不平等取引のススメ【全年齢版短編】
あの日。
大金に目が眩んで二つ返事で受けた仕事が、まさか後に自分を人生の大いなる岐路に立たせることになるなんて、その額に浮かれていた私は、爪の先程も思ってはいなかった。
俗に何でも屋と言う職業は、文字通りなんでも請け負うのが仕事である。いわばその場限りの、都合の良い人手の穴埋め要員だ。
薪集めや買い出しの代行、繁忙期の収穫手伝い、亡くなった孫娘のフリなんてことや怪しげな薬の被検に祭りの似非巫女なんてこともした。
国中、西に東に、北、南、華やかな王都からドの上に超のつく田舎の端まで渡り歩き、春を売ること以外、稼ぎになるならなんでもしてきた。
そんな何でも屋歴早七年。
両親の没後、10の時から身寄りなくそうして日銭を稼いでなんとか生きてきた私、シア=アースリーは後に悔いると書いて後悔という言葉の意味を猛烈に痛感していた。
*
「ロードグレイ卿」
少しばかり苦しい体制ながらもなんとか動揺を抑えようと押し殺した声は、幸い掠れずに済んだ。
「どうぞキールと」
何故そこでうっとりと囁く。
まるでどんな言葉でも自分に向けられるそれが至上の幸であるかのように恍惚として、ここで声に艶めいた響きを滲ませる意味が判らない。
「何故、ここにっいるの、……ですか。はぁ、はぁ……こ、こは、すでに、お、王っ、都より……、遠く……ぜぇ、ぜぇ、離れた…っ、こ、国境っですよ」
荒ぐ呼吸で神に祝福されたかのようなお綺麗なお顔を責めるように睨んでも、堪えるどころか交わった視線に嬉しそうににっこりと微笑まれる。
「あなたがここに居られるからです。…我が君」
そう、熱に浮かされたような声音に背筋がぞくぞくと総毛立つ。
主に恐怖感的な意味合いで。
ともすれば強盗かと如くに、室内に入るなり目にも止まらぬ速さで素早くこちらを拘束しベッドに押し倒されて、何故か脚の間に片足をねじ込まれている。
安宿故狭い客室内では扉とベッドとの距離が短いのが敗因だろうか。痛くはないのに縫い付けられてるかのような抗えない力で両腕を、更に足を押さえつけられていて、微動だにしない。
どんな不思議体験だ。
正直、扉を開けて以後、あまりに一瞬の出来事な上、打ちつけた痛みも差程ない為何がどうしてこうなったかわからない。確実に目標を補足し、抵抗を封じるその技量は流石だが、是非とも他で発揮して欲しい。
「ロードグレイ卿!」
「どうぞキールとお呼び下さい」
「っ」
耳朶に唇を押し付けて喋るとは何事か。背筋がぞわぞわと気色悪い。
そして年頃の女性であればもれなく頬を染めるだろう、麗しいばかりのその微笑み。
だが怖い。怖すぎる。
かつて、薬草採取の依頼で南の森に行った時に出くわした大型肉食獣とばったり対面した時より、危険を感じるのは何故。
どうしよう。色んな意味で無事でいられる気がしない。
「っは、なして下さい、ロードグレイ卿」
「どうぞキールと」
「呼びません。そもそも何故こんなところにいらっしゃるのです!貴方はっ」
「先程も申し上げました。あなたがここに居られるからです。それ以上に主の御側に従者が侍る理由が必要ですか」
「─────貴方の主は私ではありません」
半ば親の敵の如く睨みつけてピシャリと言い放てば、明るい翡翠のような目に長い睫毛が影を落とし、その瞳の奥がどろりと高熱に溶けた。
ヒヤリと後ろの首筋のあたりが冷たくなるが、内心の怯みを押さえて毅然とした声を意識する。
「貴方が真にお仕えすべき方のところへお戻り下さい。キール=ディレアス=ロードグレイ卿。……英雄、‘終結の騎士'様」
「いいえシア様。私が在るべきはあなたの傍。神にも王にも、あなたにも、――――誰にも覆せはしない」
そう、今頃は王都で華やかな凱旋パレードにいるだろう筈の御仁は、ぎらついた目をして妖しくその口角を釣り上げた。
彼との出会いは約4ヶ月前に遡る。
この世界に約三百年の周期に増す闇の力。
民の不安と恐怖を糧に膨らみ、やがて魔を生み人に徒なす人類の敵。この世の総ての魔性のみなもと。
闇の核 と御伽噺に伝わるそれが、今代では私が生を受けたこの国の果てで発生したらしい。あいにく真偽は知らないが、世界の滅亡が囁かれた。
それが約二年前のこと。
それを半年前に見事退けた、二人の救世主が居られる。
創造主たる女神様が降臨されたと伝わるこの国の中央神殿に居られた光の聖女様と、彼の方を守り、多くの供と共に旅をし、国の果て、不毛の大荒野の更に向こう、封印の地で本懐を遂げた一人の騎士様だ。
いずれも国の宝と言われたかのお二方が齎した勝利の報せは、長引く闘いに影を差していた人心を救い、国が、いや世界が湧いた。
恐れ多くもその、偽聖女様となって国の果てから王都までの帰還の道中を凱旋し、巡礼するという、三食昼寝おやつ付の仕事が舞い込んだ。
依頼主は歴とした大教会と王室という、この国の祭祀と政治を司る両陣営の中枢。
本物の聖女様はどうされているのかとか、何故偽物を仕立てる必要があるのかとか、そもそも何故噂に聞く聖女様には気品と美貌と目も髪色も顔立ちも、どこをとっても少しも似つかない私に、など色々と腑に落ちない部分はあれど、一切の事と次第は断固として耳にしなかった。
危険な事情など迂闊に知って、何気に巻き込まれてうっかり命を落としたりなど真っ平ごめんである。平民には平民の、貴族には貴族の世界があり、互いに下手に交わらずにいるほうが平和なのである。そもそもあちら側も、私がそれを知ることを望みはしていまい。
とにかく、幾ばくかのきな臭さはあれど、薄布を被った綺麗な衣装を着て、豪華な馬車に乗ってただ国端から王都を目指すだけの簡単なお仕事だからと飛びついた。
今思えば私風情にそんな依頼を託すなど、身よりのない小娘一人、例え道中に何があっても如何様にも出来ると裏があったのだろうと思うが、まあ過ぎたこと。そこは追及すまい。
むしろしたくない。
常ならば身の丈を越したそんな十割怪しげで危ない依頼、絶対受けたりはしなかった。当然だ。どう考えてもきな臭い匂いしかしない。
だが哀しいかな。
寒風の吹きすさぶ財布事情が逼迫していた。
闇の力とやらの台頭が人々の心と財布を荒ませ、何でも屋などという職業は昨今実入りが細くなっていたのだ。具体的に言うと細々とした蓄えさえも底を尽き、断食3日目を余儀なくされていた位には。
白状しよう。
詰まるところ、腹と懐のあまりのひもじさに提示された報奨金に目が眩んだのである。
そうして約4ヶ月を掛け、私以外全員本物な女官様やら神官様やら護衛騎士様やら一行と、各地にある神殿を周りながら、王都を目指した。
そんな道中を共にすることになった一人が、闇の核とやらと実際対峙し、封印せしめた張本人。此度の暗い時代の幕開けを終結させたこの国の特階級騎士の一人、‘終結の騎士'。英雄たるキール=ディレアス=ロードグレイ卿、その人だ。
聖女様と共に、三百年ぶりに世界史に語り継がれる此度の大義を成された救世主たる騎士様。
お偉方に引き合わされたばかりの頃は確かに、噂に聞く通りのその麗しいばかりのお顔に内心目の保養を喜んだ。
なんでも数々の武功と圧倒的な実力で、騎士の中でも上位も上位、一握りの言わばエリート、爵位も叙勲されるこの国の騎士達の頂点に立つ、4人の特階級騎士の一角。その証たる銀の美しい刺繍の施された漆黒の騎士服を、史上最年少で許されたという、生涯お目にかかる機会のなさそうな美貌の持ち主。
しかも此度の生ける伝説たる御方とくれば、私のような庶民もド庶民な下層民が間近にお目にかかれただけで僥倖だ。
だのに仕事だからと挨拶まで許された。
『シア・アースリーと申します。お会いできて光栄ですロードグレイ卿。お手を煩わせぬよう勤めます。どうぞよろしくお願い申し上げます』
初見、人形だろうかと位に無機質な表情で佇んでいた御方は、見合って暫く、ゆるゆると口角を上げて微笑んだ。
『─────────………‘シア’…。古語で灯火と云う意味ですね。私のことはどうぞキールとお呼び下さい』
そう言った輝く麗しいばかりの微笑みに、その時は心中で身悶えたものだ。
けれどそれも束の間。
彼のその真っ直ぐな視線に、第六感的警戒心が振り切れる一件があった。
あれは出発すぐに訪れた、嘘か誠か神代の時代から続くと云う、大荒野近い国のはずれの大神殿でのこと。
王の詔により、王都に帰還後正式に聖女様にお仕えすることになったらしいこの騎士様が、習わしにより神に宣誓するという誓いの場。偽物である為、適当な理由付けで中止される筈だったそれを、あろうことか一人勝手に決行し出した彼の、聖堂で主従の誓いを諳んじたその声が、ひどく高揚した毒めいた艶やかさを放っていたことを覚えている。
そして。
儀式が中断されるまで神像の前で突っ立ってるだけで良かった筈が、混乱と動揺と困惑に軽く挙動不審に陥る私の目の前に跪き、真っ直ぐにこちらを射抜いた眼が。
天窓から降り注いだ陽光に煌めいたその翡翠の色が。
身の危険を感じるような熱をもって、底知れない暗い何かが孕んだ虹彩を放ったのを見た。
今思い出してもぞっとする。あれは間違いなく、狂喜に満ちた獣の目だった。あの南の森でばったり出会った大型獣と同じ、餌を認識した猛獣のそれだった。
少なくとも、偽りの主を認識する目ではなかった。
それ以降、あの一瞬で感じた極限値の不吉感を裏切ることなく、4ヶ月。ひどく近い距離、というよりはもうぴったりべったりの付きっきりようだった。
苦言を呈するお偉方を丸無視し、歩ける距離を疲れるでしょうからと抱き上げて運ぼうとしたり、人目がなく主従を装う必要のない時でさえ当然のように護衛だとどこへ行くにも供をし、あまつ給仕や身の回りの世話をし出そうとした時には肝が冷えた。それはもう朝から晩までこれは何の罠かと、恐々としたものだ。
危ない仕事の監視か口封じの機会でも窺ってるのかと、あまりの不安さと不気味さに毎日どれほどびくついたか、今思い出しても胃が痛い。
『どちらへお出でですか』
『離れる?何故です?あなたを御守りするのは私です。誰にも譲りません』
『足元が悪いですね。どうぞお手を。御手に触れる栄誉を私に賜りませ』
『触れることをお許し願えるならば私が御髪を整えますが』
誘惑めいた艶やかな声音で、始終私のそばに侍り。演技が過ぎるとどれほど言葉を尽くしても、偽物相手にこんな扱いされても困るとどれほど拒絶を示しても、彼は燃え盛る熔岩のような、それでいて暗い目をしてうっとりと微笑んだのだ。
『いいえ我が君。あなたが何者であろうと些事なこと。私はただ、誰より近くあなたのそばに』
と。
*
そうして、王都に入る直前の、その夜更け。
べったりだった騎士様がお偉方の呼び出しに一足先に渋々中央神殿へ向かった晩。
理由など勿論知らぬ存ぜぬ知りたくないが、滞在していた町長の屋敷で予定より幾分早く晴れてお役ごめんを言い渡された私は、屋敷を、そして町をこっそり出て、夜通し‘聖女様の帰還'に湧く賑わいに紛れ、人知れずひっそりと、何食わぬ顔で一人王都に入った。
幸い、口封じにさくっと始末されることもなく、報奨もしっかり頂戴した。二つ返事で飛びついた通りの大金だ。自分の稼ぎの約1年分である。騎士様に抱いていた、腹の底がざわめくような嫌な予感も忘れる程舞い上がった。
騎士様のあまりの張り付きぶりにやはり最終的に殺されるのかと一時は本気で恐慌したものの、この奇妙な仕事は終わりよければめでたしめでたし。
それだけでお終いとなる筈だったのだ。
あれから6日、気ままな独り身に戻った私は懐の暖かさに調子に乗って、日を大幅に短縮出来るが大衆辻馬車より少し値の張る金持ち御用達の特急馬車に乗り、ほくほく顔で国境に程近いこの街に来ていた。
商業の国として名高い隣国に程近く、流通の拠点として栄えるここは毎年この季節、招福と厄除祈念の大規模な祭りが開かれる。
街を挙げてのそれは例年の私の大事な稼ぎ口だ。どこの街でも、祭りとなると人手が入り用となる。
屋台の売り子に給仕、臨時巫女に子守に荷持ち、荷送達に関所の臨時書記など、各地各祭でのお得意様がいる。ここでも毎年請け負う大きな酒楼の酌娘の仕事を今年も頂こうと来たのだ。
うっかりふとした瞬間に顔がだらしなくなりそうな程の実入りがあったとはいえ、金は有限。稼げる時に稼がなくては私のようなド庶民はいつ何があるやも知れない。
聖女様と騎士様のお力で晴れて暗い時代を明けた今、一層祭りも賑やか。救世主様々だ。
そんな、どこか例年より大きく華やかな街中をふらついていた。
ここぞとばかりに商売に励む物売りの娘達の掛け声や露天の主人の呼び込みが賑やかで、活気を取り戻した通りから通りを冷やかしながら歩いていた私は、一見平静を装いつつもそれはもう足取りも軽やかに飛び跳ねるように浮かれたっていた。
何故ならその時私は、頭の中で買い換えたいものを選別するのに忙しかったのだ。
いくら位は蓄えとして残すとして、いくら位は当面かかる、とすると大まかな予算がどのくらいであるからまずはあの店で、とガタの効いたあれやこれやや、今後の財政事情を頭の中で楽しく検分しながら店を周り、品々を検分するのに忙しかった。
そこは最も人通りが行き交う街の中心、一番の大通り。
浮かれに浮かれた気分に水を差すように、ぞくりと殺気のような悪寒に撫でられたのはその時で。
浮かれ立ち過ぎて柄の悪いのに目をつけられでもしたかと、ビシビシ刺さる強い視線に、よせばいいのに思わず周囲を見回したのだ。大通りを見渡す出入り門の柱に佇み、行き交う人並みを監視するような煌めく翠のその目と、まるで吸い寄せられるように見合って。
次の瞬間、人混みを掻き分けて走り出したのは、きっと密林で肉食獣と目が合った小鹿の心境に近いと思う。
*
小さな路地や入り組んだ裏道をわざと選んで走り抜け、背後に人の気配がないのを確かめた上で、この街の拠点としている馴染みの安宿の部屋に駆け込む。
驚き顔の宿の主人を横目に破壊せんばかりの勢いで扉を閉めて、ぜえはあ荒れた呼吸でへたり込んだ。
幻、そう幻だ。
まさかそんな有り得ない、どうしてここに見間違いだ、いかんすぐに街を出ようああ落ち着け。頭が混乱する程にあれこれ余計な思考を回すのは子供の頃からの悪い癖だ。
とにかく落ち着こうとして、急かすように扉をノックされたのは深い深呼吸を6回程して後のこと。
騒々しいと宿の主人に怒鳴られるかと扉を開けたのが迂闊の極みだった。その翠の虹彩が視界に入ったと思う間もなく、室内に押し入られて、次の瞬間にはベッドの上に押し倒されて少しの身動きも取れずにいるという不思議体験を味わっている。
さもありなん。
そもそもからして私のような小娘が、戦闘に秀でた本物の騎士、しかも生ける伝説、世界の英雄たる人を出し抜いて逃げ切れようか。
いや、普通に無理だった。
いまだにぜえはあ呼吸を荒げるこちらに対し、腹立つことに相手は呼吸の乱れなど一つもない所か汗一つ浮かべてもいない。わざわざ遠回りした上、無い体力に鞭打って全力を絞った私に気を使って頂きたい。
「随分と、お急ぎでいらしたのですね。あれほどに慌てて駆けて。……それとも置き去りにされた挙げ句、再会早々、私はあなたから逃げ出されたのでしょうか」
あんな獲物に飛びかかる肉食獣のような目で走り出しておきながらよくも言う。
正直、割と本気で怖かった。
見上げれば、襟足に掛かる少し長めの髪は銀に輝き、上等の翡翠を思わせる目に、精悍さを引き立てる浅黒い肌の下、過度に過ぎず鍛えられた筋肉でさえ美しい。うっかり罪悪感を持ちそうになる憂いじみた表情でさえその美を損なわず、女として敗北感甚だしい。
が、その鋭い瞳は強く煌めいている。
「い……い、る筈のない、方が、はぁ、視界に、…映ったので、おど、驚いた、……っは、だけです。というか、い、いい加減、…離っ、して頂け、ますか」
「それは御命令ですか我が君」
「私、は貴方に、は、はぁ、命令っ、出来るような、た、…立場にありま、せん…っ」
「ならばお断りします」
くす、と出来の悪い子供に微笑むように見下ろされ、非常に遺憾であるが、そんな間にもその輝石のような翠の瞳は変わらぬ高熱と暗さを内包したまま強い光を放っていて、気が気でない。
まるで猛獣の前に放られた生き餌の気分だ。その牙が向けられるのは瞬きの間か、はたまた夜か明日か明後日か、と。
色んな街を転々とし、色んな人と接してきた身故、少なからずアブナイ気性の人間を目にしてきた。
この4ヶ月で身にしみた彼の気質はそれに該当する。
犬や猫など可愛げがある人種ならいいが、中でも狡猾に獲物を狙う、野生の、肉食性を持った、彼のような人種などは最悪だ。
取扱い注意、触るな危険、接触警報発令。それも、しばらく獲物にあり付けずにいた飢えた獣の性を持った、ときたらもう最凶。
つまり、色んな意味で色々と突き抜けちゃってる種類である。
「ろ、ロードグレイ卿!」
漂う唯ならぬ濃密な空気に、思わず声が裏返った。
「どうぞキールと。我が君」
だから耳元で囁くな。
近い。
そして何故そこで声を甘くさせる。
「離して下さい」
「嫌です」
いっそ無邪気な満面の笑みだ。
喧嘩売ってますか。
「どれほどお会いしたかったことか」
何故指を絡める。
何故髪に唇を埋める。
何故匂いを吸い込む。
何故密着する。
性的嫌がらせですか。
訴えるにやぶさかではないぞ。
「っ、何故あなたが、こんなところに居られるのですか!」
「どうぞキールと。これを申し上げるのは三度目になりますが、あなたがここに居られるからです。従者が主のお側に在るのは当然かと」
「……ロードグレイ卿。私は今日二度目になりますが、私は貴方の主ではありません」
「いいえ。あの神殿であの日、神の前であなたにお仕えすることを確かにお誓い申し上げました」
「聖女様に、です!何度も申し上げますが、あなたがお仕えすべき方は聖女様でしょうっ」
「聖女?そんな女に膝を折った覚えはありません」
そんな女といったか今。
救世の聖女をそんな女呼ばわり。
しかも共に力を合わせた同志でもある筈だろうに、そんな女とは騎士の人道に悖る物言いである。
そもそも騎士というのは並々ならぬ気概と勇気に加え、敬神と礼節を重んじ、寛容に溢れ、また女性への奉仕などの徳を理想とする、気高く清い崇高な精神をお持ちのお方なのではなかったか。
「遊びが過ぎますロードグレイ卿!今頃王都がどんな騒ぎになっていることか!近衛騎士として王より聖女様にお仕えする勅命を賜った筈でしょうっ」
「除籍して参りましたのでその限りにありません。」
「────なんですって?」
耳に届いた驚愕の言葉に思わずまじまじと相手を見上げた。
今、なんと言った。
「騎士隊を辞め、爵位も返上して参りましたので私はすでに国の騎士でも王の臣下でもありませんと申し上げました」
「───なん、てこと、を…………」
視線があったことを喜ぶようににっこりとした笑顔。
聞き間違いの可能性なくきっぱり言われたそれに、思わず声が震えた。
なんてことなんてことだ。
神殿にも国にも王室にも、背を向くような。
取り返しのつかないことに─────。
「あな、あなた、貴方は……っ、特階級騎士であられるのですよ!しかも此度大義を成され代々英雄と語られる、救世の…!」
「私が騎士となったのは孤児院で元々そうなるよう育てられたからです。特に逆らう理由もなかったというただの成り行きでしかない。勲位も肩書きも何一つ、私が望んだものではありません」
庶民憧れの役職1位、しかも入団も厳しい狭き門と言われ、その騎士の中でも四方の名に冠し、4人しか名乗ることの許されない、高い実力と功績を持つエリート中のエリートである特階級騎士に最年少で抜擢された、天才と名高いその腕がよもやの成り行き。地位も名誉も己が望んだものではないからとあっさりそれを捨ててしまえる気概はいっそ男前なのか。
というか、もう少し衝撃の余韻に浸らせて欲しい。
最早突っ込みどころがありすぎて、どこにどう反応していいのかわからない。
「ロードグレイ卿」
「キールと」
そっと、重さを感じさせぬようにその芸術作品のような顔が胸に埋まる。
心臓の音に耳を澄ますかのようなそれは、しかし同時に嗅ぐように深く空気を吸い込んでいる。
これは完璧に訴えていいと思うとか考えている余裕はなくなっていた。
「あなたが何者であろうと、些細なこと。あの日、初めてお会いしたあの日にそれまでの私は死んだのです。あなたの眼差し、あなたの声、あなたの熱、あなたの匂い…その全てに、渇いたこの身が、この魂が震えた」
甘く情炎を伴い、流暢に次々紡がれていくその独白は、まるで唄を諳んじるかのようで。
「色の無い夢をさ迷うような褪せた日々が一瞬で彩り心が満ちる、その感動をなんと言葉に現したものか。天啓という言葉を初めて信じました」
その饒舌さがいっそ恐ろしい。
「……なのに酷い方だ。用済みになったからとお捨てになるだなんて」
「語弊があります!」
人が男遊びをしたかのような物言いを。
男性経験皆無の嫁入り前の娘にとんだ言いがかりをつける気か。
「ようやく見つけた私の灯火。最早あなたと離れては生きていると感じることも出来ない。この6日、どれほどの絶望と苦痛を味わいながら後を追ったか」
ふと陰った翠の虹彩に、一瞬、泣いているのかと思った。
まるで迷子の子供のように。
「あなたと出会う前の私はどう呼吸をしていたのか。あまりに息苦しく、再び近くに適わぬならばいっそこの肉体など捨て去り、この魂だけでもあなたの御側に侍ろうかとさえ───」
何ソレ恐い。
とんでもなく厄介な亡霊が知らずねっとりと背後に。それ絶対悪霊の類。想像だけで怖すぎる。
ゆっくりと顔を上げた彼に、絡めた手を恭しく持ち上げられ、切なげな顔で指に唇を落とされた。
「……シア。私のシア様。私にはあなたが必要なのです。初めて献身を捧げんと思えた主と仰ぐべきあなたが」
これでもそれなりの修羅場も経験した私の第六感が、この震える子犬じみた幻覚に騙されるなと警報を発する。
「ロードグレイ卿」
わかりました、じゃあこれから励んで務めて下さいなどとなる訳がない。あいにく桃色の夢を見る年頃でもない。容姿、才能、能力すべてに秀でた空に輝く星のような方が、路傍に転がる小石に頭を垂れるなど天変地異だ。
世界の英雄たる彼が持つ過去の研鑽と歴史と栄誉と、未来の業績と栄光と名誉。それにより今後世界にもたらされるだろう影響と恩恵。
それを無に帰すことの罪深さが解らぬ程、世界を知らないわけじゃない。
人間誰しも大なり小なり、望む望まざる関係なく、己が役目というのがあるものだ。よって彼の見る世界が鈍色だろうと薔薇色だろうと、その心が乾ききろうが満ち足りようが知ったことではない。
何より、こんな猛獣よりアブナイ人間、飼い慣らせるわけがない。少しでも油断すれば、手を噛まれるどころかがっつり食いちぎられかねないような相手、ごめん被る。
「あなたがお仕えすべきは聖女様です!大義を成された救世主たる貴方が、私のような卑賤の身に膝を折るなど許されることではありません。すぐに王都へ、聖女様の御元にお戻り下さい」
毅然さを意識して見上げれば、案の定悲痛めいていた彼の纏っていた空気ががらりと変わる。
「私が捧げる忠誠を私以外の誰に許されなくてはならないのです。王に?それとも神に?それでしたら大神殿にて誓いを捧げて許しと祝福を得ましたが」
「あれは真実の誓いではない筈です。神の御前、偽りの上に成された誓約に真実も実正もありません!」
真っ直ぐ彼を見上げればふわりとその目に怒りの感情が灯るのを見た。
「………偽りの誓約と仰せになる」
憤りと渇望とを取り込みながら段々とそれは大きく燃えていく。ともすれば見とれそうな翡翠の虹彩だ。
そうして彼はぞっとする程に婀娜めいた笑みを浮かべて、暗い色めいた声で囁いた。
「─────あの誓いを紡いだ一時が私にとって如何に尊いものであったか、おわかりにはなりますまい」
そう、秘め事めいた囁きに、絡められた指に力を込められる。
色と毒とを含む、ひどく危うい空気に、ひしひしと募る緊張感と危機感。
「っ」
そしてゆっくりと死んでいく表情の中、煌々と光る翠の色が、狂気を宿して淀んでいくのを間近に見て、血の気が引いた。
「産まれて初めて欲しいと思ったものを、何故手放さねばならない。初めて得た喜びを、何故無きものとされねばならない。私からあなたを取り上げるなど例えあなたでも許せない」
この目。
4ヶ月の道中、私が彼の申し出を拒否する度、ふいに見せたその陰りの色濃い目に、思わず声が凍りついた。
執着と狂気と妄信と欲望、そして飢餓。
暗い昏い、どろりと濁って鈍く光るこの目は。
───────心の狂った病み人の目だ。
「……いいでしょう」
ひやりと冷たくこちらを見下ろすその顔はぞっとする程美しい。
魔性は、その血が濃い程に人外の美を誇るという言い伝えを、何故かふいに思い出した。
「ならば、私には主としてでないあなたの言葉を拒む権利がある」
そう、うっすらと笑んで、高らかな宣言じみた言葉と共にその目を眇めると、
「…別に主従でなくとも良いのです。誰より近くあなたのそばに在れるならば、男女のそれであっても。どのような関係であっても、私はただ、あなたが欲しいだけ」
おもむろに彼はこちらの首筋に顔を埋めてきた。
途端、柔らかく熱いものが汗の浮いた首筋を辿って。
「ぅひゃぁっ」
ぞくりと背筋が粟立った。
「な、にするんです!離れて下さい!」
口付けられたのだと理解した途端、裏返った声が飛び出してくる。
「お断りします」
ちゅ、と軽い音を点てて首筋に口付けられた。
「ロードグレイ卿ッ!離、離してください!」
「それは御命令ですか?」
「!」
ちらりとこちらを見上げる翠の虹彩には最早、隠すことのない熱が揺れている。
いくら可及的速やかに離して頂きたくとも、ここで命令だと言ってしまっては元も子もない。
なんと忌々しい。
こちらが返答に窮していると、ふ、と出来の悪い幼子に向けるように笑むと、誘惑の響きを多分に含んだ色めいた声で囁いた。
「一言お命じくださるだけで何をも致しましょうものを」
言いながら、彼は心音を聞く如く再び胸に頬ずりするように顔を埋め、深く呼気を吸い込んだ。
言葉通り、彼は私が言えばどんなことでもするのだろう。
人の命を狩る残酷なことはおろか、彼を貶める屈辱的なことさえ。
いや、むしろ犬のように跪いて足を舐めろと言った所で嬉々としてしそうで怖い。
「………私は、あなたに命令などする立場にありません。お願い、をしています」
冷静に、と自らに言い聞かせて、ともすれば震える声を抑える。
私は余程運がないのだろうか。何故こんなアブナイ人間と関わることになったのか。
そもそもこの仕事を受けたのが運の尽きなのか。
致し方ないではないか。
あのままでは少なからず近い将来、個人的財政破綻の危機で、ーーあいや、今はそれより。
「‘お願い'」
興味深いことを聞いたというように、ゆらりと彼が頭をあげた。
こちらの真意を見極めるように暗く淀みながらも、光に煌めく翡翠が眇められる。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
何この人本気でこわい。
いや落ち着け。ここが正念場だ。今、間違いなく自分は人生の岐路に立っている。
しかも随分と瀬戸際の。
少し選択を間違えるだけで生涯を棒に振る羽目になりかねない。
一生涯、指の先まで雁字搦めに絡み取られ、爛れた泥濘に引きずり込まれそうな、そんな予感。
「そうです。お願い申し上げて、いるのです。離してください、ロードグレイ卿」
「……ならば、代わりにあなたも私の願いを叶えて下さるか」
見下ろされる眼差しが、火傷しそうなほど熱い。
思わず喉が鳴り、冷静に、と意識的にゆっくり息を吸い込んだ。気分は、今まさに喉に牙が触れんとする被捕食者だ。
「…あなたの、主とはなれないと云う私に、あなたは何を、望まれるのですか」
「……名を。名をお呼びください。私の名を」
その長い睫毛の本数まで数えられそうなほどの間近で熱く囁かれたのは、覚悟していたような無理難題ではなく、拍子抜けする内容だ。
「えぇと、な、なまえ?」
「キール、と」
困惑に躊躇うこちらを、まるで待てをする犬のように、彼はただじっとこちらを見下ろしている。
ごくりと喉が鳴った。
なんだろう、この、命を懸けた博打をしているような緊張感。
ああまったく。どうして私がこんな目に。
ちょっと大金に目が眩んで受けた仕事で、まさかこんな猛獣より怖い粘着質な押し売り(自称)従者を引っ掛けることになろうとは。だいたい、個人名だろうが家名だろうが呼び方のこだわりしつこいぞ。
そういえば当初から言っていた気がするな、どんだけ執念深いんだ。
ああ駄目だ。思考があちこち散見している。
これが果たして等価な取引であるか疑問だが今はとにかく、この貞操と将来の自由の危機を乗り切らねば。
「離して、下さい。……キール」
「――――――ああ…っ!シア様……っ」
まるでこの世の栄光総てを得たかのような、感極まった恍惚とした表情と吐息に何故か冷や汗が出る。
「私の、私だけの唯一」
貴人へするそれのように殊更ゆっくりと手の甲へ、指へ唇を寄せられ、そのまま至極丁寧に手を引かれて上半身を起こされた。
押し倒された恰好から解放されだけで、ぐるぐる回っていた動揺が幾ばくか落ち着いていく。
未だに恭しく取られたままの右手も、出来れば離して頂きたいが、……いやいや、何故跪く。
「お願い、とは愛らしい。随分と気持ちのよいものですね」
独り言のような呟きに、何故だろう、ぞっと怖気が。
しまった、選択を誤っただろうか。不平等な交換条件だと思ったものの、相手がそれでいいと言うもんだから…。
というか、握り込んだままの手の甲を親指でさわさわと撫でさするのはどんな了見。
「あなたがそれほどに固辞されるならば、わかりました。無理強いは控えましょう」
無理強いしている自覚があっての所業とは。
なんとふてぶてしい。
「あなたは私の主。それをあなたが否定し、拒絶し、不承されても構わない。あなたのお心の在りようにまで口を出すつもりはありません。なれど代わりに、私にも自由が許されましょう。ならば私はあなたの望みに対価を求める」
じっと私の手を見つめていた翡翠色の瞳が、ゆっくりとこちらを見上げてきた。
おかしい。
危機を脱したと思ったのだが、何故まだすこぶる激しい危機感が。
「た、対価」
「私の主ではないと仰せならば、私があなたの言葉を受け入れるに見合う報奨を賜りませ」
「報奨」
「ええ。対等で正当な取引、でしょう?」
どうしよう。
この人、開き直った。
清々しい笑みだが、つまるところ、主として命令しないなら言うこと聞かないし、そうでないなら交換条件で、ってふてぶてしく居直っておきながら、さもこちらに譲歩しましたみたいなことですよねこれ。
なんだろう、この巧いこと言い負かされた感。
「私のシア」
こちらが思考停止状態なのを良いことに、恭しく取ったままの手に再び口付けられ。
「誰より近くあなたの傍に在ることを、決して誰にも譲らない。そのためならば、私はあなたの言葉でさえ受け入れない。私はあなたの傍を離れない」
確固たる強い意志を持ったその瞳は、荒れ狂う激情に揺れていた時よりも飲み込まれそうな光に満ちていて。その真っ直ぐな眼差しに、その毒めいた声音に、聖堂での一時を思い出す。
その、うっすらと笑んだ、未だにちらちらと狂気が燃える翡翠を見下ろしながら、結局話は振り出しに戻るのかと内心で頭を抱えた。
互いの言い分は堂々巡り。
しかも最終的にこちらの意志は丸無視で、更に居直り宣言で理不尽な要求が発生。加えて先程からさり気なく変態じみた行為を何気にされて。
本当にどうしてこんなことになったのか。
何故私にそうまで固執するのか、何がそんなに彼を掻き立てるのか、全くもって覚えがない。自分で言うは悲しいが、容姿も頭も教養も人並みである私に彼を惹きつけるものなど欠片もないだろうに。
本当になんて面倒な。こんな試練を受けねばならないほどの業を私がいつ侵した。
ただちょっと大金に目が眩んだのがそれほど罪深いのか。
早くに両親を亡くし、何の力も身よりもない小娘が春を売らずに一人生きていくためには、どこのどんな仕事だろうが飛びつくしか術はなかったのだ。そんな中でちょっと楽に稼げる仕事に欲を出したのが悪いのか。
ああまったく、どうしてくれよう。
とんでもないのに関わってしまった。
これより先の未来を思うとちょっと泣きたい。どうしたらいいんだこんなの。太刀打ち出来るかこちとら善良なド庶民だぞ。
ああ全く、精神の疲労が著しい。一旦、現実逃避を行いたいが、出ていってくれとお願いしたら、今度は何を要求されるだろうかと、いっそ拝みたくなる天の御使いもかくやという微笑を前に、思わず意識が遠く飛び出しかけた。
そして案の定、この日を境に色んな意味でそこはかとなく怖い押し売り従者を改心させ、あの手この手で逃げようとする私に、彼もまたあの手この手で主として命令をさせようと画策しだし。
その熾烈な攻防は、些か長きに渡ることになるけれど、この時の私には知る由もない。
ああ、本当に。
この極上の男を出し抜いて振り切る術を、どたなかご教授願いたい。
2016年9月から2018年3月頃まで連載していたものを全年齢向けの短編に書き直したものです。プライベートのごたごたが片付き、いざ連載再開をと思ったらR15&残酷描写有りでしてた前作連載がR18性的表現の指摘を受けてしまったので一部書き直して短編としました。