仄暗い影に苛まれて
常石明菜はアニマルセラピーという心理療法に関心があった。
動物と触れ合うことで、精神的に癒やされ、心の安寧を得られるとされるその方法だが、その中でも彼女が特に関心を持ったアニマルセラピーの手法の一つにイルカセラピーが挙がる。
イルカセラピーを受けて、自閉スペクトラム症に悩む子供の言語能力が回復したり、鬱患者の精神が回復したり、はたまた身体的な損傷の治癒が促進されたりと、その素晴らしい効果を耳にする事はあるが、今現在、科学的な根拠は認められていない。
イルカの発する超音波が人体に好影響を与えているという説もあるが、その効果は不明だ。
勿論、その話の全てを頭から信じている訳ではないが、ある程度の癒やし効果を期待できるのではないかと判断した明菜は壮太をイルカショーへと誘う事にしたのだった。
(平くんが元気になってくれれば良いのだけど……。)
隣を歩く壮太を横目で見れば、その拳に巻かれたバンデージが目に入り、明菜は眉尻を下げる。
(退学はやっぱり、辛いよね……。)
痛々しい拳から、その横顔へと視線を移した明菜は、壮太の瞳を盗み見る。
若い男子らしく、エネルギッシュな力強さを感じさせる目元と、わずかに哀愁の光を湛えている瞳は、明菜に今は亡き彼女の義兄を想い起こさせた。
◇ ◇ ◇
明菜には少し歳の離れた姉がおり、その名を常石翠という。
近所でも美人と評判の翠は明菜にとって、自慢の姉であった。
ある日、小学校から帰った明菜は家の玄関に見慣れない靴が並べられている事に気が付いた。
靴は女性用にしては大きく無骨なデザインをしていたが、当時、まだ幼かった明菜はそれを気に留める事なく、リビングへ向けて「ただいま」と大きな声で挨拶を投げると、途端に二階にある姉の部屋からドタバタと慌ただしい物音が聞こえた。
明菜がリビングへ入ると、母は出掛けてるらしく、テーブルの上に置き手紙とおやつが置かれていた。
ソファーにランドセルを投げ出し、おやつのバームクーヘンに手を伸ばした時、リビングの扉が開き、姉の翠と見知らぬ男性が顔を覗かせた。
『アキちゃん、おかえり。……今日は早かったね。』
バツの悪そうな、引き攣った笑いを浮かべる姉、翠の衣服は少し乱れていた。
『ただいま、お姉ちゃん。今日は書道教室がお休みだったから、早かったよ。』
姉の挨拶へ無邪気に応えた明菜は、次に翠の隣に立つ男性へ瞳を向ける。
整った顔立ちをしているが、その風貌はどこか不良っぽさを感じさせて、明菜は小さく息を呑む。
男性の名前は土屋修司と言い、翠と同じ高校へ通いながら、ヴィジュアル系ロックバンドとして活動をしているそうだ。そして、修司は自身を翠の彼氏であると言った。
妹の明菜から見ても、姉の翠は美人だ。だから、翠にもいつか恋人が出来るであろう事は容易に想像できたが、その相手である修司に対して、明菜はあまり良い印象を抱かなかった。
軽薄そうな風貌も然ることながら、その値踏みするような視線を気味悪く感じたのだ。
その後も、母親が留守の日に限り修司は度々家を訪れた。
明菜としては、姉と修司の交際に口を出すつもりは無かったのだが、ある日、予想外の出来事が起きた。
明菜が家に帰ると、翠の姿が無く、リビングのソファに修司が一人で座っていたのだ。
修司が言うには、翠が居ない理由は彼女がドラッグストアまで買い物に行っているかららしい。
翠がドラッグストアへ行った理由は、そういう行為をする際に必要となるゴムを使い切ってしまった為なのだが、それはまだ幼い明菜に理解が出来無い理由であった。
翠を待つ間、暇をしていた修司は、少し苛立っていた。そして、その苛立ちは妹の明菜が帰って来た事により、さらに高まった。
明菜が先に帰って来た為に、翠がドラッグストアから帰って来たとしても、延長戦に持ち込む事が出来なくなったからだ。
苛立ちから顔を顰めていた修司であったが、一つの名案を思い付き、口角を歪ませた。
『なぁ、俺とちょっと遊ばね?』
リビングから退室しようとする明菜を後ろから羽交い絞めにして、その耳元へ修司が囁く。
その悍ましさから、必死で逃れようとする明菜であったが、体格さがありすぎて、身動きがとれない。
『暴れんなって。気持ちいい事、教えてやっからさ。』
不意に修司の手が、明菜の太ももを弄りだした。
身の毛がよだつような不快感から、鳥肌を立てた明菜の太ももを修司の手が這いまわる。
『流石はJSだな……スベスベじゃねーか。』
厭らしい笑みを浮かべた修司の手が、今度は明菜の胸元へ添えられた。
『何だ、まだ付けてねーのかよ。……ちと萎えるな。』
思い付きから悪戯を始めた修司であったが、本来、明菜くらいの年齢の女子は彼のストライクゾーンから外れており、その胸部の薄さに興が削がれたようだ。
『ただいまー!シュウちゃん、ごめん。遅くなった。』
玄関が開く音と共に翠の声が聞こえ、修司は明菜の拘束を解いた。
『……今度、また遊ぼうぜ?』
明菜から体を離す際に、修司が囁いた言葉は、今も尚、彼女の心に仄暗い影を落としている。
次は明菜先生の回想話パート2、柾編です。




