不遜な横着者
誤字報告くださった方、ありがとうございました。
それと、蛇足になりそうだったので、閑話を一話削除しました。
感想をくださった方、申し訳ございません。
その日、道野辺芹が自室で夏休みの宿題をしていると、突然、廊下をドカドカと無遠慮に歩く音が聞こえてきた。
(また、あの人が来た……。)
芹は下唇をギュッと噛み締めて、鉛筆を握る手に力を込める。
やがて足音は芹の部屋の前で止まり、次に部屋のドアをガンガンと乱暴に叩く音が聞こえてきた。
「おい、ガキ!翠は何処行った?」
部屋の外で男が喚く。
気が立っているのだろうか。芹にはその声がいつも以上に怒気を孕んでいるように思えた。
「……ママは仕事です。」
「あぁ?!仕事ぉ?」
声の主は土屋修司。芹の母親である道野辺翠の彼氏である。
修司は金が必要になると翠へ無心にやってくる。
今朝も翠から借りた金で、今までパチンコに入り浸っていた修司であったが大負けして、その金を全て擦ってしまった為、彼は今、ひどく苛立っていた。
「クソッタレがっ!」
修司が八つ当たりをするように、芹の部屋のドアを蹴飛ばした。
(パパが一生懸命働いたお金で建てたお家なのに……。)
芹は部屋から飛び出して「出ていけ!帰れ!」と父親との思い出が宿る大切な家から修司を追い出したいと思ったが、それは出来なかった。
まだ子供の芹にとって、大人の男性が怒号を上げる姿は恐怖そのものである。
部屋の鍵を開けて外へ飛び出し、その恐怖と真っ向から対峙する事など出来ようはずもなく、芹は只々、悔しさから震えていた。
「おい……ガキ。お前、ヨウツーバーやれよ。」
突拍子も無い提案……いや、命令をされて、芹は抗議の声を上げる。
「嫌です。何ですか?いきなり……。」
「何でもいーだろがっ!良いじゃねぇか、○リコン共からはちやほやされるし、有名になりゃあ、金だってガッポリ手に入るんだぜ?」
「……興味ありません。」
その答えに憤慨した修司が芹の部屋のドアを蹴飛ばし叫ぶ。
「クソガキが!舐めてんじゃねーぞ!」
普通の小学生であれば、恐怖で竦み上がり涙を流すような状況ではあるが、芹は目尻に涙を溜めたまま、それを零さないように必死に堪える。
一度、涙を流してしまえば止められなくなる。芹にはそれが解っていたのだ。
(パパ……どうして死んじゃったの?助けて、お兄ちゃん……。)
何度か部屋のドアを蹴って落ち着いたのか、不意に修司は声を和らげた。
「なぁ、俺がヨウツーバーやってるチャンネル見た事あるか?」
「……あります。」
修司はヨウツーバーをやっている。……とはいえ、全く無名の“自称”ヨウツーバーだが。
確かに修司はギターという特技を有してはいるし、昔はバンドを組んでいた事もある。
自身がギターを弾いた動画をサイトへアップロードすれば、多少の反響を得る事は出来たのだが、それで生活できるほどの収入を得る事は到底不可能であった。
何せ、ヨウツーバー数は分母が多く、その中にはプロのミュージシャンや、その道でトップと取った人達もいるのだ。その中で、プロデビューすらしていない修司のチャンネルを観たり、まして、ファンになったりする人間など、数えるほどにしかいなかったのだが、それでも自称さえすれば、確かに彼もヨウツーバーではあるのだ。
「芸能人になったような気分になれて、凄く良いんだぜ?」
芹には修司の言っている事が真実だとは思えなかった。何故なら、酒を飲んで潰れた彼はいつも「俺はプロになるはずだった」とか、「俺はこんなところで燻っていていい人間じゃねぇ」などの愚痴を垂れているからだ。
社会経験の無い子供の芹から見ても、修司が“成功者”であるとは到底思えなかった。
実際、修司は成功者とは言い難い生活をしている。ギタリストを夢見てバンドを組んでいた高校時代が彼のピークであり、その後は転落する一方であった。
数々のオーディションには落選し、高校は中退。ミュージシャンの夢を諦め切れずにアルバイトをしながらバンド活動を続けるも、直ぐに挫折。今は翠のヒモと言っても過言ではない。
それでも、生まれ持った顔の造形の良さと、自身を誇張する発言で、周りの人間を惹き付ける能力はあったのだが、容姿は年齢と共に徐々に衰え、言葉も錆びついて来ていた。
(クソが……ガキをネットに晒せば、俺も勝ち組になれるかもしれないってのによ。)
修司は芹の容姿の良さに目を付けた。
容姿に優れた修司と翠の血を受け継いでいる芹は、やはり容姿に優れている。
修司はその美少女である芹に、際どい恰好をさせてヨウツーバーをやらせれば、自身のチャンネルが潤う事になるだろうと考えていたのだ。実際、芹くらいの美少女ならば、話題になるであろうが、芹はそれを望まなかった。
「すみません……嫌です。」
「クソガキがっ!」
修司は芹が自身の実子である事を知っている。そして、彼は子供を自身の所有物であると考えている。故に、修司は自身の思惑通りに芹が動かなかった事へ腹を立てた。
もう一度、芹の部屋のドアを乱暴に蹴り、舌打ちをした修司は不機嫌そうにドカドカと廊下を歩くと、そのまま家の外へ出て行った。
「う…ううっ……嫌……嫌だよ、もう……。」
芹の目から、今まで我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出す。
修司が適当に耳障りの良い言葉を並べて、自分を利用しようとしている事を、聡明な芹は理解していた。そして、それを拒否すれば、傲慢な修司が怒り出すであろう事も。
今まで、修司から手を上げられた事は無かったが、今後もそうであるとは限らない。
(パパ……お兄ちゃん……。)
芹は縋るように自身のランドセルへ手を伸ばすが、いつも付けているそれが見当たらなかった。
(そうだ……夏祭りの日に、捨てられちゃったんだ……。)
それは壮太から贈られた防犯ブザーであった。
芹にとってあの防犯ブザーはお守りのような物であり、父親以外の人間から貰った唯一の“形のある優しさ”であったのだ。
芹の家には固定電話が無く、自分のスマートフォンも持っていない為、聴きたい時に、壮太の声が聴けない彼女にとって、彼から贈られた防犯ブザーはお守りにして、精神安定剤でもあったのだ。
(探しにいかないと……。)
芹は一人、家出て歩き出した。
この惨状、壮太が知ったら……?




