お兄ちゃんとの絆
【道野辺芹】
お兄ちゃんと一緒に居られるだけで幸せ。そう思っていた私だったけど、最近、自分がどんどん貪欲になってゆくのを感じる。
お兄ちゃんを誰にも取られなくない――その気持ちが何なのか、私はもう知っている。
楽しい想い出になるはずだったお兄ちゃんとの夏祭り、そこで思わぬ事件が起こった。
角くんと子供二人だけで田んぼの畦道を走っている最中、彼が足を滑らせ、用水路へ落ちてしまったのだ。
私の力では足を挫いた角くんを用水路から引き上げる事ができない。私は角くんに断りを入れ、救助を呼ぶ為に夜道へと飛び出した。
そこで出会ったのは、軽薄そうな見た目をした若い男の人だった。
少し渋りながらも、その人は角くん救出への協力を了承してくれた……はずだったのに、角くんを見た瞬間、その人の目付きが変わった。
私はその瞳に見覚えがあった。
公園で一人、ママの帰りを待っている間に偶に向けられる、這うような視線。私を子供じゃなく“性の対象”として見ている……気持ちの悪い目付き。
私の勘違いかもしれない。何せ、その人と角くんは同性なのだから。でも……。
少し躊躇った私だったけど、脳裏にお兄ちゃんの言葉が浮かんだ。
『勘違いかもしれない……そう躊躇する事もあるだろうけど、芹ちゃん。それでも、俺はこれを使う事に躊躇して欲しくない。もし、勘違いだったら、俺が代わりに謝ってあげる。……俺にとっては、大切な芹ちゃんにもしもの事があるのが一番怖いんだ』
お兄ちゃんは優しい手を私の頭に置いて、そう言った。
あの温かさ、嬉しさ、切なさ……お兄ちゃんから貰ったその想いが、私に勇気をくれた。
私が防犯ブザーのピンを引き抜いた瞬間、辺りにけたたましい電子音が鳴り響いた。
防犯ブザーはいざという時の為にお兄ちゃんが私に渡してくれた大切な防犯具であり、初めてのプレゼント。
ブザーの音に驚いた男の人は、用水路から這い上がってきて、私の手から防犯ブザーを引ったくろうとする。
お兄ちゃんから貰った大切なプレゼントを奪われる訳にはいかない。私は必死で抵抗したけど、直ぐに組み伏せられ、ブザーを奪われてしまった。
暴れる私を踏みつけて、男の人はブザーを何処かへ放り投げた。
(お兄ちゃん……!)
私が心の中で叫んだ時、奇跡が起きた。
「うぉおおおおおおおお!!」
闇夜を切り裂く咆哮を上げながら、猛スピードでこちらへ走って来る影。私に笑い掛けてくれる時の優しい瞳とは違い、その瞳を憎悪の炎で燃え上がらせたその人物は――お兄ちゃんだった。
突然の襲撃に狼狽える男の人を、お兄ちゃんが殴りつける。
お兄ちゃんの拳を受けた男の人はそのまま吹き飛び、口から泡を拭きながら痙攣をしていた。でも、お兄ちゃんは明らかに戦闘不能へ陥ったその人を――踏みつけ、蹴り飛ばした。
怖い……私は初めて、お兄ちゃんを怖いと思った。
いつもの優しいお兄ちゃんとは違う獰猛な眼光、暴力的な息遣い。でも一番怖かったのは、お兄ちゃんがその人を殺してしまうかもしれないと感じた事だった。
もしそうなったら、私は兄ちゃんと一緒に居られなくなる。それが一番怖かった。
私は必死でお兄ちゃんの足にしがみついた。
「……芹?」
お兄ちゃんが私の名を呼んだ。いつもの優しい眼差しがそこにはあった。
いつもならお兄ちゃんは私を「芹ちゃん」と呼ぶけど、この時だけは「芹」と呼び捨てにされた。私はそう呼ばれた事で、何だか懐かしい気持ちになった。まるでパパが側に居るみたいな……。
お兄ちゃんの手が私の頭を撫でる。大好きな温かい手の感触に、私は堪え切れずに泣いてしまった。
◇ ◇ ◇
夏休みのある日、私は家で宿題をしていた。
学校が始まれば毎日お兄ちゃんと会えるけど、夏休み中は偶にしか会えない。私にもスマートフォンがあれば、お兄ちゃんと連絡が取れるのに……。
以前、私はママにスマートフォンを強請った事があったけど、ママはその時こう言った。
『……お父さんにお願いしてみなさい』
ママはあの人の事を「お父さん」と言うけど、絶対に違う! 私のパパは道野辺柾という名前で、いつも優しい笑顔を絶やさない人だった。
土屋修司というあの人は、いつも酔っ払って怒鳴るし、ママのお金でパチンコばかり……全然パパとは違う。大嫌いで最低な人間だ。断じて“お父さん”何かじゃない。
(宿題が終わったら、お兄ちゃんに会いに行きたいな。でも、怪我してるから迷惑かな……)
私がそう考えた時だった。廊下をドカドカと踏み鳴らしながら突然、あの人が家に入って来た。
その人は私の部屋の前で立ち止まると、乱暴に部屋のドアを叩き、ママの所在を訪ねた。
またお金をせびりに来たんだろう――そう思っていた私だったけど、その人は私に予想外の命令を下して来た。
『おい……ガキ。お前、ヨウツーバーやれよ。』
聴けばその人は、大手動画サイトへ自分がギターを演奏した動画をアップロードしているらしく、ヨウツーバーを自称している。
その人は自分のチャンネルに私を出演させて注目を浴びようと、断っても執拗に誘って来た。おそらく、最終的には際どい恰好をさせられて、衆目に晒される――それが解っていたから、私は怒鳴られようと、断固拒否した。
『すみません……嫌です』
『クソガキがっ!』
私が頑なに出演を断り続けると、その人は乱暴にドアを蹴り、帰って行った。
『う…ううっ……嫌……嫌だよ、もう……』
私は限界だった。いつも余裕があるように装っているけど、本当は辛かった。誰かに助けて欲しかった。
パパはもう居ないけど、こんな時、お兄ちゃんが居てくれたら……。
私は無意識にランドセルへ手を伸ばし、硬直した。
いつもランドセルに付けているお守り――お兄ちゃんから貰った防犯ブザーが見当たらなかったのだ。
「あ…ああ……あああ……」
私の脳裏につい先日の光景が想い起こされた。
奪われた防犯ブザーが放物線を描きながら飛んでゆく。お兄ちゃんから貰った大切なプレゼントが……無い! 無い!!
私は駆け出した。
あの防犯ブザーは大切な物だ。決して失くしてはいけないお兄ちゃんとの絆だ。
どうして私は忘れてたんだろう。大切な物だったのに……!
突然の事に気が動転していたから? お兄ちゃんから助けてもらって安心したから? 言い訳は思い浮かぶけど、私は自分が許せなかった。
角くんが住む家の近くにある田んぼで、私は防犯ブザーを探していた。
暑い日差しの中、朦朧とする意識。それでも私は探し続けた。あの防犯ブザーが無いと、私は駄目なんだ。お兄ちゃんとの絆。その証を失ってしまったら私は……。
何時間探していたのだろう。既に日は傾き、ツクツクボウシとヒグラシが合唱する声を遠くに聞きながら、私は一人、失ったブザーを探し続けた。




