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クリフトフ王が夜陰に乗じて王立法務院の地下牢へ姿を現した時、入口を警護していた兵は居眠りをする寸前だったのですが、王のお姿を見るなり背筋がぴんと伸び、仰々しく敬礼いたしました。
「こっ、これは王さま……もしやあの化物の様子を見にこられたのですか?」
「化物ではない」と、自分もついきのうまではそう思っていたにも関わらず、クリフさまは微妙に訂正いたしました。「わたしは半魚人の様子を見にきたのだ。これからわたしが何をしようと――もし知らぬふりをしてくれるならば、これを授けよう」
王はぎっしりとレーテル金貨の詰まった革袋をふたつ、地下牢の入口を守っていた番兵ふたりに手渡しました。
「も、もちろんでございますとも、王さま。わたしたちが今日平和で豊かな生活をしておりますのも、すべては王さまの仁徳のお陰でありますれば……我らが王のお言いつけに背くなど、とんでもないことでございます」
彼らは見たこともないような大金に目がくらみ、黙って王さまのことをそのままお通ししました。クリフ王がこれから何をなさろうとしておられるのか、彼らには興味などありませんでしたし、結局のところどんなまずいことがこれから起こるにせよ、すべては王が責任をとってくださるのですから、自分たちは知らぬ存ぜぬで通せばいいだけのことだと思っていたのです。そしてずっしりと重い金貨にちらちら目をやっては、ひとりはこれをどうやって女房の目から隠してヘソくろうかと考え、いまひとりはこれで家族に楽な暮らしをさせてやれると思って、心を輝かせていたのでした。
クリフ王は地下牢の入口にあるガーゴイルの彫像に目をやると、壁に蝋燭が灯っている石畳の廊下をそのまま真っすぐ歩いてゆきました。かつかつという虚しい自分自身の足音のこだまを聞きながら、王は今は囚人が誰もいない牢屋の前を通りすぎてゆくと、やがて一番奥の拷問部屋の手前にある、腐った魚のようなひどい匂いのする牢の前までやってきました。
「御苦労である」
クリフ王が夜勤の番兵――マキシム・ヨーデルハイトにねぎらいの言葉をかけられますと、熱心な王党支持者であるマキシムは、膝をついて頭を垂れました。
「わたし如き下賎の者に、もったいのうお言葉でございます」
「ところでお主、ここの鍵を持っているか?」
マキシムは顔を上げますと、王はこれからどうなさるおつもりなのだろうと、ためらうような表情をその面に浮かべました。もしや王さまは、この哀れな人魚を拷問部屋にある身の毛もよだつような拷問器具の数々にかけておしまいになられるのでは……そんな不安がマキシムの心をよぎりました。
「鍵を持っているのかいないのかと、聞いておるのだ」
もう一度王がそう問いただされますと、自然のうちに音もなく牢の扉が開きました。王もマキシムも驚きましたが、真っ暗な牢の奥にふたつの哀願するような眼を見つけますと、ふたりにもすべてが明らかでした。
王は腐った魚のあとでぬめっている床で足を滑らせそうになり、よろめきつつ哀れな人魚の前に膝をついて言いました。
「おかえり、ポーラ」
ああ、なんということでしょう!王はとうとうすべてを知ってしまわれたのです!ポーラは鰭のついた鱗だらけの手で顔を覆いながら、さめざめと泣きました。
『わたしは、ポーラなどという名前ではございません。シーポーラというのです』
そしてそう王の心に直接話しかけたのですが、彼の愛にあふれる心には嘘など通用しませんでした。
「何も言わなくていい」クリフ王は昔の日のように慈しむような優しいお声で言われました。「何も知らなかったとはいえ、こんなひどいところに閉じこめてすまなかった。ダニエルも目を覚ましたし、君がこんなところに閉じこめられている必要はない。さあ、一緒に外へでよう」
ポーラはその時少し咳きこみましたが、海へ戻ることさえできれば――自分の病気などすぐに治ることがわかっていましたし、何よりもクリフさまの深い愛が心にしみこんで、それが肺の炎症を癒したのでした。
王は自分が着てきた闇色の暖かなローブをポーラに着せると、フードで魚の頭を隠すようにしてから一緒に牢を出ようとしました。
マキシムは涙を流しながらも、やはりいかめしい顔つきで青灰色の壁を睨んでいます。そして王のほうなどちらとも見ないで、「わたしは何も見ませんでしたし、聞きもしませんでした」と、そう答えたのでした。
王は彼にも賄賂として金貨を用意してきたのですが、直感として彼が金を受けとりそうもないことがわかりましたので、彼の名前だけ聞くと、
「マキシム・ヨーデルハイトか。覚えておこう」
そう言ってポーラの肩を抱いて薄ら寒い地下牢の廊下を戻っていかれたのでした。実は王さまはメアリの夫が番兵であることは知っていましたが、彼の名前も風貌もよく知りませんでしたし、メアリの姓が結婚してヨーデルハイトになったことも覚えてはいなかったのでした。
それで数日後にマキシムを王宮へ呼びだして王の従者のひとりに加えますと、その時初めて彼がメアリの夫であることを知って驚いたというわけなのでした。マキシムは王の従者となったあと、エズラ先生について勉学を修め、やがては王の顧問へと出世してゆくのですが――それはまた後日のお話です。
地下牢の入口を守っていた番兵のひとりが、早速明日この金を使って淫売宿で楽しむことを夢想しておりますと、入口から王さまと、もうひとり得体の知れないローブを纏った者が出てきました。番兵たちは王に対して敬礼しながらも、ローブの袖からは鱗だらけの手が、裾からは鱗だらけの足が垣間見えるのを見て、ぞっとしながらふたりの後ろ姿を見送ったのでした。
王はカンテラを手にして舟に乗ると、ポーラに手を貸して彼女のことを座らせ、櫂を漕いでラリス川をゆっくり下りはじめました。王立法務院の中洲があるこのあたりは、比較的流れも緩やかで、ここから河口まではそう遠くはありません。
ふたりは濃い闇の中、川を下って誰もいない浜辺に辿り着くまで、ずっと無言でした。とはいえ、ポーラにはクリフさまのお考えになっておられることがすべてわかっていましたから――言葉もなく静かに涙にくれるのみでした。
クリフさまはポーラがどうすれば一番幸せなのかについてお考えになっておられたのでした。もし今の姿のままでも、ポーラさえよければ離宮に戻ってきてほしいと思っていました。何しろ人間の王妃としてのポーラはすでに亡くなっているわけですから、あれ以来誰も使っていない離宮に住んでも、そう都合の悪いことはないだろうと思いました。確かに、警護兵の間に奇妙な噂が立つかもしれませんし、ポーラにもひどく窮屈な思いをさせることにはなるでしょう。でももしポーラが海を離れてはそう長く生きられないのであれば……彼女は海へ帰ったほうがいいのだろうと思ったのです。
何故、美しい人間の女性の姿となって海のほこらで倒れていたのか、何故、今のような人魚の姿から人間に戻れなくなったのか、何故、赤ん坊を生んだ時人魚の姿をしていたのか、何故、以前は虹色だった鱗が、今は鈍色がかった緑色をしているのか……そういったことは、今のクリフ王にはもうどうでもよいことでした。でもポーラにはそうした王が心の中で疑問に感じていたことに答えるのが、せめてもの愛の証しのように思え、彼の心にそっと優しく声をかけたのでした。
『わたしは昔――クリフさまが今よりずっとお若い頃に、ロイヤル・サイオニア号が難船した時、救命艇から波間に投げ捨てられたクリフさまを、あの海のほこらまでお運びしたのです。それ以来わたしは人魚の身でありながらも人間になりたいという望みを持つようになり、海の魔女と呼ばれるセイレーンとある取り引きをしたのでした。わたしは自分の虹色の鱗百枚と引き換えに、セイレーンから人間になる薬をもらったのですが――海の魔女と取り引きをすることは人魚にとっては禁忌だったのです。でもわたしは一度人間にさえなってしまえば、自分は陸に属する存在となり、海の理には属さない者になると考えて――その禁忌を破ってしまったのでした。セイレーンはわたしから虹色の鱗を百枚受けとったあとでこう言いました。人間になる薬には副作用があって、一日に一時間くらい元に戻ってしまう時間があるのだと。でもそう聞かされてもわたしの心は揺るぎませんでした。そして海のほこらで人間となり、倒れているところを……偶然にもクリフさまが発見してくださったのです』
そうだったのかと王は思い、悲しい運命の偶然に胸が痛みました。もし彼女が難破した自分のことを助けてくれていなかったら、今ごろサイオニア王国はどうなっていたでしょう。また自分が海のほこらで人間となったポーラのことを一番最初に発見していなかったら、今ごろ彼女はどうしていたでしょう。きっと淫売宿にでも売られて、身をひさいでいたに違いありません。
王はそうしたことのすべてを考えあわせて、神にすべてを感謝いたしました。果たして、三年の間といえど、心から愛した女性と生きた歳月を過ごすのと、愛してもいない隣国の王女と結婚し、やがては愛妾を囲うようになるのと、どちらがいいかと問われたら、王はやはりポーラに出会えてよかったと、そのように思うのでした。王にとってはポーラが人魚でも人間でも、今はもうどちらでもよくなってさえいました。人魚には不思議な<感化力>という能力がありましたから ――もし王がこのまま長くポーラと一緒にいたとしたら、人間の女性のことをただの贅肉の塊のように考え、鱗に覆われた肌こそが世界でもっとも美しいというようにさえ思いはじめていたに違いありません。
ふたりは舟から降りると、恋人のように肩を並べて浜辺を散歩しました。夜明けが近づいてきたら、ポーラは海の世界へ帰らなくてはいけないということが王にはわかっていましたし、ポーラには再び愛する夫と息子と離れて暮らす寂しい生活が待っていたのでした。
「さよなら、ポーラ」
クリフさまはポーラの鱗だらけの額にキスすると、いつまでも愛していることを約束しました。そしてダニエル王子が元の人間の姿に返るために――ポーラは鈍色の鱗を一枚、腕から剥いで王に渡したのでした。
『さようなら、わたしの愛しいクリフさま』
ポーラは海の中へ飛びこむと、たちまちのうちに白い泡の漂う蒼い海の彼方へ消えてなくなりました。ふたりは口にだしてこそ言いはしませんでしたが、もしクリフ王が一国の王さまなどでなかったとしたら――彼は何もためらうことなくどこかの小さな島で、人魚の妻と半魚人の息子と家族三人で仲睦まじく暮らしていたに違いありませんでした。
クリフさまはポーラがいなくなったあとの浜辺で、朝陽に照らされた美しい海を暫くの間ご覧になると、手のひらの中の鈍色の鱗を握りしめ、苦しい思いを抱えながら重い足を王宮に向けました。これから息子のことをなんとか説得してこれを飲まさなければいけないことを考えると――クリフさまは自分が地上の王国のひとつを治める王であり、また大地に属する人間であるということがほとほと嫌になるほどでした。そして生きていても虚しいという厭世観を覚えながらも、これからも王としての職務をまっとうしていかなくてはならないのだと思うと、いっそのこと出家して僧侶にでもなりたいというようにさえ思ったのでした。