと見せられ、僕はハッと気がついた。
「じゃ、お茶を奢れ、っていうのは………!」
時間稼ぎか!
「しょうがないだろう。私は彼の部下なんだから。命令に従うのが仕事なんだよ」
あのビルの出入り口だ。カウンターにいた男たちの誰かに指示したに違いない。だとしたら時間は。
「セラさん、稜先輩。ここを出ましょう」
レシートに手を伸ばして立ち上がりかけると、零史が僕を横目に見上げた。
「別に出るのは構わないが、よく考えてからにしたほうがいい」
親指が窓の外の人混みを指す。見ると道向かいの雑貨店の前あたりに、先ほどの男たちが見え隠れしていた。
「連中はあのパーティーを企画した組織の会員でね。君に聞きたいことがあるらしいんだ」
一瞬、心臓が動きを早める。
やっぱりあのビルは誠竜会絡みだったんだ!
「地下の遊び場で見た気がすると言うんだが、あのあと何かやらかしたのか?」
「…………」
カジノ会場の控え室から亜美を連れ出したあとで誠竜会の組員と遭遇したとき、僕だけは変装をしていなかった。あの男たちの誰かが僕を見かけたのだろうか。
「か、和巳……」
セラに不安げな眼差しで見つめられ、僕はやむを得ず椅子に座り直した。
落ち着け。カジノ会場で見られただけなら問題はない。下のフロアにいた組員はもう少し年上の、いかにも中堅といった男ばかりだった。さっきの出入口にいたような若い下っ端じゃない。
零史が満足そうに微笑んだ。
「そういえばあのとき、連中はちょっとバタついていたな。そのあとで焦臭い事件もあったことだし。もし関わりを疑われているなら気をつけたほうがいい。けっこう粗っぽい真似をする組だからねぇ……君を迎えに来るスタッフにも連絡してあげたほうがいいんじゃないか?」
とばっちりを受けてしまうかもしれないぞと言われて背中から冷や汗が噴き出す。
「その点、要さんが合流すれば安心だ。彼なら全員無傷でこの店を出られる。彼女らのためにも、スタッフは返しておとなしく待っているといい」
僕が言葉をなくしていると、横から稜先輩の圧し殺した声が飛んだ。
「さっき、あなたは彼らが自分の護衛役だと言っていましたが、それは嘘だったわけですね。そんな人に安心だと言われてどうして信用できますか」
零史は冷めた目つきで稜先輩を見据えた。
「気にくわない娘だな……顔が似てるからなおさら。黙らないとあの連中に君だけ連れていってもらうぞ」
「やめてください。先輩は関係ありません!」
つい声を上げてしまい、零史がこちらを向いた。
「そうか、関係ないのか。じゃあこんなところに引き留めているのは悪いじゃないか。先に帰してあげたらどうだ?」
「………」
一瞬、そのほうがいいかもと思ってしまったが、それはすぐに先輩の鋭い声にかき消された。
「お気になさらず。私は自分の意志で同席しておりますので」
零史に言い返しながらも目線はこちらに向いていて、僕の考えを否定していた。
そうだ。彼女は武道の師範。この状態で一人だけ解放されても喜ぶ人ではない。
かといって、このまま要が来てしまったらセラさんが連れ去られてしまう。だったら。
「……出ましょう、セラさん。申し訳ありません、稜先輩。もうすぐスタッフが来るはずです。セラさんを連れて合流してください」
僕が椅子から立ち上がると、稜先輩がテーブルに手をついて腰を浮かした。
「和巳君」
「あの男たちが目をつけているのは僕だけです。外なら逃げ道はたくさんある。このまま全員があの人に捕まってしまうよりましです」
「………」
「だ、だめよ、和巳」
セラが声を震わせた。
「あなたを一人にするなんてできないわ。そのくらいならここで要さんを待ちます。そしてあなたと須藤さんは帰してくれるように頼むわ」
「それじゃ意味がない。セラさんを守りたいんです」
僕なら大丈夫ですから、と続けようとしたそのとき。
「そういうかっこいいセリフは僕に言わせてくれるかなぁ」
ふいに斜め後ろから声がかかり、僕の肩に手が置かれ――。
えっ⁉
肩越しに振り返ると、そこには半年前に出会った小柄な男性の姿があった。
「幸司さん……っ!」
井ノ上幸司――財閥の重役を蹴って井ノ上家を飛び出した変わり種、祐さんの父親の幸司さんだ。
「やあ和巳。久しぶり。元気だった?」
相変わらず人好きのする笑みを浮かべ、前髪の銀メッシュ(白髪に見えない!)をなびかせてこちらを見上げる姿は、どこからどう見ても元気な四十代にしか見えない。珍しくビジネススーツを着ているのが前回との違いか。
なんで幸司さんがここに!
彼は僕から二人の女性たちに目線を移すと、右隣の零史で目を止めた。
「君が零史? ほんとだ。こりゃまた美形だねぇ」
まるで『このリンゴ、美味しそうだねぇ』とでもいうような軽い口調に零史の片眉がピクリと跳ねた。
「お……、あんたは、誰だ」
おまえと言おうとしたのを辛うじて飲み込んだのはさすがである。あの男の部下だけあって人を見る目が養われているらしい。
「僕? 僕は和巳の友達さ。えーっと、ついさっき祐司くんに頼まれて和巳を迎えに来たんだよ」
「なんだと?」
祐さんが言った迎えってGプロスタッフじゃなかったのか!
言葉を区切った幸司さんは「それよりさ」と僕との間を割るようにしてテーブルに手をついた。
「君、高橋要の部下なんだって?」
背中のあたりから物騒な気配が吹き上がり、僕は肩を押さえようとした手を引っ込めた。
「おまけにナニ? そばで聞いてりゃあ。あの男、和巳だけじゃなくて、元奥さんまで連れ戻したくて躍起になってるんだ。夢見すぎで笑っちゃうけど付き合ってらんないから。みんな忙しいんでこれで帰らせてもらうね」
「………」
軽い口調を裏切る覇気を間近に浴びたからだろう。零史は言い返すことなく押し黙った。
「じゃ、行こうか」
それを見た幸司さんはセラと稜先輩を立ち上がらせ、追い立てるようにして店から連れ出した。そして道向かいにたむろする白とキャメルのジャケットの男たちを無視して早足に歩き出した。
「よかったねぇ、僕が間に合って。専用の出入り口って向こうでいいんだよね?」
タワービルは目の前であり、専用ゲートも近いので、このまま突っ切る作戦なのかと僕たちも足を早めた。しかし「幸司さんはどうしてこちらに?」と質問する前に、同じく足を早めた男たちに行く手を塞がれた。
「おう。ちょっとそっちの背の高い兄さんに用があるん……って、おい!」
年上らしき白いジャケットの男が横柄な口調で言うのを、幸司さんは最後まで聞くことなく僕たちの背中を押してUターンさせた。
「バカと話すとバカが感染っちゃうからね。向こうから回ろうか」
うぇっ。
なんとも挑発的なセリフに男の怒りが爆発する。
「おいっ! チンクシャおやじがナメてんじゃねえぞ!」
ところが幸司さんの襟をつかんだ白ジャケットの男は、「あ、暴力だ」と手で払いのけられた瞬間、「グエッ!」と声を上げて脇腹を押さえた。
今、膝蹴りも出てたよねっ⁉
神速の蹴り技に稜先輩が息を飲み、後ろの男がギョッと目を剥く。
「むやみにつかまないほうがいいよ」
彼は軽快にステップを踏むと、口元でニヤッと笑った。
「この……、っ」
格の違いがわかったか、明らかに怯んだ男たちに、幸司さんは内ポケットから名刺らしき紙片を取り出して指先で弾き飛ばした。
「君たちが暴力的であることがわかっちゃったから、この先、彼に用がある場合はうちの弁護士を通してくれるかな」
そこに書いてあるからと言われて白ジャケットの男は足元に落ちたそれを見た。
「弁護士だと?」
幸司さんはポケットからガラケーのようなものを取り出して掲げた。
「そっ。こっちの彼は僕の大事な人の身内なんで。今の会話、記録したからね。今、言ったこと無視して彼に近づいたら、傷害容疑で君たちの親玉さんがとばっちり食らうよ」
「なんだと?」
「僕の友達から伝言。『首を洗って待ってろよ』だって。岡崎さんによろしくね」
岡崎って誰。
しかし男たちはハッとして身構えると、警戒した様子で聞いてきた。
「おまえはなにモンだ。友達ってのはいったい」
幸司さんは手をヒラヒラと振って答えた。
「友達? 塚田君って言えばわかってくれるんじゃないかな?」
あ、塚田って。
男たちにもそれで通じたようで「兄貴、どうします」と手下とみられるキャメル色のジャケットを着た男がそばに寄り、兄貴と呼ばれた男は眉を寄せて舌打ちをした。
「一旦、引き上げるぞ」
そして言いながら素早くかがんで足元の名刺を拾うと、彼らは足早にもと来たほうへと引き返していった。
「さ、長居は無用だよ」
幸司さんが再びくるりと前を向き、裏手にある専用出入り口へと向かう。目的のゲートが見えてきたところで、飛び出す勢いで出てきた沖田さんと遭遇した。
「幸司さん! 祐司君が呼んでくれたんですね!」
彼は緊張で強張っていた顔を崩して幸司さんに頭を下げ、「許可を取りつけてありますから、ひとまずこちらへ」と一同を誘導した。そうして僕たちは無事にセキュリティチェックの奥へと入ることができた。
〈T-ショック〉に割り当てられた控え室に落ち着いたあと、沖田さんは改めて幸司さんに挨拶をした。
「本当にありがとうございました。 僕は荒事に慣れてないので、お姿を見たときは地獄に仏の心境になりました」
「いやいや、ほんとにたまたま近くにいただけだから」
幸司さんが仕事でこの地にいたのはまったくの偶然だったようで、僕は幸運に感謝しつつセラと稜先輩を紹介した。すると彼は照れた顔でこう返してきた。
「こんな美人さんが二人も。なんだか眩しすぎて目がおかしくなっちゃった気がするなぁ」
「まあ、そんな」
柔らかい笑みで答えるセラに彼は感銘を受けたようで、二人で部屋を出てからもまだ感心しきりの面持ちでいた。
「人の印象って顔の作りじゃないんだねぇ。間違いなく拓巳くんと同じパーツなのに、あんなにもの柔らかな感じになるなんて」
「わかります。僕も初対面では気づけなかったんです」
そのときの経緯を話しながら廊下を曲がると、幸司さんは足を止めて僕に向き直った。
「仕事忙しいんでしょ? お見送りはここまででいいよ。出入り口はわかってるから」
僕は若干、ためらいながらも口にしてみた。
「あの、その先の角を右に曲がれば祐さんのいるスタジオに出るんです。もしよろしかったら……」
彼は祐さんをこよなく愛しているので、わざわざ時間を割いてくれたと思われる。せめて顔を見ていってもらえたらと思って言ったのだが、彼は薄く笑って手を振った。
「和巳に会えたから十分だよ」
二月の鎌倉での騒動のとき、彼が家族との間で、過去に犯した失敗を償うために、僕たちには近づかないと取り決めていることを知ったので、僕もそれ以上の言葉は控えた。
「わかりました。今日は助けていただいてありがとうございました」
深く頭を下げながら、祐さんに詳しく伝えなければと肝に命じていると、僕の肩を持ち上げて戻した幸司さんは真面目な顔でこう言った。
「ねえ和巳。塚田くんから去年の夏のこと少し聞いてるんで、一応、確認するね。さっきの連中、パーティー会場で見たか覚えてる?」
やっぱり。
塚田君とは塚田翔、去年の亜美の移籍が絡んだ事件のとき、協力してくれた真嶋さん懇意の警視さんである。彼はもとはといえば幸司さんの友人、大橋健二警視監の部下だった。
僕の顔を見た幸司さんはちょっとすまなそうな表情になった。
「ごめんね、変なこと確認して。翔くんがそこを気にしてるみたいで」
あの事件では、亜美を救出するために、裏で違法取引を行っているパーティーに出席して地下に潜入する必要があった。そのとき捜査を担当する塚田さんが入場チケットを用意し、見返りに祐さんが取引現場の捜査に協力したのだが、途中で僕と俊くんも巻き込まれてしまい、最後は亜美の産みの親で誠竜会の協力者だった女優、白川皐月に助けられて難を逃れた。その後、自首の意志を示していた白川皐月が不自然な衝突事故で亡くなったため、今もまだ捜査は継続中のはずだ。
「いえ。カジノ場は人が多かったのでわかりませんが、地下の取引現場では見かけていません。あの、幸司さんは塚田さんとは」
「うん。彼は僕の友達の弟分だから、こっちに帰ってくると三人で飲みに行ったりするんだ。で、君の話が出たものだから僕も気になってね。じゃあ、顔は見られてないんだね?」
「はい。僕が直接、喋ったのは地下にいた一人ですが、もっとガッシリしていて年も上でした」
「わかった。まあ、あれだけ脅かしておけば当分は大丈夫だと思うけど、もし何か困ったら僕に連絡してくれてもいいからね」
彼は「じゃ!」と手を振ると、つむじ風のように駆け去っていった。
控え室に戻った僕は沖田さんとこの先のスケジュールを確認し、収録に参加したクルーの中から手の空いた一人を選んでセラと稜先輩を託した。
「申し訳ありません、セラさん、稜先輩。会社の車で送りますので、今日は念のためこのまま帰宅してください」
「ええ。先方にはちゃんと断りの連絡をしておいたわ」
セラの傍らで運転手役の男を見た稜先輩は、滅多に見られない表情で物言いたげに僕を見た。
「あの、和巳君……」
「先輩。今日は本当にありがとうございました」
僕は素知らぬふりで先輩を促し、不思議そうにしながらも慎ましく黙るセラには『あとでちゃんと説明します』と耳打ちしておいた。
そうして収録もトーク終盤に差しかかる頃、僕はようやくスタジオにたどり着くことができたのだった。
◇◇◇
「ほんとに申し訳ありませんでした!」
Gプロビルの休憩室で青ざめた顔の橘に深々と腰を折られ、僕は慌てて肩を持ち上げた。
「頭を上げてください。僕に謝る必要はありませんから」
「でも、……っ」
なおも頭を下げる橘を広田が慰める。
「ま、まあしょうがないさ。車の事故は不可抗力のこともあるし。拓巳さんたちだってわかってるさ。ただ、今はちょっとだけ、その……」
だんだん尻窄みになるセリフに代わって沖田さんが声をかける。
「いやほんとに。車の事故は責任が伴ってしまうけど、その他のことは君が悪いんじゃないから。たまたまタイミングがねっ」
橘は顔を上げると、涙目で訴えた。
「沖田さん…、俺、このまま付き人やって大丈夫なんでしょうか……」
「も、もちろん大丈夫だとも! ねえ、和巳君!」
「は、はい、全然!」
「ほんとに? 拓巳さんに嫌われたりしてない?」
もちろん嫌われました。
とは口が裂けても言えない。
「今はホラ、気が立ってるだけですから。時間が経てば細かいことは忘れちゃいますので」
橘の悲愴な表情にやや明るさが戻る。僕は先ほどまでの騒ぎを思い出し、己の失態の罪深さに内心でため息をついた。
何食わぬ顔で収録スタジオに滑り込み、終わったあとの挨拶をこなしたまでは良かったが、問題はGプロの事務所に帰ってからだった。
「今日は迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした!」
警察から解放された橘が事務所の休憩室に飛び込んできたのは、ちょうど俊くんと拓巳くん、祐さんが椅子に落ち着き、広田と手分けしてそれぞれお好みのお茶や摘まみ菓子などを出して一息ついたところだった。
「ご苦労、橘。とんだ災難だったな」
「疲れたろ。体は大丈夫か? あとから出てくる場合もあるから無理するなよ?」
祐さんに労われ、俊くんに心配された橘は、涙をこぼさんばかりに感謝した。
「あ、ありがとうございます。俺……っ」
このとき、本当なら僕は直ちに橘を捕まえて休憩室から引きずり出し、事態の認識を確認してのち、この先を無事に生き抜くための知恵を授けなければならなかった。しかし滞りなく終わった収録にホッとし、また、緊張の連続だったあとの気の緩みもあったので、「皆さんに感謝しろよな」と駆け寄る広田を眺めながら、同僚っていいな、などとのんびり考えてしまった。しかしそれはとんでもない失敗だったのである。
「そうだ! 俺、沢村さんに連絡しなきゃ。拓巳さん! 連絡先を教えていただけますか?」
一瞬、反応が遅れてしまったのは、橘の言った名前が「沢村さん」だったからだ。
ただ一人『どうでもいいから早く帰らせてくんねーかな』との態度を垂れ流しながら、コースケさんからいただいた信玄餅なる山梨県の銘菓をつついていた拓巳くんも「は、誰?」という顔で薄い色のサングラス越しに橘を見た。
「話、まだ聞いていませんか? 車がぶつかった相手、すごくガラが悪くて、危うく金を巻き上げられるところだったのを、ご友人の沢村さんが助けてくださったんです。でも急いでたから連絡先を聞きそびれちゃって」
僕は一瞬にして目が醒めた。
「あのっ、橘さん!」
「橘」
祐さんも気づいたようで鋭い声を発したが、それはかえって残りの二人の疑念を深めてしまった。
「なんだ?」
僕と祐さんの顔を交互に見た拓巳くんは、野生の勘を発揮して立ち上がった。
やっ、しまった!
祐さんも己の失態に気づいて目を逸らしたがすでに時遅し。
「サワムラなんて知らねーぞ。そいつが俺の友達だって言ったのか? 」
「はいっ? あの、あれ? 沢村……じゃないんスか?」
あっ! もしかして拓巳くんは名字を知らないかも。
一瞬、希望の光が灯る。しかし俊くんがいたのが橘の不幸だった。
「サワムラ……沢村、ってまさか沢村零史か!」
立ち上がった俊くんが僕の顔を見、みるみるうちに青ざめる。そして拓巳くんの背後からはどす黒い殺気がほとばしった。
「おいっ! もう一度言え! そいつが事故の相手をなんだって⁉」
「あ、あの、だから助けていただいて……!」
拓巳くんに襟を締め上げられ、橘は涙目になって事故の経緯を説明した。
「零史はそいつらと知り合いだったんだな⁉」
「は、はい! あ、違う、彼らの上司? とかなんとかっ……」
「どっちだ! はっきりしろ!」
「す、すみませんっ!」
ぎゃーっ、待って! まずいからっ!
無論、祐さんもこれあるを予期して言わないでいたわけで、あとで内輪だけになったときに伝えるつもりだったのだろう。別に隠していたわけではないのだ。
「あのっ、ちょっと待って! その話はあとで僕がきちんと」
「和巳は黙ってろ!」
珍しい僕への叱責に橘の顔がひきつる。
「そんで? 貴様は和巳を零史なんぞに預けてさっさと離れたのか!」
「拓巳くん!」
僕は強引に割って入った。
「橘さんは『沢村さん』と初対面だってば!」
『沢村さん』を強調すると、拓巳くんが動きを止めた。
「沢村さんは、困っている橘さんを助けて、拓巳くんのことを親しそうに話したの! それで僕たちを送るから警察に行ってきなさいって勧めたんだよ。橘さんにしたら救いの声だよね。いかにもあの人らしいやり方でしょっ!」
なにも知らない橘さんを転がして、僕が困るところを見て楽しんでたんだよ!
「………、………」
言外の言葉を滲ませて目力を込めると、さすがに察した拓巳くんは押し黙った。けれどもそれが限界だったようで、「クソッ」とひと言吐き出すと、荒々しい足取りで出ていった。
一方の俊くんは、拓巳くんと違って怒りは露にしなかったが、強張った顔で僕に歩み寄り、確かめるように肩を撫でた。
「おまえは、大丈夫だったのか」
「うん。なんとか」
僕は拓巳くんがいないことを確認すると、声を潜めて幸司さんのことを打ち明けた。
「そうか。助かった……あとで感謝の電話を入れないとな……」
そして広田の隣で立ち尽くす橘を見、声をかけようと口を開いたが、すぐに断念して首を振り、宙に向かって声を絞り出した。
「悪い。ちょっと……頭を冷やしてくる。スケジュール確認は任せる。今日はご苦労だった」
あの……。確かに僕、いっときはヤバかったけど、無事だったんだからそんなに思い詰めたカオしないで……。
などと口に出せるわけもなく、「あとでまた、詳しく聞かせてくれ」と言うのに頷いて送り出しすしかできなかった。
「すまない、橘。気にしなくていいからな」
二人を見張るためだろう、祐さんもあとを追っていったので、休憩室には裏方スタッフだけが残ることになった。かくして二人の反応に恐れをなした橘が沖田さんに泣きつき、僕たちが宥めることになったわけだ。
「まさか沢村さんと拓巳さんが犬猿の仲だなんて思わなかった……」
詳しい経緯は省きながらも、実は昔から彼らは仲が悪いのだと聞かされた橘は、実感が湧かないッスよとつぶやき、それを聞いた沖田さんがちょっと姿勢を正した。
「たいそう美形な男性ですよね。僕はまだ画像でしか確認していませんが、それでも十分わかります。でも、見かけと中身は違う……これは彼だけでなく、芸能界には数多くあることです。見た目や表面上の態度に惑わされず、受け持ちのタレントさんの気持ちを第一に考える、それが僕たちの仕事です。気をつけていきましょう」
事情を明かさないように気を配りながら、穏やかかつピリッと辛味の効いた意見にまとめるところがベテランである。感銘を受けたように頷く広田を見た彼は、「じゃ、君たちは次の仕事の準備ですよ」と促した。広田は再度会釈すると、橘を連れて出ていった。
そこに祐さんが帰ってきたので、僕は気になっていたことを聞いてみた。
「あの、橘さんと広田さんには、零史とのことを話しておいたほうがいいでしょうか」
彼らは配属されてからまだ半年未満なので、高橋要絡みの話はセラのこと限定でしか伝えていない。
「でないと拓巳くんたちの反応が過剰に感じられて、ギクシャクしてしまわないかと心配です」
一瞬、痛そうな顔をした祐さんは、沖田さんと顔を見合わせてから顎に手を当て、慎重な口振りで言った。
「広田は守秘義務に対して十分に応えられると思うが、橘には少々荷が重いように思える」
マネージャーはどうだと振られ、沖田さんはメガネ顔を曇らせた。
「ご明察です……。まだ若いですし、性格的にもうっかりなところがあるので心配です」
「じゃあ……」
「ですが彼らも〈T-ショック〉を支えるスタッフですから、和巳君の言うとおりまったく何も知らないのも困ります。沢村零史氏と拓巳君の不仲の原因が、和巳君への執着であることまでは打ち明けてよいかと」
「それならあながち嘘でもないな」
祐さんが頷くと、沖田さんはメガネの奥の目を細めた。
「あの二人には僕から話しておきましょう。和巳君もいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
「それとあと、今日のことについて、幸司さんには改めてお礼をしたいと思います」
何がいいでしょう、と沖田さんに振られると、祐さんは顎から手を外して苦笑した。
「いや、親父は気にしないでいい。仰々しいことは好きじゃないからな」
沖田さんも僕も困惑した。
「でも祐さん。こちらからお願いして、仕事中のところを来ていただいたんでしょう?」
すると祐さんは意外そうな顔をした。
「いや? 違うぞ。向こうが連絡をよこしてきたんだ」
「向こうから?」
どうして幸司さんが僕たちの窮地を知ってたんだ!
当然、湧き上がる疑問なのだが、祐さんはこれもあっさりと結論づけた。
「多分、早川あたりから情報が行ったんだろう。近くにいるから合流してみると言ってくれてな。ありがたく任せたんだ」
早川さんは幸司さんの行動をある程度把握してるってこと? それにしても……。
「幸司さんは僕に『祐司くんから頼まれて』と」
沖田さんも続く。
「僕もご本人からそのように伺いました」
祐さんは口元で笑った。
「そう説明したほうが手っ取り早いと判断したんだろうな。親父らしい」
礼は俺がしておくから大丈夫だと言われ、僕はひとまず引き下がった。
するとそのとき、後ろから「お疲れ様です」と新たな声がかかった。振り向くと、先ほどセラと稜先輩を託した運転係が、長身を屈めてドアから入ってくるところだった。
お、こっちは何か成果が出たかな。
「おかえりなさい、凱斗さん。ありがとうございました」
僕が駆け寄ると、彼は一瞬、顎を引いたが、特に渋い顔をすることなく頷いた。
そう、僕は前に聞いた稜先輩の話から、二人のコミュニケーション不足がすれ違いを招いていると考えていたので、楽曲の収録が終わって手の空いていた凱斗を捕まえて運転を依頼したのだ。
僕の推測が当たっていれば絶対に断らない――そう踏んでいたからだが、案の定、夕方のラッシュにかかる時間にもかかわらず彼は引き受けてくれた。彼らがテレビ局を出てからはや三時間、あたりは日没を迎えている。横浜から目黒区のGプロビルに戻るので、渋滞を抜けるのは大変だっただろう。
やっぱり凱斗さんは稜先輩を想ってるんだよ。
この上は誤解を解き、二人を話し合いに持っていくだけである。
僕は声をひそめた。
「混んでいるところをありがとうございました。あの、何かお話とかは」
できましたかと続けようとしたのだが、彼は手のひらで僕を制し、どこか緊張した表情で後ろの二人に言った。
「マンションの出入り口付近で、盗撮が目的と見られる不審な男を発見しました。身元不明のまま逃げられたんで、先生にはひとまず須藤の自宅に行ってもらいました」
「盗撮だと?」
祐さんの直線的な眉が跳ね上がる。凱斗は頷いて説明した。
「玄関先の垣根に二人の若い男が隠れているのを須藤が発見して、様子を観察したところ明らかに先生へカメラを向けてました」
淡々とした口振りとは裏腹に室内の空気が沈む。
無言のまま沖田さんと顔を見合わせていると、まもなく祐さんが言った。
「……これは放置しないほうが良さそうだな」
その意見には僕も沖田さんも賛成した。




