近くて遠くて怖い距離
結局、角家の婿取り騒動は当人たる樹里亜によって鎮静化された。
途中、アクシデントもあったが晩餐は恙無く終了し、美織と志緒の二人が得物を収めた事を見届けた瑞穂は深い溜息を吐いた。
(二人の謂う、いよいよの事態にならなくて本当に良かったわ……)
瑞穂は身を潜めていた物陰からスクリと立ち上がった。
「ね…ねぇ、二人共。もう遅いし、今日は帰った方が良くないかしら?」
立ち上がって撤収を促す瑞穂であったが、無情にも美織と志緒は首を横に振る。
「壮太が家に帰るまでは、安心できないよ!」
「そうですね、坂梨さんの仰る通りです。有り得ないと信じておりますが、仮に……平くんがご帰宅されずに、このまま角家へ宿泊する事になった場合、あのビッ……いえ、角さんが平くんへ夜這いをおかけになる可能性もございますので」
「……そう」
流石に付き合いきれないと思い始めた瑞穂であったが、何をしでかすか解らない二人をこの場に残して帰る事も出来す、その憂慮から頭を抱えつつも、この場へ残る事にした。
「それにしても……道野辺芹まで居るとはね」
美織の呟きに志緒が頷く。
「ええ……突然、先に帰ると言い出した平くん、連れ立って帰った常石教諭、辿り着いた先は角樹里亜の家、そして、何故かそこへ居た道野辺芹……謎が多すぎます」
確かに謎と言えば謎なのだろうが、瑞穂にはそこまでのミステリーが隠されているとは思えなかった。
寧ろ、志緒の独特な言い回しが無いはずの謎を作り上げているように思えてならなかった。
「確か角さんの弟、ジュリオくんと芹ちゃんは同級生だったわよね? 彼女が角家に居ても然程不思議じゃないわ。それに……壮太くんと角さんもクラスメイトだし、先程の会話から二人が付き合っている訳では無い事も判ったし……」
瑞穂は密かに安堵していた。
壮太が向った先が彼のクラスメイトであり、夏祭りへ一緒に参加した樹里亜の家であった為、もしかしたら二人は付き合い始めたのでは……という不安を抱いていたのだ。
自分の気持ちへ向き合った途端に失恋では、あまりにも報われない。
そんな瑞穂の胸中など顧みる事なく、美織が小さく笑い声を上げた。
「壮太と角さんが付き合ってるって? そんなの有り得ないよ。だって、私と壮太は2年後に同棲する事が(私の中では)決まってるんだから」
「え……?」
美織の発言に固まる瑞穂であったが、直ぐにその真偽を確かめるべく訊き返す。
「……坂梨さんと壮太くんは付き合っていないはずよね?」
瑞穂の問いに「う〜ん」と星空を見上げた美織は、その口端を歪に吊り上げた。
「おおいぬ座のシリウスってさ……一つの星に見えるけど、本当は二つの星が重なって出来ている連星なんだよね。」
今日、プラネタリウム観賞をしてきた志緒と瑞穂にとってはタイムリーな話題であった。
「つまり、私と壮太も連星みたいなものだと思うの。幼馴染として生まれた時からずっと一緒で、きっとこの先も隣で人生を歩んで行く関係……付き合ってるとか、いないとか、そんな事は些細な問題だよ」
夢見る乙女のような惚け顔で語る美織へ反論する言葉を失った瑞穂に対して、これまで静聴していた志緒はクツクツと笑い声を洩らした。
「なるほど、面白い理屈ですね。ですが……連星たるシリウスAとシリウスBの間には相当な距離があるのですよ? その距離がおよそ20auくらいだとして……約30×10の8乗kmは離れているという事になります。近しく見えてとても遠い……まさに、坂梨さんと平くんのようですね」
心底可笑しそうに声を洩らす志緒へ、美織がその鋭い眼光を向ける。
「はぁ? 仮に私と壮太の距離が思ったよりも離れていたとしても、宇宙規模で見れば近しい事に変わりはないし、なにより橋爪さんなんて只の同級生……でしょ? 存在している世界すら違ってるんじゃ、異世界転生でもしない限りは結ばれる事はないよね〜」
痛烈な美織の反論に志緒は微笑みと湛えたまま、瞳だけを凍てつかせた。
「意外ですね。坂梨さんの口から異世界転生などという言葉が出てくるとは」
「壮太の部屋にそういう漫画があったしね。あっ……壮太の部屋にすら入った事の無い橋爪さんには解らないかなぁ〜」
勝ち誇った笑みを浮かべる美織へ、志緒が口元をヒクつかせながら笑い掛ける。
「そういう事ですか。……フフフッ、残念な事に仰る通り、私は平くんのお部屋へ入れてもらった事はありませんが、坂梨さんがその漫画を理解していない事は解りましたよ」
「どういう意味? 負け惜しみかな?」
ピクリと眉を動かした美織。それを見た志緒が確信を得たとばかりに口角を上げた。
「どうやら坂梨さんは異世界転生と異世界転移の違いをご理解されていないようですね。私は平くんが集めている漫画やライトノベル、ゲームをある程度把握させていただいておりますが、確か……異世界転移モノはあっても異世界転生モノは無かったはずです。要するに、坂梨さんの平くんへ対する理解はその程度だという事でしょう」
「……は?」
眉を顰めた美織と黒い微笑みを湛えた志緒の視線が激しくぶつかり、火花を散らす。
夏の星座が輝く下、その瞳を爛々と光らせた美織と志緒が対峙する様を見た瑞穂がゴクリと生唾を飲み込んだ。
相手を射殺す勢いで鋭い眼光を放つ美織は、まるで鬼神の如き壮絶さを感じさせ、一見、穏やかな微笑みを浮かべている志緒は凍てついた瞳から禍々しいオーラを放ち、その風に靡く黒髪から邪竜か何かの化身のようにすら見えた。
(えっ、ちょっ……死っ! この二人、恐ろしいなんて次元じゃないわ……)
見つめ合う二人の傍ら、腰を抜かしそうになった瑞穂であったが、拳を握りぐっと堪える。
(ライバルが多い事は最初から判っていたはずよ。それでも、私は壮太くんを諦めきれなかった。その気持ちを秘めたまま将一くんとは付き合えないから……そんな不誠実な行為をしたくなかったから、私は……)
そこで瑞穂はふと気が付いた。
「あの……そういえば、坂梨さん。将一くんへ先に帰る事を伝えてくれたかしら?」
「えっ? 伝えてないけど? というか私、穴山くんの連絡先を知らないし」
「えー……」
◇ ◇ ◇
その頃、将一は一人でジュゴンの水槽の前に佇んでいた。
「なぁ、ジュゴンちゃん。皆、何処行ったんだろうな?」
将一の前をジュゴンがクルクルと回る。
この人懐っこい雌のジュゴンは将一の黒光りする坊主頭が気に入ったようで、果敢に彼へアピールを繰り返していた。
「おっ? もしかして、仲間になりたそうにこちらを見ているのか? 可愛いヤツだな」
かれこれ二時間近くジュゴンの水槽の前で陣取り、ブツブツと独り言を呟くタンクトップ姿の坊主頭を周りの客が遠巻きに見る。
「なぁ、アイツさっきから危なくね?」
「しっ! あんま見ない方がいいよ……たぶん彼、失恋したのよ」
「その割には顔がニヤけてるが?」
「きっと辛い現実から立ち直る為に、動物に癒やされに来たのよ……ほら、アニマルセラピー? みたいな」
実際、将一は失恋をしていた。だが、同時に新たな恋に目覚めてもいた。
スマートフォンへ新たに追加された連絡先を指でなぞり、将一は頬を緩ませる。
「小夜子さん……」
その時、将一のスマートフォンがけたたましく鳴り、着信を知らせた。スマートフォンのディスプレイに表示された名前を見て将一は叫ぶ。
「そ…壮太ぁあああああ!!」
「えっ、失恋って男に?」
「あ、うん。男……みたいだね」
水族館へ来ていた客からゲイ疑惑を持たれつつある将一であった。
アナヤマン、放置プレイ中。泣
そしてヒドイン達、夜に不法侵入した他家の庭先で修羅場バトルを繰り広げるのは止めましょう。笑




