五
柏木浩二を救ったのは、言織達ではなかった。
もっと彼自身にとっては、さしたる問題はない。
救われた事実。結果は、変わらないのだ。
彼が意識を取り戻したのは、公園のベンチ。
襲われていた路地裏ではなかった。
目を覚ますと、ひとりの少女――言織が立っていた。
「助けてくれたんですよね?」
完全に状況を把握は出来ていないけれど、それだけは確かだろう。
「ありがとう、ございます」
その言葉に、言織は顔をしかめた。
「余計なお世話だったかもね」
そう言って、見せる。
破れた紙切れ。その原型は、ヒト型だろう。
それは、青色。
思い出す。
あのおまじないで、自分の誕生月だとされていた色だ。
「心当たり、ある?」
「……はい」
それだけで、話は通じた。
「諦めるくらいなら、死んだ方がマシ。それだけの夢あったみたいだね」
それを、諦めた。
諦めて、だらだらと生きていた。
――だから、あれは、自分を殺しに来たのだ。
「…………はい」
痛みをともなって、柏木浩二は頷いた。
「あれさ、本当にあなたを殺せたよ」
言織は言う。
「だから、君は助けるべきじゃなかったのかもしれない。だって、これから先の人生、あたしには責任持てないからさ」
「…………」
「たださ、これが初めてだったよ」
「え?」
「この影法師、殺しにくるって奴ね。十体くらいやっつけたけど、どいつも殺す真似程度で、本当に当人を殺す力なんてありはしなかった。だけど、あなたのこれは――そうじゃなかった」
言織は、まっすぐに自分を見つめてくる。
その視線から、目を逸らせなかった。
「それだけ、本気の想い、あったんでしょ? だからさ、無責任な言葉だけど――あなたには生きてほしいな」
「…………」
返す言葉が、見つからなかった。
「ん、じゃあね」
言織はもう少し浩二を見てから――踵を返した。
彼女の仲間らしき姿も、それに続いた。
浩二は、その場にひとりになって――
うつむくと、少しだけ泣いた。
◇
ここより、話は代わる。
実際に柏木浩二を救った、彼女の顛末を――語ろう。
彼女に、名前はなかった。
自分の生まれた瞬間は、おぼろげにしか覚えていない。
気が付けば、そこに在り、まどろみから目覚めるように意識を持った。
髪の色は真黒だが、その容姿は言織と呼ばれる少女と瓜二つ。妖魅の道具で、ヒトを怪異に誘う不吉の少女。
彼女は、自分がそういう存在だと、ぼんやりと自覚した。
ヒトは、愚かだ。
自覚をしながら、あるいは無自覚のまま、誘いに乗って堕ちていく。
彼女自身が生み出したものではないが、才能と呼ぶ運命を司る卵があった。そこより生まれた怪異を食い物とし、自らの欲望を叶えた青年がいた。
歌手として大成を果たした青年の名前は、那山忠彦。
その代償として、罪悪感と孤独を抱えて生きていく。
けれども、同じモノを前にして、全く違う選択をした青年もいた。
市東正春という青年。
彼は甘い情を捨てきれず、自らの夢の成就を拒絶した。
結局、才能は実らずじまい。青年が渇いてきた年月を思えば、彼女には理解できなかった。当然に怪異の犠牲を選ぶものと思っていた。
それから、美しい女性の姿となった怪異と共に暮らすようになった。
夢は叶わずとも、それなりに幸せそうであった。
彼女は、少し疑問を持った。
けれども、自分の存在の方向性に従う。
ヒトに不吉を招く怪異として、行動を続けた。
ある時は、見通す眼鏡を手渡した。
ある時は、紛い物の命をなぞるヒト型を手渡した。
その結果は、彼女の予想を裏切った。
眼鏡を受け取った少年は、望む結果が出たことに後悔をした。
ヒト型を手に入れた少女は、偽りの父を拒絶した。その危機に駆け付けてきたのは、少女の本当の父親だった。
――ヒトという存在に、興味を持った。
そうして、今回。
またも、自分には関わりのない怪異に巻き込まれた、ひとりの人間。
柏木浩二。
その影法師は、彼を殺せる存在だった。
他の影法師が偽物の殺人鬼であった中、彼の影法師は本物だった。
今回、助けは間に合わなかった。
放っておけば、目の前で殺された。
助ける理由はなかった。
同時に、見捨てる理由もなかった。
だから、気まぐれか。何かの必然があったのか。
ただ、ふと思ったのは事実だ。
助けたら、どうなるのだろう?
黒い少女は、柏木浩二の命を救った。
周囲から放つ、無数の黒い錐。彼を殺そうとした影法師を射抜き、貫いた。
悲鳴のような金切り声を上げて、影法師は消え失せた。
「……君は?」
戸惑う柏木浩二。
少女は視線の力で、眠らせる。自分の役目は、ここまででいい。状況の説明、後のことは彼女達に任せればいい。
すぐに来るだろう。
言織と呼ばれる妖しの少女と、仲間達。
少し気にかかるのは、それまで自分の存在が保てるか――そのことだった。
ヒトを救ってしまった。
その行動は、彼女自身を殺すことと同義であったのだ。
存在の方向性。
鎖我と呼ぶ。
生まれたての怪異は、生まれ方に縛られる。
彼女は、そもそもヒトを破滅に導く怪異。断じて、ヒトを救う怪異ではない。
それゆえに、ヒトを救ったその行動は、彼女の在り方を否定した。
ある程度に年経た怪異であれば、自らの在り方に抗うことも可能であっただろう。しかし、彼女は怪異としてはまだ幼い。
だからこそ、その矛盾が彼女自身を殺すのだ。
自己犠牲。
悲壮な決意。
そんなものは、特段なかった。
眠るように意識が消えていく――悪い気分ではなかった。
心残りは、その少女と言葉を交わせなかったことだ。
困惑するように――消えていく自分を見つめる、自分と容姿がよく似たその少女。
言織と呼ばれる少女に、もっと早く会いに行けばよかったのだ。
◇
間に合わなかったはずの、路地裏。
柏木浩二が、うずくまっている。
自分の足元に転がるのは、殺人影法師の成れの果て。真黒い紙の、小さなヒト型。
「……どういうことだったの?」
引きちぎれたそれを拾い上げて、言織はつぶやく。
「多分、さっきの彼女が助けたんだろうね」
近付いて、浩二の息を確かめた景が答えた。どうやら、意識を失っているだけの用だった。
「でも、あの子はさ……?」
振り返る言織。背後に立っていた宵崎とロクスケは、顔を見合わせた。ふたりには、ある程度の推測ができているようだった。
「鎖我に逆らったんだろうな」
近付いてくるロクスケ。
「さが?」
聞きなれない言葉だった。
「生まれたての怪異……妖怪にまだ至ってない存在ってのは、生まれ方にその在り方が大きく左右されるってのは知ってるよな? そいつを、鎖我って言うのさ」
「……それは、知ってるけどさ」
「特に恐怖怪談系から生まれた奴ってのは、タチの悪いやろーが多い。人間に危害を加える類いが、ほとんどだ。今回、俺らが追ってた娘っ子も、そうだった」
「…………」
ロクスケの説明をおとなしく聞く。
「……そのはずだったのが、何かの拍子にこの人間を救っちまったんだろう。だから、矛盾が生じた。そのせいで、存在を保てなくなっちまった――そんなとこだろう」
「極めて稀な結果だが……今までも、数回ほど見たことがある」
宵崎が続けた。
「特に、人間霊が悪霊の類いと化した場合……生前の人間の意思や良心が勝る場合がある」
「今回は、人間霊だったってこと?」
言織は眉をひそめた。
「……あの子、あたしに似てなかった? 気のせい」
額を抑える。
奇妙な感覚。少しだけ、吐き気にも似た不快感。
「もしかしてさ……あたしの中にある、記憶の欠落に関わってるのかな?」
「いずれわかる」
ロクスケは言織の前を通り過ぎて、浩二の前に立ち止まった。
「とりあえずは、一件落着だ」
◇
そうして、ひとつの事件は終わりを迎えた。
けれど、これで終わりではない。
そもそも彼女は原因たる元凶ではなく、八津代にて瘴気が色濃くなったがゆえに生まれた怪異の結果。
――今より、十年前。
この町で、人知れず×××あった。
表向きは、不審火による放火。容疑者の名前がテレビで報道され、事件は解決した。
それが、とある組織の暗躍によるものであったことなど、町の住人は知る由もない。
太古より、今に至るまで、ヒトの歴史の裏側で××続けていた者がいることなど、この国に住まう人々は知らない。
×魔×。
超常××××××××××××××。
十年前の真相×××××××××××××××××知る者は限られている。
結果だけは、残った。
×××××、その忌むべき呼び名は沙惨華。戦前より、ヒトの歴史に潜み、ヒトの日常の裏側より、ヒトを破滅に誘い続けてきた凶悪×××。
人外にして、人害。
×××熾烈を極め、×××××××××××幾人か失った。
もし×××××完全に××していれば、この国の大半は地獄と化しただろう。
それを思えば、××犠牲と言えたであろう。
それでも、払った代償は、少なくない。
怪異は、生まれ続ける。
ヒトが、ヒトとして生き続ける限り。
その想いが、ヒトならざるものを生み出すのだ。
新たな脅威も、生まれ得るのだ。
×××爪痕。その結果。
この町では、新たな怪異が生まれやすくなった。
人々は、知らない。
何も知らず、日々を過ごしていた。