七
『げげ!』
驚きの声をあげるくろうねり。
だが、もう手遅れだった。部屋の向こう――閉ざされたはずのドアの下をすり抜けて、床を黒い影が走ってくる。
そして、途中から宙に曲がって幾重にも伸びた。それが茉莉達の頭上を越えて、くろうねりへと飛びかかったのだ。
黒い帯がくろうねりの身体に巻き付く。
その身体を締め付ける。
少し遅れて床を這ってきた次の影。それが膨れ上がり、ヒト型を為した。そうして、部屋の外にいたはずの宵崎達が姿を現す。
――夜になってからがいい。
宵崎が言っていた理由が、これだ。
影を操り、相手を捕らえる。影を介して、閉ざされた場所へと移動する。彼は夜道怪というあやかし。その能力は、夜闇が深まるほどに強力になるのだ。
「……ぐ、げげげ」
苦しそうに呻く、くろうねり。そのまま天井へと押し上げられる。ぶつかるかと思えたが、そこに生じた黒い渦が呑み込んだ。
呼び出されたのに、姿を消してしまった。
逃げられたのだろうか。しかし宵崎は冷静に、影の足場を上昇させる。言織とロクスケと共に、彼らも天井の渦へと姿を消した。
どうやら、くろうねりを屋上に追い出したようだ。
「……え、え?」
「あの……」
ひとり残った景が、困惑する茉莉と理恵に状況を説明する。
「あいつは、屋上に送ったよ。僕達も行こうか」
普通にドアを開けて、部屋を出ていく。茉莉と理恵も、その後に続くことにした。
――屋上にて。
『……くそうっ!』
宵崎が戒めを解いた途端、くろうねりはそのまま逃げようとしたが――
『がふ』
見えない壁に阻まれて、その場に転がった。よく見れば、屋上はうっすらともやのような影で四方を覆われている。今度はくろうねりが、完全に閉じ込められていた。
もう逃げられない。
「あんた――この前、懲らしめたばかりだよな。また性懲りもなく、人間に手を出してたのかよ?」
見下ろしながら、言織が言う。
「ち、ちくしょう」
鋭い視線に睨みつけられて――情けない声を上げるくろうねり。もはや怪異としてのおどろおどろしさは微塵もなかった。
いや、こちらこそが本質なのだろう。
茉莉と理恵の前では、それらしく振舞っていたが――所詮は小物らしい。ロクスケ達の言っていたとおりだ。文字通り、化けの皮が剥がれていく。
「ず、ずるいぞー!、おまえ達」
いつの間にか、声質も変わっていた。不気味だったくぐもり声は、どこか可愛らしい声になっている。まるで子供のようであった。
「この前だって、よってたかって僕をやっつけて。正義の味方ならな、正々堂々と戦えー!」
もはや駄々っ子。
自分は姑息な手段で人間を驚かしていて、何とも勝手な言い草だ。
「……な、何よあれ?」
階段を登ってきた理恵が、くろうねりの醜態を前にして呆れ果てている。どのとなりで、茉莉も同じような表情をしていた。
「ね?」
案内してきた景が、ふたりに声をかけた。
「あんな小物が、殺しなんてできると思うかい?」
――思わなかった。
もうほとんど事件は解決したような空気だった。
けれども、くろうねりは抵抗する。往生際が悪い。更に、自身の株を下げる結果になるであろうに。
「おい、おまえ! 今度は、一対一で戦え。そして、僕が勝ったらこのまま見逃せ! いいな?」
情けない。みっともない。言っている言葉も、もう何もかも。
「……はいはい、わかりましたよ」
言織は大きく溜息をつくと、腰に差してあった刀を抜いた。
「んじゃ、さっさと始めよう」
「あはははーっ、バカめえ!」
くろうねりは勝ち誇る。
「油断したな!」
その瞬間、言織の背後から大きく影が伸びあがった。目の前にいたくろうねりが、入れ替わるように消え失せる。隙をついて、彼女の後ろに回り込んだのだ。
だが――
「アホか」
言織は、あっさりと見抜いていた。身体をひねり、不意打ちを楽々かわす。
「あれ?」
標的を見失ったくろうねりは、あたりをきょろきょろ見回す。
「こっち」
「う、うわわーっ!」
あっさり背後を取られて、おおげさに飛びあがった。
言織から距離を取ったつもりが、いとも簡単に距離をつめられる。
「で?」
冷たい視線を向けられるくろうねり。
「ぐ、ぐぐーっ! わああっ!」
悔しそうに歯ぎしりしてから、がむしゃらに両手を振るってくる。黒い鉤爪は鋭く、触れてしまえばただではすまない。――触れてしまえば、だったが。
大振り過ぎる一撃一撃を、言織は余裕たっぷりにかわしていく。
そうして。
「あ」
体制をくずして、くろうねりが大きくのけぞった。
隙だらけだ。
「はあ」
言織はこれ見よがしに、大きく溜息。
そして、長刀を振りかぶった。
「せいっ!」
上半身をひねりながら、強烈な横薙ぎ。
「ぎゃんっ!」
まるで鈍器で殴りつけたような衝撃。くろうねりは床を転がった。
長刀の峰を返したのか、くろうねりを切り裂くことはなかった。しかし、かなり効いたようだ。
鼻面を思い切り叩かれて、とても痛そうだ。その姿が徐々に変貌していく。黒いもやが蒸発するように抜けていき、身体が縮んでいく。
そして、その場には顔を抑えて半べそをかく小動物の姿があった。
子狐のような見た目。
せいぜい茉莉や理恵の半分ほどだ。涙を湛える大きな瞳は、むしろ愛らしかった。
「……こ、この子がくろうねり?」
怪異の正体見たり、何とやら。気が抜けたような、呆れたような声を漏らす理恵。そのとなりで、『……かわいい』と茉莉がずれた発言をしていたりする。
「う、うぐ、ひぐう」
「おい!」
うずくまるくろうねり――子狐の前に、勢いよく右足で踏む言織。
「ひ、ひいっ」
「これで、気が澄んだか?」
どすの利いた言織の声。子狐は情けなく飛びあがって、まるで人間のような仕草で土下座をした。
それはそれは、もう見事な土下座であった。
「は、はいー。ごめんなさい。もう許してくださいー」
「で、攫ったふたりは?」
――まさか、ひどい目に合わせたりしていないよな?
鋭い視線で射貫く。
子狐は、ますます縮み上がった。
「だ、大丈夫ですよー。多分、稲荷ずしを延々と作らされているだけかと」
『稲荷寿司?』
茉莉と理恵は、意味が分からない。だが、言織達にはそれで通じたようだ。
「とりあえず、そこへ案内しな。妙な真似したら――」
と、わざわざ言葉を切ってすごむ言織。
「わかってるよな?」
「は、はいー。もちろんでございますう」
床に頭をこすりつける勢いの子狐怪異。
肩透かしを喰らう展開になっていくが、どうやらこれで事件は解決に向かうようであった。




