五
「もう、いいか?」
律儀に待っていた猫が、声をかけてきた。
「はい」
「…………」
茉莉は答えて、理恵は無言。
歩き出す猫を追って、ふたりは足を踏み出した。
――その猫は、自分を『ロクスケ』と名乗った。
茉莉と理恵もそれぞれ名前を告げてから、連れだって歩いていく。
そして――先に気が付いたのは、茉莉と理恵のどちらだったのだろう。
見慣れたはずの町並みは、いつしか見慣れない道になっていた。
どこかの商店街だろうか。夕暮れの赤さを増していく。周囲を行き交う人々にも、妙な違和感を覚える。普通のヒトであるはずなのに、どこか影法師のようにも見えた。
その違和感。
映画やドラマで主要人物以外の、ただの通行人を見送る感じだろうか。
「?」
そして、理恵はふと足をとめた。
道のわき。先に続く細い道から、呼ばれたような気がした。
「おい!」
鋭く呼びかけられて、はっと我に返る。
先を歩いていたロクスケが立ち止まり、こちらに振り返っていた。
「脇道には逸れるな。ろくでもない場所に、連れていかれるぞ」
「……っ!」
改めてそちらの道を見やって、理恵は背筋が寒くなった。そこには、不気味な何かを感じ取ったからだ。
ついさっきまでは、そうではなかったのに。
――茉莉には聞こえなかった。
どうして、理恵だけが気付いたのか。
「嬢ちゃん、あんたは心に何かあるな」
ロクスケが近付いてきて、理恵を見上げた。心の内を、見透かされているようだった。
立ち止まった茉莉が、心配そうに自分を見ている。
色々な感情が渦を巻いてしまった。そうして、息が苦しくなりそうになった時――
「まあ、安心しろよ」
ロクスケの声に、身体が楽になった。
「俺達が、助けになる。信用してくれ」
猫の姿でありながら、妙に頼もしい。理恵も少し遅れて、茉莉と同じくロクスケを信じてみようと思った。
◇
たどり着いたのは、赤い鳥居の神社。上り階段を、高く見上げる。
戸惑いがちに進んでいく茉莉と理恵。
「あ、いちおー神社だからな」
そのまま鳥居を過ぎようとしたふたりを、ロクスケがたしなめる。
「?」
理恵は首を傾げたが、茉莉は察したようだ。慌てて頭を下げる。その仕草を、理恵も見習った。
「んで、こっちで手を洗ってくれや」
鳥居をくぐってすぐの場所。
ロクスケが頭を動かして示したのは、竹筒から水が湧き出る石造りの洗い場である。
ひしゃくを使って、左手と右手を清める。口をすすいで、最後にひしゃくの持ち手を水で流した。おっかなびっくり、動作を終えてからロクスケを見る。
彼が何も言わずに歩きだすのを見て、ふたりはほっとした。
初詣以外で参拝することなど、滅多になかったのだから。
そして、本殿の前の賽銭箱の前に立つ。頭上には大きな鈴。ここで、祈りを捧げればいいのだろう。くろうねりの怪異から、クラスメイトを助けて欲しいと。
「えーと」
戸惑いながら、財布を取り出す茉莉。その視線の意味を、ロクスケは察した。
「ああ、賽銭か。まあ、百円玉でいいぜ」
「……でも」
茉莉は怪訝そうな顔をした。
確かに、普通のお賽銭ならそれでいいかもしれない。けれども、今は怪異からの救いを求めている状況だ。相応の金額というのも、あるのではないだろうか。
「金額が重要なんじゃない」
ロクスケは断じた。
「この神社に必要なのは、そこにこもる想いと感情。願いが真摯なものであるなら、それで充分なのさ」
「……わかりました」
言われた通り、百円玉を静かに賽銭箱に入れる茉莉。少し遅れて、理恵も同じ行動を取る。両手を合わせて、目を閉じた。所作に従い、二礼二拍手――そして、一礼。
「お願いします。お化けに連れていかれたクラスメイトを助けてください。お願いします」
「……お願いします、神様。クラスメイトを助けてください」
茉莉と理恵は、それぞれ祈る。茉莉の方が、若干必死さが感じ取れた。理恵の方には、少しだけためらいが見受けられる。
それでも、その声に応える。
「その願い、聞き届けたり」
少女の声が、あたりに響いた。
ふたりの前に姿を現したのは――巫女装束の可愛らしい少女。
頭上から、ふわりと降り立つ。十代前半ほどで、ほっそりとした身体つきの娘だった。栗色の髪を左右で縛り、前髪には紙垂を象った髪飾りをつけている。
「――じゃあ、詳しく話を聞かせてもらおうかな?」
◇
少女は言織と名乗った。
神社から少し歩いて、森の中を抜ける。そこには、時代劇にでも出てくる武家屋敷を思わせる大きな家があった。
案内されて、中に入る茉莉と理恵。
畳敷きの居間に案内されると、そこには何人かの住人がいた。
ひとりは長い髪で右目を隠したパーカー姿の少女。年齢は、自分達と同じか少し上だろうか。もうひとり――作務衣姿の凛々しい老人。こちらに気付くと、頭を下げてきた。
「やあ、いらっしゃい」
少女――が、声をかけてきた。思ったよりも低い。茉莉は気が付いた。少女に見えるが、少年なのかもしれない。どちらでも違和感のない、中性的な容姿であった。割と好みだった。
座布団を勧められて、慣れない正座。大きなちゃぶ台を囲んで、皆が座った。
――そして。
「あ、前もって言っておくけど驚かないでね」
「?」
言織の言葉に顔を見合わせる茉莉と理恵。すぐにその意味を知った。
「はいはい、いらっしゃいー」
ふわふわと飛んでくる、ノートパソコン。それでも驚きそうだが、更には。
「え?」
「わわ」
悲鳴を上げそうになるのを、どうにか我慢する。
前もって言われていたし、失礼になると思った。それに、人語を解する猫――ロクスケの件もあって、多少の耐性はあった。
ノートパソコンから上半身を生やした、着物姿の少女がトレイを持って姿を見せたのだ。
彼女は、両肩から背中にかけてひらひらと布のようなものを巻いていた。
それが、巻物に似ていることには後で気が付く。
こうして、住人は出そろった。迷い家と呼ばれる、あやかしの住まう家。
そこで、茉莉と理恵は状況を説明し始めたのだ。
◇
ひととおり、話し終えてから。
着物姿の少女――文車妖妃という妖怪らしい――文香に出してもらった飲み物を、茉莉は一口飲んだ。冷たいココアだった。緊張して乾いた喉に、とてもありがたい。
「ふーん」
聞き終えてから、言織が口を開く。
「君は、ヒトがいいんだね。いじめていたクラスメイトだろ? 放っておけばいいじゃん」
「……で、でも」
反論する茉莉。理恵は口にはしないものの、言織に同感だった。
黒うねりの件で、怖い目に遭って。それで、また――ロクスケという怪異についてきた。自分自身が困っているならまだしも、他人の――それも、自分に害を与えてきた人間のために。それが、腑に落ちない。理恵の中には、そんな感情がよどんでいた。
「反省してなかったら、どうするの? またそいつらが、君をいじめてきたらどうするのさ?」
「……そ、それは」
茉莉は、言葉に詰まる。それは、理恵も思っていることだった。
静香と洋子、ふたりが態度を改めなかったら――また、あの苦しい日々が戻ってくる。だったら、このまま放っておいてもいい。いや、放っておくべきではないのだろうか。
理恵が何かを言う前に、茉莉が拳を握りしめた。そして、彼女にしては力強く言った。
「もういじめないでって、言います」
「へ?」
理恵は、気の抜けた声が出てしまった。
言織達もきょとんとした表情をしている。
皆の反応を前にして、茉莉は自分の正しさを主張した。
「もう嫌だから、いじめるのはやめてくださいって頼みます。それで、いいと思います」
そんな言葉でいじめっ子が改心するのだろうか。それならば、最初からいじめなんて真似はしないのではないだろうか。いや、相手にもよるだろうか。
本当に、からかい半分で――それが免罪符にはならないが、深い悪意によるものではないのであれば。説得に応じるかもしれない。まあ、どちらにしても――
ふたりを助け出さないことには、始まらない。
「君、善人だね」
言織の空気に、皮肉はなかった。本心からの言葉であって、ロクスケ達も好ましく思っているようだった。
「そういう人間、好きだよ。いいぜ、そのいじめっ子ふたりを助けてやる」
「……あ、ありがとうございます」
顔が華やぐ茉莉。
皆を前にして――理恵は、少しだけ疎外感を覚えていた。自分だけが、汚い人間に思えてしまった。
そんな彼女の肩を、優しく叩く手があった。
「気に病むことはない」
ここまで無言の老人だった。
「友を案じて、ここにいる。それで、お主も十分だ」
見抜かれた心に寄り添ってくれるようだ。理恵は少しだけ楽になった。
「……すいません」
「まあ、もしそのふたりが改心しないようなら――あたしがきっちりお仕置きしてあげるからさ」
邪悪な笑顔を浮かべる言織。当然だろうが、やはり普通の少女ではない。
頼もしいと思う反面、少し怖いと思う茉莉。
「――さて、と。んじゃ、これからの行動を話し合おうか」
彼女の手には、理恵から預かったおまじないの本が持たれていた。




