最も私を愛してくれる人
神社から道野辺芹と角樹里王が用を足す為に、角家へ向かいおよそ8分。二人は角家から再び神社まで向かおうとしていた。
角家から神社までの距離ならば、本来、もう神社へと戻っていてもおかしくない時間である。
樹里王にとって誤算だったのが、芹の準備に予想以上の時間が掛かった事だ。
芹は浴衣で祭りに着ている為、帯を締めなければならない。いくらその帯がワンタッチ帯と呼ばれる簡単に装着できるものであっても、普段、浴衣を着慣れていない彼女が手間取るのは当然の事であった。
(最短で神社まで辿り着くには……)
根が真面目な樹里王は焦っていた。
砂川瑞穂へ自身が「10分で戻ります」と約束した以上、それを反故にしたくはなかったのだ。
角家から神社の境内へと続く階段の昇り口までは、およそ400mの距離がある。浴衣を着た芹を連れてその距離を2分で行く事は難しいであろう。秒速1.5mの小走りで向かったとしても、267秒……つまり、4分半程度を要する計算になるからだ。
そこで樹里王は芹に提案する。
『道野辺さん、近道を使おうか』
樹里王の言う近道とは、民家裏の田んぼを突っ切って神社まで向かうルートの事だ。
樹里王と芹は共に草履を履いているが、田んぼの横を走る用水路側の畦道ならば、あまり草が茂っていない為、比較的通行しやすい事を樹里王は知っていたのだ。
『ご…ごめん。道野辺さん……』
『いいから、じっとしてて』
神社まで道程の半分くらいを走った時だった。泥濘んだ畦に足を取られた樹里王が転倒し、用水路へと落ちてしまったのだ。
涙を溜めて、足を抱える樹里王。足を捻挫してしまったのかもしれない。
芹は逡巡する。芹の力では用水路から樹里王を引っ張り上げる事はできない。誰か大人を呼びに行くべきなのだろうが、樹里王をここで一人置いていく事にも気が引けた。
(お兄ちゃん……)
心細さから、芹は心の中で壮太を呼ぶ。
父親を交通事故で亡くし、母親からは充分な愛情を貰えず、いつも一人泣いていた芹にとって、唯一愛情を注いでくれる年上の男性であり、彼女の“パパ”と同じように優しい瞳をした“お兄ちゃん”を。
ただ、芹が壮太に向ける感情は父親に対するそれとは少し異なる。当の壮太は気が付いていないが……。
芹が一度、田んぼから出ようと、民家の間から道路へ出た時だった。
「うぉ!ビックリしたで〜」
ちょうど道路を歩いていた一人の男とぶつかりそうになり、男が驚きの声を上げた。
男の容姿はお世辞にも品が良さそうだとは思えなかった。金色に染めた頭に浅黒い肌。耳にはジャラジャラとピアスを付けており、その軽率さは樹里王の姉である樹里亜よりも遥かに上に思えた。
だが、芹は男を見て思った。おそらく、この人は大丈夫な人だと。
一人公園にいる間、芹は色々な人を見た。無邪気に走り回る子供や、その保護者。中には中学生くらいの男女が口付けをしているところに出くわした事もあった。
その中には稀に異質な人間がいた。舐るような気色の悪い視線を芹へ送る人間がいたのだ。
美少女である芹はそのような視線に晒される機会が多く、非常に敏感であった。だが今、芹の前に立つ男からはその視線を感じない。
故に芹は彼を大丈夫な人間であると判断した。
「あの……お願いがあるのですが……」
「ん? 何なん?」
ポケットからスマートフォンを取り出そうとしていた男の手が止まる。
「友達が用水路に落ちてしまったので、助けてもらえませんか?」
「えー……面倒いな。そんなん、自分の親とかに頼めばええんちゃう?」
確かに、男の言う事は一理ある。ここから角家までは200mくらいで着く程度の距離しかない。
角家まで走れば、助けが呼べる。
だが、角家に現在居るのは、樹里王の祖父母と母親だけだった。父親は夏祭りの手伝いに行っており、不在らしい。
いくら樹里王が小柄な小学生とはいえ、用水路から引っ張り上げる為にはそれなりの力がいる。
救助の成功確率で言えば、明らかに目の前の男の方が上であると芹には思えたのだ。
「大体、俺、友達待たせとるでな。はよぉ〜神社まで行かなあかんのや……」
「……!」
神社。おそらくそれは芹達が向かおうとしている神社の事であろう。
「神社まで、私が案内します」
ここから神社までは近い。夜でなければ、この男も簡単に辿り着く事が出来たであろう。だが、その事を知らない男には夜闇の中、闇雲に神社を探すよりも、目の前の少女に案内させた方が得策だと思えた。
「ほんなら、ええで。せやけど……汚れるような場所だったらアカンで」
「あ…ありがとうございます! お願いします」
芹が男を連れて、樹里王が動けなくなっている用水路まで向かうと、樹里王は相変わらず、足を押さえて立ち上がれずにいた。額には汗が浮かんでいる。必死に痛みに耐えているのだろう。
「こらアカンな」
そう呟いた男の口角が、何故かほんの少し釣り上げたように芹は感じた。
(……?)
芹は隣に立つ男の横顔を盗み見る。
男の顔を見た瞬間、芹は叫び出しそうになった。
何故なら、男が樹里王を見つめる瞳は大丈夫じゃない人のそれへと変貌していたのだから。
汚れるのが嫌だと言っていたその男は、躊躇うこと無く用水路へと降り、芹へ指示を出す。
「お嬢ちゃん。他に人、呼んできてもろてええか?」
「え……?」
「友達、足怪我しとるようやし、お兄さん一人だけやと、ちょっと難しいでな」
男の言動に不自然さは無い。だが、芹は言い知れない恐怖を感じた。
このまま男の指示に従って、他の大人を呼びに行っても良いものかと逡巡する。
「どないしたん? はよぉ〜呼んできてもろてええか?」
芹を急かすように男は少し強い口調で再び指示を飛ばす。
(どうしよう、お兄ちゃん。私、どうすればいいの?)
混乱する芹の脳裏に、壮太の笑顔が思い起こされる。
『危ないと思ったら、これを使って』
それは壮太から芹への初めてのプレゼント。防犯ブザーであった。
『勘違いかもしれない……そう躊躇する事もあるだろうけど、芹ちゃん。それでも、俺はこれを使う事に躊躇して欲しくない』
そう言った壮太は、芹の頭を優しく撫でながら続けた。
『もし、勘違いだったら、俺が代わりに謝ってあげる。……俺にとっては、大切な芹ちゃんにもしもの事があるのが一番怖いんだ』
(お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん! 大好きなお兄ちゃん! 芹……躊躇わないよっ!)
夜闇の中、芹からピンを引き抜かれた防犯ブザーが、闇を切り裂くような絶叫を上げた。
ジュリオくんがメス堕ちしませんように……。(祈り)




