雌犬はいらない
【橋爪志緒】
私にとって、男性とは恐怖と嫌悪の対象だった。
小学生の頃から、私は体の一部……胸が同年代の子達に比べて、大きかった。
学校の男子達からは“デカパイ女”と揶揄われ、いつも泣いて家に帰っていた記憶がある。
ある日、私は男子達の揶揄いに堪えられなくなり、密かに担任の先生に相談した。
担任の先生は新任でまだ若く、つい数年前までは大学生だったそうだ。
一人っ子の私にとって、先生は“先生”よりも“兄”のような感覚だった。
だから、私は先生に打ち明けた。
――あの男は兄などでは無かった。
放課後、二人っきりの教室で、クズは私の相談に乗るふりをして、肩を抱き、手を握ってきた。
その時のクズの瞳はまるで得物を見付けて舌なめずりをする爬虫類のようであった。
卑猥に歪んだ口元から舌を出し、私の耳を舐めるかのように囁く声。
『先生に全部まかせなさい。きっと、悪いようにはしないから。』
気持ち悪い……気持ち悪い、気持ち悪い!!
クズの手が私の胸に伸びてきた瞬間、教室の扉が開いた。
入ってきたのは、教頭先生だった。
『何をしているのかね?』
教頭の言葉にあたふたと言い訳を始めるクズは、最後に私に同意を求めた。
その瞳は「同意しなかったら、分かるな?」という脅しが込められたものだった。
すごく怖かった……だけど、私は――
『教頭先生、助けて下さい!』
次の日、クズは学校に来なかった。どうやら何処か別の学校に飛ばされたらしいのだが、詳しくは分からない。
懲戒免職にならなかった事に不満はあるが、最悪の事態は免れた。
でも、私は教頭に感謝する気にはなれなかった。
何故なら、教頭に先日の事情を説明している間、彼の視線はずっと私の胸に向けられていたのだから。
その舐めまわすような気色悪い視線からは、彼もクズと同類である事が覗えた。
やがて私は中学生になった。
益々、胸が大きくなった私は、それを隠すようにいつも猫背で歩くようにした。
中学生になると、男子から直接揶揄られる事は無くなったけど、かわりにいやらしい視線を向けられる事が多くなった。
クズや教頭と同じ瞳。
その瞳から逃れるように、私は前髪を伸ばし、世界との隔たりを作った。
高校生になってしばらく経ったある日、私は本を胸に抱き、渡り廊下を歩いていた。
その時、突然、私の方へサッカーボールが飛んできて、物理的な意味で、それが弾んだ。
驚いて本を取り落とした私の胸に、サッカーボールが飛び込んで来たのだ。
弾む私の胸を見て、ボールを追いかけてきた男子達が息を呑む音が聞こえる。
(いやだ……まただ。また、あの視線だ。)
またあの瞳を向けられる……そう思った私は怖くて足が竦んでしまう。
その時、誰がかサッカーボールを拾い、男子達の方へ投げた。
その誰かは、男子達に「気をつけて下さいよ」と、少し怒気を孕んだ声で注意した後、落ちた本を拾い、私に手渡してくれた。
「はい、これ。」
そう言って本を手渡す彼の瞳は……怖くなかった。
それでも、私はひったくるように彼から本を奪い、胸に抱える。
それは、無意識に胸へ注がれる視線を遮る為の行動だった。
「……今まで大変だったね。よくネt……堪えたね。」
彼は優しくも、切なそうな瞳で微笑みながら、そう言った。
彼は……彼だけは違った。初対面のはずの彼だけが解ってくれた。
クラスメイトに胸が大きくて悩んでいる事を相談した時、「はぁ?それ自慢?」と言われた事があった。
母親に相談しても、ブラを買うお小遣いを渡されただけだった。
彼だけは解ってくれた。先の言葉から、彼が本気で私を慮ってくれた事が覗えた。
私は彼の瞳を見る。
彼の視線は私の瞳に真っ直ぐに注がれていて、決してクズやハゲ、その他の男子達のようにいやらしい目で私の胸や太ももを見たりしない。
私は彼の事が知りたくなった。
彼の名前は“平壮太”くんで、同じ学年の普通科に所属する生徒だった。
平くんは毎日、放課後に図書室で勉強していた。
私も本を読む事が好きなので、偶に図書室へ行くことはあったが、彼が放課後に図書室で勉強している事を知ってから、毎日通うようになった。
平くんは凄い。
普通科なのに、特進科の生徒並……いや、それ以上に勉強を頑張っている。
机に向かう彼の直向きな瞳を盗み見る。
やっぱり、彼の瞳は違う。ここまで自分を律し、努力できる人だ。担任や教頭、そこらの有象無象のように群れた発情雄猿共とは全く異なる瞳を持つ人間なんだ。
私には解かる。きっと、私には彼しかいない。
彼だけが私の唯一の理解者にして、私が愛することのできる男性。
私は絶対、彼と結ばれる。そうでなくてはならない。
だから、だから――
(確か、坂梨美織……でしたか。あの幼馴染の女が邪魔ですね。)
しおっちも覚醒。後は……?