1話 『初雪の底』
僕は思わずうなずいた。
彼女の愛くるしい笑顔に対して、うなずくことしか出来なかった。
「もっと冒険しようよ」と言いたそうに、その目はその朝張った初氷のようにキラキラした。
僕たちが歩いていた森の中の細道は、百年前に街と工場を繋げた狭軌廃線だった。工場が潰れてから百年の間、自然はかつて開拓された地を取り戻し、花たちが生い茂っていた。百年前に電車が通った線路は、今となってみると、ちょうど二人が並んで歩ける森の細道になりつつある。
彼女は僕の一歩前、線路の左の一本の上に立って歩いていた。一緒に歩いている時、彼女はいつも僕の左だった。僕が間違って左を歩いたらすぐに、「左でいい?」と聞いて返事を待たずに左へ移った。あの頃は、少し不思議に感じたが 、理由にはさして興味をひかれなかった。あとでわかったことだが、それは左耳が聞こえにくいだけだった。
前日の夜までは冬にしては季節外れに暖かかったけれど、その日の朝目が覚めたら、僕は窓が一面の氷で覆われたのを見た。 木枯らしに散らされた落葉は前日の急な寒さで固く凍て付いた。携帯に一つのメッセージが届いた。「今日はとても寒いから、マフラー忘れないでね」と書いてあった。
線路の表面が氷でツルツルになったので、僕は彼女の脚を見て彼女が滑ってしまうのを警戒したが、彼女の足取りがあまりにもたおやかで、一分が経ったら、何故彼女の脚を眺めていたのかさえ忘れてしまった。
いつの間にか僕は彼女の足音に合わせていた。僕の雪の上のふかふかとした音と彼女の線路の上のベルのような足音は森の奥まで響いていった。
ようやく、僕たちの行き先が見えてきた。工場は崩れそうな錆びついたフェンスしか残っていなかった。彼女は急に振り返って、フェンスの前に座った。
「ここで食べようよ」と言いながら、二つのサンドウイッチを持ち出した。日が明らかに暮れ始めて、「そろそろ帰らないか」と普通は尋ねる時間になったにもかかわらず、僕はただ頷いて、サンドウイッチを手に取った。口にしたら何の味もしなかったけれど、あの時まで食べた物の中で一番美味しかった。
僕が食べ終わるとすぐ、彼女は立ち上がった。日がとっぷり暮れた空に、星々が次々と灯り、森の全てはやさしい光で照らされた。 森の静けさ 、冷たい夜気の中で、僕たちの息は淋しく、森閑とした星空へ昇っていた。
彼女は線路の上に立ち止まって 、しばし僕を眺めていた。彼女の長い髪は顔を隠していたけれど、僕の全てが見えるよう、彼女の視線を感じた。しかし、その視線を見返してみたら、明るい部屋の中から暗い外が見えないように、僕は彼女の心を少しでも読み解けなかった。もしかして私が何をしようとしていたのかを悟り、彼女は髪をかき上げて、僕を優しく見てくれた。
初めて会った瞬間から僕が惹かれたその目は相変わらず輝いていた。