六つの戒め
恋愛を題材にしたライトノベルやアニメなどは星の数ほど存在する。
そして、その大多数の作品において主人公は所謂“平凡”であるとされている。
中には容姿や能力が非凡な主人公もいるだろう。
だが、恋愛作品を楽しめるか否かは、主人公へ感情移入できるか否かにも深く関わってくる。
故に、主人公はできるだけ一般的な能力かつ、平凡な容姿、立場にある人間である方が感情移入という観点からは望ましいのかもしれない。無論、一概には言えないが。
では実際、恋愛作品の定番のように、平凡な主人公と超絶美少女、又は美男子との恋愛物語はありえないのであろうか……?
――そんな事は無かった。
初めて我が子が笑った時、涙が出そうな程に嬉しかった。
初めて我が子が歩いた時、涙が出そうな程に嬉しかった。
初めて我が子から“パパ”と呼ばれた時、嬉しすぎて涙が出た。
その子が本当は我が子ではなく、妻と他の男との間に出来た子だと判明した時、不思議と涙は出なかった。
俺は理解した。
ああ……やはり、俺は物語の主人公などでは無かったのだと。
どこまでも平凡な俺と、学園のアイドル的存在であった妻。
そんな二人が偶然出逢い、恋に落ち、そして困難を乗り越えて結ばれる。
恋愛物語では有り勝ちな話ではあるが、実際に平凡な主人公と超絶美少女は結ばれた。
これが物語の世界であったのなら、ハッピーエンドで間違いなく大団円だろう。
だが、現実にはハッピーエンドの向こう側へと世界は続いていた。
ハッピーエンドは“エンド”では無く、今現在の状況を表す言葉に過ぎなかった。
そんな簡単な事に気が付けなかった俺は、いつの間にか死んでいた。
精神的にという意味ではなく、生物的な意味での死。
事故だった。
ひどい精神状態の中、夜の街を彷徨っていた俺は(おそらく飲酒運転の)車に轢き逃げされ、あっけなくその人生を終えた。
せめてもの救いは血の繋がらない我が子の為に、死亡保険金を残せた事か。
血は繋がっていなくても……俺は我が子を愛していたから。
爽やかな朝の風に亜麻色の髪を靡かせながら、俺の隣を歩く少女がいる。
「それでね~、昨日テレビでやってた――」
愛らしい笑顔を俺に向けて、他愛のない話題を楽しそうに話す彼女は俺の幼馴染、坂梨美織だ。
十人に聞けば十人が彼女の容姿をこう称するだろう……“美少女”であると。
俺、平壮太は数年前までは普通の男子学生であった。
学力は中の下程度、運動は比較的得意な方だが、特別に何かスポーツをしているわけではない。
趣味はテレビゲームとカラオケで、交友関係もそれなり。
何処にでもいるような男子学生、それが俺だった。
中学生に上がった頃、俺は急激な視力の低下を感じた。
両親からはテレビゲームのやり過ぎだと叱られ、俺自身もそう思っていたのだが、その視力低下の進行度は明らかに異常だった。
特に左目の視力低下が著しく、徐々に俺の左目はコンタクトレンズでは矯正不可能なレベルまで視力が低下していった。
趣味のテレビゲームを両親から禁止されないようにと、視力の急激な低下を誤魔化してきた俺だったが、流石にこれには焦り、両親に連れられて病院へ行った時にはもう手遅れ。
俺の左目は円錐角膜という、角膜の菲薄化が起こる疾患である事が判明し、角膜内に急速に出来た水腫により、角膜が強烈な混濁状態に陥り、俺の左目は使い物にならなくなっていた。
その後、運良く角膜移植を受けられる事になった俺は、移植による強い拒否反応に見舞われる事もなく、視力を取り戻し、普通に生活ができるようになったのだが……一つ、問題が生じた。
角膜が俺に馴染むにつれ、毎晩、同じ夢を見るようになったのだ。
否、それは夢と言うにはあまりにも生々しく、もはや記憶と言えるものだった。
心臓移植を受けた人の食べ物の好みが、その心臓の持ち主であったドナーと似たものになる例などは俺も聞いたことがあったが、これはそのレベルを遥かに超えていた。
瞳を閉じれば、まるで自分の記憶の様に瞼の裏に投写される夢。
とある平凡な男性と美しい妻が紡いだ物語のような恋愛の記憶と……その終幕。
その男性が誰であるのか、この夢が、記憶が角膜移植の影響なのか、俺には解らない。俺の主治医にも訊ねたが、医者にも解らないらしい。
この現象が霊的な何かなのか、はたまた科学で説明できるものなのか、角膜移植が只のトリガーになって、夢で見る光景が実は俺の前世の記憶が呼び覚まされたものだとか何とかいう、スピリチュアルなものなのかは全く解らないし、正直そこはどうでもいい。
問題はこの記憶により、俺の魂に刻まれた“恐怖”だ。
俺だって一般的な思春期の男子だ。恋愛に興味がないわけじゃない。……寧ろ、大いにある。
冒険活劇も良いが、ラブコメ、純愛……恋愛をモチーフにしたアニメやゲームも好き……だった。
新たに宿った忌まわしい記憶により、俺はエンディングのその向こう側が幸せであると確信できなくなってしまった。
ハッピーエンドの“後”へ不安を抱くようになっていたのだ。
そんな俺は、ある時期からNTRものと呼ばれるジャンルの作品を読み漁るようになった。
NTR――所謂、寝取られと呼ばれるその作品を沢山読み込んだ俺は、何か大切なものを失った。
救いを求めるようにページを捲れば、その希望は絶たれ、読んだ事を後悔する。
それなのに、ページを捲ることを止められない。
NTR作品が持つその魔力により、俺の純情は破壊されていった。
中には二次創作もあり、大好きだった恋愛作品のヒロイン達が主人公を裏切り、快楽に溺れて行く様を俺は唇を噛みしめながら見続けた。
そして、最後は作中のヒロインと、記憶の“妻”が重なり、激しい動悸に見舞われ、吐き気を催す。
それでも、俺はページを捲る。ハッピーエンドの向こう側にも一握の幸せがある事を切望して。
矛盾した行為だった。自分でも理解していた。
俺は芽生えた恐怖を消化するために、敢えて同じ恐怖に触れる事を選んだ。
毒を以て毒を制す――ことわざ通り、俺はその恐怖への耐性を得る事に成功したが、代償に純情を失ってしまった。ハッピーエンドが信じられなくなった。
それでも、永遠の愛があると……ハッピーエンドを信じてもいいのだと、俺は思いたかった。
だから、俺は心理学や神経学的な観点から、寝取られを考えてみる事にした。
分かった事は、寝取られはノンフィクションでも有り得るという事だった。
人は快感を求めて止まない生き物だ。それを感じなければ、幸せである事に気が付けない。
楽しい、嬉しい、気持ちが良い……全て、広義においては快感だ。
故に人は快感を求めて、向上して行けるし……時に堕落する。
人間とはそういう生き物なのだ。そう考えれば、何という事はない。
永遠の愛という幻想を捨て去ってしまえば、見えてくるものがある。
恋愛感情が有限であると割り切ってしまえば、その答えに辿り着く。
条件さえ揃えば、人は誰しも寝取られる可能性を有する生き物だと。
それでも幸福を……愛を求めて止まないのが人間だ。散々NTRもので心を折られた俺だってしかりだ。
好きな人には愛されたい。
だけど……もう二度と愛しい相手を奪われる思いを味わいたくない。
であれば、どうすべきか……?
それは可能な限り、寝取られる危険性、つまり“ネトラレリスク”を減らす事を考えるべきだ。
その為に俺は己に六つの戒めを架し、ここに宣言する。
一つ“び”、美少女は敬遠せよ。
一つ“し”、慎重であれ。
一つ“よ”、弱みを見せる事なかれ。
一つ“う”、浮気は許すまじ。
一つ“じ”、自分を磨くべし。
一つ“よ”、嫁を定めたのなら、躊躇するべからず。




