満天の夜空
角家で風呂と晩餐を頂いた俺達は、未だ帰らずに居間で寛いでいた。
ふと掛け時計を見ると、時刻は20時を回ろうとしている。角家へこれ以上の迷惑を掛けないよう、そろそろお暇すべきだろう。
「芹ちゃん、そろそろ家に帰ろうか?」
俺が帰宅を促すと、芹ちゃんは胸に飛び込んで来て、首を横へ振った。
「ヤだ。帰りたくない……お兄ちゃんと一緒がいい」
胸に蹲るようにしがみついた芹ちゃんの髪を撫でながら、視線を常石先生へ向ければ、先生は眉尻を下げ席を立った。
おそらく、芹ちゃんの母親、翠さんへ再び報告を入れるつもりなのだろう。
「えーっと……何なら、泊まってく? アタシは全然OKだけど」
角さんが声を掛けると、芹ちゃんは腕の間から少し顔を覗かせ、その黒曜石のような瞳で俺を見つめた後、ゆっくりと角さんへと向き直り、口を開いた。
「お兄ちゃんも一緒に……?」
「うん、もちOK! ……って言っても、それは平次第だけどね〜」
そう言ってニタリとした笑みを俺へ向ける角さん。
流石に同級生女子の家に一泊するっていうのはどうなんだろうか……とも思うのだが、縋るような瞳で見上げてくる芹ちゃんの手前、無下に断るのも……。
「その……角さん的にはいいの? 俺も一応、男なんだけど……」
「ん〜? もしかして平、何かするつもりなのかなぁ〜?」
悪戯な笑みを浮かべる角さんに、俺は苦笑いを返しながら頬を掻く。そういえば、角さんはこういう人だった。
「いや、しないけどさ……角さんのご家族へ迷惑が掛かるんじゃ――
「あらっ! 家はOKよ。大歓迎〜」
皆まで言う前に、タイミング良く(悪く)居間へジュースを運んで来てくれた角さんの母親――ジュリママから了解を得てしまった。
……四面楚歌とはこの事か。
「お兄ちゃん、駄目?」
「……ちょっと、家に連絡して来るね」
俺は観念して、家へ連絡を入れる事にした。
俺の家は割と放任主義なので、友達の家に泊まる旨を報告すれば、あっさりと外泊許可が下りた。
『お友達の家へご迷惑が掛からないようにしなさいね〜』
そう念を押す母さんへ「はいはい」と適当に応えながら電話を切ったタイミングで、俺は後ろから肩を叩かれる。
「平くん、ちょっと良いかな?」
俺が振り返ると、そこには少し神妙な顔付きをした常石先生が立っており、クイッと庭の方向を指差した。何か内密な話があるのだろうか。
常石先生の後ろを歩き、庭に出た俺は足元へ蚊取り線香を置き、先生へと向き直った。
「先生、翠さんへ連絡着きました?」
「うん。着いた……のだけれど、その事でちょっとね」
バツの悪そうに話を区切った常石先生が、夜空を見上げる。
釣られるように俺も夜空を見上げれば、沢山の星が瞬いており、夏の夜特有の風情を感じた。
煌めく天の川、カエルや虫達の鳴き声に風鈴の音色、少し湿気を含んだ涼しい風……。
「私が今晩、芹を預かっても良いかを尋ねたら、お姉ちゃん……勝手にしていいって答えたの」
「勝手にしていい……ですか?」
星空から常石先生へと視線を戻すと、先生はコクリと頷いた。
「まるで芹へ興味が無いかのような淡々とした言い方だった。私の知ってるお姉ちゃんは……奔放なところもあったけど、もう少し温かみの感じられる話し方をする人だったのに……」
先生の表情が悲痛なものへと歪む。
「だから私、お姉ちゃんに怒ったの『自分の子が心配じゃないの?』って。そうしたらお姉ちゃん、『じゃあ、貴女が心配してあげたら』なんて言うんだから、呆れちゃって……」
口では「呆れた」と言っているが、常石先生の表情からは失望以外の感情も見て取れる。先生にとって翠さんは実の姉なのだ。色々と思うところがあるのだろう。
「やはり、一度きちんと話し合った方が良いですね」
「そうね。平くん、改めて私からも話し合いの席への同席をお願いするね。きっと、芹にとってもその方が良いと思うから」
「はい、勿論。それと今日、芹ちゃんに何があったのか、ですが……」
「その事についても訊いてみたんだけど、お姉ちゃんは知らないって。」
「そうですか……」
先生が一歩近づいて来て、俺の手を握った。
「平くん、芹のケア……君にお願いできるかな? 本来なら身内である私がしなければならない事なのだろうけど、芹が今心を開いている相手は平くんだけみたいだから」
「……解りました。出来る限りの事は」
俺の返答に満足してくれたのか、先生の表情が和らぐ。
「このようなところで、何をなさっているのでしょうか?」
それは突然の事だった。
常石先生の背後。何もない空間であるそこから人の手が現れ、先生の肩を掴んだ。
「――ひっ?!」
驚き竦みあがる先生が恐怖に染まった声を上げ、慌てて振り返る。
「えっ!? ……し…志緒ちゃん?」
常石先生の背後には微笑みを湛えた橋爪さんが立っており、その細められた瞼から覗かせた怪しく光る瞳でジッと先生を見つめている。
「こんばんは、常石教諭。そして……平くん」
「え、あ……こんばんは?」
突然、橋爪さんから挨拶をされた俺は、混乱しながらも挨拶を返す。
「えっと……何で橋爪さんがここに?」
「私も居るよ~」
今度は俺の背後、何もないはずの闇から手がニュルリと伸び、ギュッと俺の手を握った。
「はっ!? え? み…美織?」
驚いて背後を振り返る俺へ「そうだよ、美織だよ~」と呑気に答えた美織も、橋爪さん同様ににこやかな表情ではあるが、やはり言い知れない圧力を放っていた。
「それで……どうして、壮太は先生と手を握り合ってるの?」
「「あっ……」」
慌てて手を放そうとする瞬間、パシャリと音が聞こえた為、音の聞こえた方向へ恐る恐る顔を向ける俺と常石先生の視線の先には、スマートフォンを構えた人影が佇んでいた。
夜闇の中、目を凝らしてその人影を見据えた俺は、そこに佇んでいた人物の名を口にする。
「砂川……さん? な…何で……」
「あの、その……こんばんは、壮太くん」
いや、何がどうなって!? 三人ってホテルに居たんじゃ?!
不敵な笑みを浮かべる美織と橋爪さん、困ったように苦笑いを浮かべる砂川さん、そしてひたすらに狼狽する俺と常石先生……その頭上では満天の星空が輝きを降り注いでいた。




