嵐の予感
物事には必ず終わりがあるという。
そして何かの終わりが、新しい何かの始まりになるのだとも。
だとしたら、まるで宝石のようだった日々の終わりが、新しい道の始まりになることだってあるかもしれない。
そう思えるだけのものを、培ってきたはずだから──。
◇◇◇
今、僕たちの教室はいまだかつてないほどの緊張に包まれていた。
イヤ、正確に言うならば、緊張しているのは、後方の壁際に立ち並ぶ保護者の方々のやや右寄りにいる三名と、教壇側に並んで向かい合う、クラスメートの中に埋もれた僕以外の全員だ。
こうして後ろから見渡していても、このあとの謝恩会に備え、華やかな装いが多い保護者の皆さんの中にあってなお、その三名は場違いに目立つオーラを発している。
一人は身長約百九十センチ。ごく普通のスーツを着ているにもかかわらず、黒塗りのベンツしか似合わなそうなソフトリーゼントの偉丈夫。
もう一人は黒に金を配したスリムラインのワンピースを着て、こちらも控えめなアクセサリーしか身につけていないのに、珍しくアップスタイルにしているせいか、保護者というには違和感のある妖艶な美女。というか、そもそも女装というところが、なまじ男装の知名度のほうが高いためにひときわ緊張を誘う。
しかしそれ以上に一同を圧迫するのは、三人の真ん中に立つ、彼らの中では唯一、正式にこの場に参加する権利を有する、モスグリーンのセミフォーマルを纏った超絶的な美貌の男である。
とはいえ緊張の度合いはまちまちで、付き合いの長い宮内健吾、そして僕たちの斜め前で最後の挨拶を述べている担任の向井譲などは、緊張の中にも若干の慣れを見せ、余裕とはいかないまでもそう悪くない表情をしている。しかしその他のクラスメート及び保護者の皆さんの表情は、卒業証書授与式を終えたばかりにもかかわらず、晴れがましさとは無縁な様子で強張っている。
今も、向井の話し声の合間を縫ってクラスメートのささやきが耳を掠める。
(ねえ、これってヤバくないっ?)
(お、おう。向こうからの圧がハンパねぇな)
それは、そうだろうね……。
しかし今日ばかりは彼ら三人に責任はない。
なぜなら式典が終わったあと、速やかに帰ろうとした彼らを引き留め、この最後のホームルームの時間に招待したのは、わざわざ学校側の許可を取り付けた担任と、それを支持したクラスメートたちだったからだ。
そして今、学校側の出した条件『少しでも騒いだり平常心を保てなくなったりしたら即、お帰り願う』に引っかからないようにと、生徒及び我が子に言い含められた保護者の皆さんは一丸となって、ついつい魂を持ってかれそうな自分を戒めるべく向井の話に意識を集中させているところなのである。
(ダメよ、くじけちゃ。終わりまでがんばるのっ)
(そうだよ。最初で最後だぞ、こんな密室での独占状態。耐え抜いたらオレたち、伝説になるって)
(でも……、でもハードル高くない?)
(う、うん。だってまさか……)
(だよな。まさか……)
――サングラス外しちゃうなんて想定してないし!
そう。何がツライといって、僕のためにセミフォーマルで決めてきた拓巳くんの素顔――いわゆる〈衝撃の美貌〉と向き合った状態で、各自が一言ずつ感謝の言葉を伝えるというミッションほど厳しいものはないだろう……。
「えー、和巳のクラスはいいなぁ。私もその場にいたかったな」
改めての乾杯のあと、ノンアルコールカクテルで喉を潤した僕と健吾に、事の顛末を聞き出した健吾の彼女、真嶋優花がぼやいた。
「うちのクラスなんて、そんな心が浮き立つような企画なんてなくて、最後も先生の長話で終わっちゃったわ」
アレでみんなの心が浮き立ったかどうかはともかく、優花の担任の無駄に長い説法は有名だったので僕は素直に相槌を打った。
「そうだね。できれば僕も、優花のお父さんにはぜひ拓巳くんの隣にいてほしかった」
真嶋さんがいてくれたら、あの無駄に神々しいオーラに彼の柔らかい色が加わって、もうちょっとだけ保護者の皆さんの中に溶け込めたかも知れない。
「謝恩会だってクラス単位の円卓で。もっとラフな立食パーティー形式だったら、拓巳くんたちも参加できたかもしれないのに」
「どうかなー。それでも難しかったんじゃね?」
健吾の感想を聞きながら、僕はカウンターからチラッと斜め後ろのフロアを見やって言った。
「いいんだよ。こうして健吾のお父さんが店を貸し切りにして食事会を開いてくれたから。無理して謝恩会に出るよりずっと楽しめてると思う。ありがとう」
顔を戻して伝えると、健吾は嬉しそうに破顔した。
今日、僕たち幼馴染みの三人は、中高合わせて六年通った横浜の旭ヶ丘学園を卒業した。
といってもクラスの大半は同じ系列の大学に入学するのだが、他の大学や、美容師を目指す優花のように専門の道を選んだ者もいて、なにより通い慣れた校舎や制服生活から離れるのは大きい。加えて中高一貫校は入学と卒業が一回ずつ省略されるので、僕たち卒業生やその保護者にとっては久々のビッグイベントであった。
これにあたり、毎度お馴染みの如く浮上したのが僕の父親、拓巳くん――ロック界きっての美貌を誇る高橋拓巳の式典参加問題だ。
ちなみに行く気満々の拓巳くんが問題だと思ったのは服装で、どの程度の格好ならOKなのかを確認するよう頼まれたのだが、僕や周囲にとっての問題は『学校側の希望する参加範囲と拓巳くんの要望が合致するのか』である。そこで登校日の授業のあと、今回初めて式典形式の行事で拓巳くんの管理を任されることになった、担任の向井譲と直接交渉するべく職員室を訪ねた。
すると彼は意外な受け答えをした。
「別に? 普通に参加してもらっていいぜ。保護者なんだからあたりまえだろ?」
「そ、それはそうなんですが、今までは常に学校側から時間や服装に制限を求められてきたものですから……」
これまでの経緯を伝えると、向井は「ああ」と察した顔になり、室内に目線を投げてから僕に言った。
「失礼な話だよな。構うことはないさ。謝恩会もあることだし、花を添えるつもりでドーンとめかし込んできてくれ」
するとそれを聞きつけた先生方がわらわらと向井を取り囲んだ。
「ま、待ってください。それって高橋君のお父様のことですよね?」
「困ります。時間制限をお願いします」
「俺も。あの人が来るならもう一人も来ますよね。身なりは控えめにしてもらわないと。俺、生徒たちを制御する自信ありません」
もう一人とは言わずと知れた僕の師匠にしてパートナー、二つの性別を併せ持つ小倉雅俊――俊くんである。彼は女流画家、小倉蒼雅として、僕の師匠の立場で参加するので学校側は拒めない。しかし拓巳くんと俊くんが揃うとなると、それはいまだ国内で不動の人気を誇るロックバンド〈T-ショック〉のボーカル〈タクミ〉とキーボード〈マース〉になってしまうので、円滑な行事進行の妨げになるのだ。
「学園祭や音楽祭なら無礼講ですから、人混みに紛れてもらう手が使えましたが、式典は全員が着席するわけですからどうしても気がそぞろにならざるを得ません」
私たちもです! と続けられ、向井は渋面になった。
「おいおい。教師が情けないこと言うなよ。そんな理由で保護者に制限をかけたら差別と同じだろ」
「そ、そうは言いましても、会場では真嶋優花さんのお父様とも席が離れますし……!」
拓巳くんの親代わりを勤める〈T-ショック〉の専属スタイリスト、真嶋芳弘さんがそばにいると、拓巳くんのオーラがご機嫌モードになって和らぐが、優花のクラスは隣なので今回は保護者の席が別れる。
食い下がる同僚たちの様子に向井は「じゃあ予防線を張ればいいさ」と提案した。
「メンバーのユージに同席してもらえば、みんなおとなしく席に着けると思うぜ」
「あ、なるほど……!」
〈T-ショック〉のギタリスト〈ユージ〉こと井ノ上祐司――祐さんが一緒にいると、迫力がありすぎて迂闊に近寄ったり騒いだりできなくなることは学園祭で証明されている。
かくして向井の意見は職員会議で了承され、連絡が祐さんに飛んで同意を得た。
それを知った真嶋さんは「じゃあ最後だし、お言葉に甘えて少し華やかにしようね」と拓巳くんや俊くんの装いに腕を振るうことにし、「それでもまあ、式典以外は遠慮しておくべきだな」との祐さんの言葉を漏れ聞いた健吾がお父さんに相談、うちと真嶋家と宮内家の打ち上げ会を企画してくれたのだ。
ちなみにホームルームへの参加を誘いにきた向井に対し、感銘を受けた拓巳くんが、
「……ありがとう。最後なんで甘えさせてもらう」
などと珍しくもサングラスを取って返礼したため、照れた向井が「いいから、いいから。さ、時間も押してるから入ろうぜっ」と急かして教室に入れてしまい、向かい合うクラスメートたちが絶句するハメになったわけである。
その向井は「よかったら来てくれ」との拓巳くんの言葉を捕らえ、謝恩会後に合流した僕たちに遅れること三十分、学校側の二次会を中座し、つい先ほどこちらに到着、今は店の中央テーブルに座る祐さんの隣にちゃっかりと陣取り、真嶋さんら酒豪の宴に挑んでいる最中だ。
「しっかし、拓巳さんが自分から向井先生を誘うなんてなぁ。全部参加できたのがよっぽど嬉しかったんだな」
向井とのアレコレを知る健吾の感慨深げな言葉に、僕も色々を思い出して苦笑した。
「まあ、向井先生じゃなかったら実現は不可能だったと思うよ。行事に関しては本当に色々あったけど、最後の最後でまともに参加できて良かったと思う」
この先はもうないからねと締めくくると、優花が首をかしげてこう言った。
「それだけど和巳。最近の大学って親同伴が普通よ。通知こなかった? 前にうちで話に出たことがあったから、拓巳くん、行く気だと思うんだけど」
………なんだって?
予想外の指摘に目線を健吾へと移すと、彼はしばし黙考したあと、カウンターに肘をついてポリポリと頭を掻いた。
「あー。確か大学からの書類に保護者の来場についてとかなんとか書いてあった。母さんが、なに着てこうかなとか言ってた気がする」
「そ、そう」
健吾が言うなら本当だろう。つい先日まで鎌倉へ行ったり来たりとバタバタしていたので、書類の内容を見落としていたかもしれない。
「……別に、出席者は大勢いるんだろうから、地味な服装にしてもらえば騒ぎとかにはならないよね?」
お伺いを立てると、健吾はチッチッと人差し指を振った。
「現実逃避はやめたほうがいいぜ和巳。系列へ進むってことは、情報も一緒に伝わるってことだ。〈T-ショック〉はどっちかっていえば中高生より大学生のほうがファン層が厚い。ヘタすると在校生が待ち構えてることになるぞ」
イヤ、それはカンベンしてほしい……。
「あの、ちょっと僕、そのあたりのこと真嶋さんに確認してみようかな」
「今? やめなさいよ。せっかくみんなで楽しんでるみたいなのに」
そう言って視線を投げた先には、優花の言い分がもっともな光景があった。
店の右奥にある一番大きなテーブルにはウイスキーやワインのボトルが置かれ、拓巳くんと真嶋さん、俊くんに祐さんが、数々の酒肴やデザートを囲んで向井や宮内のおじさん、おばさんと談笑しながらグラスを傾けている。平服に戻してもなお数名がビジュアル的に浮いてる気もするが、普通の仲良し家族の集まりに見えなくもない貴重な光景だ。
「いや、でもさ」
しばらく眺めていた健吾がこちらに姿勢を戻して言った。
「俺たちですら話題にしてるんだぜ。あのメンツでそれが出ないってことあると思う?」
僕は優花と顔を見合わせ、しばし目で語ったのち健吾に顔を向けた。
「えーと、それは時間の問題ってこと?」
「そうとも言うな。ホレ、そういってるうちにも見てみろ」
こそっと指で示され、再びテーブル方面に目線を投げると、左寄りの位置で向き合う俊くんと拓巳くんの表情が険悪になっていた。
えっ、ほんとに?
慌ててスツールから腰を浮かしたときには、なにやらお馴染みのやり取りが耳に届き始めた。
「……だと? ふざけんなよ雅俊。なんでおまえはよくて俺はダメなんだよ」
「現実を直視しろよ拓巳。大学だぞ。成人がわんさかいるんだぞ。ナニが起こるか想像つくだろうが」
「知ったことか。和巳の晴れ姿を見るのは俺の権利だ」
「おまえの権利より、和巳の環境保全だろうが!」
「よせ、二人とも。場所をわきまえろ。宮内さんに失礼だぞ」
「その話はまた。家に戻ってからね」
徐々に上がるボルテージを祐さんと真嶋さんが抑えるのも定番の光景で、オーナー夫妻の名を出された二人が顎を引く。が、どちらも火種を燻らせたままの表情だ。
ちょっと待って。それって帰ったら第二ラウンド勃発ってこと?
今日はみんながお酒を飲めるようにと、近所にあるうちのマンションに俊くん、隣の真嶋家に祐さんが泊まることになっているのだ。
この先の展開にゲンナリしてきた僕は、スツールに腰を戻しながら二人にぼやいた。
「なんかもう、これだけは永遠に卒業できない気がしてきた」
「そ、そんなことないさ。大学が最後じゃんか」
「そうよ。そのあとは〈T-ショック〉の所属先のGAプロダクツに就職でしょ? 終わりは見えてるのよっ」
阿吽の呼吸を見せるカップルの二人から口々に励まされるも、心にいまいち響かない。
僕は睨み合う拓巳くんと俊くん、それを宥める真嶋さんや祐さんの姿をもう一度見やってから、きたるべき帰宅後の展開に備えてグラスの中身を飲み干した。
結論から言えば、このときの僕の予感は外れることになる。
あたりまえに繰り返されてきた日常も、必ずいつか終わりがくるのだということを、このときの僕はまだ理解していなかった。
宮内夫妻に挨拶をし、レストランをあとにした僕たちは、「まあ、周りに迷惑かからない範囲でやんなよ」との言葉を残した向井を見送ったあと、うちのマンションのリビングに場を改めた。
「さ、遠慮は入らない。和巳のためにもちゃんと話し合いなさい」
三人掛けソファーに落ち着いた真嶋さんが言い渡すと、仏頂面の拓巳くんがその隣にドカリと座って足を組んだ。祐さんが牽制するかのごとく隣の一人掛けに座る。
向かい側に腰かけた俊くんが説得口調で言った。
「大学は諦めろ。旭ヶ丘学園はある意味、隔離されていたんだ。生徒数がそこそこで教育者の管理や監視の目も行き届いていたし、保護者もプライバシーに協力してくれてた。けど大学でそれは期待できないだろ? 別に新入生すべての保護者が来るわけじゃないんだからこだわるなよ」
「じゃあ、おまえも行かないんだな?」
すると俊くんは笑みを浮かべつつ「いいや」と指先を左右に振った。
「おれは和巳の身内の立場で行くんじゃないのさ」
「そうなの?」
お茶を用意するべくキッチンに向かっていた僕はつい、声を上げてしまった。
俊くんが僕のほうを向いた。
「あの大学の学長はおれの作品のバイヤーでな。先月、学長室の改装に合わせて〈花〉の注文を受けたんだ」
「〈花〉を。じゃあ」
〈花〉とは《楽園》《清峯》《宵月》の三部からなる俊くんの代表作だ。これらは現物を売らないので複製画になる。
俊くんは少し申し訳なさそうな顔で続けた。
「本当は現物か、せめて新作がほしかったそうなんだがタイミングが合わなくて。今回はレプリカを三枚、購入していただいた」
「ああ……」
昨年一年間、俊くんは二十周年企画のために絵画の活動を封印していたのだ。
「旭ヶ丘学園の理事長とは友人関係で、おまえのことも聞いていると言ってたから礼状に入学の挨拶を添えておいたんだ。そしたら入学式への招待状が入っててな。さすがに来賓扱いは辞退したが、式のあとで学長室に招かれてる。おまえも一緒にと思っていたからあとで確認するつもりだったんだ。いいか?」
黒目勝ちの瞳に気遣いの色を認め、僕がはいと頷くと、拓巳くんが「ちょっと待て」と身を乗り出した。
「キサマが招待者なのは業腹だが、そっちの理由なら仕方ない。けどそれで俺がダメなのは納得できねー。そんで学長室には俺も行く」
「おい」
俊くんが気色ばむと、拓巳くんも負けじと睨んだ。
「絵を一度に三枚も購入するような学長の部屋なんて心配だ。他にも色々あるかもしれん」
チラッとこちらに目を投げられ、僕は申し訳ない気持ちで俯いた。
拓巳くん言うのは去年から僕を悩ます、絵画作品に対するストレス症状のことだ。
一年前の監禁事件で負った瑕の後遺症――フラッシュバックとなって残ったパネル作品への拒否反応によって、僕はキャンバスの前に立てなくなり、デザイン画を学ぶという自らの進路を変えざるを得なくなった。そのために、俊くんとの関係が根本から揺らぐところまで陥ったのは記憶に新しい。しかし今は彼の指導のもと、リハビリを進めている最中で、徐々にではあるが成果も出はじめている。
眉を寄せた俊くんが拓巳くんに言った。
「おれを見損なうな。そこは確認済みだ。これもリハビリの一環なんだ」
「早すぎる。もっと間を置く時間が必要だろう」
「離れてれば治るってもんじゃない。一歩進むことで自信に繋がる効果もあるんだ」
「焦ってぶり返したあげく、逆戻りすることだってあるだろ!」
だんだん話が別の方向にボルテージを上げはじめ、僕は内心でやきもきした。
僕の症状を把握して以来、俊くんは主治医や心理学者などから話を聞き、忙しい間を縫って色々な手を打ってくれている。一方、拓巳くんがそれを早すぎると感じているのも理解できる。彼自身が長くフラッシュバックの症状を抱え、今もまだ苦難を背負っているからだ。
うう……この場合の落としどころとしては……。
真嶋さんにお伺いを立てるべきかと目を泳がせたとき、どこからか電話の着信音が聞こえてきた。
「……っ、俺か」
デニムのポケットに手を伸ばしたのは拓巳くんで、画面を見て「ん?」と首をかしげてから耳に当てた。そして真面目な表情で言葉を交わしたのち「えっ!」と小さく声を上げて目を見開いた。
なに?
真嶋さん、祐さんが動きを止め、俊くんが姿勢を正す。
みんなが注視する中、拓巳くんは「わかりました」と返して通話を切ると、僕に目線を移してこう言った。
「和巳。おまえはセラが横浜に帰ってきてるって知ってたか」
「えっ! セラさんが?」
セラとはセラ・内田・オースティン、日本名を内田世羅という日系イギリス人で、拓巳くんの母であり、僕には祖母に当たる。着飾ったら拓巳くんそっくり、けど中身は控えめな大和撫子という、なかなか稀有な女性でもある。彼女はとある目的のため、イギリスに滞在しているはずなのだが。
「聞いてないよ。ロンドンのご実家にいるんじゃなかったの?」
僕の顔をジッと見た彼は俊くんに目線を移した。
「雅俊は?」
「いや、初耳だ。連絡もなかったと思う」
返事を聞いた拓巳くんは戸惑ったように眉根を寄せ、真嶋さんが心配顔で横から身を乗り出した。
「セラさんからだったのかい?」
すると拓巳くんは「いや」とつぶやいたあとでこう続けた。
「旭ヶ丘学園の住吉京子副理事長からだ。セラが倒れたから大至急、俺たちに病院まで来てほしいそうだ」
◇◇◇
自宅から車で移動すること約三十分。指定された病院は、郊外の河川に沿った道路脇にあった。
やや古びた感のある建物の夜間出入り口を抜け、エレベーターで三階に降り立つと、目的の部屋のドアの前に僕たちを呼び出した女性の姿があった。
「遅くに申し訳なかったわね」
そう言って一歩前に出た住吉京子副理事長は、昼間見た卒業式用の礼服より幾分、カジュアルな紺のパンツスーツ姿だった。
「いえ。こちらこそ連絡ありがとうございます。大勢で押しかけてすみません」
先頭に立って挨拶したのは真嶋さんで、駐車場の車に残った祐さん以外の全員が後ろに従っている状態だ。しかし住吉副理事は手で遮った。
「いえ、いいのよ。お願いしたのはこちらだし、きっと今夜はみなさんお揃いだろうと思ったの。なにしろ彼女はちっとも自分を大事にしてくれないから、これだけ身内がいてくれたら私も安心だわ」
僕たちは顔を見合わせた。
「大事にしてくれないとは、もしかして倒れたことに関係するのですか?」
俊くんの質問に彼女は頷いて答えた。
「詳しい検査は明日だけど、先ほど診察してくださった先生の所見では、過労からくる発熱だろうとのことだったわ。ゴタゴタが続いてからの急な帰国だったから、ろくな休養も取れずにいたのでしょうし」
「過労……?」
僕の隣で拓巳くんが室内用サングラスの上の眉を寄せる。
「セラは、忙しくなるようなことがあったのか」
住吉副理事は拓巳くんの顔を見上げると、サッと戻してからもどかしげに言った。
「あの様子ではもしかしてと思っていたけれど、やっぱりだわ。セラったら、あなた方にロンドンのことをなにも伝えてないでしょう」
「なにかあったんですね?」
やや前のめりで僕が質問すると、住吉副理事もこちらに半歩踏み出した。
「実は二ヶ月ほど前にご両親が亡くなったの」
「えっ⁉」
ご両親とはどういうことなのか。
「あの、寝たきりで長くないと言われていたのは、セラさんのお父さんだけですよね?」
かつて起きた事件――拓巳くんが父親の高橋要から虐待を受けて育つ原因となったセラの疾走事件は、高名な大学教授だったらしいこのイギリス人の父親が引き起こしたのだという。自分の目を盗むようにして連れ去られた娘を密かに奪い返した父親は、客員教授として滞在していた横浜から即、ロンドンに戻り、三十年の長きに亘って娘を妻もろとも強権的に支配した。その結果、消息を絶ったセラに裏切られたと勘違いした高橋要は、その憤りを息子にぶつけて過ごすことになったのだ。
しかし父親は先年、自動車事故を起こして寝たきりになり、母親に送り出されたセラは生き別れた我が子――即ち拓巳くんを探しに横浜へ来た。そのときに頼ったのが学生時代からの友人である住吉京子副理事長で、拓巳くんとの再会に絡む事件に関わることになったわけだ。
住吉副理事は再び頷いて声をひそめた。
「長年の苦労がお母様の体を蝕んでいたのでしょうね。心臓を患われていたそうで、父親が亡くなって間もなく旅立ったそうよ」
「そんな……」
会ったことはなくとも、セラを励まし続け、送り出してくれたと聞いてから、漠然と思いを寄せていた数少ない血縁の人である。もういないと聞かされると胸の奥が疼く。ましてや送り出された当人はいかばかりだったろうか。
「セラさんは、さぞ力落としでしょう」
病室のドアに目を向けながらつぶやくと、住吉副理事は意外にも首を横に振った。
「悲しいことだけれど、でもセラはそれが元で体調を崩したわけじゃないわ。お母様はけして不幸なままじゃなかった。セラが無事に我が子と再会して、受け入れてもらえたことをとても喜んでいらしたもの。彼女がダウンしたのはおそらく別の要因が心身を脅かしはじめたせいよ」
「別?」
真嶋さんが問いかけると、住吉副理事は「そう」と緊張した顔で彼に目を向けた。
「そのことを相談したくて、お祝いの日の夜だとは承知していたけれどもあえて連絡させてもらったの。転院の手続きや今後の段取りもできるだけ早く決めたほうがいいわ」
急くように言った彼女が体を返してドアノブに手をかけたそのとき。
「転院のことはこちらに任せてもらうと伝えたはずだが」
聞き覚えのある硬質な低音が背後から響き渡り、思わず胸の中で心臓が踊った。
この声はまさか!
「未成年の孫まで呼んで相談とは。教育者にあるまじき行為と言わざるを得ないな。住吉副理事長」
振り向くと、そこには予想どおりの姿――祐さんに匹敵する体躯を上質なダークブラウンのスーツに包んだ壮年の男が、他を威圧するような眼差しで立っていた。
――高橋要……!
拓巳くんの、今は戸籍上の父親にして、何度も僕に魔の手伸ばしてきた僕の祖父。およそ一年前、彼が画策した事件で、僕は彼の部下から消えようのない瑕を刻まれ、それが原因で絵画の道を封印するはめに陥ったのだ。
咄嗟に言葉が出ない僕をよそに、庇うようにして前に出たのは真嶋さんだった。
「これはおかしなことをおっしゃいますね」
彼は傍らの住吉副理事をチラと窺うと、事情を察したように口元を引き締めた。
「孫といっても和巳は年端もいかぬ子どもではない。すでに職を得ている立派な青年で、しかも住吉先生が理事を兼ねる大学に入学する学生です。呼ばれるのは当然でしょう」
「ほう」
高橋要は硬質な光を放つヘイゼルの瞳を真嶋さんに向けた。
「君などは完全な部外者だろう。口を挟む権利など微塵もないはずだが」
「あなたこそ、今のセラさんにとっては赤の他人でしょう。セラさんの現在の保証人である住吉先生の判断に口を挟まないでいただきましょうか」
二人の間で目に見えない炎がバチバチと燃え上がる。住吉副理事が言わんとしていたことが僕たちにも理解できた。
そうか。住吉先生がさっき言いたかったのはこの男のことなんだ。彼のせいでセラさんに負担がかかっているに違いない。
そう思うと腹の底に力が湧いてきた。
何を画策しているのか知らないけど、思い通りにはさせないぞ。
やはり気づいた様子で目線を投げてきた俊くんに頷いてから、僕はドアの前の住吉副理事に肩を寄せて訊ねた。
「転院をお考えなんですね?」
彼女はチラッと前方を窺ってから答えた。
「ええ。ここは救急で運び込んだだけなの。セラの様子だと検査入院になるかもしれないわ。だったらあなたたちのそばのほうがいいと思って。どうかしら」
「賢明なご判断だと思います」
「おい、要。そういうことだ」
僕たちのやり取りが聞こえたか、 拓巳くんが僕のそばに寄りながら口を開いた。
「おまえの出る幕はない。とっとと帰れ」
「挨拶だな、拓巳」
彼は真嶋さんを押し退けて拓巳くんの前に来た。
「少しは父親への礼儀をわきまえたらどうだ」
「貴様こそ、どの面下げて和巳の前に立てるんだ。この拉致監禁犯が」
「心外だな。私は和巳を歓迎しこそすれ、罪を犯した記憶などないが。それともなにか。警察沙汰になった事実でもあるのか」
「このっ……っ、腐れ外道がっ」
拓巳くんの手が高橋要の首もとに伸びかかり、僕は素早くつかんで止めた。
「拓巳くん、病院だよ。あなたも挑発するのはやめてください」
要は僕を見て目を細めた。
「相変わらず拓巳のお守りか。あたら優れた才能が惜しいことだ。私のもとに来ればいくらでも栄華の道が開けるものを」
「違法ギリギリの商売のお手伝いをして、ですか? 慎んでお断りします。それよりも今はセラさんのことでしょう。この先は僕たちがいますからお引き取りください」
「断る」
「なっ、高橋さん!」
「おい、要!」
全員が口々に止める中、彼は僕たちを押し退けると、ドアノブに手をかけて横に滑らせた。
なんて強引なんだ!
追いすがるようにして室内に踏み込むと、ベッドを取り巻くカーテンから出てきた看護師が驚いたように声を上げた。
「お静かに!」
夜間担当者だろうか、中堅どころと見られる女性看護師は、次々と入ってきた僕たちを認めると若干、顔をしかめた。
「お身内の方を呼んでほしいとお願いはしましたが、大勢で病室に入られては困ります」
そして手に持っていたバインダーを見やってから言葉を続けた。
「それで記入なさるのはどなたですか? こちらの書類をお願いしたいのですが」
「記入は私が」
すかさず住吉副理事が前に出ると、要もグイと進み出た。
「だから私が書くと言っている」
しかし看護師は要を見上げると、やや怯えながらもバインダーを胸元に引いた。
「ですが確か、先ほどご本人はあなたの申し出をお断りになられてましたよね?」
「それは私が元夫だから遠慮しているだけだ。そんな譫言のような台詞をいちいち真に受けなくてもいいだろう」
要の目元に苛立ちが浮かび、僕たちは事の流れをほぼ掌握した。
どんな経緯かは知らないけど、セラさんが倒れたとき、住吉先生と要が同時にいたんだ。二人で病院に来て、先生が手続きしようとしたらこの男が横槍を入れたんだろう。ところがどちらも血縁者じゃなかったから、病院側に身内を呼ぶよう依頼されたに違いない。
その考えを裏付けるように看護師がこちらに問いかける目線を向けてきて、僕は信頼を勝ち取るべく営業モードで挨拶した。
「お世話になります。祖母はいつも保証人である住吉さんに手続きをお願いしていますので、お任せしたいと思います」
「あなたはお孫さんですか? 息子さんではなく?」
あ、かえってまずかったか。
セラとの年齢差が少なすぎるからだろう、驚く看護師に住吉副理事が説明した。
「正真正銘、彼女の孫で、私が理事を務める学園の生徒です」
僕もすぐにつけ足した。
「僕の父方の祖母がセラさんです。以前は遠くに住んでいたのですが、一年半ほど前から近くで暮らしはじめまして」
色々はしょってはいるが嘘じゃない。
そこまで言うと納得できたのか、彼女はホッとした顔になって頷いた。
「わかりました。ではこれを」
バインダーが住吉副理事の手に渡る。横目で要を見やると、彼は苦虫を潰すような表情ながらも黙っていた。
さすがに血縁には勝てないと判断したらしい。
書類を渡した看護師がこちらに顔を戻した。
「内田さんはまだ安静が必要です。今日のところは、近親者以外の方は控えたほうがよいかと思いますが……」
彼女の目線が扉の前に並ぶ他の面々見回し、室内用サングラスをかけた拓巳くんに目を止めて息を飲んだ。
「あっ、タク……えっ?」
そしてセラのほうと目線を行き来させ、何かに気づいたように声を上ずらせた。
「あ、あの。もしかしてこちらの患者さんのご親戚ですか……?」
その目が「〈T-ショック〉のタクミさんですよね?」と語っている。
しまった。ここは芸能人の対応に慣れてるところじゃなさそうだ。普段、そのあたりが完璧なかかりつけの病院にしか行かないからうっかりしてた。
目端に映る俊くんの怯んだ表情を確認し、僕は彼女の視界を塞ぐように体をずらしてから答えた。
「ここには僕と住吉先生が残ります」
そして肩越しに振り返って後ろに呼びかけた。
「ご心配でしょうが、みなさんはひとまず待機をお願いします」
他人行儀な物言いに拓巳くんが眉根を寄せたが、俊くんと真嶋さんが察してそれぞれ頷いた。
「わかった。おれたちは一旦、戻ろう」
「それがいいね。行こうか」
俊くんがドアに手をかけ、真嶋さんが拓巳くんの肩を軽く叩いて促す。しかし高橋要は逆に中へと歩を進めてきた。
「私はここで様子を見させてもらおう」
え、ちょっと!
「おい、ふざけるな」
拓巳くんが真嶋さんの手を振り切って彼の前に立った。
「貴様なんぞがそばにいてセラが休めるか。とっとと帰れ」
「おまえに指図されるいわれはないな。それよりも、ここにいたら面倒になるんだろう? 早く出たらどうだ」
皮肉な笑みを向けられて拓巳くんの表情が険しさを増す。それを見た女性看護師が興味と好奇心で目の色を変えた。
うわっ、まずい。
慌てて拓巳くんの腕をつかもうとしたそのとき。
「そこにいるのは拓巳……?」
カーテンの向こうから弱々しい声が聞こえ、僕は拓巳くんを「待って」と押さえてからカーテンに駆け寄った。
「セラさん」
カーテンの端から顔を覗かせると、頭を起こしたセラが肘をつくところだった。
「まだ起きないほうが」
枕元に駆け寄って肩を押さえると、セラは「まあ、和巳」と微笑んで肩から力を抜いた。
昨年の事件で負った傷が右の瞼に残ってはいるが、拓巳くんに似た美貌は健在だ。けれどもどこかやつれた感があり、確実に一回り痩せていた。
一体、どんな過ごし方をしていたんだ。
「京子が呼んだのね……驚いたでしょう。ごめんなさいね」
申し訳なさそうに目を細められ、僕はひとまず自分の疑問を脇に置いて容態を訊ねた。
「そんなこと気にしないでください。それより体のほうは」
すると僕の横にヌッと人が立ち、艶やかな長い黒髪が目の端で揺れた。
「具合は。大丈夫なのか」
待ちきれなかったらしい。
「拓巳……」
セラの顔が一瞬、喜びに輝く。しかしそれはすぐに恥じ入るような表情に変わった。
「ごめんなさい……」
「そこじゃない。体調は」
「拓巳くん」
性急に答えを求める無表情の美形――僕には心配と不安で落ち着かない子どもの質問と同じだとわかるのだが、慣れない人には不機嫌丸出しの無愛想な男にしか見えないだろう。
セラさんに誤解されちゃうじゃないか。
しかし僕が注意するよりも早く目元を和らげたセラが答えた。
「大丈夫。ちょっと疲れが溜まってしまっただけよ」
「……ホントか?」
「ええ。二、三日休めば問題ないと先生もおっしゃっていたわ」
宥めるような響きに、拓巳くんの眉根から力が抜ける。
ああ、セラさんにはわかるんだ。
どんな血の不思議のなせる技か、交流した時間は僅かでも、すでに彼女はGプロスタッフが四苦八苦する拓巳くんの感情を読み取る技を会得しているのだ。
感慨深く思いながらも、状況を思い出して僕はセラに顔を近寄せた。
「そのことで相談が。この病院は体制が整っていません。体調が許すなら、明日にでも僕たちのかかりつけの総合病院に移動をと思っているのですが」
セラは僕に目を合わせた。
「京子は、なんて……?」
「住吉先生のご希望でもあります」
「……わかりました。私は大丈夫」
栗色の髪に覆われた顔が頷くように上下し、ホッとしてひとまず上体を戻す。すると背後でカーテンの揺れる気配がした。
「セラ。転院は私が手配する。君は何も心配しなくていい」
この地獄耳め。
「要さん……」
セラの目が僕から背後へと移り、僕はグッと腹に力を入れ直して振り返った。
落ち着け。看護師の耳があるぞ。
「お気遣いありがとうございます。ですがそこまでしていただく義理も理由もありません。こちらで手配しますのでどうぞお引き取りください」
慇懃に会釈すると、カーテンの端に立った高橋要は鼻で笑った。
「未成年が大人のやり取りに嘴を挟むものではない。いらぬ節介だな」
冷たく光るヘイゼルの瞳に見下ろされ、一瞬、怯みそうになる。
「よけいな嘴は貴様だろうが」
再び突っかかりそうな拓巳くんの腕を抑え、僕はなんとか背筋を伸ばした。
「転院は後見人である住吉先生の要請です。セラさんの承諾もいただきましたのでご遠慮ください」
要の目が細められる。
「セラ。私に任せてくれるな?」
強い目線が僕から逸れ、真後ろのセラに注がれる。
「……、……」
肩越しに振り返ると、セラは気圧されたように目を見開き、何度か口を開閉させていた。しかし拓巳くんが体を返して前屈みに覗き込むと、ハッと目を瞬かせ、自らを落ち着かせるように手を胸に当てて要を見返した。
「ありがとう、要さん。でも大丈夫。どうぞお帰りになってくださいな」
「セラ」
要の声に険が混じる。しかしセラは薄く微笑んで繰り返した。
「本当に、大丈夫ですから」
「………」
二人の間で何かが交錯しているのが伝わってくる。僕はなんとなく胸の奥がざわつくような気分になった。
セラさんは、もしかして……。
やがて折れたのは要だった。
「まあいい」
彼はこちらに目線を投げると、唇の端に笑みを浮かべてからセラに言った。
「しばらくは孫と触れ合うのもいいだろう。いずれ私のもとで暮らすことになるのだからな」
えっ?
「なにを企んでやがる」
拓巳くんが声を低める。しかし彼はそれには答えずにカーテンから離れた。
「…………」
ひとまず退けられたことに胸をなで下ろしながらも、僕たちはどこか落ち着かない気分で彼の足音が消えるまでその場に立っていた。
長い。長いです。何が? 投稿までの間が。そして文章が……。
世の中がガラッと変わる前に着手していたのに、一年半も費やしてしまった(--)。とはいえ長らく続いてまいりましたT-ショックシリーズも、とうとう終幕にこぎつけました。文庫本でいったら四冊分ほどでしょうか。最後までお付き合いいただけたら幸いですm(₋ ₋)m。