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スプーンの持ち方

作者: 糸井槌

ぺたぺたと鳴らされる足音がちょうど28回で止まって、前に来たときとかわんねえな、と笑いを飲み込んだ。ゆっくりとまぶたをひらくと、怜さんのつま先と四角くてつやつやした爪が使い古されて裾の擦り切れたジーンズの先から顔をのぞかせている。それをうっすらと膜の張った光彩にみとめながら、あのくるぶし見たかったのに、とひとりごちて何をするでなく手に持っていた携帯端末を寝ころんでいるシーツに落として捨てた。

風呂からあがった怜さんの首筋は、適当にぬぐったせいなのか出ていく前とかわらないように湿って見えた。ゆるい生成り色の服を着ていて、それがあの白くも黒くもない本当に平均的なただの女の肌だとよりいっそう思わせる。発泡酒の缶を傾ける頬が赤い。連絡きたの、と問われて鼻から息を抜くそぶりで肯いた。

「じゃあ帰ったら」

「えぇ待ってよ」

「いや待ってるの私じゃないよね」

「なにそれ、うまいすね」

ほとんど意味のない敬語で返せば、茶化すな、とため息をついてから小さく笑う。

「女の子なんかねえ、あんた、男なんだったら待たせるもんじゃないよ」

あとがめんどくさいですからね。

とやっぱり笑う丸い声はさんざん熱を吐き出して熟れたあとの身体をやわらかくふやかしていく。わかりきった怠惰だ。これ以上居座れば腐るだろうと知っていたけれど、足も手も指も満足に動かないから結局茶化すしかなかった。女の話題くらいで今更この人がゆらぐわけもないし、だから楽しい。見上げた怜さんは眠そうにゆるいまばたきを繰り返している。

「身体痛くないんすか」

「うん」

「なぁんだ、怜さんいつもそうですよね」

そのまま、つまんねえと続けても彼女はおどけるだけだった。惰性で慈しむように、蔑むように。

「いっこ聞きたいことあるんですけど」

「なに」

怜さんはさあ、と、語尾を伸ばすとのどの奥で痰が絡まってざらざらと不愉快だった。流すなら水がいるのに透明でつめたい柔らかな光はカーテンに遮られて暈ける。それはもう髪へ触れることもない。

「怜さんはなんで恋人とかつくんないの」

この寝室は日当たりが悪い。

「なんだろ……主義?」

小首を傾げて、怜さんは目元だけで微笑んだ。

主義ねぇ、反復しながらてのひらをゆるくむすんでひらくと、指の間をくたびれた風がふくらんで消えた。気まぐれなその気がはやく変わればいいのに、と思ったけれど、あれでいて変に頑固だったりもするから一生かかっても無理かもしれない。それはそれで面白いことだ。

「じゃあ聞くけど」

「はい」

「お前はなんで結婚しないの」

もう長いよね、何年くらいたった?

あくびまじりの彼の問いかけは、口にされた端から興味を失ったように丸く落ちてシーツに冷たい染みを作った。ゆっくりと、Tシャツを探す素振りで上体を起こして、俺はそれを見なかったふりをする。

「そういやこれ前も聞いたっけ、ほんと、毎日はやすぎてかなわねえや」

見渡してもTシャツは見当たらなかった。それは要するに彼女の服を着ていけということだ。外したまま横着に捨てそびれていた避妊具の口をもう一度縛りつけて屑籠へ投げる。弧を描いて放り出された感情は、ゆく宛もなく塵芥にまみれあえいでいた。もうすぐに息もとまる。彼女の一室で俺の一部がまた殺される。これでいいと思った。いや最初からずっとそう思っている。

誤魔化しのように呼吸を継ぎ足す。さあ、

「何年だっけな、わかんねえ。ああでも怜さんとこうなってからよりはずっと短い」

「雑すぎ、あと頭ひどいことになってる」

何度も角度を変えたし、ぼさぼさになっている自覚はあった。それがおかしいのかなんなのか知らないけれど、怜さんは飲み干した発泡酒の缶を笑って片手で潰すと、これってお前みたい、とまた満足そうに笑ってみせた。水滴と光に晒されるひしゃげたアルミの鈍い銀色に、俺は濡れたナイフを連想する。

「あんたのこと殺してみたい」

「なんで」

「色んな顔が見れると思うから」

「そう、じゃあ私も殺してあげるよ」

お互い興味もかけらもないような声でこんな話をして、でもそれも自分たちがおかしいだなんて解った上でだ。

寝室は日当たりが悪かった。

いいかげん起きな、と急かされ、あと5分、と返す。遊びだ。すべてが。だからたちが悪い。

くたびれた瞳孔にうすい水の膜が張っている。視界はだいたいぶれていて、粗雑に他人のタンスを漁る俺を持ち主は笑いながら何度もシャッターを鳴らした。

怜さんの肌は手足に比べたらいくらか暖かくて、あばらを上からちょうど二本くだったところに虫にさされたあとがあった。彼女は寝相が悪い。


欠陥が目立つようなあたらしくない世界に過ごすことは、未完成の映画のようだといつも思う。そしてその外でくたばることに等しいと。俺は職業柄いつも深爪気味だ。そこにいたわりもなにもあるわけがない。うっとうしいだけの慈愛なら届かなくていい。

携帯端末にはメッセージがたまっていて、今から行くと打った。ケースをつけないと簡単に塗装の削れてしまうそれ。

間違えようとするようになったことも、うそについて考えることもなくなってしばらくたつことも、きっとすぐに忘れる。


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