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クリフトフ王は決して迷信家というわけではありませんでしたが、不思議とこの物語には心惹かれるものを感じました。普通に考えるとするなら、このような話は昔から漁師の語り部たちに伝えられているただの伝承だというように誰もが思うことでしょう。でも王はこう考えたのでした。ポーラ王妃が命と引きかえに王子を出産されたとの正式な発表がなされた時――国民はそのことを我がことのように悲しんで、一年の間喪服を身に纏って過ごしたのでした。けれどもその時王は、彼より四代前のクリフトフォロス王の時代に黒い服が大変流行して、その数年後にサイオニアがカンツォーネ王国の属領下に置かれたことを思いだし、自分がしっかりしなくてはいけないと思ったのです。後世の人間はみな、クリフトフォロス王の治世に黒い服が流行したのは、戦争の起こる先触れだったのではないかと言いますが、当時の彼らにしてみればそんな気持ちなどどこにもなかったに違いありません。
(国民の間で黒い服が流行しようがしまいが、結局のところ戦争というものは起きる時には起きてしまうものだ)
だが、避けられるに越したことはない――そう考えるとクリフ王は、午後からは通常通り閣議の間で政務を執り、議会で決定したいくつかの法案の書類に、王の認証のサインをしました。そして朝見た時にもまして魚人化が進んでいるダニエル王子のことを見舞うと、そこに泣きじゃくるメアリがいるのを見て、彼女のことを隣の控えの間へと連れだしました。
「おまえは、何かをわたしに隠している。そうだね?」
クリフ王は決して、ダニエル王子に人魚の鱗を食べさせたことを責めているわけではありませんでした。第一彼はそんなこと、知りもしなかったのですから。
「王さまっ、王さま……ダニエル王子があのような姿になられたのは、すべてわたくしの責任でございます。わたしは以前――ポーラさまより、よく仕えてくれたお礼にと、虹色の鱗を一枚いただいたのでございます。それを人間が食べると、どんな不治の病いも治ると聞かされていたものですから……でもまさか、ダニエルさまがあのようなお姿になられてしまうだなんて……」
「つまりそれは……」クリフ王は窓扉より離れると、繻子のソファに腰かけているメアリの隣に座りました。「おまえはあの虹色の化物の正体を最初から知っていたのだね?それじゃあ、ポーラは……」
その時、稲妻のような戦慄がクリフトフ王を襲いました。そして「なんということだ!」と叫んで、自分の膝を拳で何度も打たれたのでした。
「あれは――あれは……わたしが見たあれは、ポーラだったというのか!どうしておまえはそれを、そんな大切なことを……っ!」
そう口走りながらも王には、すべてのことがわかっていました。もしあの時すぐにメアリが本当のことを打ち明けていたとしても自分は到底受け容れられなかっただろうこと、結局のところメアリのしたことは、自分にとってもポーラにとっても最善であったこと……。
クリフさまが頭を抱えこんでいると、メアリはそっと、王さまの肩に触れて優しくお慰めしました。
「クリフさま、あの方は決してあなたさまのことを恨んでなどおりませんでした。ただ、母なし子となるダニエルさまのことをひどく気に病んでおられて……実をいうとわたくしは離宮に移って間もない頃、あの方が夜明け前にどこかへ姿をお消しになることに気づいて後をお尾けしたことがあったのです。何か不用心なことがあってはいけないと思ったものですから……そして離宮の室内浴場で、あの方の本当のお姿を見てしまったのでございます」
「どうしてっ……!何故なんだ、メアリ!おまえはその後も、以前と変わらず……」
王が顔を上げると、メアリは悲しげに首を振っておりました。そして王にはあらためてすべてが理解できたのでした。ポーラが夜明け前にどこかへいって戻らなかった時、王である自分が探せと命じたにも関わらず、彼女が冷静に「次期戻られますよ」と言ったことがあったのを思いだしたのです。その時王はメアリが怠け心を起こしているものと思いこみ、腹が立って別の侍女を叩き起こしたのでした……今にして思えば、すべてが合点のいくことばかりだったというのに、何故自分は今の今まで、疑う気持ちさえ起こさなかったのだろうと、王は自分自身を呪いたいようにさえ思いました。
虹色の人魚が王妃の寝室で、生まれたばかりの赤ん坊を抱いていたのは当然のことだったのです!何故って、その子供は彼女が自分のお腹を痛めて生んだ、実の子だったのですから!
「メアリ……教えてくれ。わたしはどうしたらいいんだ?わたしにとっては、ポーラが海のものでも陸のものでも、そんなことはもうどうだっていいんだ。でも、ああして人間の姿でわたしの元に現れたのだから――もう一度、同じ姿になる方法だってあるのではないか?」
「それはわたしにもわかりません」と、メアリは苦しい溜息を洩らしました。「でも、もしそうできるものなら――誰よりもそうなさりたかったのはポーラさま御自身だったはずです。でも、それができなかったからこそポーラさまは、海の国へと戻っていかれたのではないでしょうか」
「そうか……」
クリフさまは王衣の袖で涙をぬぐうと、これから自分が真っ先に何をしなければならないかに思いを馳せました。いかにそうと知らなかったとはいえ、おそろしいことに王は自分がこれまでもっとも愛したものを――あのような獄中に放りこんだままでいたのですから!それだけでなく、生きたまま解剖してその臓腑を抉りだし、息子に母の肉を食べさせようとしていただなんて!
王はその夜、闇がもっとも深くなるのを待ってから、こっそりと王宮を抜けだし、王立法務院へと向かいました。きっと彼女ならダニエル王子を元に戻す方法を知っているに違いありませんでしたし、何よりクリフさまは――王としてではなく、またひとり息子の父親としてでもなく、彼女の夫として、最愛の妻に会いにいこうとしていたのでした。
ポーラは地下牢に放りこまれてから一週間もしないうちに、重い病気にかかってしまいました。実をいうと海の中にいる時からその兆候はあって、やたら寄生虫ができやすくなっておりましたし、今ならポーラにも何故セイレーンのセイラが虹色の鱗を欲しがったのかがよくわかりました。ポーラも以前鱗がまだ虹色であった時は――一度も寄生虫などできたことはなかったからです。けれどもあの後、虹色の鱗を持つセイレーンが百名、人魚たちの手によって鮫に処刑されておりましたし、ポーラはそのことを義兄のひとりに聞かされた時、あらためて自分の罪の深さを自覚したのでした。
ポーラの呼吸は荒く、喉からヒューヒューゼイゼイという喘鳴がしておりました。実は肺炎を起こしかけていたのですが、このくらいならまだ、水をたくさん浴びればきっと回復すると思っていました。目の前にはメアリの夫である、番兵のマキシム・ヨーデルハイトが今日もいかめしい顔をして、槍を片手に青灰色の壁を睨んでいます。
ポーラにとって、マキシムの心に触れるのはとても快いことでした。彼は誠実で実直なあまり、出世にはとんと縁がありませんでしたが、持参金のたっぷりついたメアリと結婚しましたので、住み心地の好い家で愛する家族とともに、経済的になんの不自由もない家庭を築くことができていました。といっても、彼は何もメアリの持参金が目当てで結婚したというわけではありません。メアリのことを本当に愛していたから結婚し、そして三人の子供にも恵まれたのでした。
ポーラはマキシムの意識を探るうちに、彼こそが可愛いメアリの夫であることを知り、とても嬉しく思いました。何故ならマキシムは、いかめしい顔つきこそしているものの、実は内気で繊細で、心根の優しい男だったからです。
マキシムは毎日法務院の地下牢を、仲間で交替で見張っていたのですが、彼は他の番兵とは違い、内心ではこの不気味な生き物に対して同情さえ覚えていたのでした。貧しい漁師の家に育ったマキシムにとって、ポーラのような半魚人はいわば守り神のような存在といえました。彼も両親が亡くなる十五歳まで家の手伝いをしておりましたので、航海中に不思議な出来ごとに遭遇したということは何度もありましたし、その度に漁師たちはいつも海の神ダゴンのことを崇め奉ったものでした。
(可哀想に……海から離れて随分経つので、魚と同じく呼吸が苦しくなってきているんだろう。俺にできることなら、なんとかしてやりたいものだが……)
そのうちにポーラが始終咳きこむようになりますと、マキシムはますますやるせなくなってきました。彼の亡くなった母親ももともと喘息持ちで体の弱い女性でしたから、よく今のポーラのように咳きこんでいたものでした。
「……おっかさん」
そう呟くとマキシムは、フロックコートの袖で目尻の涙をぬぐい、警護兵の規律を破って持ち場を離れ、外の井戸まで天秤を担いで走ってゆきました。他の警護の兵たちには「王さまの御命令で」と言ってごまかし、彼は桶の水を可哀想な人魚に何度もかけてあげたのでした。
『ありがとう』
ポーラはマキシムの心にそう直接語りかけたのでしたが、彼はそれをただの空耳としか思いませんでした。当然といえば当然のことながら、人間には人魚が何を食べるかなどまるで想像もつきませんから、毎日彼女の元には一日に三回、魚が何匹も届けられたのですが、ポーラは新鮮な魚にも死んだ魚にも、まるで見向きさえしませんでした。
マキシムは彼女が病気になったのは何も食べずに一週間も過ごしたからだろうと思い、家からワカメを持ってきてはポーラにこっそりあげました。そして彼女が嬉しそうにそれを頬張っているのを見て――マキシムは人魚というのはやはり良き存在に違いないと感じたのでした。何故って、同族の魚を食べるのでなしに、ワカメなどの海藻を食べているのですから!
マキシムたち番兵には守秘義務というものがありましたから、実はメアリは彼が半魚人の見張りをしているだなどということは少しも知りはしませんでした。それで何故夫がいつもワカメをたくさん家から持ちだすのか不思議に思っていたのですが――心から夫のことを信頼しておりましたので、特に何も聞かずに黙って見過ごすことにしていました。