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 十一月初旬のその日、天気はとても曇っていて、折しも北西から冷たい風が吹き渡ってきていました。ダニエル王子は小舟の中に乗りこむと、メアリからもらった毛糸の帽子をかぶり、その上からベルベッドの帽子をのせ、手袋をはめた手でもやい綱をときました。

  これから何時間後のことになるか――あるいはもしかしたら、まったく誰にも気づかれないですむかもしれませんが――寝室で眠る自分の人形のことを誰かが気づいたところを想像しただけでも、王子はとても愉快でした。

 ダニエル王子はこの日、もうシーポーラには来年の春まで会えないだろうと思いつつも、自分としてはこれで今年最後のお別れのつもりで、舟に乗ってオールを漕いでいたのでした。

(僕はこれから、お父さまの後を継いで立派な王さまになって、メアリのような市井の人たちのためになることをするんだ。メアリはようやく自分の名前だけは書けるようになったけど、書類を代筆した人間が悪さをしたという判例が、いくつかあったものなあ。僕もソロモン王のように公正な裁判ができるよう、これからもっと勉強しなくちゃ)

 ダニエル王子は遠くの空の一点が濃い灰色の雲で包まれているのを見て、雨が降ってくるだろうかと思いはしたものの、それならそれでその時だと思っていましたので、サキュバス海門のあたりで櫂を漕ぐのをやめると、舟の中で横になって、シーポーラちゃんがやってくるのを待ちました。あたりの海に向かって大声で彼女の名前を叫んだりしなくても、シーポーラちゃんにその気があるなら話しかけてきてくれるだろうし、もしそうじゃないなら、今日を最後に来年の春まで、王子は舟に乗らないつもりでおりました。

 風は少し冷たかったのですが、それでも王子が注意して厚着してきただけあって、体はぽかぽかしてそんなに悪くない按配でした。ダニエル王子はそのうちに、ぐうぐうと眠りはじめると、舟がどんどん沖のほうへ流されていっていることにも気づかず、やがて日暮れ時を迎えました。

 なんていうことでしょう!ダニエル王子が次に気づいた時には、どことも知れない紺碧の大海原でたったのひとりぽっちになっていたのです。折しも輝きを失った鈍い光を放つ太陽が、水平線の彼方に沈んでゆくところでした……流石にダニエル王子もこの時には(大変なことになった!)と思って慌てたのですが、いまさら泣き叫んでみたところでどうにもなりません。

(きっと、メアリにあんなひどいことを言ったから、罰が当たったんだ)

 でも、後悔してもいまさら遅いのです。王子はがっくりと肩を落とし、呆然とあたりのだだっ広い海の波を眺めましたが、なんとか自分のことを励まそうとしました。

(そうだ。舟に乗ってサキュバス海門のあたりに出た時には、雨が降るかもしれないと僕は思ったんだ。少なくとも天候が落ち着いていることだけでも喜ばなくちゃ)

 ダニエル王子は太陽が沈んだのとは反対方向に舟を漕いでいこうとしましたが、それとは逆向きに風が吹いておりますので、櫂を漕げども漕げどもてんでお話になりません。次期夜になってあたりが真っ暗闇になったところを想像しただけでもぞっとしましたが、星を見て帰るべき方角がわかるかもしれないとも考えました。けれども、それで帰るべき海港ダニスの方角がわかったとして、こんな小さな舟では思いどおりの針路を風に逆らってとれるわけではありませんから、ダニエル王子はほとほと途方に暮れてしまいました。

(いくら勉強ができたって、こんな時には船乗りの経験がものを言うんだ……このへんの海の気候は変わりやすいから、もしかしたら夜のうちに嵐になるかもわからないし、突然雷雨になるかもわからない。ああ、僕はなんて馬鹿だったんだろう。王宮でぬくぬく暮らしていれば、今頃は美味しい夕食にもありつけたのに……)

 王子はきのう、詰め物をした七面鳥の丸焼きを食べたくないと言って下げさせたことを思いだし、今こそあれが食べたいとさえ思いました。そしてぐうぐうと鳴るお腹を抱え、櫂を漕ぐ気力もなく、やがて宵闇の中でわあわあと泣きはじめたのでした。

「おかあさーん!おかあさーん!おかあさーん!」

 ダニエル王子はもちろん、シーポーラちゃんの名前も呼んでみたのですが、あたりは静かな波の音に包まれているだけで、誰の気配の訪れも感じることはできませんでした。王宮では王子のベッドに身代わりの人形が置かれてあることに気づいたエズラが、警護兵に命じて王宮中をくまなく探させているところでしたが、彼はよもや王子が闇の海でひとり漂っていようとは夢にも思いませんでしたし、従って捜索範囲も王宮内とその近辺、また港町付近に限られていたのでした。

 この時、ダニエル王子の乗る小舟の付近を泳いでいた人魚のひとりは、奇妙なSOS信号を脳内に受信すると、そのことを仲間の人魚たちに知らせにゆきました。その波動は人間のものでもなければ人魚のものでもありませんでしたので、彼はそのSOS信号の送信者を救うべきかどうなのか、判断がつきかねたのです。

「オ・カ・ア・サ・ン、オ・カ・ア・サ・ン……いや、ちょっと待て。彼はシーポーラの名前を呼んでいるのだ。彼女には人間との間にできた子供がひとりいるということだったから……彼はおそらく、シーポーラの息子なのだ!」

 すぐにも人魚たちの間には素早く伝令が走り、その報告はアクアポリスの神殿で鱗の手入れをしていたシーポーラの元にすぐにもたらされました。魚の[ホソソメワケベラ]はシーポーラの鱗についた寄生虫を食べているところだったのですが、食事を中断されるのもいとわず、

「大変だわ!早くいってらっしゃいよ!」

 とシーポーラのことを快く送りだしてくれたのでした。

『まあまあ、泣き虫さん。こんなところで一体どうしたの?』

 すでにあたりは真っ暗闇で、ダニエル王子の乗る舟は風に吹かれてますます陸地から離れゆくばかりでした。うねる生き物のような波の間からぬっと突然シーポーラは顔をだしたのですが、彼女の存在はあたりの闇と同化しているようで、彼には最初シーポーラちゃんがどこにいるかもわかりませんでした。

「シーポーラちゃん、ぼく……ぼく……」

 あとのことは言葉になりませんでした。それでも泣きじゃくる我が子の心の内を読みとるうちに、すぐにポーラにはすべてが理解できましたし、これからどうすべきかもよくわかっていたのでした。

『さあさあ、そんなに泣かなくてもいいのよ。シーポーラがこれから、ダニエルちゃんのことを港まで送っていってあげますからね。ダニエルちゃんは何も心配することはないのよ』

「……ありがとう、シーポーラちゃん」

 それでも王子がまだくすんくすんと鼻を鳴らしていたので、ポーラは彼を慰めるために心の中で歌を歌ってあげることにしました。そして二曲三曲と歌っているうちに、それはポーラが以前宮廷音楽家のひとりに音符を書きとらせた歌になりました。『生きていて楽しいと思うことには』という歌曲です。

「僕、その歌知ってるよ。僕のお母さんがね、作ったお歌なの。でもそれをどうしてシーポーラちゃんが知ってるの?」

 ポーラは舟の下で一瞬ぎくりとしました。さざ波のような動揺が、ダニエル王子の心にも伝わったのでしょう、その瞬間に彼にはすべてがわかってしまったのです。

「もしかして、シーポーラちゃん……シーポーラちゃんは僕のお母さんなの?」

『わたしはあなたのお母さんの知りあいなのですよ、可愛い坊や。この歌も、あなたのお母さんから教えてもらったのです』

「ふうん……」

 ダニエル王子は釈然としませんでしたが、今はお腹も空いていましたし、海を吹く風に体温も奪われておりましたので、うまく思考力がまとまりませんでした。それでそれ以上深くは何もシーポーラちゃんに訊ねず、彼女と一緒になって楽しいお歌を歌って、空腹を紛らわせようとしたのでした。

 さて、遠くにサイゴン島の賭博場が見えようかという頃、大変不幸な出来事がふたりを襲いました。賭博場へ遊びにきていた貴族の船がクルーズを楽しんでいたのですが――おそらくは悪ふざけが過ぎたのでしょう、その船はダニエル王子の乗るちっぽけな舟のことになど気づかず、王子の小舟目がけて全速力で突き進んできたのです!

 何かにぶつかった、ということに気づいた彼らは、船の上から松明を手にしてあたりの海をくまなく調べはじめました。ぶつかった時に何か、人間の叫び声のようなものを聞いていたからでした。そして小舟が転覆した拍子に気絶したダニエル王子を抱えた、何やらよくわからない生き物を発見したのです。

 最初、暗くてよくわからなかったこともあり、彼らはそれを人間だと思いました。けれども近づいていくにつれ、それがびっしりと魚の鱗に覆われた、魚人間であることがわかってきたのです。

「おい、そこのおまえ!そいつを放せ!」

 当然のことながら、ポーラは自分の命よりも大切な息子のことを、決して離しはしませんでした。ここで彼らの記憶を眩ませて逃げるにしても、まだ海港ダニスの浜辺までは相当な距離があります。サイオニア王国唯一の正統な王位継承者であるダニエル王子の身の安全を第一に考えるなら、ここは彼らに息子の身柄を預けるのが一番の得策だと思いました。まずはダニエル王子の身体を引き渡し、そして彼らの記憶を奪って逃げる……ポーラは瞬時にそう計算したのですが、その間に彼らは漁猟用の大きな網を放っていました。

 こうして気を失ってぐったりしているダニエル王子とポーラはかつて海軍の将軍であったクロイツネイル卿の息子の船に引き上げられ、ポーラは彼らの記憶を奪う隙さえ与えられずに、銛で頭をしたたか殴られて失神してしまったのです。


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