1話 新たな世界へ
少女には親の記憶が無かった。少女は赤子の時、山に捨てられ、ただ死を待つばかりの存在であったが、偶然現場を目撃した男がおり、その者に拾われた。
少女は物心がついた時点で既にその男に弟子入りさせられて、過酷な修行をさせられていた。
泣き言は許されず、歳上の男に殴られ、全身傷だらけなのは日常茶判事、酷い時には魔物と戦わされ重傷を負った事もあり、数回程生死の境を彷徨った事すらある。
……が、少女はこの死と隣り合わせの環境を十四年生き延び、間もなく十五年になろうとしていた。
「だーからアタシは十五になったら山下りするって何度も言ってたでしょうが‼︎」
「ならぬ‼︎ 貴様如きが山を降り外界に触れてなんとする? 勇名を轟かせる事なく儂が拾ってやった命を無駄にする気か? その命は我等の名を天下に轟かせる為に使え」
山奥にポツンと建つ木製の道場から二つの怒声が響き渡る。一人はやや荒いセミロングの金髪の、周りに倒れて呻いている男達と同じ黒の道着を着た少女。
その少女にしては長身で女性的な身体つきに反して、その鍛え抜かれた身体には確かな筋肉が付いている。
もう一人は同じ道着を着た白髪混じりの荒々しい長髪に、シワ混じりの老齢に不釣り合いの筋骨隆々の雄々しい肉体と威厳を持つ男。男は少女を睨み殺さんばかりの鋭い眼光を向ける。
「うっさいわよクソジジイ! そもそもアタシはアンタ等の流派なんて知った事じゃないっての‼︎ そんなの弟子が沢山いるんだから他の奴にやらせればいいじゃない‼︎」
「小娘一人に勝てぬ未熟な弟子共に我が後継が務まるか‼︎」
「それは違うわよ。弟子達が弱いんじゃなくてアタシが強いだけだから」
少女はまるで喧嘩を売るかの様に不遜な微笑みを見せると、老人は額に青筋を浮かべ、座禅を解いてゆっくりと立ち上がった。
「年老いた儂に一度として勝てぬ小娘が強いとは大きく出たものだ。……どうやら久方ぶりに儂直々の“稽古”を受けたいと見える」
「上等ォ‼︎ その傲慢チキ、アタシが殴り壊してやるわよ‼︎」
口論がヒートアップし、少女と老人が一触即発になった瞬間、先程まで倒れていた男達は顔を青ざめさせながら痛みを堪えて立ち上がり、二人を止めに入った。
「落ち着いて下さい師範‼︎ 姫がいつも言ってる事にムキにならなくても……」
「そうですよ! いくら姫でも何の準備もなく下山などする筈が……」
「準備? ちゃんとしてるわよ。この約十五年間、アタシが一体どれだけ死にかけながら身体鍛えたと思ってんのよ」
「そうではなくてですねぇ⁉︎ ちゃんと衣類や食料は揃えてるんですか?」
「服なんて無くても死にやしないわよ。食料なんて下山しながらそこらの木の実食べれば大丈夫だし」
((やっぱり無計画ゥゥゥ⁉︎))
少女の余りの無計画っぷりに弟子達は盛大に突っ込んだ。
しかし多くの弟子達は少女と長い付き合いなので分かるが、少女はこの無謀な下山を間違いなく決行するつもりである。
少女の夢への憧れを知っており、その夢を叶える為にはこの山を降りて外の世界へ行かなければならない。
その為ならば少女は破門されようと下山をするだろうが、少女以上の実力を持つ弟子がいない以上、師範は絶対にそれを認めない。
ならばどうなるか……考えるまでもなく実力行使となる。少女はああ言ってはいるが、師範に勝てる程のものではなく、恐らく叩きのめされてそれで終い、それで万事解決ならば良い……が
((この二人が本気で戦うと道場は間違いなく崩壊する……‼︎ そうなったら道場の修復が終わるまで野宿になる‼︎))
この道場には弟子達の寝床や食堂等もあり、生活環境の大部分を占めている。
この道場が崩壊しようものなら、その間弟子達は野宿を余儀なくされる。
今は真夏故に問題は無いが、もう少し時が経てば山奥は一気に冷え始め、凍える様な寒さになる事もあり、それまでその過酷な寒さに耐えろ等やっていられない。
しかも修復作業は全て弟子達がやる羽目になる。何としてもこの二人の交戦を止めなければ命に関わる。
「何たる無礼‼︎ たかだか小娘の分際で師範にその様な物言い、これは破門あるのみ‼︎」
「そうです師範! この様な不届き者を放っておくのは道場の規律を崩しかねます‼︎ 破門など生温い! 死罪にすべきです‼︎」
「待て‼︎ 不届き者であっても我等の武芸を物にしたのは事実。その武芸を無意味に散らすのは無駄が過ぎる。故に破門で留めるべきだ」
弟子達は少女に受けたダメージを堪え、血を吐く勢いで見事な連携で怒涛の処遇を畳み掛ける。
師範も弟子達の無言で聞いて思案し、やがて青筋を引っ込めて、口を開いた。
「……確かに、こやつをここに置いておくのは後々の害になるか。よかろう。では下山を許可する。その代わり条件がある」
「へぇ。何よ、その条件とやらは」
「今すぐ外界へ向かえ、そのままな。道場の食料も水も持ち出す事は許さん。そして儂の付けた名は置いて行け。それが条件だ」
名を捨て、水も食料も持たず、その道着で山奥から山下り等、自殺行為に等しいが、少女は二つ返事で承諾した。
「別にいいわよ。その代わりアタシの本は持ち出すから。別に役に立つ物じゃないしいいでしょ?」
「あれの事か……好きにしろ」
「そ。それじゃあ今までお世話になりました。次は死後に会いましょクソジジイ」
少女は一切の迷いも躊躇いもなく吐き捨て、道場を後にした。
「あ、あの……師範、幾ら何でもあの処遇は酷なのでは? この山下りがいかに過酷かはご存知ですよね?」
「生かしてやっただけでも温情だ。この程度で死ぬなら奴は所詮その程度という事だ。その程度で外界に出ても恥を晒すのみ。我等の流派を穢すだけだ」
師範は仏頂面を崩す事なく、無情の一言を弟子に返し、弟子は言葉を失う。
過去に何人か下山を試みた者がいるが、成功した事例など、一度として聞いた事が無い。
山の不安定な環境や道中の魔物に打ち負けたのか、或いは下山を成功させて外界で生きているのかは定かではないが、現在の所は“失敗した事例”しかない。
多くの弟子達が少女とは長い付き合いなので、少女の夢も知っており、少女の事を嫌っている訳でも無いので情がある。
(上手く山下り出来ればいいが……)
弟子の一人は少女の身を案じるが、師範の手前、肩入れする事は許されない。故に内心で少女の無事を祈るしか無かった。