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ポーラが失踪したあとの、クリフトフ王の落胆ぶりといったら、見るも痛々しいばかりでした。あの夜、王は泣きじゃくる赤ん坊を抱きかかえて、部屋中くまなく王妃のことを探したあと、半狂乱になって人を呼び集めました。そして生まれたばかりの赤子を侍女たちやカリール先生の手に託すと、自らの手で王宮警護団の指揮をとり、ポーラと不審な人物のことを捜しにかかったのでした。不審な人物――王は警護団の隊長に、それを虹色に輝く化物だとは説明できなかったので、とにかくどんな些細なことでも洩らさず自分に報告するよう、夜勤の警護兵全員に通達したのでした。
王は厩舎から愛馬を引きだしてくると、自分の手で鞍を乗せ、鐙に足をかけて綱に手をやると離宮近辺から広い庭をくまなく探しはじめました。王はこの時、まだ心の中に希望を持っていました。何故といって、ポーラ付きの侍女で、今は離宮の侍女頭でもあるメアリが、彼が見た時控えの間にはいなかったからです。
(きっと、これには何か事情があるのだ。ポーラはおそらく今、メアリと一緒にいるに違いない。そうするとあの化け物は一体……?)
クリフトフ王には、訳のわからないことだらけでした。それでも王はその明晰な頭脳によって、次のような推測を立てていました。つまり、ポーラとメアリは真夜中にカリール先生さえ呼ばずにふたりだけで無事子供をとりあげ、おそらくはほっとしていた矢先にあの化物が現れた……化物の姿に驚いたふたりは、赤子を置いて外へ逃げざるをえなかった、というように。
広い庭園のあちこちで篝火が焚かれるようになると、王宮の外はさながら昼間のような明るさでした。王は手に持っていたカンテラの火を消すと、<妖精の噴水>と呼ばれている大理石の噴水の前にそれを置き、大きな声でポーラの名を呼びながら彼女のことを捜し続けました。そして王が果樹園のあたりやら、彼がポーラのために作った<真珠王妃の花壇>のあたりを馬に乗って捜している時に、ひとつの報告が王の耳にもたらされたのでした。
「警護兵のうちのふたりから、ポーラさまを捜しているメアリとかち会ったとの報告を受けました。彼女の話によると、真夜中に不審な物音で目が覚めた時、もはや王妃さまはお部屋にいらっしゃられなかったと……」
「そんな馬鹿な!」
クリフトフ王は怒りのあまり下馬すると、近くの樹に馬を繋いで、警護兵の隊長に思わず、自分が王妃の寝室で見た化物の話をしてしまいました。
「あれは、あれは……決して人間などではない。こう、虹色の鱗のようなもので全身を覆われていて、わたしはそれに斬りかかっていったのだ。しかし鱗は鋼のように硬く、どれほどの傷を負わせたか、わたしにもわからん。とにかくその化物が赤ん坊を連れ去ろうとしていたのだ。果たしてあれはどこかの国の間者なのか、それとも……」
王が花壇の花を踏みつぶしながら、落ち着かなげにうろうろと歩きまわっていると、警護兵の隊長のもとに新たな情報がもたらされました。北のマロニエ並木のあたりで、何やら不思議な光を見たとの報告でした。
「それだっ!」思わず王は叫びました。「その不思議な光の正体を突き止めた者には、褒美
として百万レーテル遣わすぞっ!早く追っ手をマロニエ並木のほうに差し向けるのだ!」
そう言うが早いか、王も樹から馬の手綱を離し、ひらりと愛馬に飛び乗るが早いか庭の列柱廊を駆け抜けて北のマロニエ並木へと急ぎました。隊長の笛の音が鳴り響き、四方八方から警護兵という警護兵が呼び集められ、すぐにその数は百人を越えるようになり、
「ポーラ王妃をさらったと見られる不審者を捕らえた者には、王から褒美として百万レーテルが与えられる!」
との伝令が飛びかいました。しかし、王宮の警護兵たちにとって、王からの褒美の額はなんら問題ではありませんでした。それよりも、あの美しい自分たちの誇りでもあるポーラ王妃を攫った不埒な卑劣漢を八つ裂きにしてやりたい思いで一杯だったのです。
クリフトフ王を先頭にして警護兵の隊長が笛を鳴らしながらマロニエ並木に差し掛かった時、兵士の数は二百人を越えておりましたが、松明を手に掲げ持つ兵士たちが再び四散してその近辺を捜しはじめた時――ラリス川がその下に流れる、切り立った崖のほうから、ひとりの女の影が現れました。
「メアリ!メアリではないか!わたしはおまえにもっと詳しく事情を聞きたいのだ。こちらへきて、王妃がいなくなった時の様子をよく話しなさい」
メアリは兵士たちの物々しい様子や、殺気立った気配に肝を潰される思いでしたし、ましてや気の毒な王に向かって真実を話すことなどは、とてもできないことでした。かといってメアリは本当に純真な娘でしたので、うまく嘘を言い繕うようなこともできず、王の足許に身を投げだすと、狂ったように泣き叫ぶことしかできませんでした。
「……こんなことになったのはすべてっ、すべてわたくしの責任でございますっ!牢屋に入れるなり打ち首にするなり、どうか王さまの好きになさってくださいましっ!」
そういう間にも、メアリはわあわあとわめき散らして、やがて兵士たちの何人かが彼女のことをとり囲みはじめました。みな王の判断を待っているのです。その頃には夜が白々と明けはじめておりましたから、薄い闇の中でメアリの赤毛が寝起きの時のように乱れ、そばかすだらけの顔が泥や涙で汚れてくしゃくしゃになっているのがよくわかりました。
本当なら王は彼女に、(おまえのせいではないよ)と優しく慰めの言葉をかけてやりたいくらいでしたが、今のこの状況ではそういうわけにもいきませんでした。王は警護兵の隊長にあたりをくまなく捜索するよう命じると、他の兵士たちにメアリを捕らえて王宮の<衛兵の間>まで連れてくるよう厳かに命じました。そこで王自らの手でメアリのことを取り調べるつもりであったのです。
<衛兵の間>の控え室のひとつで王はメアリとふたりきりになると、テーブルを挟んで彼女と差し向かいになりました。六月とはいえ、真夜中から明け方にかけては薄ら寒いものです。メアリはすっかり疲れきったような顔をしておりましたし、その上顔色が青白く、まるで病人のような顔つきでした。この時には王は大分気持ちが落ち着いてきており、一度離宮の王妃の寝室で、カリール先生と少し話をしてから王宮北翼の<衛兵の間>へとやってきたのでした。
王はまだ望みを捨てたわけではありませんでしたが、それでもなんとなくポーラがもう二度と自分の元へは戻ってこないのではないかという予感がして、メアリと向きあったまま、しばしの間無言でいました。この離宮の侍女頭からポーラのゆくえについて決定的な一言を話されるのが怖かったのです。
「メアリ。おまえがどんなにポーラのことを愛し、またポーラもおまえのことを信頼していたか、わたしはよく知っているつもりだ。だからたとえそれがどのような事情のものであるにせよ、真実を話してほしい。わたしはきのうの夜……いや、正確には今日だが、深夜の三時頃に離宮へいった。そして階段に足をかけて三段もいかないうちに、元気のいい赤ん坊の泣き声を聞いたのだよ。あたりは静かな暗闇に包まれていたが、その時わたしの心には光が灯った。とうとう時が満ちて、王家の跡とりが――わたしと他でもない愛する王妃との間に、新しい生命が無事誕生したのだと思った。わたしは喜び勇んで階段を駆け上がり、廊下を走っていった。だがわたしが王妃の寝室で見たものは……何か得体の知れない虹色をした化物だった」
嘘のつけない正直なメアリは、この時思わずびくりと体を震わせてしまいました。緑色をした瞳の中には涙があり、その涙が静かに頬を伝ってゆきます。
「単刀直入に聞こう」王はテーブルの上で両手を組み合わせると、寝不足と疲れから、深い溜息を洩らしました。「メアリ、おまえはあれを見たんだろう?正直に言いなさい。そんな話をしても誰も信じないというので嘘をつく必要はないんだ。何故って、わたしもあの化物を目撃したのだからね。おまえはあの正体不明の化け物がポーラを連れ去るのを見た……それで半狂乱になって庭中を捜しまわっていたんだろう?だがわたしが思うには、あの化物はポーラを連れ去ったあと、どこかに彼女を隠して、今度は生まれたばかりの赤ん坊をおそらくは殺す目的で戻ってきたのではないだろうか。はっきりしたことはまだよくわからないが、衛兵の何人かがマロニエ並木のあたりで、何か光る物体を目撃したと証言している。おまえはそれを追っていたんじゃないのかい?」
「はい」とも「いいえ」とも答えず、メアリは暫くの間押し黙ったあとで、次第にまた啜り泣きはじめました。女性の涙に弱い王は、それ以上厳しくメアリのことを追求しはしませんでしたが、それでもかなりのところ自分の立てた仮説を信じていたので、おそらくはそれがもっとも真実に近いだろうと考えました。すなわち、ポーラとメアリが無事子供を取り上げたあと――あの化物が寝室に入ってきて驚いたメアリは、ポーラのことも赤ん坊のことも放っぽってひとり逃げだしたのだろうと。けれども王妃を置いて逃げてしまった自分を恥じ、彼女がおそるおそるもう一度戻ってきた時には、寝室にポーラの姿はなかった……すっかりとり乱したメアリは庭中を泥だらけになりながら捜しまわったものの、ポーラの姿を見つけだすことはできなかった――それが王の立てた仮説でした。
クリフトフ王は王宮の庭の広さを呪いたい思いで、迷路のように入り組んでいる生け垣の間か、幾何学庭園の茂みの中からでも気を失ったポーラが発見されはしないかと、警護兵の報告を今か今かと待ち望んでおりました。けれども結局三日三晩王宮中をくまなく捜索したにも関わらず、ポーラの姿は見つからず、その頃になってようやくメアリがぽつりぽつりと衛兵の質問に答えはじめるようになって、ポーラ王妃の捜索は打ち切られることになったのでした。
メアリはとても、心の底からポーラのことを愛している王さまに真実を話すことも嘘をつくこともできなかったのですが、王宮の衛兵相手になら、虚実入り混じった話をしても、それほど胸の痛みを覚えずにすみました。何しろ正式の取調官ではない衛兵ときたら、千人以上もの警護兵が毎日王宮を上へ下へと王妃のことを捜しまわっていると言っては、それもこれもあんたのせいだと言ってメアリのことをちくりちくりと責めたからです。
「……ポーラさまは、お亡くなりになりました」
それでも流石にその衛兵も、メアリがそう口を開いた時には、「嘘をつけ!」と言って顔に怒りをあらわにして彼女のことを詰りました。
「本当です。わたしは何か得体の知れない化物がポーラさまのことをさらい、北の断崖絶壁の上からラリス川へ飛び下りるのを見たのです。あとのことは王さまの推測のとおりですので、わたしにはこれ以上、話すべきことは何もございません」
メアリがこう話すと、今度はラリス川の上流から河口に至るまで、サイオニア王国の誇る海軍がポーラ王妃の遺体の捜索を開始しました。けれども当然のことながら化物の死体もポーラ王妃の亡骸も見つからず、一週間ほどで特別捜索隊は解散されることになります。
メアリは慈悲深い王さまの恩寵によって何も刑を課されることなく牢から釈放され、それだけでなくこれまで王妃によく仕えてくれた褒美にと、大変な額の退職金を渡されて、家へと帰されました。
実際には王家の記録の書にはポーラ王妃が化物に攫われたということはひとつも書き記されておらず、王妃の死は産褥死ということになっていたのですが、警護兵の間には緘口令が敷かれておりましたので、このことは王侯貴族たちの間でも公然の秘密として扱われ
ました。
以来、夜勤を勤める警護兵の間には夜明け前の闇のもっとも濃い時間帯に<妖精の泉>から虹色をした化物が現れるとの評判が立ちましたが――それは何も根拠のない噂、というわけではありませんでした。ポーラは以前その大理石の噴水で泳いでいるところを警護の兵に見つかったことがあり、その中でひとりだけ記憶を奪い損ねた人間がいたのでした。彼――マキシム・ヨーデルハイトは、一応王の耳にそのことを御報告したのですが、王はマキシムからその話を聞くとすぐに、政務を放りだしてひとり自室に篭ってしまいました。王はその時こう考えたのです。おそらくあの化物は以前から離宮の近辺に身をひそめて、王妃のことを攫う機会を待ちもうけていたのだろうと。そのことに少しも気づくことのできなかった自分の迂闊さを王は呪いました。そしてこうも考えました。王は貴族たちや警護兵の間に流れる、妖精が王妃の美しさに嫉妬して彼の国へと連れ去ったのだ、などという馬鹿げた話は頭から信じておりませんでしたので、あの化物はいずこかの国からか差し向けられたスパイだったに違いないと決めつけました。何故といってそれ以外に王妃を連れ去り跡とりの王の御子息の命を奪って得をしそうな人物は、国内ではカイゼルベルク卿以外には存在しなかったからです。
それまで王はカイゼルベルク卿に対して、政敵とはいえ一応は自分と血の繋がった叔父であることを考慮して、寛大な態度で接してきたつもりでした。そこで公金横領の疑いが持ち上がった時にも見逃してやったりしていたのですが、次に何かそのような疑惑が持ち上がった時には――徹底的に調査して彼を島流しにする心積もりでいました。またポーラ王妃の死から一年後に、隣国カンツォーネから縁談話が持ち上がったのですが、王はこの時にあの化物はきっとカンツォーネ王国の間者だったに違いないと確信し、ユトレヒト王の次女、ミリアム王女との縁談を無下にお断りしてしまいました。当然のことながらユトレヒト王はかんかんになって怒りましたが、サイオニア王国と戦争を起こすだけの財政的なゆとりが国庫にまるでありませんでしたので、「今に見ておれ」ととりあえずは沽券を保つためにミリアム王女をセイラムネイト王国のネイシャン王子にほとんど押しつけるような形で婚約させました。
カンツォーネ王国は昔から、周辺諸国に大変嫌われている国でしたので、今では彼の国から独立を果たしたベルグンド王国、エスカルド王国、バールワシュティ王国、ヨゼフファリア王国、ミッテルレガント王国などはサイオニア王国の永久独立への後押しをしておりました。何故といえば、今文化的・芸術的交流を通してサイオニア王国はそれらの国々と親交を深めつつあり、もし再びサイオニア王国がカンツォーネ王国の属領下に置かれることになりますと、精緻なタペストリーやガラス工芸品、高級家具を輸入するのに大変な税金がかかるのは目に見えておりましたし、またその職人たちひとりにつき大変な技術料を彼の国がせしめようとするであろうことは目に見えていたからです。
そのような事情はさておき、ポーラが王宮から姿を消したあとの一年間、クリフトフ王は大変な試練の時を過ごされました。何分、王妃を失った失意と悲しみのあまり、御公務のほうにまるで力が入らず、この時期はカミーラ王大后が正式に摂政の座に就いて代わりに政務をこなしたほどでした。サイオニア王国の国民は、ポーラ王妃が王子を出産後に亡くなられたと聞いてみな非常に悲しみました。そして王と悲しみをともにするために、一年の間喪服を身に纏って生活することさえしたのです。ポーラ王妃が亡くなった一年間は大変黒い服が流行いたしましたので、王はそのことに気づいた時に、これではいけないと思い以前のように政務に情熱のすべてを傾けようとされたのですが、その御無理がたたったのでしょう、原因不明の発疹を伴う高熱に二十日の間うなされ続けました。そして静養をかねて北の湖水地方のほうへお出かけになり、そこで三か月ほど過ごしたのちに――再び御公務へと復帰されたのでした。
クリフトフ王がこの時なにより一番心にかけたのは、ポーラ王妃の忘れ形見である自分の息子、ダニエルのことでした。もしここで自分が死ねば、あの小っちゃな息子の肩にサイオニア王国の行く末のすべてがかかることになるのです。確かに、彼が成人するまでの間はカミーラ王大后が摂政として、また孫の後見人として立つことになるでしょう。しかし、カミーラさまだって今はお元気でも、いつなん時自分のように突然病いに倒れられるかわかりませんし、王は母のいない哀れな息子のことを思って、せめても政治的に磐石な基盤をしっかり築いてから彼に王位を継がせたいように考えたのでした。
クリフトフ王は湖水地方で静養されている間、美しい湖に白鳥が飛来してくるのを見ては涙を流されました。そして自分はその深く悲しい湖を心の底に溜めたままで、これからの一生を生きていく決心をなさったのです。