魔物の住む水族館
大変お待たせ致しました。
薄暗い水族館の中、その瞳を爛々と光らせた坂梨美織は瞼を細めて、常石明菜の背中を見据えた。
(陰湿根暗女……また、何か仕掛けるつもり?)
明菜が駆ける先には、張り付けたような笑みを浮かべる橋爪志緒の姿があった。
一見、長い黒髪を翻し、清楚なワンピースに身を包んだ美少女である志緒だが、うっすらと開かれた彼女の瞳が狂気の光を灯している事を美織は見逃さなかった。
餌を前にして、待てが出来ない駄犬の如く駆け寄ってくる明菜の背後、悠然と佇む美織の姿を志緒もまた視界の隅に捉えていた。
(勘付かれましたか。流石は性悪幼馴染さん……と、言っておきましょうか。)
志緒の考案した“水も滴る良いおっ〇い作戦”が成功するか否かは、如何に平壮太と二人きりの時間を長く稼げるかに懸かっている。
二人きりの状況を作り出す為には、兎にも角にも彼の周りを彷徨く雌犬共を排除する必要があるのだが、その際、やはり最大の障害になるのが、壮太に張り付いている美織の存在であった。
(忌々しい事ですが、地道に処理して行きますか。)
美織を一瞥した志緒は誘うような微笑みを明菜へ向け、踵を返した。その背中から目を逸らした美織もまた踵を返し、壮太の腕へと自身の腕を絡ませた。
(壮太は、私の壮太なんだから……。絶対に誰にも渡さない!)
明菜を引き連れた志緒は、壮太達が観賞しているエイの泳ぐ水槽から離れ、受付近くにある売店へ訪れていた。
「志緒ちゃん、何か欲しい物でもあるの?」
明菜からの呼ばれ方が“橋爪さん”から“志緒ちゃん”へ変わっている事に気が付いた志緒であったが、敢えてそこには突っ込みを入れず、眉尻を下げ、商品陳列棚の一角を見つめる。
志緒の視線を追うように、明菜も棚の一角へ目を向ければ、そこには「売り切れ」と書かれた札が掛かっていた。
「イルカのキーホルダー?」
「はい。欲しかったのですが、残念です……。」
完全に嘘である。
志緒はイルカのキーホルダーを欲してはいないし、キーホルダーが売り切れである事も、入館時にすれ違った観光客の会話から把握していた。
では何故、彼女がこの場に来たのか。それは、明菜を壮太から離れた場所へ誘導する為に他ならない。
悲しそうに目を伏せた志緒の横顔を見つめながら、明菜は暫し思案を巡らせた。
「二階にも売店があるらしいから、もしかしたら、そこにはキーホルダーあるかもよ?」
明菜がその言葉を口にした瞬間、志緒はほくそ笑んだ。
先ほど、水族館の見取り図を見て、それを完全に頭へ入れた志緒も、売店が二階へある事を当然ながら知っていた。
明菜は手持ちのパンフレットで売店が二階にもある事を知ったようだが、そこまでは志緒の予測通りの行動であった。
口角が歪に吊り上がりそうになるのを堪えつつ、志緒は自身の足を摩る。
「足、どうかしたの?」
「はい。慣れないヒールを履いて来た所為で、少し痛めてしまったみたいです。」
(さぁ、迷惑天体女教師……お行きなさい!)
足を摩りながら眉尻を下げ、見上げてくる志緒の瞳に明菜は鼻息を荒くする。
その表情を見た、志緒は確信した。
明菜の狙いが壮太では無い事と、次に彼女が発するであろう言葉が、志緒の思惑通りのものであるという事を。
「私――
(さぁ、言いなさい!そして、行きなさい!)
――ちょっと二階の売店を見てくるわね。」
(上出来ですよ、先生。フフフ……。)
志緒の「そんな……流石に申し訳ないです」という言葉を「いいから」と軽く流した明菜が立ち上がる。
その場で明菜の背中を見送った志緒であったが、その姿が見えなくなったと同時にすくっと立ち上がり、壮太と合流する為に歩き出した。その口元を歪に吊り上げながら。
ジュゴンが泳ぐ水槽がある方へと歩いて行く壮太の背中を見つけた志緒は、音も無く彼の背後へ張り付く。
そのまましばらく歩くと、志緒の姿が見当たらない事に気が付いた壮太が振り返ろうとした。
(――っ!ここですね!)
壮太が振り返るタイミングを見計らった志緒が爪先立ちになり、彼と顔の高さを合わせる。
「そう言えば、橋爪さ――んぉう?!」
不用意に振り返り、志緒と接触しそうになった壮太であったが、持ち前の優れた反射神経で、間一髪、彼女との接触を回避した。
惜しくも狙いを回避された志緒であったが、あと少しで壮太と唇が触れ合いそうな距離まで接近する事ができ、興奮から頬を紅く染めた。
(今の……絶対、狙ってた。)
壮太は今のキス未遂を偶然のアクシデントだと考えたが、彼の隣を歩く美織は、それが志緒が狙ったものだと気が付き、激しい憤りを感じていた。
(壮太のファーストキス……絶対、奪われるわけにはいかないのに!!)
憎悪の炎を灯した美織の瞳と、志緒の氷のように無機質な瞳とが睨み合う。
(何ですか、坂梨美織……貴方は今まで、散々、平くんを独り占めしていたではありませんか。)
(それとこれでは話が違う。壮太の唇を狙うなんて、許せない……。)
交わる視線に激しく火花が散る。
それは、まるで憤怒する鬼神と、それを嘲笑う邪竜が対峙するかの如き強烈な威圧感となり、場を侵食してゆく。
二人の発する強烈な威圧感を察知し、それを畏怖したジュゴン達が逃げてゆく中、鈍感な一匹のジュゴンが壮太達の方へと近づいて来た。
壮太と将一が、近づいて来たジュゴンへ目を向けた瞬間、美織と志緒は動き出した。
鬼神と邪竜は闇のオーラを放った。
ジュゴンA、B、Cは恐れ戦いている。
鬼神と邪竜は殺意の視線を放った。
ジュゴンA、B、Cは逃げ出した。




