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 それから、十四年の歳月が流れました。サイオニア王国はカンツォーネ王国以外の周辺諸国と親交を深め、国庫も潤っており、国民の生活水準も以前に比べて随分向上いたしました。今では地方の小さな村のどこにでも学校がありましたし、どんな貧しい家の子供であろうと上の学校へ進学できるような制度もきちんと確立され、国の識字率もとても高くなっています。

 国民はみな善政を敷いてくださるクリフトフ王のことを敬愛しておりましたし、その息子、ダニエル王子にも幼い頃より大きな期待がかけられていました。このダニエル王子は四歳の頃からピアノとヴァイオリンを大変上手に弾かれ、宮廷で天才児としてもてはやされていました。彼のお母上であられるポーラ王妃のことを知っている貴族たちの多くは、母親譲りのその才能に驚嘆いたしましたし、何より彼の容貌が父王のクリフトフさまにそっくりなのを見て今では彼が王家の血統を受け継いでいないのではないかと疑う者は、ひとりも存在しないほどでした。そうなのです――ポーラ王妃が亡くなった時、ちょっとした化物騒ぎがありましたので、一部の王侯貴族の間では本当にダニエル王子がクリフ王とポーラ王妃の息子なのかどうかと、疑いの声が持ち上がっていたのでした。けれども、ダニエル王子は髪の色こそ母親譲りの黒髪でしたが、そのサファイア・ブルーの瞳も卵形の輪郭も、あまり高くない鼻梁もすべて父親の性質を受け継いでおりました。

 このダニエル王子は十歳の時には周辺諸国の五ヶ国語をマスターしておりましたし、彼の家庭教師は王子の英邁な頭脳におそれ平伏し、「わたしにはもはや王子さまにお教えできることは何もありませぬ」と言って、次から次へとその職を解かれたがったほどでした。

 そして彼が十四歳になった今、ダニエル王子の家庭教師は国一番の知恵者と言われる学者のエズラでした。クリフトフ王は彼に息子のダニエルに帝王学というものを教えるようその職に任じたのですが、エズラもまたダニエル王子が評判通りの天才児であることに驚嘆し、王子が王立図書館の数万巻にも上る書物をすべてお読みになっていることを知ったあとでは他の家庭教師たちと同じようにその職から解かれることを王に願いでました。

「王さま。このエズラにはもはや王子さまにお教えするようなことは何もございませぬ。ダニエルさまは五ヶ国語に通じておられるばかりでなく、数学・哲学・化学・植物学・天文学、その他あらゆる学問に通じておられ、このわたくしが帝王学をお教えするまでもないかと存じます。ただし……」

「ただし?」

 王は謁見の間で玉座に肘をついたまま、この年老いた学者のことを尊敬の目で見下ろしました。何しろ彼は先の王ラドクリフさまの知恵袋であり、カンツォーネ王国との三十年戦争で属領下から独立を勝ち得ることができたのも、彼の策謀による功績が大きかったからです。ただ、ラドクリフ王はエズラがあまりに策士として優れていたために、国が平和となったあとは彼に荒れた狭い領地をあてがって、そこへ事実上追放したのでした。

「ダニエルさまは大変利発な方でいらっしゃいますが、わたしが見ますところ、愛情に飢えてらっしゃるのではないかと……」

「それは、どういう意味だい?」

 王は前々から薄々そのことに気づいていながらも、あえてそう老学者に訊ねました。

 エズラは最高位の賢者のしるしである紫色の角帽を手にしたまま膝をつき、

「おそれながらも王さま。どうかこの老いぼれの言うことに御耳をお傾けくださいませ。ダニエルさまは他でもないあなたさまの愛情に飢えてらっしゃるのです。失礼を承知でお聞きしますが、王が前にダニエルさまと一緒にお食事をなさったのはいつ頃のことでございましょうか」

 クリフ王は即座には返事をすることができませんでした。少なくとも一週間以上は晩餐をともにしていないのは確かでしたが、それ以前ということになるともはや記憶があやふやだったからです。

「ええと、それは……おお、そうだ!二週間前に狩猟へいった時、わたしが仕留めた大鹿の肉や雉料理などを振るまってやろうと思って、ダニエルのことを大会食の間に呼んだことがあった。だが息子は気分が悪いと言ってこなかったのだ。それはわたしのせいではないぞ」

 エズラは、王はまるで何もわかっていらっしゃらないというように、何度も首を振っています。

「クリフさま、わたしが申し上げているのはそういうことではないのです。大切なのは食べ物のことや着る物のこと、あるいは暮らし向きの贅沢さといったようなことではなくて、生まれた時からお母上のいらっしゃらないダニエルさまのことをお父上であるあなたがいかに気遣い、忙しい中にもどのくらい時間を割いてダニエルさまと接してきたかということなのです。わたくしの見たところ、王さまは父親失格でいらっしゃいますな。それでもできることならこの老いぼれたじじいめがその代わりとなって勉学をお教えできればと、僭越ながらも思った次第でございますが、やはり赤の他人には限界がございまする。ダニエルさまはあまりにも賢すぎる方なのでございますよ――王さまとて、今のダニエルさまに何かお教えするのは難しゅうございましょうが、もし王さまが帝王学を王子さまにお教えしたくば、御自分の口から直接、王さま御自身の言葉でお教えになることです。さすればダニエルさまもすでにわかっている歴史のことであれなんであれ、喜んでお父上のお話しすることにお耳を傾けることでございましょう。あの方に今一番必要なのは、そういうことなのですよ」

「いや、しかし、それは……」

 クリフ王は落ち着かなげに玉座から立ち上がると、そわそわと何度もその前をいったりきたりしています。

「エズラ先生のおっしゃりたいことは、わたしにもよくわかる。しかし、先生。王家の教育というのはもともと、そのようなものなのですよ。わたしだって生まれてからすぐ産後の肥立ちがよくない母から引き離され、乳母の手で育てられたのです。その後も食卓に父と母が揃っているようなことは公式の行事以外ではほとんど滅多にありませんでしたし、食事をする時はいつもひとりでした。わたしには仲のいい乳兄弟のアントニオがおりましたが、彼でさえ身分の違いを自覚させるためにと、別室で食事をとらされたのです。わたしだって幼な心にも寂しく思ったし、何かというとしきたりばかりで、小さな頃から窮屈な思いをして育ちました。でも今はそれでよかったと思う部分も多少はあるし、わたしは父からも母からも愛情のようなものを受けた記憶はないけれど、自分でなんとか頑張って努力するということを覚えたのです。先生、わたしは……正直いってあれの顔を見るのがとてもつらいのですよ。口にこそ出しはしませんが、時々『どうして自分にはお母さんがいないんだろう』と物問いたげな目でわたしのことを見るんです。小さな頃からそうでした。だからわたしは本当のことを話すのもうまい作り話をしてごまかすのも嫌で、あれからずっと逃げ続けていたのです」

「そこまでわかっていらっしゃるなら……どうか王よ」エズラは王の前で跪いたまま、申し上げました。その顔には包みこむような優しい微笑がありました。「お母上のいないダニエルさまと、そのお悲しみを共有してあげてくださいませ。クリフさまの話されることが嘘かまことかなど、実は子供にはそう大したことではないのですから。わたしも幼い頃、母を質の悪い伝染病で亡くしましたが、隔離された家の叔母が何を思ったのか、随分長いことわたしに母は生きていると嘘をついておったのです。そのことが何年かしてわかった時、不思議とわたしは叔母に対して怒る気持ちは持ちませんでした。何故かというと彼女は愛情からそれをしたからです。今にして思うと、いつかお母さんが病院から退院したら会えると希望を持っていながらも、心のどこかでは薄々わかっていたような気さえするのが不思議です。王さま、ただしこれはわたしのような凡人の場合のお話であって、ダニエルさまはあのお年でもうこんなじじいよりももっと知識を持っておいでなのです。このままいくとダニエルさまは根詰まりを起こして、王さまの目から見れば何がどうしたということもないのに、非常にお苦しい思いをなさることになるでしょう。あの方にはわたしが一言何かものを申す前に、すでにわかっていらっしゃるようなところがおありですから……どうか王さまにおかれましては、手遅れになる前にあの方の鋭すぎる感受性を正しい方向に導いてくださるよう、努力していただきたいのです。我が国サイオニアがこれからも、平和で繁栄した国であるためにも……」

 ダニエル王子の家庭教師であり、王の顧問でもあるエズラが謁見の間から退出すると、王は玉座に腰かけたまま、深い溜息をお着きになりました。実をいうと、クリフ王はエズラに話をした以上に、自分の息子のことが苦手だったからです。たった今エズラが言ったようなことは王にも理屈としてはとっくにわかっていることでしたし、自分でもなんとかしなくてはと、心の隅でいつも気にかけてはいながらも、どうすることもできずに今日まできた問題なのです。この時になって初めて王は、家庭教師を男ばかりにしたのがいけなかったのかもしれないと、後悔しました。何故といって、ちょうどダニエル王子の今と同じ年の頃に王は、家庭教師のシャーロット先生に恋をして、当時は随分彼女にのめりこんでしまい、先生を困らせるようなことばかりをした経験があったからです。だから王子である息子が自分のように身分違いの恋をして苦しい思いをしたりしないようにとのつまらない心遣いから、家庭教師を全員男の先生にしてしまったのでした。

(でも今にして思えばあれは、ひとりの人間が成長するためのプロセスとして、大切なことだったのだ。あれには知識好きの学者のように、どこか感情に乏しいようなところがあるから……誰か、母性的な感じのする女性にでも、話し相手になってもらったほうがいいのかもしれない。母上は大層あの子を可愛がっておいでになるけれど、昔わたしに対したのと同じく、あれは条件付きの愛情だから……そうだ!メアリを呼ぼう。メアリは昔ポーラに仕えていた頃の話をあの子にしてあげることもできるだろうし、何より今では結婚して三児の母だ。メアリが相手ならあの子も恋に落ちるような心配はないだろうし……)

 王は側近の従者であるアントニオを呼び寄せると、令状を持たせて川向こうにある彼女の家まで遣いにだしました。その時メアリは上から十一歳、九歳、七歳の子供たちに囲まれて、庭で洗濯をしているところだったのですが――アントニオの話を聞くと「是非よろこんで!」とばかりその話を即座に快諾しました。彼女の夫は以前は王宮の警護兵で、今は法務院の牢屋で番兵をしている、マキシム・ヨーデルハイトという男でした。マキシムは国民のほとんどがそうであるように、熱心な王党支持者でしたので、王直々の御命令とあれば、喜んで妻を宮仕えに出させるに違いないことがメアリには聞く前からわかっていたのです。

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