「書きたいものを書くべきだ」ということと、なろうテンプレを否定することとがセットになってしまう件
「書きたいものを書くべきだ」という意見には、(色々と付則をしたいこともあるが、全体としては)まあ賛同できる。
しかし、そう言う人はだいたい、なろうテンプレに対する否定的な見方を同時に提示する。
これには賛同できない。
テンプレは、テンプレだ。
それを使った作品を書きたい人が、それを使えばいい。
それを使った作品を面白いと感じる読者が、それを楽しめばいい。
それだけの話だ。
例えば時代劇テンプレがある。
僕は子どもの頃、『遠山の金さん』(手拭いのやつ)とか、『三匹が斬る!』を見て育った。
ほかにも『暴れん坊将軍』とか『水戸黄門』とかもあったが、子ども時分の僕が一番好きだったのは『三匹が斬る!』である。
役所広司さんの千石が、カッコよくて大好きだった。
殿様と千石とタコの三人がベストだと思っていた。
こんな細部に対するこだわり、マイナーチェンジに、意味はないのだろうか?
そして一方で、これらの時代劇はどれも同じような内容のテンプレートなお話だが、僕はこれらの作品を、程度の差こそあれ、どれも面白いと感じていた。
その受け手の「面白い」は、否定されるべきものだろうか?
非健全的要素があるのも、何もなろうテンプレに限った話じゃない。
時代劇テンプレにだって、こんなのはドラマツルギーじゃないとか、暴力推奨だとか、物事を一面的にしか見ていないとか、否定の仕方はいくらだってある。
程度の問題に関する議論なら分かるが、非健全要素があるからその時点で絶対的にダメと言うなら、娯楽としての物語というもの自体を否定しなければおかしい。
でも一方で、だからと言って、テンプレから外れた作品が否定されるわけじゃない。
ここを勘違いしている人が多すぎる。
なぜテンプレを肯定しながら、そうでない面白いものを同時に肯定するということを、素直にできないのだろうか。
なぜ、と言ったが、理由は明白である。
「ルサンチマン」というのが、その答えだ。
弱者が強者に対して憎悪し、憤り、怨恨を持ち、非難する心理現象。
完全にフラットに物事を見ていれば、なろうテンプレを否定しようという心理になんてならないと思う。
試しになろうテンプレが嫌いな人は、高評価されているのにつまらないと思うなろうテンプレ作品を一つ頭に思い浮かべ、それが総合評価0ポイントであると想像してみてほしい。
あなたはその作品を、どう思うだろうか?
失笑するか、苦笑するかして、それで終わり。
言葉を尽くして否定することすらバカバカしい。
違うだろうか?
つまり、なろうテンプレ否定者の根底にあるのは、なろうテンプレが強者であるという前提認識である。
しかし、そんな低次元な心理現象に引っかかって、物事をありのままにフラットに見ることをしないで、それで前に進めるのか。
なろうには、これだけたくさんの分析材料・研究材料があるのに、ウケている作品がなぜウケているかをきちんと分析しようともせずに、本当に成長できるのか。
なろうのジャンル再編以降、総合ランキング上位に上がってくる作品に「異世界転移/転生モノ」の数が、圧倒的に減っている。
つまり、なろうのランキングだとか総合評価ポイントなんてものは、「ジャンルを再編したぐらいで結果が大きく変わってしまう程度のもの」だということだ。
本当に面白い、質の良い作品が上位に上がるシステムになっているなら、ジャンルを再編したところで、結果に何ら影響はないはずだ。そうじゃないか?
「その程度のもの」に、いつまで踊らされていれば気が済むのか。
アニメ『ガーリッシュナンバー』の悟浄くん流に言うなら、「お前、いつまでそこにいるつもりだ」である。
僕に言わせれば、数万ポイントの作品の作者と、数百ポイントの作品の作者との間に、決定的な実力の差なんてほとんどない。
どちらにも、そこそこ書ける程度の人、素人同然の人、桁外れの実力を持つ人が、グラデーションで存在している。
ただ、そこに大きな差があるとするなら、それは「取り扱った題材の差」であり、それをどれだけ大事と認識しているかという意識の差だ。
多くの読者が興味を持たない題材を使って作者の技量でゴリ押しをしようとしても、多くの読者が興味を持つ題材を扱った素人に勝つのは、なろうの評価システム上では難しいということだ。
ところでハリウッドの脚本では、「ハイ・コンセプト」な脚本がもてはやされるらしい。
ハイ・コンセプトとは何かというと、作品の内容や面白さが、二行程度の短い説明で伝わるような作品だ。
僕が読んだ『「感情」から書く脚本術』という本では、例として『スピード』という映画があげられていた。
「時速50マイル以下にスピードを落とすと起爆する爆弾が市バスに仕掛けられた。しかも帰宅ラッシュがもうすぐ始まる」
この短い説明だけで、その映画がどんなドキドキする展開を含んでいるのか、如実に連想できる。
なろうでウケるのも、こうした「ハイ・コンセプト」な作品である。
「パッと見では地味だしワクワク感も伝わってこないが、実際に読めば面白いことが分かる」ような作品は、その時点で、ハイ・コンセプト作品に対して圧倒的に不利な戦いを挑んでいることになる。
さて繰り返すが、なろうのランキングや総合評価ポイントなんてものは、「その程度のもの」だ。
「その程度のもの」だが、社会的な影響力は、残念ながら結構ある。
何故かと言えば、なろうで高評価を受ける作品が、現実の市場でもそれなりに通用してしまっているからだ。
そして、ハイ・コンセプトな作品は、現実の市場に出ても強いからだ。
出版社の編集者だってただの人間だから、何が売れるかを見極めるのは、分析的手法によるしかない。
自分が面白いと思う作品が売れず、自分がつまらないと思った作品が売れた経験を持つ編集者や出版社なら、なおさらだろう。
自分が思う「面白い」を信じることは、ときに正解となり、ときに独りよがりとなる。
書籍化作家さんでも、自分が面白いと思うものを書いて書籍化した人もいれば、自分の好みからは外れるけど読者が好むタイプの作風を追及して成功した人もいる。
前者は天才型と呼ばれる。
後者は秀才型、あるいは分析・研究型とでも呼ぶべきだろうか。
問おう。
汝が書きたいのは、自分が面白いと思う作品なのか、自分が書きたい作品なのか、多くの人から評価される作品なのか──あるいはその全部なのか。
二兎を追う者は、一兎をも得ないかもしれない。
でも、どうしてもそれを求めずにはいられないのだったら、二兎も三兎も追うしかないだろう。
しかしそれならば、一兎を追って成功した者を、否定してはならない。
それはルサンチマンで、己の可能性を閉ざす闇の誘惑だ。
前に進みたいのなら、彼の足跡を分析し、成功要因を分解し、少しでも自分の目標のために役立てることだ。
つまりは、彼を否定するのではなく、彼を踏み台にすることだ。
不正? 複垢? 相互?
そんなことをして未来が拓けると思うなら、そしてそれで自分が本当に満足できると思うなら、好きにやればいいんじゃないか?
僕らはそれを非難し続けるし、僕らはそれをする作者のことをゴミだと思い続けるが、それでもそれが自分の成功だと思えるなら、好きにすればいい。
そうして成功した者の足跡を分析することは、確かに一つの成功方法の分析ではあるが、その方法を踏襲するかどうかは、僕ら自身の魂の問題だ。
いずれにせよ、自分が本当に面白いと思うものを追求し続けていれば、いずれ日の目を見ることもあるというのは、シンデレラ的なストーリーだ。
カボチャの馬車に乗った魔女が迎えに来てくれなければ、彼女は一生薄汚れた召使いのままかもしれない。
だが、それもいいだろう。
誇り高き召使いとして一生を終えるのも、悪くないと思えるのなら。
さて、不正によって成功する者に対して憤る心は、ルサンチマンによるものだろうか。
そうかもしれない。
不正をしていようが、社会的に成功していなければ、相手にする気も起きないのだから。
不正をする輩はゴミクズ扱いしたいが、流行や読者の好みを追うスタンスは、否定すべきものではないとしたい。
そんな恣意的な文章が、このエッセイにおける僕の限界だった。
感想レスはだいぶサボると思います。