三
「じゃあ、よろしく頼むよ」
そう言うと、上司の須藤係長はそそくさと帰ってしまった。
今日は、娘のヴァイオリンの発表会らしい。朝、パートの女子社員に楽しそうに言っているのを、横目で聞いた。
決して暇ではないこの時期に、上司が意気揚々と時間給を取って帰っていく。
やりきれないものを感じながら、気弱な柏木浩二には、皮肉のひとつも言えなかった。「何だかなー」
ため息をつきながら、会社の廊下を歩いていると、
「ちょっと、柏木君」
険のこもった声をかけられた。
「あ、畑中さん」
四十絡みの、やせ気味の女性。美人とは言えないが、平均的な顔立ちだろう。
もっとも、柏木自身も、他人の容姿をどうこう言えるほど二枚目でもない、のだが――総務の畑中恵美は、不機嫌そうに顔をしかめていた。
「例の書類、どうなってるの? 明日までに、高杉さんに見せないといけないんだけど」
「え?」
一瞬、何のことかわからなかった。
心当たりのある書類は、確かにあった。けれど、それは――
昼休み前に、渡したはずだった。
わざわざ持って行った時、畑中は忙しそうだった。なので、おずおずと声をかけた。
すると、彼女はうるさそうに、『そこ、置いといて』と言ったはずだ。ろくに、こちらを見ようともせずに。
そのことを、申し訳なさそうに言うと――
「はあ? なに、それ」
畑中は、声を荒げた。
「きちんとあたしにわかるように、渡してくれないと困るわよ」
「あ、すいません」
思わず、そう返してしまった。
お互い様だと思ったけれど、言い返せなかった。
ぷりぷりして、去っていく畑中の背中を、見送るしかなかった。
毎日が、生きづらい。
自転車で三〇分ほどかけて、隣町の会社に通うサラリーマン。
中堅といったところか。主に出版関係の下請けをする会社で、給料はそこそこだけど、安定している。
元々は大学生の頃からアルバイトでいたのだが、とある管理者の目に止まり、その真面目さをかわれて、正社員へと採用されたのだった。
今年で二十五歳。仕事ぶりは、平均的だろう。ずば抜けているというわけでもないが、後ろ指を指されるほどではない。
ただ、彼には大きな欠点があった。
真面目はいいが、気が弱いのだ。
不真面目な上司には屁理屈を言われても言い返せず、同僚の理不尽な言動にも黙ってしまう。
そうして、貧乏くじばかり引いている。
「……はあ」
ため息をつきながら、今もまた、早退をしていった上司の残していった仕事をやっている。自
分の仕事が、終わらない。とはいえ、下手に残業をすれば何を言われるかわからない。
きっと、須藤係長は、自分のことを棚に上げて、自分のことを「もっとしっかりしてくれないと困る」などと、皮肉を言ってくるに違いない。
そうして、自分は言い返せない。
また、溜めこむことになるだけだ。
自分を引き上げてくれた社員がいればいいのだけれど、彼はその成績をかわれて、本社へ栄転していってしまった。
情けない。
情けない。
「あ、ここ間違っている」
書類に不備を見つけた。見過ごすと、自分に責任をなすりつけてくるに違いない。だから黙って、手直しをする。
定時は五時だった。
帰る頃は、七時を回っていた。さすがに業腹だったので、一時間は超勤をつけよう。
それでも、もう一時間は空超勤だった。
やるせない気持ちを抱えて、家路につく。
明日は土曜で休みだ。そう思えば、少しは気持ちも楽だった。
「……ん?」
駅前を通り過ぎようとして、ふと目を止めた。
パチンコ店の、派手なのぼり。新台入荷! の煽り文句。その機種に、興味を引かれた。
「あー、懐かしいな」
学生の頃、夢中でやっていたRPGのタイトルだった。
学園を舞台にした、少年たちが超能力をもって戦うストーリー。それを題材にしたスロットが入荷しているらしい。
「こんなのも、スロットになったんだ」
パチンコ、ギャンブル。大学生の時に、友人に誘われて行ったきりだ。
あの時はわけもわからずに五千円負けてしまい、結構な痛手だった。そもそも、今みたいに自分の気を引く台があったわけでもない。
でも、今は違う。
それなりに社会人、やっている。財布の中に、数万円はある。
近付いてみると、パチンコ店の華やかな喧噪。そのままふらふらと歩いて行ってしまい――けれど、思いとどまった。
家では、両親が待っている。退職をした父親と、専業主婦である母親。夕食を用意して、自分の帰りを待ってくれているんだ。
今日も、色々あった。
けれど、その鬱屈とした感情を抱えたままで、パチンコなんて行っていいわけがない。
「うん、帰ろう」
さっと自転車に飛び乗って、立ちこぐ。
ちょうどそのタイミングで、パチンコ店を出てくる男の姿があった。
苦虫潰して、煙草を吹かす。
午後から仕事を休んでパチンコ。数日前のことは忘れたままで、今日も負けた、荒垣瑛一だった。
そんなこと、柏木浩二には知る由もなかった。意味もなかった。
そうして、ふたりはすれ違う。
全く関わりのない、他人同士として。
◇
夢を、見た。
後味の悪い夢だった。
誰かが、自分を追ってくる。それが誰かはわからない。
ただただ追ってくる、その感覚。じっとりとした、へばりつくような視線。敵意、悪意、害意。
そんな夢を見た。
寝起きは、最悪だった。
少し、母親に当たってしまった。
反省してから、久しぶりにゲーム機を取り出す。少し埃を被っている。大学生の頃、夢中になっていたゲーム。気晴らしに、やってみた。
その日は、そんな感じで終わった。
日曜日。
今日も休み。
午前中は掃除をした。午後から、時間を持て余す。明日からの仕事を思うと、気が滅入ってきた。
気が付くと、家を出ていた。
向かう先は、あのパチンコ店だった。
例の、ゲームを題材にしたスロット台。空いていた。おっかなびっくりやっていると、液晶画面に何かアニメが流れて、画面が切り替わった。
よく、わからない。
戸惑っていると、となりに座っていた若い男が話しかけてきた。
「なに、わかんないの?」
「ええ、まあ」
慣れた感じの若者に、浩二は苦笑い。若者は気さくそうに笑った。
「こうやるんすよ」
そう言って、ボタンを押してくれる。回っているリールが止まり、七の図柄が3つそろった。一際派手な音が流れて、キャラクターの声で「ボーナス確定!」と叫んだ。
「んで、こんな感じで打つんですよ」
台の近くにぶら下がっていた紙がある。そこには、台の説明というのが書かれていた。
「狙え! って声が入ったら赤七を狙うんですよ。入ってたら、また揃いますから」
見れば、その若者はかなりメダルを出していた。台の上に、メダルが満杯になった容器を二つほど積んでいる。
「見る限り、その台は設定よさそうですよ? ラッキーですね」
「そ、そうかな」
いまいち状況がわからないまま、相づちを打つ。
設定がいい、というのは儲かるらしい。
結局、その日は三万円勝った。
楽しかった。
日頃のうさなど、吹き飛んでいた。
それから、時折、パチンコ店に行くようになった。時々出会う若者に、台の打ち方を教わる。
仕事帰りに、ちょっと立ち寄る。
休みの日は、開店同時に並ぶようにもなった。
しばらくは、調子がよかった。
負ける日もあったけれど、次の時には余裕で取り返していた。
そんな感じで、一カ月が過ぎていった。
時折、夢を見た。
背後から追ってくる気配。じっとりとした視線。
そんな時は気分が悪く、またパチンコに行っていた。
◇
職場では、相変わらずだった。
今日も同僚の引継ぎが悪かったのを、自分のせいにされてしまった。
うまく言い返せずに、例の安藤係長から「しっかりしてくれないと困るよ」と言われた。
胸に溜めこみながら、係長が女子パート達に話しかけに行くのを見送る。足取り軽く見えるのは、気のせいだろうか。
正直、彼はあまり仕事をしない。それで、通るのだ。
柏木のいる部署は、社内でもあまり重要性が低く、よく言えばゆったり、悪く言えばいい加減で通る部署なのであった。
何ともやるせない。
「おまえ、俺のとこ来ない?」
同期の社員にそう言われたこともある。
「俺が口利きしてやってもいいぜ」
「いや、いいよ」
あいまいに笑って、そう答えてしまった。
「バリバリ働くの、ガラじゃないし、今のところでいいよ」
やる気がない、わけじゃない。
ただ、現状が変わるのは不安だし、何より、それなりに長く勤めていて、人間関係も構築されていたのだ。
「よ、おはよう」
「うん、おはよう」
仲のいい同僚に、挨拶を交わす。
「あー、ったく。須藤上司、例の件、またほっぽり投げてきてるんだぜ」
早速、愚痴る。
「そうなんだ。やれやれだね」
柏木は、ため息をついた。
「つうか、お前がまたやるんだろ? 文句の一つも言ってやれよ」
「無理だって」
力なく、笑う。
「ったくよー。午後から、ちっとは手伝ってやるよ。てかさ、きちんと残業つけてるのか?」
「んー、ぼちぼち」
「業腹だから、もらえるものは貰っておけよ。しかし、残業も自己申告なんてな。管理体制、ずさん過ぎだぜ」
軽く愚痴を行ってから、同僚は手を振った。
「んじゃ、またな」
「うん、ありがとう」
自分の机に戻る同僚に、柏木は手を振った。
色々、仕事に不満はあった。
それでも、それなりにうまく人間関係もやっている。仕事自体が、嫌いなわけでもない。だから、それらを放って、異動するのも気が引ける。
遠慮、気遣い、気の弱さ。
そういったものが、少しずつ、降り積もっていく。
そうして、誰かの視線を感じるのだった。