捌采
孔邸において、雪麗の世話係筆頭にあたる女性は、名を太鳳という。
妙齢の女性ではあるが独身で、年若い頃より少女の成長を見守ってきた一人でもある。
やや渋みのある柿色の髪と瞳を持ち、火を扱う生活魔法を得意とする他、美容・髪や肌の手入れに関することには、人一倍優れた腕を持っていた。
「…………幻聴でなければ、ようやっと、わたくしの思うままに姫様を飾り立ててもよい、と?」
太鳳がなぜか涙を滲ませるのを若干の苦笑いを浮かべて見つつ、陽騎がいかにも、と頷く。
「姫の晴れ舞台ですから、とびきり相応しい装いで挑まねばなりません。
その過程で、うっかりあの朴念仁がころりと落ちてしまったとしても、致し方ありませんね?」
「ええ、ええ。勿論ですわ。
あのお方も姫様も、お互いを大切に思うがあまり、ご自分のお気持ちが見えなくなっておられると、わたくしも前々から思うておりました。」
「全くもってその通りです。
陛下も以前からそれとなく気にしておられるのですが、なにぶん、うちの殿下が……」
「ああ……、姫様をお任せする相手は、御自ら見極めると宣言なさった、あれですか……」
「なぜ、ご自分でご自分の首を絞めておられるのか……」
はあ、とため息を吐く二人。
傍目から見ても、お互い、他の誰よりも想い合っていることは明白なのに、当人達だけが心を強ばらせて、頑なに幸せになることを遠ざけているように見えるのだ。
長い年月を近くで見守ってきた陽騎や太鳳だからこそ、苦しんできた青劉の姿も、心を砕いて寄り添ってきた雪麗の姿も、脳裏に焼き付いている。
失う恐怖を忘れてはいけないが、怯えているばかりでは、時は止まったままだ。
彼らは、大切な主人と少女が、お互いの心を交わし合う日を、誰よりも願っていた。
「太鳳さん?……なにかよいことでもあったのですか?」
不思議そうに小首を傾げる少女の、太陽のような髪をくしけずりながら、笑って頷く。
「ええ、姫様。
こうして、わたくしの大切な姫様を日々お世話させて頂いて、太鳳はこれ以上ないほど嬉しゅうございますよ。」
「ふふ。私のほうが、日々貴女に感謝することばかりです。」
嬉しそうに顔を綻ばせる雪麗に微笑み返し、陽だまりのように艶やかな金色に香油を梳きこむ。
「さて、姫様。
抵抗がおありでしょうが、本日から少しずつ、お化粧をしてみましょう。
舞を奉上する日までは、まだ少し時間がありますが、お肌の調子を整えてゆかねばなりません。」
「ええ。学院の同級生たちにも、激励の言葉を頂きましたわ。
私を選んで下さった方々に恥じぬよう、務めねばと思っております。
色々、教えてくださいませ。」
根が真面目な雪麗らしい言葉に思わず微笑んで、太鳳が紅筆を取る。
「(わたくしにも、お二人が幸せになるお手伝いをさせて下さいませね―――)」
夕刻。
宮廷から戻った青劉は、屋敷の一角がなにやら騒がしいことに気が付く。
「何事かあったようだね。陽騎、先に行って確認してきてくれ。」
「はい、我が君。」
当然、陽騎は何が起こっているのかを把握しているが、青劉に言われるがまま、屋敷の奥へと入っていった。
青劉は訝しみつつも、外套として羽織っていた紗衣を取り敢えず脱ぎ、控えていた使用人に預ける。
そうして、後を追いかけた皇弟が見たものは。
広間の中央で、くるりくるりと蝶々のように舞っている少女。
足運びは少しも危なげなく、裾をさばく度、簪の鈴の音が辺りにしゃん、しゃらら、と響いていた。
身に纏った深い茜色の着物には、大輪の牡丹の華が咲き誇り、美しく結い上げられた髪が、燦然と広間の照明を反射して輝いている。
豊穣と国の末永い繁栄を願う舞は、視線の動かし方、指先の所作ひとつ取っても洗練されており、美しく流々と、華姫の祈りが見事に表現されていた。
もともと雪のように白い肌が、きめ細やかに整えられ艶めいており、紅をひと刷毛差した唇が、まるで熟れた果実のように、香り立つような色気を放っている。
そこには、青劉が親のように慈しんで愛情を注いできた少女と同居して、艶やかに花開いた、一人の女性がいた。
広間の入り口で立ち尽くしてしまった青劉をそっと横目で見て、陽騎は少しだけ思案する。
「(少し、荒療治すぎたでしょうか。たしかに、目の毒ですね……)」
主人のいつにない様子にだんだん不安になってきたのか、最初はよい仕事をしたと言わんばかりに得意げにこちらを見ていた太鳳も、ちらりちらりと二人を見比べ始めた。
「……で?
これは、陽騎のはかりごとかい?」
静かで落ち着いた皇弟の声が、ぽつんと落とされる。
広間の中にいる雪麗や太鳳たちには、聞こえない程度の音量だ。
「(完全にばれていますね……)……はかりごととは人聞きが悪いですね。
姫が学院の華姫に選ばれたと伺いましたので、事前練習をと思ったまでですよ。」
「私の耳に入っていないのは、まあ、私の自業自得でもあるからね……
君が私に言わんとしていることは、大いによく分かったよ。……確かに耳が痛い話ではある。」
はあ、と息を吐きだした青劉は、困ったように笑う。
「陽騎に気づかされるなんて悔しいけれど、どうやら、私はあの子を誰の手にも渡したくないようだ。」
「あれを大勢の前で披露された日には、求婚の話が洪水のように押し寄せてくるでしょうね。
……ねえ、我が君。…………お二人ともいい加減、幸せになってもいいのでは?」
「…………幸せに、か」
「苦しそうなあなたも、寂しそうに笑う姫も、もうこれ以上、見たくないんですよ。」
「私は、あの子に命を貰った。
最初に少し手助けしたのは私かもしれないが、あとはもう全部、私が貰うばかりだ。」
「さてね。姫はきっと、全く反対のことを言いますよ。
分かっておられるんでしょう?あなた方は、お互いが唯一無二であることも」
「…………唯一無二、か。
ふ、確かに違いない。」
何かが吹っ切れたように、穏やかに笑った青劉は、広間の中へと入っていく。
彼の姿に気づくと、さっと表情を硬くして舞を中断させた雪麗の元へ歩み寄った。
「殿下、お帰りなさいませ。
すぐに、着替えて参りま――――、」
衣を翻し、退室しようとした雪麗の腕を柔らかく引き留める青劉。
「いいや、その必要はないよ。
とても綺麗だ、愛しい雪麗。もう少し、私にも見せてくれる?」
「殿下……?」
「今まで、寂しい思いをさせてすまない。
私が、間違えていたみたいだ。」
そっと、髪型を崩さぬよう後頭部に手を回し、幼子の時からしていたように額に口づける。
呆然としていた雪麗の瞳から、真珠のような涙があとからあとから零れ落ちた。
「ふ、泣き虫なところは変わっていないようだね。」
「で、殿下が……っ」
「ああ、分かっている。私が悪かった。
華姫に選ばれたそなたを誇らしく思うよ。おめでとう」
「……っ、ありがとうございます……っ!」
折角のきれいなお化粧も、髪も、ぐしゃぐしゃになってしまったけれど。
青劉も、太鳳も、陽騎も。
誰も少女のことを笑ったりなどしないから。
まるでちいさな子どものように泣きじゃくった後、恥ずかしげに舞を披露した雪麗には、久しぶりに年相応の、心からの笑顔があった。
まさしく、華姫という言葉が相応しい、花が綻ぶような笑顔であった。




