信頼できる男性
明菜先生の回想話、後編です。
未だ恋愛感情も芽生えていなかった幼き頃の明菜へ、修司は男性に対する潜在的な嫌悪感を刷り込んだ。
修司から悪戯された事を、姉の翠へ相談した事もあったが、姉からは「只の悪ふざけだよ」と笑われてしまい、更には彼女と修司が交際している事を両親には黙っているように言い含められた為、両親に相談する事もできずに、明菜は少し塞ぎがちになった。
明菜も年頃の少女ではあるのだが、男性へ興味を持つ事はなかった。
その理由は明菜に芽生えた、男性に対する潜在的な嫌悪感が、彼女から恋をする為のエネルギーを奪い続けていたからに他ならないのだが、ある日、明菜は、偶々訪れた書店で運命的な出逢いを果たす。
とある書店内の隅に陳列されていた本を手に取った明菜は、新しい世界と出逢い、その瞬間こそ、正しく常石明菜という人間の性的嗜好が確立された瞬間であったのだが、それはまた別の話である。
修司から悪戯された後も度々、彼は常石家を訪れたようだが、明菜は母の帰りが遅い日は友達の家で時間を潰してから帰るようにし、修司との接触を徹底的に避けた。
その後、しばらくして翠と修司の交際関係が終わり、心の安寧を取り戻しつつあった明菜であったが、再び彼女にとって芳しくない事件が起こった。翠がまた新たな恋人を作ったのだ。
『こんにちは、明菜ちゃん。俺は道野辺柾って言います。よろしくね。』
翠が家に連れて来た、柾と名乗る男性は柔和な笑みを浮かべていた。
その表情は穏やかで、翠と以前付き合っていた恋人、土屋修司とは全く異る印象を抱かせた。
修司と違って容姿こそ地味ではあるが、誠実な人柄である事は伝わって来た為、明菜は柾に対して、あからさまな拒絶を示さなかったが、手放しで受け入れる事も出来なかった。
何故なら、柾も嫌悪すべき対象である男性であったからだ。
柾は修司のように両親が留守にしている時を狙って家に押しかけてくる事もなく、明菜に対しても常に優しかった。また、翠を心から大切にしているように見えたが、明菜は意識の中に潜む男性への嫌悪感から、彼を信頼しきれずにいた。
およそ4年に亘る交際を経て、翠と柾は結婚する事となった。
明菜は二人の結婚に反対をしなかった。
4年間に及ぶ付き合いの中で、明菜と柾は少しずつ信頼関係を築いていった為、素直に彼と姉の幸せを祝福しようと思えたのだ。
切欠は明菜の高校受験であった。
同じ地元の名門大学へ通う柾と翠であったが、どうやら、大学受験の際には柾が付きっ切りで翠の勉強を見たらしく、二人の学力には大きな差があった。
明菜もそれなりに名の知れた高校へ進学するつもりでいた為、家庭教師をつけるか、塾へ通うかを考えていたところで、翠から柾に勉強を見てもらったらどうかという提案を受けたのだった。
最初は男性が近くにいるというだけで落ち着かない気持ちになっていた明菜であったが、真剣に勉強を見てくれる柾に対して、少しずつ心を開いていった。
結婚した翠と柾の間に、直ぐに子供が生まれ、明菜と両親は大いに喜んだ。
芹と名付けられた二人の子供は愛らしく、見たものを魅了してしまうような輝きがあった。
明菜から見て、芹を一番可愛がっていたのは義兄である柾だ。
芹を抱き上げた柾の顔は慈しみに満ちており、笑い合う二人を見た時に、明菜はこう感じた。
(この男性は“本当の父親”になれる人なんだ……この人なら、信じられる。)
明菜が唯一、父親以外の男性への好意を自覚した瞬間であった。
二人が結婚し、芹が生まれて数年が経った頃、明菜は姉の家を訪ねた。
当時、大学生であった明菜は暇を持て余しており、久しぶりに姪の芹を愛でようと考えたのだ。
芹は可愛い。将来は自身が理想とする美少女へ成長するであろうと、明菜は確信していた。
『えっ?お姉ちゃん、居ないんですか?』
休日にも関らず、姉の翠は何処かへ出掛けており、家では柾が芹の面倒を見ていた。
『うん。友達……と会う約束をしているんだって。』
力なく笑う柾の様子に、明菜は違和感を覚えた。
基本的に柾は温厚で物静かな性格ではあったが、こんなにも寂しそうに笑う人では無かったはずである。
慈しむように芹の頭を撫でる柾だが、その瞳は哀愁を感じさせた。
何かを諦めたようで……そして、縋るような瞳。
明菜の知る道野辺柾という人物は物静かではあったが、こんなにも悲しい瞳をした人物ではなかったはずだ。
『……義兄さん、何かありました?』
『急にどうしたの?……何もないよ。俺は幸せさ。』
いつものように柔和な笑顔を浮かべた柾の瞳は、やはり力なく揺れていた。
――その一年後、明菜の義兄は交通事故により、帰らぬ人となった。
柾パパは人が好すぎたようです……。




